040422

自己責任論

 

イラクにおける邦人拉致

 

素朴な反撥

 

イラクで3人の日本人が拘束され、その後又2人の日本人が拘束されて人質となり、最初の時には相手側の要求に「自衛隊の撤退」があったものだから、これはてっきり政治的目的を持ったものの仕業と思い込むのも無理ない話だと思う。

日本のテレビで、3人が拘束され脅されている情景が放映されたものだから、人質の家族が感情的になって政府に食って掛かる場面もこれまたテレビで放映されてしまったものだから、今度は逆に国民の側に被害者に対する逆感情が沸き立ってしまった。

これが今回の自己責任論の発端だと思う。

自己責任論の行き着く先として、海外渡航危険情報に強制力を持たせようという論議まで飛び出す始末である。

この人質事件に関して、政府側の愚痴も当然我々は理解しなければならないと思う。

危険情報を出し、退避勧告を出している地域にのこのこ出かけていって、災難にあったら政府に「助けてくれ!」というのはあまりにも虫が良すぎる。

政府として邦人救出は責務であることはいうまでもない。

だからこそ危険情報を出し、退避勧告を出しているわけで、それを無視して尚その地にいくという事は、当然政府の保護を自ら放棄しているわけで、自らの命は自分で守ることが前提になっていなければならない。

問題の本質は、政府の出す危険情報、退避勧告を全く無視するという態度そのものにある。

この感覚が、毎日日常的に行われている交通法規の無視と全く同じ感覚で行なわれているところに問題があるわけで、政府が親切にも「危険だから行かないほうがいいですよ!早くその地からはなれたほうがいいですよ!」と言っているにもかかわらず、それを無視してのこのこと行って、災難にあうと「政府には救出の責務がある」では政府の勧告をきちんと守る人、法規をきちんと守る善良な市民、国民は納得できない。

ここに自己責任、自己負担の話の根源があるわけで、国家には自国民の生命と財産を守る責務があることは当然である。

しかし、自国の政府の言う事を聞かない者まで。膨大な経費と人的努力を掛けて守るに値するかどうかということを考えなければならない。

自分で自分の国の政府の言うことを無視しておいて、我が身が危なくなると政府の責任を追及するという風潮が顕著になってくると、政府の言う事を聞かないものにまで何故救出する必要があるのか、という素朴な疑問、そしてまた逆に、そういう者には強制的に従わせようという風潮が出てくるのは自然の流れで、罰則を検討しようという動きになって来るのは必然である。

日本人が、日本国民として、自分の国の言う事も聞かないでおいて、イラク人のためにと言い募って、独りよがりの独善的な発想でボランテイアー活動しておきながら、そのイラク人に拘束されて命の危険に晒されると、自分は言う事を聞こうともしなった日本政府に助けてくれという、これほど馬鹿げた話もない。

小泉首相でなくともぼやきたくなるし、愚痴りたくもなるのも当然だと思う。

それが自己責任という拉致被害者に対するパッシングだと思う。

最初に3人が拘束された時の映像を見て、家族が動転するのは理解できる。

しかし、家族にしても本人達の行くところが戦闘地域、紛争地域という事は行く前から判っているわけで、そこに行くという本人の意志に逆らってでも、縄でも掛けて引き止められなかった、という点で甘さを指摘されても致し方ない。

普通の家庭で、娘や息子がそういうところに行くと言い出せば、家族ぐるみ、親戚一同まで狩り出して「危険だからそんなところに行くな!」と慰留をするのが当たり前である。

本人の意志を尊重するという奇麗事で行かせておいて、さあ「捕まったから何とかしてくれ」では虫が良すぎるといわれても致し方ない。

親のいうことも聞かないものが、政府の危険情報や退避勧告を無視するのも当然といえば当然で、「そう我儘な人間の尻拭いまで国費で賄わねばならないのか」という、世の中の声は当然だと思う。

しかも、相手のゲリラの出した条件を「丸呑みせよ」いうにいたっては国民が怒るのも当然である。

 

本音の言えないジャーナリスト

 

ここでこの騒動を報道するマスコミというのが非常に無責任で、今回の人質事件でもイラクの現状を日本に知らしめようというジャーナリストが餌食になっているが、報道するということが正義の御旗になっていて、そのためにイラクに入ったということがあたかも正当性をもった行為のようなニュアンスで報じられている。

その目的のためには、政府の勧告など「無視しても構わない」というような雰囲気で報じられているが、この認識が思い上がりである。

自己責任という言葉がクローズアップされてくると、邦人保護は国家の責務という方向に話題がそれてしまっているが、その前に政府の出した危険情報や退避勧告を無視したという部分が抜け落ちたまま議論が先行している。

基本的には政府の情報や退避勧告を無視した人間でも、政府としてはその救出に総力を挙げなければならないであろう。事実そうであった。

政府の言う事を聞かなかったのだから仕方がない、と放っておくわけにはいないと思う。

だからこそ世間の人たちが「危険を承知で何故そんなところに行くのか」と怒りだしたわけで、マスコミというのはその部分を斟酌していない。

マスコミというのは対岸の火事は大きければ大きいほど面白いわけで、理性や知性を売り物にしているわけではない。

新聞を読んでもらい、テレビを見てもらうためには、内容が面白くなければならないわけで、一人よがりの馬鹿が、イラクでゲリラに捕まって日本政府がそれに振り回されている現状を面白おかしく報ずればそれで飯が食えるわけである。

そして新聞社の記者も、解説者も、テレビのコメンテイターも、所詮は売文業者なわけで、いわばインテリ・ヤクザである。

ヤクザなればこそ、政府の出す危険情報や退避勧告に素直に従っていては記事が書けないし、映像や写真としてインパクトのあるものが撮れないのである。

記者として事件現場に飛んでいってみると、縄張りがしてあって「ここから入っては駄目ですよ」といわれて「はいそうですか?」と素直に従っていては良い記事は取れないわけである。

ジャーナリストというのは昔の言葉で言えば売文業者なわけで、文字通りインテリ・ヤクザなわけであるが、根性がヤクザであるにもかかわらず、自分達は大衆をリードすべき高い位置にいて、無知蒙昧な民衆を睥睨しているという自負心を持っており、自分達は立派な人間だと思い違いをしているから始末に終えない。

今回の人質事件でも、被害者パッシングが起きると早速そのパッシングの方向に視点が向いて、被害にあった可哀相な被害者を鞭打つような言動は何事か、という論調である。

そして売文業者であることの悲しさで本音が言えない。

裸の王様を見て「王様は裸だ!」と言えないのが売文業者の宿命である。

馬鹿に対して「あいつは馬鹿だ!」と正直に言えないのである。

バクダットか陥落して1周年になっても未だにイラクでは治安が回復しておらず紛争が続いている。

だからこそ日本政府も危険情報を出し、「そんな危険なところに行くな」といっているわけで、にもかかわらずそんなところにのこのこ行くのは馬鹿以外の何者でもない。

本人達はイラクの現状をリポートするだとか、劣化ウランの調査だとか、路上の子供のケアだとか、もっともらしいことを言っているが、ノーマルな神経からすれば馬鹿かアホ以外の何物でもない。

そんなところに行かせる家族も本人同様馬鹿かアホなわけで、ゲリラに捕まって「助けてくれ!」というぐらいならば、「首に縄でも掛けて引き止めておけ」、という世間の声も当たり前である。

マスコミというインテリ・ヤクザの方々、売文業者の方々は決してこういう言い方はしないわけである。

なんとなれば、もしそんな本音を正直に言えば明日から食えなくなるからである。

だから彼らは食えなくなっては困るから、本人達をいかにも可哀相な被害者に仕立て上げなければならないわけで、悪いのは日本政府にしておけば誰も傷つかず、自分達も路頭に迷わずに済むわけである。

 

マスコミの偽善

 

問題はジャーナリスト、売文業者というインテリ・ヤクザの影響力である。

マスコミ業界というものを大衆の側から見ると、常に舞台で演出し、芝居をしている役者に見える。

大衆というものが、常日頃、漫然と無意識のうちにしている、新聞を読み、テレビを見るという行為は、舞台で演じられている芝居や演劇を漠然と見ているのと同じで、見ている側からは舞台上の出来事にコメントはできないわけである。

マスコミというのは常に情報の送り手であり、大衆というのは常に情報の受け手である。

すると大衆の側では舞台で演じられていることが正しいことだと思い違いをする向きがある。

私のようなひねくれ者は、舞台で演じられていることを鵜呑みにするようなことはないが、大方の大衆というのは、報道されることは良いことだ、世の中というのはそうあらねばならない、と思い違いをしてしまうわけである。

報じられる内容が事実だけを客観的に並べた無味乾燥なものならばまだしも、日本のマスコミというのは、決してそんな無味乾燥な紙面、番組を流しているわけではない。

新しい局面には必ず解説委員というのを登場させて、事件そのものをわかりやすく解説してくれている。

マスコミの影響力は実はそこに潜んでいる。

ニュースが客観的な事実の羅列だけならば、まだジャーナリストと称する売文業者の影響力は知れたものである。

ところがこの解説者と称する人々が、コメンテイターと称する人々が、非常に問題なわけで、彼らこそマスコミという舞台で芝居を演じている役者そのものである。

新聞の解説記事やテレビのコメンテイターのいうことを大衆は正論だと思い違いをしてしまうわけで、彼らの言っていることは正しいことだと勘違いしかねないのである。

ここでその弊害がどういう形で出ているかというと、今回の人質事件でも、彼らは政府の勧告を無視して災難にあったにもかかわらず、その政府の勧告を無視した部分を不問にしたまま、「自己責任を追及するのはおかしい」という風に問題を歪曲しようとしている点にそれが見受けられる。

自己責任に対してマスコミが非常に甘い認識に立っている、という事は由々しき問題だと思う。

幼児の怪我や、中学生の不良の問題というのは、その子の親の自己責任の問題のはずであるが、親の自己責任を問わず、学校や社会の問題に転嫁しようとする傾向は、総てこの自己責任に対する認識の甘さが基底の部分にあると思う。

息子や娘がイラクで災難にあって、政府に「助けてくれ!」と泣き付くぐらいなら、「何故そんな危険なところに行かせたのか」、というのは家族の側の自己責任の問題である。

首に縄でも付けて引き止めておくべきで、そうしなかったのは家族の自己責任である。

ジャーナリストと称するインテリ・ヤクザというのは、いつもいつも舞台で良い子ぶった演技を演じ続けなければならない。

大衆が感銘するような演技をしなければならず、決して本音が言えないわけである。

我々、名も無い庶民は失うものを何も持たないので、裸の王様を見て「王様が裸だ!」といえるが、彼らは常に「王様の着物はこの世で一番良いものですね」と媚を売っていなければならないのである。

そして彼ら自身も、自分が言ったり書いたりしていることが「正しいこと」だと錯覚しているわけである。

この錯覚の中に、時代の風潮というものが潜在意識として混入しているから恐ろしいのである。

これを今回の人質事件にあてはめて言えば、被害者たちが政府の危険情報を無視し、退避勧告を無視した行為に対して、マスコミ業界全体としてそのことが悪い事だという認識が全く無いことだ。

前にも述べたように、こういうインテリ・ヤクザは、政府のいう事を素直に聞いていては商売にならないという認識が普遍的で、人の言う事などには耳を貸さないわけで、この部分が潜在意識として業界全体に普遍化していると思う。

そして、こういう役者達は観客としての大衆に対して極めて巧妙なリップ・サービスが得意で、問題の渦中にある被害者を叩くことはせず、叩くのは社会であったり行政であったり、自民党であったり、日本政府であったり、アメリカであったり、雲を掴むような実体のないものにしているわけである。

 

大衆に迎合するマスコミ

 

舞台の役者というのは客を喜ばせることに長けていなければならないわけで、そのことは客をおだて上げ、見たり読んだりする者、つまり視聴者の自尊心をくすぐり、気分を良くする術を心得ているのである。

記事を読んだり、テレビのコメンテイターの話を聞くと、聞いた本人が少し頭がよくなったような気分にさせ、利口になったような気にさせるのである。

例えば、イラクのバクダットが陥落して1周年ということであるが、その過程でイラクではあらゆる抵抗運動が展開された。

無理も無い話で、イラクに攻め込んだアメリカ軍というのは原爆を使ったわけでもなく、地上からイラクの街に攻め込んだわけで、当然イラク側の正規軍というのは制服を脱いで遁走したわけである。

主権国家の軍隊がユニフォームを脱いで一般市民と同化してしまえば制圧は至難の技であり、もうこれ以降はゲリラ戦となってしまう。

現にその後の1年間というのはゲリラ戦が展開されていたわけであるが、それと同時に内乱の要因も多分にあるようで、イラク人とアメリカ軍という構図に加えてイラク人対イラク人という構図まである。

この状態を見てアメリカの治安確立がいけないという論議が普遍的に存在しているが、こんな馬鹿な話しもない。

アメリカ軍がサダム・フセインを倒した以上、その後のイラクはイラク人が治安確立すべきで、それを何故アメリカの所為にするのか理解に苦しむ。

そして、その抵抗勢力を日本のマスコミ各社は武装勢力という言い方で統一している。

3人プラス2人の日本人を拘束した勢力も、武装勢力という言い方で通しているが、ここに言葉のまやかしが潜んでいる。

解放された人質達が言っていることから判断すると、それは昔の言葉でいえば、山賊か夜盗、はたまた馬賊というものに等しいわけで、それを武装勢力と言うと何か政治的信条に凝り固まった政治結社のように聞こえるが、何のことはないただの泥棒集団に過ぎない。

昔から「泥棒にも3分の理」というものがあって、ただの泥棒集団が日本人を捕まえて、「自衛隊を撤去させなければ3日以内に殺す」と脅かされると、もう相手が立派な政治的結社のように見える。

確とした政治的信条で集まった政治的集団で、さもレジスタンスの闘士のような印象を受けるが、実態はただの泥棒集団に過ぎない。

拉致されたジャーナリストが語るところによると、一般の家庭をたらいまわしに移動させられて、婦人や子供もいたということであるが、これこそまさしく山賊であり、強盗団であり、夜盗そのものではないか。

サダム・フセイン無きあとは、そんなのがイラク全土にいるわけで、まさしくべドウインそのものではないか。

けれども日本のマスコミは決して泥棒集団とはいわないわけで、武装集団で統一している。

泥棒の集団でも武器を持っていれば武装集団に間違いはないわけで、言葉としては間違っていないが、この泥棒集団がさも政治的信条の実現に鋭意努力している立派な人々というニュアンスで報じている。

イラク戦争開始以降のイラクの状況をマスコミの報ずるところから察するに、映画「アラビアのローレンス」の時の状況から一歩も進化していないように見受けられる。

イラクで治安が回復しないのは、彼らがべドウインだからであって、べドウインである以上、部族と部族の抗争というのはあって当たり前なわけで、それをなくすにはやはりサダム・フセインのしたような高圧的な締め付けしかないのではないかと思う。

べドウインにとってサダム・フセインを倒してくれたアメリカは、倒すまでは救世主であったが、サダム・フセインなきあとのアメリカの存在は、お互いの部族の共通の敵になったわけである。

べドウインの目からすればサダム・フセインを倒しさえすれば、もうアメリカに用はないわけで、さっさと帰って欲しいわけである。

後に残るのは20世紀以前のイラクの部族同士の抗争のみで、彼らにすれば抗争だけが生きがいなわけである。

それを日本人の平和ボケの視点で見るから、路上の子供をケアするだとか、劣化ウランの実態調査だとか、現地の状況のレポートというような奇麗事になってしまうわけである。

日本にいれば奇麗事で済むが、そんな事は世界的視野で見れば馬鹿かアホのすることで、何の評価も得られないと思う。

日本で被害者の自己責任に話題が集中している最中、フランスの新聞に日本の若者の行為を賞賛する記事が出たが、フランス人というのは非常に個人主義が強く、その意味で非協調的なわけで、だからいつもいつもドイツにしてやられているのである。

非協調的なるがゆえに、アメリカとも強調しないので、ある意味で国際社会に背を向けているといわなければならない。

もとより人間の集まりの中には色んな意見があるのが当然であるが、その意見を自分の都合に合わせて取捨選択するのはマスコミ側の役得なわけである。

だからこそマスコミというのは大衆受けする記事のみで満たされるということになるのである。

マスコミ業界というのは大衆受けする記事だけをあたかも洪水のように垂れ流すわけで、それは人として遵守すべき敬虔なモラルを示しているわけではない。

大衆が好んで読みそうな記事、好んでチャンネルを回しそうな番組を目指しているわけで、報ずべき内容を大衆に受け入れやすくするという意味で、役者であり、芸人であるといわなければならない。

マスコミ業界の方で大衆に迎合しようと、大衆好みのする記事や番組をこれでもかこれでもかと垂れ流すと、それを見たり聞いたりする大衆の側は、マスコミが言っているから正しい事なのだろうと錯覚してしまうのである。

マスコミが、「あれは馬鹿だ!」「これはアホだ!」「王様は裸だ!」と真っ正直なことを言ってしまえば、実も蓋もなくなってしまって商売にならないものだから、あの馬鹿の向こう側には行政の怠慢があり、あのアホの裏側には国家の責任放棄があり、王様の着物は世界で一番美しいものだ、という虚実を流し続けなければならないのである。

この芝居を演じているのがジャーナリストと称するインテリ・ヤクザであり、こういう売文業者を舞台の上で躍らせるのがマスコミ業界という企業集団である。

問題は、こういうジャーナリストの流す記事、テレビのコメンテイターがもっともらしく書いたり言っていることが大衆受けするように真実を歪曲していることである。

 

知性の欠如した報道

 

ここで人間の知ということが問題になってくる。

知というのは勉強しなければ身に付かないもので、生まれたままで、何も教育というものがないとすれ知は芽生えてこないと思う。

今日の日本においては、生まれたままの人間が成人に達するまでには様々な教育を受けてくる。

小学校、中学校はもとよりマスコミ業界に携わっているような人はその大部分が大学も卒業していると思う。

大学まで卒業した人たちが、マスコミ業界という舞台で知を演ずるのに、それまでに得た学識経験というものが全く反映されていない、というのは一体どういうことなのであろう。

それを私なりに推測してみると、彼らは自分の職業というものをブランド志向で選択しているからだと思う。

社旗を立てたタクシーで飛び回って、要人とも比較的簡単の接触でき、額に汗して働かなくてもかなりの実入りが確保できるわけで、こういう人種が物作りの現場などというものを見れば馬鹿に見えているに違いない。

私に言わせればマスコミ業界というのは虚業そのものである。

問題は、高等教育を受けた者までが、その受けた高等教育が知を演ずるに当たって何も反映されていないということで、それでは何のための高等教育であったかということである。

大学の教育というものが、会社に入社するための予備校に徹してしまっている現状を憂いなければならないと思う。

そもそも大学の選択から入社する会社までがブランド志向で、そこには高等教育というものを就職のための予備校としか捉えていないから、実務についても知性や理性が反映されないのである。

物事には因果応報ということがあって、あらゆる事件にはそれを引き起こす原因というものが潜んでいると思う。

マスコミ業界というものが高等教育を受けたものの集団だとすれば、当然そのことは知っていなければならないわけで、バクダットで夜盗・強盗が徘徊しているところにのこのこ行けば災難に会うという事は周知のはずである。

マスコミ業界というものが知的集団であるとすれば、当然、そのことを指摘してこそマスコミとしての使命を果たすことになるはずである。

ところが、被害者が刃物を突きつけられて今にも殺されそうな場面を演出し、その後で母親の「自衛隊をすぐ撤退させて息子救ってくれ」という哀訴の映像を流して、見るものに「あれでは可哀相だ」という感情論を沸き立たせようと演出したものだから、傍観者としての国民大衆、マスコミの演ずる舞台を見ている観客としての国民大衆というのはブーイングをしたわけである。

ここにはマスコミ業界としての知性も理性も全く存在していないわけで、客観的な事実を並べ替えることによって、さも首相が「自衛隊を撤退させない」ことの非をつこうとする作為が感じられる。

テレビの画面というのは一分一秒とて演出であることを忘れてはならない。

どのシーンを流して、どのシーンを没にするかというところから制作者の意図が絡んでいるわけで、映像そのものは紛れもなく真実であることは論をまたない。

しかし、その真実を並べて結論として全く逆の効果を出すことも可能なわけで、あの場面で、刃物で脅されている被害者の写真と同時に、夜盗団、強盗団が自衛隊の即時撤退を要求しているというメッセージを流すことは、夜盗や強盗の要求をそのままフォローしていることにもなるわけである。

そのことで人質を拉致した武装集団、強盗団は世界的にも一気に名が知れることになったわけで、マスコミとしてはただで強盗団の宣伝に大いに貢献したことになるわけである。

ここで作用すべきことがマスコミ業界という知的集団としての知性と理性のはずである。

ニュースとして面白ければ、強盗団の要求をそのまま流すという知性と感性のバランスである。

強盗団が自衛隊の即時撤退を要求したことで、ただの泥棒集団が政治的に統制の取れた政治結社かのように受け取れる報道ぶりである。

イラクの現状から勘案すれば、如何なる強盗団でも外国から派遣された軍隊の撤退を要求し、それを表明すれば、それはイラク人の仲間に対して大きな整合性と正当性をアピールしたことになる。

つまり自分達の行為を正当化する最大の手法である。

 

媚びるマスコミ

 

マスコミ業界というのはある種の知的集団で、大衆の前で芝居をする役者的な存在ではあるが、彼らが虚業なる最大の理由は、結果に何ら責任を伴わない点にある。

彼らは舞台で何を演じようとも、それを真に受けるのも受けないのも大衆の側の責任であって、彼らはいくら国民大衆を煽っておいても、その結果には一切責任がないのである。

「狼が来る!狼が来る!」と大声で叫んでおいて、来ればきたで「それ見たことか!」とは言えるが、来なかったときは誰一人反省もしなければ謝罪もしないのである。

悪いのはマスコミの言う事を真に受けた国民大衆のほうであって、マスコミが嘘の情報を流し続けたということで、ペナルテイーを負うことにはならないのである。

マスコミ業界の抱えているジレンマは、特異なことでなければニュースにならないということである。

有名な話で「犬が人間を噛んでもニュースではないが、人間が犬を噛めばニュースだ」という話があるがまさに言い得て妙である。

政府が危険情報を出し、退避勧告を出して、それに素直に従っている人はニュースのネタにはなり得ないが、それを無視して危険なところにはいって行って、強盗団に捕まって刃物で脅されて、馬鹿つらを曝しているからニュースになるわけである。

この事実を事実として客観的に事実だけを報道していては、マスコミ業界としては飯の食い上げになってしまうわけで、それに枝葉をつけて、いわば付加価値をつけて大衆に指し示さなければ業界として成り立たないわけである。

毎日起きるあらゆる事象を、客観的な事実の羅列だけの報道だけだとすれば、新聞ならば1ページで済んでしまう。

テレビならばNHKの定時のニュース番組だけで終わってしまう。

これではマスコミ業界に携わる人々は給料ももらえないということになってしまうので、それに付加価値として、あらゆる評論というものを乗せて、あげ底にしているわけである。

この資本主義社会の日本ではニュースも商品なわけで、買ってくれる相手がいないことには商品になり得ない。

無味乾燥な事実の羅列だけの新聞では誰も買ってくれないわけで、ニュースだけのテレビでは誰も見てくれないし、スポンサーもついてくれないのである。

それで新聞の紙面やテレビの番組を大勢の人が見てくれるように工夫しなければならないわけだが、そのためには大衆が喜びそうな趣向を凝らさなければならない。

そのことは言い換えれば、大衆に媚を売らなければならないということである。

大衆に迎合しなければならないということである。

先に「裸の王様」の話を引用したが、戦後の日本の民主主義では王様は一般大衆、国民、市民、庶民、草の根の人々であって、マスコミというのはその王様に対して「王様は裸だ!」とはいえないのである。

つまりマスコミの側から「皆様方は馬鹿だ!アホだ!」とは決して言えないのである。

だから舞台の芸人よろしく、常に大衆の喜びそうなものを提供し、常に大衆にうけいれられるように趣向を凝らさなければならないのである。

その過程においてマスコミ側の意に沿わない意見を選別するという作業があるわけである。

舞台で芝居を演ずる側としては、その出し物は自分達の裁量で選び、選択し、演出することができるわけで、大衆の側が「これを出してくれ、あれを演じてくれ」という事はないわけである。

情報の一方的な垂れ流しを少しは反省するというポーズを取って、読者の声を反映すべく趣向を凝らしている部分もあるにはあるが、これとてもどの声を採択するかは演ずる側の裁量で決まっているわけで、声を発したからそれが全部実現するものでもない。

このようにマスコミというのは、客観的な事実をネタに、舞台で演じられている芝居のようなもので、それを見ている国民の側が知らず知らずのうちにその芝居に感化されるという部分が大いにある。

日本の文化が爛熟した江戸時代においても、芝居の一般民衆に対する影響力というのはかなり大きく、その影響力を恐れて幕府、つまり一般大衆を管理する側が嘴を差し挟むということがママあったようだ。

芝居や歌舞伎というものは、元々庶民の娯楽として存在していたにも関わらず、それは情報を一方的に垂れ流す機能と、その受け手という構図がそこには内在していたわけで、それは統治する側としては非常に苦慮しなければならない状況であった。

現代のマスコミ業界というのも、その影響力を自負しており、その影響力を誇りにしている節がある。

昨今ではマスコミの影響力というのは誰でもが知っているわけで、すると今度はそれを逆に利用してやろうと思いつくマスコミ業界以外の人間が現れる。

その最も顕著な例が、今回の人質事件で最初に拘束されたグループの中の一人の今井紀明の母親の言動である。

この母親というのがバリバリの共産党員で、最初に拘束された映像を見、ゲリラ側の声明を無批判に鵜呑みして、我が子の救出を願うあまりゲリラ側の要求に直ちに屈するように政府に迫った。

それをテレビという媒体を意識して声高に叫んだものだから、国民の反発を招いて自己責任論というものが浮上してきたと私は認識している。

これは今井紀明の母親というが押しも押されもせぬ立派な共産党員なるが故に、マスコミというものを通じて、日本共産党の規定方針を代弁し、世間にアピールしようとしたわけで、完全にマスコミというものを利用しようという下心が見え見えであった。

マスコミを利用してやろうという下心で演技をするのはこの例ばかりではなく、国会審議などにも往々に見られるわけで、昨今の国会審議というのはテレビを意識して行なわれていると思う。

先の社民党に辻元清美などの質問等にもそれが見え見えであり、彼女は別件の失態で馬脚を現し、政界を去ってしまったが、テレビを利用してやろうという魂胆は当時持っていたと思う。

今回のイラクにおける日本人拉致の問題は、北朝鮮による日本人拉致の問題とは根源的に違うわけで、ここに自己責任の話が浮上する余地があったのである。

北朝鮮による日本人拉致というのは本当の意味での拉致であるが、今回の場合は、政府が危険情報を出し、退避勧告を出した地域に自ら進んで出て行ったわけで、自分で蒔いた種にもかかわらず、それを政府に「無事に刈り取れ!」といったものだから傍観者としての国民の側、一般大衆の側としては「何を寝ぼけたことを言っているのか、自分で蒔いた種ならば自分で刈り取れ」という反発になったわけである。

日本のマスコミの悲しい習性として、こういう大衆、民衆の本音の声をそのまま報道できないところである。

大衆や民衆の本音というのは、普遍的な常識に則っているわけで、極めてニュース性に乏しいものである。

街頭でインタビューしても、こんな常識的な回答では映像を際立たせることが出来ないが、母親が「武装勢力の言う事を直ちに聞いて、自衛隊をすぐ撤退させてくれ」と言えば、これほどニュースとして面白いものもない筈である。

政府の既定方針が、一人の拉致被害者の母親から、面と向かって批判されているわけで、それはゲリラの要求を真正面から受け入れよと迫っているし、共産党の政策を真正面から受け入れること要求しているので、これをアップで画面いっぱいに大写しで放映すれば、これほどニュース性のある映像も他にないはずである。

この映像があったからこそ、その後この犠牲者、被害者の家族がパッシングに合うという結果を招いたのである。

 

三人の若者の本意

 

ここで私が不思議に思うことは、最初に拘束された三人のイラクに行った動機である。

今回のイラク戦争というのはイラクのサダム・フセインがアメリカの同時多発テロの首謀者アルカイダというテロ集団を匿っているのではないかという疑惑から、大量破壊兵器を隠し持っているのではないかという疑惑につながり、その公開を迫ったアメリカに対してサダム・フセインが徹底抗戦をしたものだから戦争になったわけで、サダム・フセインがアルカイダと全く無関係ないならば、それをアメリカに対して公明正大に開陳すれば起こりえなかった。

それとは別にアメリカの大儀としてはサダム・フセインというのが独裁者としてイラク国民を上から抑圧しているという理由で、イラクの民主化を実現する目的もあったはずである。

その目的に沿ってアメリカはイラクを攻撃し、バクダットを陥落させ、サダム・フセインの拘束に成功したわけである。

サダム・フセインなきあとは、イラク国民が自分達で民主的な再生イラク国家を作れば良さそうに思うが、そこが混沌として、最初はサダム・フセインの残党がアメリカに抵抗していたものが、そのうちにイラク人同志の自爆テロと進化し、イラク人が自分達の国を再建しようとしているイラク人を攻撃するという構図になってきた。

完全に内乱の状況になって来たわけである。

19世紀末のべドウインの世界に先祖帰りしてしまったのである。

アメリカは自分達の意に沿うイラク政府を作りたいものだから、そのまま居残るのもある程度は致し方ない。

問題は、イラク人が本気で自分達の国を再建する気があるのかどうかという点だと思う。

こういう状況下に日本の若者が、特に平和ボケの若者がのこのこ入っていく、その心は一体どうなっているかということである。

一人は戦火の中で苦しむ路上で生活する子供のケアーと称し、一人は米軍の使った劣化ウラン弾の調査と称し、他の一人はイラクの現状をリポートすると称して、イラクに行ったわけであるが、その事にどれだけの意義があるのかということである。

確かに意義はある。それは価値のある仕事でもある。

ならば価値のある、そして意義のある仕事をしている者だからといって、彼らの救出のために無制限に国家は責任を負わなければならないのか、となるといささか疑問が噴出してくる。

本人は自分の行く先が危険なことは承知で行くのだから、命の保障を当てにはしていなかったかもしれない。命を落とすことを覚悟で行ったかもしれない。

だからといって、ああいう状況で邦人がゲリラに拘束されて、自衛隊撤退と抱き合わせの脅迫を国家が受け、三人の命と自衛隊撤退との二者択一を迫られたとき、むげに3人の邦人を見殺しに出来るかということになる。

三人のイラクでしようとした仕事の意義は、命を投げ捨てるほどの意義が果たしてあるのかと問うた時、答えは否である。

いくら意義があり、価値あるものとはいえ、それを大義名分として、理由付けに利用してまで行なう必要があるかということである。

あまりにも独善的で偽善がましく、自分の意志を貫くとはいうものの、ただ自己の欲求を満たすだけ、という自己満足的な部分も否定できないし、そのためにわざわざ危険なところに行かなくても、日本にいて何とか社会のために役立てることがあったのではないかと思う。

社会の為に役立つという言い方をすると、目に見える形で具体的な行為をしなければならないと、若い者は思いがちであるが、そうではなくて極普通に仕事をし、極普通に生活すれば、それが回りまわって社会に役立っていると思う。

昨今は、そういうことを言わないので「社会に役立つこと」というと、具体的な慈善事業のようなことをしない限り「社会に役立つこと」をしていないかのような錯覚に陥りがちであるが、そんな際立ったことをする必要はないと思う。

若者は若者らしく普通に仕事し、普通に給料を貰い、普通に納税し、普通に年金を払えば、それが立派に社会に役立つ行為だと思う。

昔は「お天道様に顔向けが出来ない」という言い方で邪な行為を戒めたものであるが、今でも「お天道様に顔向けできないようなこと」をしない限り、それだけで立派に社会に役立つことをしていると思う。

 

金と裁判の問題

 

人間の命に関わる責任問題ということになると、その背景には金の問題が見え隠れするのだけれども、マスコミというのはその部分を功名にカモフラージュしている。

今回の問題で政府の側が「自己責任だ!」という場合、「勝手に行ったのだから金は出しませんよ、経費はそちらで負担して下さいよ」、という意味の自己責任である。

ところがマスコミの側の、インテリ・ヤクザのいう「国家の責務」というのは、彼らを救出するためには無制限に金を使え、彼らが殺されたら遺族の言い値の補償金を出しなさいよ、という意味の「国家の責務」である。

マスコミ、つまりインテリ・ヤクザの側は、何処まで行っても傍観者という立場で、視聴者という客に対して大見得を切り、格好いいポーズを演じなければならないので、「自己責任」と「国家の責務」の裏に潜んでいる金の問題を表面には出さず奇麗に取りつくろっている。

三人の人質の拘束で、彼らが本当に殺されてしまったら、当然国家賠償の問題に転化せざるを得ない。

その時、遺族の側としては天文学的な数字を要求してくるに違いない。

なんとなれば、国家としてゲリラの要求を拒否したのだから、「国家の責務」としての邦人保護を怠った。よって、遺族の言う天文学的補償にも応じてしかるべきだ、という論法で迫ってくると考えるのが普通の日本の常識だと思う。

こういう状況に至ると、当然裁判に持ち込まれるが、ここで冷静な判断をしなければならない裁判所というものが、これで案外偏向しているわけで、弱いものの味方というポーズで判決を下す。

人情として、個人と国家の係争の場合、個人の味方をしたほうが人道的、倫理的、感情的に人々に受け入れやすい。

大衆は、純粋な法理論で導かれた結果よりも、人情的に弱いものに味方した判決のほうを歓迎するわけで、これが判官贔屓というものである。

三人の人質がゲリラに殺されてしまった場合、遺族は当然国家に対して法外な国家賠償を請求する。

国家は当然まともには応じられないので、裁判に持ち込む。

すると日本の裁判官というのは、そろそろ全共闘世代の裁判官が実務を担当しているわけで、国家を江戸時代の悪代官合のような視点で見ている。

全共闘時代の偏向した思想を持った裁判官が裁定をくだすと、国側の敗訴、結果的に国民の膨大な血税が、国家の警告を無視して命を落とした馬鹿者の遺族に行くという構図が成り立つ。

三人の人質が殺された時の、その後のシナリオはこうなることは間違いない。

こういう状況を想定して、国の側は本人の自己責任を言っていると考えていいと思う。

インテリ・ヤクザの支配するマスコミ業界というのは、何処まで行っても傍観者である。

国が法外な国家賠償を払う羽目になっても、全く感知しないわけである。

裁判所も裁定は下すが、裁判所が国家賠償を支払うわけではない。

結局はそれは我々の血税で支払われるわけである。

こういう状況を鑑みれば、国を運営する側として、当然そのことを頭の奥底では考えているわけで、それではたまらないから「意義ある仕事とはいえ、行動には十分考えてくれ」という愚痴がでるのも当然である。

マスコミ業界は、三人の人質が無事解放された今だからこそ、「無事でよかった」と言って、「被害者に自己責任を追及するのは国家の責務を放棄するものだ」と騒ぎ立てておれるが、これが不幸にも殺されようものなら、「人の命はなにもの代えがたいのに、それを全く認識していなかった」と、国家の責任を追及して止まないものと想像する。

個人と国家が国家補償をめぐって係争したとき、裁判所というのは大抵の場合、個人に有利な判決を下す。

これは個人が「可哀相だ!」という感情論に根ざしているからだと思う。

ところが法律というのは個人の感情など無視して作られているわけで、今回のように、国の出す危険情報や退避勧告には何ら個人を束縛する効力がないわけで、それだからこそ自己責任が取り沙汰されているが、だからと言って、結果として人命が損なわれれば、国としては遺族の言い値で国家補償しなければならないと思う。

その時、遺族の補償額が妥当なものならば、係争にはならないが、国のいう指示、勧告を無視するような人間が、最初から妥当な線を出してくるとは考えられない。

21世紀に生きている今の日本人の裁判が、感情論で左右されているようでは近代国家でもなければ民主主義国家でもないではないか。

戦後の民主主義の中で、我々は世界第2の経済大国になったつもりでいるが、裁判が人々の感情で「被告が可哀相だから!」という理由で判決が出されるようでは、前近代の世界にいるようなものではないか。

弱者救済という言葉は美しいが、裁判かそれに左右されるようでは、前近代的な国家に生きているのではないかと思う。

判官贔屓や大岡裁きが通用しているようでは250年も前の状況ではないか。

民主主義というのは私に言わしめれば愚民政治だと思う。

今の日本の裁判官というのは、昔の特権階級が支配しているわけではない。

日本中の法曹界を目指す優秀な人材が、日本でも一番難関とされている国家試験を潜り抜けてなっているわけで、本来ならば一番冷静沈着、逆にいえば冷徹な法解釈で判決が出されてしかるべきである。

日本で一番難関な関門を潜り抜けてきた優秀な人間だから、判決文の中に被告が「可哀相だから!」等という俗っぽい情緒的な馬脚をあらわすような文言が入っているわけではないはない。

ここが秀才の秀才たる理由である。

人命の尊重さ、権利の大事さ、基本的人権の保護、こういう奇麗事を並べて、結果として自分の国をだんだん貶める方向に導いているわけである。

 

法律と裁判

 

自分達の国を貶めるのが全共闘世代の究極の目的なわけで、今回の今井紀明の家族もそういう方向を向いている点で全共闘世代の片割れとみなしていいと思う。

こういう奇麗事はまことに耳障りがよく、人間の生存に不可欠な目標であり、追い求めるべき理想である。

しかし、それは同時に民主的な社会の構築とは相反する事柄なわけで、最大多数の最大幸福というものが民主主義の本旨だとすれば、究極の自由というものは、その民主主義を逆に阻害してしまう。

被害者、乃至は被告が自己の夢、自己の願望を追い求めるため、少々法を犯しても許されるという裁判所の判決ほど社会を阻害するものはないと思う。

もっとも、法律というものが万能ではないことは承知しているが、だからといって自分の欲望を満たすためには法を犯しても構わない、そしてそれを許す裁判所の裁定というのも許しがたい行為である。

ところがここに人命尊重とか、平等意識とか、人権がからんでくると、裁判そのものが感情論に左右されてしまうようになり、それは極めて由々しき問題だと思う。

裁判所が法よりも人情を先に立たせてしまっては、法治国家の裁判の意味がないし、民主主義というものが成りたたないと思う。

悪法であっても、生きた法である以上、従わなければならない、という態度を毅然と示さなければ民主的な社会とはいえないと思う。

今日の日本の裁判いうのは、法の前に正義をかざすからおかしな判決が出るのではないかと思う。

正義というのは社会の進展とともに基準が変わってしまうわけで、50年もすれば正邪が逆転してしまうものまである。

法律というのは、その時々の正義が基準になって出来ているわけで、時代とともに正義の基準が変わることによって、ある時は正しい法律でも時とともにそれが悪法になってしまうこともママある。

その意味で、裁判官は悪法であってもそれが生きている間はその悪法を尊重しなければならないが、ここで勝手に正義を振り回すものだから、妙な判決になってしまうわけである。

人間の感情というのは時の正義に非常に感化されやすい。

ところが時の正義というのは、国会が審議して築くわけで、国会という中で陣笠という有象無象の役者がひねくり回した法律は、裁判官の目から見ると非常に稚拙なものに見え、正義を具現化しているようには見えないわけで、そこで裁判官の個人的な判断が入り、被害者乃至は被告が「可哀相だ!」という人情論に支配されてしまうと思う。

個人と国家が対立したとき、誰の目にも国家と戦う個人のほうが可哀相に見え、気の毒に見え、被害者のように見え、同情が集まりやすい。

裁判官として、こういう個人に対して「あなたの方が間違っているよ」とは言いにくいと思う。

そんな判決を出したならば、直ちに不当判決だとか、裁判官は人でなしだとか、冷酷な法の番人だとか、様々な中傷が飛び交うことが必定なわけで、それを恐れて法の番人に徹しきれないのだと思う。

そういう批評に惑わされないように、と三権分立ということになっているのに、裁判が世の批判に晒されるのを恐れて、世間に迎合していては三権分立を自ら破壊しているようなものである。

今ある法律に不合理があろうとも、その法律に照らして、合っているか否かを冷徹に判断して、それに依拠した判決を示すべきで、裁判官が被告に対して感情を差し挟んではならないと思う。

今ある法律の不合理、不条理、正邪の判断は立法府であるべき国会がすべきであって、裁判というのはあくまでも今ある法律に則って、法に合っているか否かを判断すべきだと思う。

裁判が人情で左右されるようなことでは、民主主義とは程遠いものといわなければならない。

人情論では、国家のほうが間違っているといったところで誰も傷つかないが、個人の方に同じことを言えば、本人は当然傷つくわけである。

どうせ金を払うのは裁判官自身ではなく、国民の血税が使われるので、表面的には誰の懐も痛まないわけだし、ここは1つ温情な判決にしておくということになるものと想像する。

日本で一番難関とされる国家試験をかいくぐった優秀な人ならば、当然そのことは判っていなければならない。

民主主義の名の下に、「大勢の幸福のためには、一部の方々には制限が加えられることもママありますよ」という事は当然こういう優秀な人々は理解していなければならない。

全員が皆平等に幸福を享受することはあり得ない、という事を理解しなければならない。

 

価値ある人間

 

それはマスコミ業界とても同じで、民主主義というものは究極の自由でありませんよ、ということは理解していなければならない。

民主主義の世の中だから何をやっても許されるというのは間違った考え方ですよ、ということを我々は理解しなければならない。

これが理解されていないからおかしなことになるわけで、国がわざわざ危険情報を出し、退避勧告を出している地域に入って、自分の思うことを好きなようにする自由は確かにある。

ならばゲリラに捕まっても、国にも「出来ることと出来ないことがありますよ」ということも同時に理解しなければならない。

それは本人達ばかりでなく、日本の全国民がそう思わなければならないわけで、その結果として一部の国民から被害者に対するパッシングが出たものと思う。

確かに、危険な地域に潜入して、人の嫌がる尊い仕事をするという大儀名分は存立するだろうが、それはある種の売名行為と紙一重である。

働き盛りの青年であるとしたら、日本で真面目に働いていれば話題にはならないかもしれないが、一人の人間としては、そのほうが余程意義のある生き方だと思う。

マスコミに取り上げられることは一生涯ないかもしれないが、一人の人間の生き方としては、その方が余程意義があるように思う。

先の長い青年に対して最初から「名もなく貧しく美しく」生きよ、と勧めることは酷かもしれないが、人間の生き様としては本当はそれが一番大事であり、一番尊重されるべきことだと思う。

ところが、これでは情報の送り手、舞台を面白おかしく演出する役者としてのマスコミとしてはニュースのネタにならないわけで、個の尊重だとか、若者の自由意志だとか、若者のボランテイア精神という文言で、若者を躍らせるのである。

一人の若者が真面目に自分の職業に励むことが、まるで価値のないことのような報道の仕方をするものだから、そういうマスコミの風潮に踊らされて、こういうアホな行為に走る若者が続くわけである。

人間の価値としては、真面目に自分の職業を黙々とこなしている人ほど尊いものはないと思う。

仮にそれがトラックの運転手であったとしても、コンビニの店員であったとしても、マクドナルドの売り子であったとしても、いま自分に与えられた仕事を黙々とこなそうとするものは、それだけで尊い存在だと思う。

しかし、これではマスコミにとってはなんらニュース・バリューがないわけで、報道するに当たらないわけである。

しかし、社会というのはそういう人々によって支えられていると思う。

ニュースのネタにはならないような人々によって、我々の社会は成り立っていると思う。

こういう真面目な人が、額に汗して働いて、真面目に税金を払い、年金を払うことによって、社会全体として相互扶助が可能になるわけで、マスコミというインテリ・ヤクザがいくら立派なことを口先でいっても、それは社会を支えるには屁のツッパリにもならないのである。だからこそ虚業なのである。

 

誰もが一言もいわない事

 

ここでこの事件に関して誰も一言もいわない不思議な問題がある。

というのは、ゲリラに拘束された人質を救出すのは「国家の責務」といいながら、この場面に至っても「自衛隊を使え」ということが一言も出ていない。

これは一体どういうことなのだろう。

主権国家として、自国民が不法に拉致された時,「国家の責務」として自国民を救済するに際して軍隊を使うのが世界の常識ではないのか。

日本が戦後、国家の主権の行使としての戦争は放棄しているので、それは出来ないというのも言葉としては理解できる。

しかし、人質の救済が憲法の規定している主権の行使としての戦争に当たるのであろうか。

人質救済と戦争は同じことなのであろうか。

我々は確かに戦争放棄を憲法で謳っている。

しかし。戦争放棄を謳っているからといって、自国民がゲリラに拘束されたことまで、戦争と認定して放棄したままでいいのだろうか。

それでは「国家の責務」というものを、丸まる根本から放棄しているようなものではないのか。

ならば、今回の事件でマスコミ業界が「国家の責務」を云々すること自体、お角違いということにはならないのか。

この辺りの平衡感覚というのは一体どうなっているのであろう。

イラクに派遣されている自衛隊は確かにイラクの復興のために派遣されている。

ならばイラクで人質になった日本人を救出するのは一体誰がするのかということである。

邦人救出が「国家の責務」であるとすれば、自衛隊にこそその使命があるのではないのか。

あの事件に関して、誰一人そのことに言及しないのはどういうことなのであろう。

イラク復興のために日本が自衛隊派遣するというのは、国際的な信義に答えるための措置であって、邦人救出ということは最初から想定外のことではあるが、現実にこういう事件が起きた以上、国際水準の常識では、自国の軍隊が真っ先に救出に着手すべく行動を起こすべきだと思う。

その意味からして、小泉首相が自衛隊の撤退を真っ先に拒否し、ゲリラの言い分をきっぱり拒絶したことは、国際信義を慮った措置ということは理解できるが、邦人救出という点では「国家の責務」を犠牲にせざるを得なかったと解釈しなければならない。

 

傍観者としてのマスコミ

 

この二重の意味から、今回の事件で小泉首相は苦汁を飲まされた、という実感は当然起きていると思う。

愚痴りたくなろう心境も察して余りある。

ところが首相たるもの愚痴もいえないところが可哀相である。

ちょっと愚痴ると、それがテレビに映し出されたとたん、正式発言として世界中を飛び回るわけで、愚痴もろくろく言えない立場というのも実に可哀相だと思う。

それを「愚痴」と判っていても、正式発言として報道するマスコミ業界というのも浅ましい職業といわなければならない。

正に虚業、インテリ・ヤクザそのものではないか。

首相が一言愚痴ると、その言葉尻を捕まえて、さも重大発言をしたかのように言い繕って、世論という虚像を後ろ盾として対抗しようとする、浅はかな虚実の姿である。

番記者と言われるあの集団は一体何なのかといいたい。

まるで金魚の糞ではないか。あれこそ虚業の芯の姿である。

ほんの一言愚痴ったことを正式発言として全世界に放送するという事は、情報操作に当たらないのであろうか。

首相の言動を捏造していることにはならないのであろうか。

愚痴と公式な発言とは大きく違うわけで、愚痴には本音が出やすいということは真実であろうが、マスコミという業界が、この本音も愚痴も一緒くたにチャンコ鍋風にかき回してしまうところが問題である。

マスコミというものが本人の意図した発言、本人が伝えようとした内容と逆のことを発表することがある。

結果として嘘ついたことになるが、その嘘はマスコミ側が捏造したにもかかわらず、本人が嘘をついたことになってしまうので、そこが恐ろしいところである。

この場合マスコミ側が責任を持って前の誤報を訂正することは稀にしかない。

一度マスコミに乗ってしまった報道は、もう訂正の仕様がない。

先に、田中真知子元外務大臣の長女の私生活を週刊文春が暴露して、その週刊誌の発行禁止処分の是非が話題になったことがあるが、これこそマスコミ業界がインテリ・ヤクザの様相を呈している顕著な例である。

この問題に関わっている人間は、その総てがインテリである。

取材する側、される側、そして週刊誌として店頭に並ぶまでのあらゆる過程で関わりあっている人々、編集する段階、発行する段階で関わりあっている人々の総てがインテリである。

にもかかわらず、その内容が公表に値する情報かどうかという点で皆盲目になってしまっており、インテリのインテリジェンスが全く作用していないということはどういうことなのであろう。

自己の権利の縄張り争いでヤクザが抗争を繰り返している図と同じではないか。

仁義なき戦いを演じている図と同じではないか。

インテリのインテリジェンスは一体何処に行ってしまったのであろう。

これがマスコミ業界の実態を示しているわけで、インテリ・ヤクザからインテリを取ってしまえば、ただのヤクザでしかない。

ヤクザ成ればこそ、自分の国の政府が危険情報を出し、退避勧告を出しても、それに従わないことを粋がっているわけである。

ヤクザ成ればこそ、自分の非は否定し、相手の落ち度に付け入り利益を得ようとするわけである。

この人質問題をテーマに、4月25日のサンデー・プロジェクトでは田原総一郎が、「大手マスコミは危険なところから自社の特派員を撤退させるから、そういうところにはフリーのジャーナリストが行く」といっていた。全くその通りだと思う。

何故、大手のマスコミ各社は危険地帯から自社の特派員を撤退させるかといえば、やはりその裏には金が絡んでいるわけで、「人の命は地球よりも重い」ということになれば、自社の特派員がそんなところで死んだりすれば、その補償で社そのものの存続が危なくなるほどの金額を要求されるのを恐れて、人命尊重の美名の下、高額な補償費を出さなくても済むように、自社の社員には退避勧告を社名で厳命するわけである。

フリーのジャーナリストは、命がけの取材という格好良いポーズに幻惑され、それと金の誘惑とにつられて入っていくわけであるが、無事に帰って来れれば、それは勇敢な取材で終わってしまうが、一旦現地で命でも落とすような事態が起きれば、その遺族がそれを早速金儲けにつなげるわけである。

死んだ本人は「そういうこともあるかもしれない」と覚悟の上の行動であっても、遺族は本人の意思とは無関係な存在だから、国が責務を果たさなかったのだから「金よこせ!」という論法になるのは当然だと思う。

日本という儒教思想の残滓が金魚の糞のように残っている我々の現世では、最初から「金よこせ!」という要求は掲げてこない。

そういう事は人間として恥ずかしいことだ、という倫理が少しは残っているから。最初は「国家が責務を怠ったから謝罪せよ」というポーズで仕掛けてくるが、その下心が金にあるのは見え見えである。

三人の若者にとって本人達にはこういう意図はないと思う。

しかし、結果として彼らが殺されてしまった場合、その後ろにはこういう問題が本人の意思とは関わりなく必然的に潜んでいると思う。

そういう意味で、この3人プラス2人の行動は、非常に危険で深刻な内容を含んでいたわけである。

国家のいう勧告を無視するということは、こういう事を内在的に含んでいるわけで、それだからこそ政府は彼らに「行動を謹んで欲しい」という言質になるわけである。

マスコミ業界というのはあくまでも傍観者であり、対岸の火事は大きければ大きいほど面白いわけである。