表紙―2

 

熟年夫婦

 

大西部を行く

 

PART−2

 

長谷川 峯生・瞳美

 

イエローストーンからヨセミテ

 

2002.7・3〜7・11

熟年夫婦・大西部を行く・PART 2

 

7月3日 旅の始まり

 

成田経由で機上の人となる

 

今回の旅行も行く前から、行くの行かないのと夫婦の間で大喧嘩の末、家内に押し切られた形で行く事になった。

その1ヶ月前に、家内が足をくじいて、これで計画もお流れになるかと思いきや、「松葉つえを突いてでも行く」と言い張るものだから、とうとう根負けしてしまった。

アメリカ旅行が嫌いなわけではないが、生来の英語コンプレックスで、どうしても尻込みしてしまう。

行けば行ったで、それなりに楽しめるが、最初の一歩でどうしても二の足を踏んでしまい、尻込みしてしまう。

そんなわけで家内と喧嘩しているうちに当日になってしまい、ここまで来ればもうキャンセルするわけにも行かず、決行しかない。

それで名古屋空港には朝の7時に集合という事で、スケジュールがそう決まっているならば、それに従うほかなく、言われるままに指定の場所に集合した。

家内の足の不具合が関係方面に情報として流されており、ここでも足の事を心配されたが、手続きはつつがなく終了し、ここまで送ってくれた娘と、その息子ともここで別れた。

例によって、娘の連れ合いが気を利かせてくれて、中の有料待合室の切符を融通してくれたので、その好意に感謝しつつ時の来るのを待った。

朝の早い時間にも関わらず空港というところは人が大勢行き交っているものである。

そして、外国との境界線に当たる空港では、どこの国でも同じようなシステムになっており、海外旅行も3度目となると、そうそう目新しい事ではなくなってきた。

旅というのはどうしても待ち時間というものを省略するわけに行かず、この時間が一見無駄なようにも思えるが、私はこの待ち時間にものを考える事が好きなので、あまり苦にはならない。

それで定刻になり成田までの飛行機に乗り込んだ。

ボーイング747−400である。

席は家内の足が悪いという事で、足元にゆとりのあるビジネス・クラスの席が与えられた。

この席は実にゆったりとしており、非常に快適であった。

9:10にタクシーを開始し、9:15にはテイク・オフした。

近頃の旅客機というのは、昔の戦闘機並みの性能で、これにはいささか驚かされる。自衛隊のC1よりも雲泥の差で優れている。

滑走をし始めて、加速が掛かったなと思ったら、がたんと音がして、もう空中に浮いている。

席は機体の左側の列で、5分後にはもう6400mにまで達していた。

今の旅客機はGPSのデーターが客席でもモニターできるので非常に興味あるところである。

客席中央のスクリーンにもプロジェクターで投影されるが、シートの折りたたみ式のデイスプレーでも見れるので非常に面白い。

その航跡のデーターを追っていると、名古屋を飛び立って南東に向かい、浜松の辺りで進路を東に向け、大島の真上を通り、伊豆半島の端を掠め、房総半島沖に出て、銚子の辺りから成田に向かった。

途中、富士山が雲の上から頭を出し、成田周辺の地形は、緑に囲まれ実に美しい緑の山河である。

成田といえば、我々の世代は、どうしても成田闘争を忘れる事が出来ない。

しかし、このときはその成田闘争の跡というのは、上空から痕跡すら確認できなかった。

旅を終えた帰りに、名古屋に戻るときには、多少痕跡らしき施設を確認する事が出来たが、このときはそれすらわからなかった。

我々は国際線の乗客で、本来ならば名古屋で出国審査を済ませなければならなかったが、家内が「どうしても外に出たい」というものだから、名古屋を出るときにそういう手続きをしてきた。

成田での待ち時間が約7時間近くもあるので、そういう気持ちになるのは判らないでもないが、足の悪い家内がそうそう歩き回れるわけでもない。

ここで機から下りるとき、スチュアーデスから足の具合を聞かれ、まだ痛みが有るという旨告げたら、車椅子を用意してくれた。有り難いサービスである。

それで車椅子を押しながら、ロビーの中をうろうろし、食事をしたりしてゆっくりと時間を潰し、ほどほどのところで出国審査を済ませ、出発ロビーに移った。

飛行機から出てきたところが到着ロビーになっており、そこは空港らしいそれなりの施設と雰囲気があったが、空港の案内書にはインターネットのPCがあるとなっていたので、それを探してみると確かに電話機の並んだコーナーの隅にPCがあった。

ところがこれが日本製のものではなく、説明書も日本語では書いてないので、挑戦はしてみたもののさっぱり要領を得なかった。

ところが出国審査を済ませた人が屯する出発ロビーには、インターネット・カフェがあり、ここでは50台くらいのPCが置いてあり、無料で借りれたが、身元確認のためクレジット・カードの掲示を求められた。

そこで家内と二人で、それぞれに挑戦してみたが、出来ることが分かれば、後はいつものルーチンと同じで、ただそれだけの事である。

このインターネット・カフェに座っていると、目の前に第2ターミナル・ビルと連絡しているシャトル・システムが手にとるように眺めれた。

海外旅行をしてみると、この成田空港というものが如何に機能的に劣っているか、実感としてわかる。

こういう時代に逆らっている空港反対派の人々は、まさに国賊ものである。

明治維新に反対していた尊王攘夷派の発想と同じで、時代感覚が麻痺しているのではないかと思う。

彼らの反対の理由というのは、金と欲以外の何ものでもないはずで、闘争が長期化するにつれて、上げた拳を引っ込める事が出来なくなってしまって、後は見栄も外聞もかなぐり捨てて、自分の殻から出切れなくなってしまったに違いない。

矛を収める時期を失してしまったので、後は意地だけが残ったわけである。

機能的に不完全だとはいえ、見た目には完全に超近代的な施設で、その中をうろうろしながら、そんな事を考えたりしていた。

空港のビルの機能はそれほどでもないが、滑走路が一本しかないという事は、現代の空港としては致命的な欠陥だと思う。

科学が進化すると、人は好むと好まざると、グローバル化するわけで、人は国境を越えて移動するようになる。

20世紀までの人類は、人と物のその移動を船に頼っていたが、現代はそれが飛行機に成り代わってしまったわけで、その移動の拠点となるべき空港が充分な機能を発揮できないという事は、人類の大きな損失につながると思う。

こう考えたとき、我々の発想は、その義性になる者の事が頭をよぎるわけで、近代から現代という時代の変化の義性になった人々のことを思い浮かべて、そういう人々に救いの手を差し延べる事が美しい行為のように勘違いしている。

しかし、それはある意味で人類の進化に掉さす無責任な傲慢だと思う。

昨今、環境問題が姦しく、自然破壊が問題となっているが、人間の生存それ自体が既に自然を破戒しているわけで、地球を自然のままにしておこうということになれば、自分の生命さえ維持することが「悪」となってしまう。

農業にしろ、牧畜にしろ、自然に対して何らかの恣意的な手を加えているわけで、自分が農業なり牧畜なり漁業に携わっていないので、自然をいささかも壊していないと思い込んでいるのは、あまりにも僭越で、人は食って糞して寝るだけでも既に自然破壊に手を貸しているわけである。

だから近代や現代の進化の義性になった人々に憐憫の情を施すという事は、ある種の人としての傲慢さ以外の何ものでもない。

そんなわけで、この成田の乗換えでは、長い時間が掛かったが、これも昨年の

9・11事件の余波で、名古屋からアメリカ西海岸向けの便がなくなってしまった所為である。

アメリカ在住のガイドの話によると、こういう事件が起きて極端に旅行客が減ったのは日本だけだそうだ。

そういえば出発の前に、私は7月4日がアメリカのインデペンデンス・デイ、つまり独立記念日で、「何か有るのではないか」と、一抹の不安があったことは確かである。

そんな思いの中、インターネットを調べていたら、日本の外務省がアメリカ本土の危険情報を出していた。

こんな話も全くおかしな事である。

私のような無学浅学な人間と、非常に狭き門を潜りぬけ、選び抜かれた知的集団としての外務省の思いが全く同じという事では、知的判断と情報の集積と言うものが何の意味も持っていないということに他ならない。

昨年の9・11事件で精神的に縮み上がってしまったのは、他ならぬ我々日本人であったわけで、ヨーロッパ系の人々は事件があったからといって、そうそう旅行を取りやめるという行為には出ていなかったらしい。

この現象は、まさしく明治維新直前のペリーの黒舟来航と同じで、「たった四杯で夜も眠れず」という情況と瓜二つである。

この対応の仕方は、我々日本人の気質を非常に如実に表していると思う。

つまり、自己責任の回避である。

もし再びあの9・11事件のような事が起きた時、我々の側としては、自分ひとりでは対処しきれないので、誰かに頼らなければならないが、頼るものが居ない場合、我々はそれを国家に求めるわけである。

国家、つまり外務省は、むやみやたらと頼られても困るわけで、その予防策として、危険情報を出しておき、そういう場合の逃げ道を作っておくわけである。

つまり、「危険情報を出しておいたにもかかわらず、何故行ったんだ!」という形にしたいわけである。

こうしておけば外務省と言うのは自分の責任を回避できるし、仕事の煩雑さも軽減できるわけである。

旅行者が少なくなったので便が減るというのは致し方ない。

それで同じ日本国内で7時間も足止めを食ったようなものであるが、旅というのは物を考える事でもあるわけで、それはそれで自分の方で楽しみ方を工夫するほか無い。

やっと搭乗の時間がきて、車椅子を改札口の近くに返納し、列に並び、機内に入ってみるとエコノミークラスの最前列で、目の前にはトイレの壁が立ちはだかっていた。しかし、同じエコノミーでも、この席は足元が多少広く、壁には赤ん坊用の折畳式の小さなベッドが格納されていた。

家内の足の事を考慮してこういう席になったのだろうけれど、有り難い配慮である。ところが隣りの席の人たちも、こういう温かい配慮を受けた人達で、乳飲み子を二人も抱えたアメリカ人夫婦であった。

席に座った途端からもう家内はその奥さんとたどたどしい英語でコミ二ケーションをはかっていたが、厚顔無恥というか、破廉恥というか、その度胸には毎度の事ながら驚かされる。

西洋人というか、白人というか、彼らのバイタリテイ−にはいささか驚かされる。家内が聞き出した情報によると、旦那さんはアメリカ人で奥さんはオーストラリア人であるが、アメリカで仕事につくために移動しているという事であったらしい。乳飲み子を二人も引き連れて、そういう行為に出る勇気というのは、私には考えられないことである。

我々ならば、おそらく夫だけが先に赴任して、後から奥さんを呼び寄せるという形になるのであろうが、彼らはやはり夫婦で一単位という行動パターンを頑なに維持している様に見える。

我々も航空会社の配慮で足元の広い席を与えられたので、同じような配慮を受けた隣人を拒むことは出来ないわけで、その分アメリカ人の子育てを充分の観察する事が出来た。

彼らは生後半年の赤ん坊は壁の棚に寝かせていたが、2歳の赤ん坊は足元の床に寝せていた。

そして受けられるサービスはフルに活用していたようだ。

サンフランシスコまでノンストップで飛ぶ今度の飛行機もボーイング747−400で、

17:20に搭乗したら17:50分にはタクシーを開始し、18:00にはすでに雲の上に出てしまっていた。

例によってナビゲーションを表示するボードを見ていたら、3万4千フイート、つまり11600mの上空を偏西風に乗って約千km/hのスピードで東に向かって飛んでいた。

席に備え付けられている液晶テレビ・モニターで、機体の真下の映像を見てみると、1万mの上空から見る太平洋というのは真っ黒に映っていた。

そして雲というのは、真綿のように真っ白に映っていた。

成田を出て、最初に飲み物が配られ、その後食事が配られ、それを食べてしまえば後は何もすることが無いわけで、眠るほかない。

 

7月3日 ソルトレイク到着

 

それでサンフランシスコには現地時間で10:50分頃についた。

ここの空港も広いこと広いこと、滑走路はきちんと2本あり、着陸用と離陸用とに分かれているのが機内からも判った。

ここでもスチュアーデスから車椅子の用意があることを知らされ、待っていると黒人というか、メキシカンに近い小柄な女性が現れ、家内を車椅子に乗せて出国の手続きまで無事こなしてくれた。

どうも今考えてみると、車椅子という事で特別のゲートから特別な措置で、他の乗客よりもスムースに手続きが済んだようだ。

その係員はどんどん進んで、到着ロビーの外まで車椅子を押して外に出てしまった。そしてここで待つように言われたが、先回、ロサンジェルス空港で、乗り継ぎの案内の不手際で苦い思いをしたことがあるので、私は心配になってきた。

外に出てみると、そこはデパーチャーのフロアで、つまり係員は乗り次ぎ便のデパーチャーという意味で、ここに案内したと思うが、我々には乗り継ぎ案内とコンタクトを取らない事には先行きどうなる事かわからないので、私は旅行会社の人間を探しに行った。

車椅子を押してくれた係員にはチップを渡してここで引き取ってもらった。

旅行会社の案内係はきっとアライバル・ホールで我々を探しているに違いない、と思い一階下のフロアに行ってみると、果たしてそこに旅行会社の人が看板を持って我々を待っていた。

そしてここでは若い日本人の女性二人と同行となった。

その旅行会社の乗り継ぎ案内の係員に引率されて、場内のシャトルバスで2ブロックほど移動して、デルタ航空の出発カウンターに案内された。

搭乗手続きは比較的簡単に通過して、中のマクダネルのハンバーガー・ショップで腹ごしらえをした。

この待合室は非常に広い空間となっており、店屋さんも一杯あるので、開放感のある空間であった。

それで搭乗口の辺りで時間待ちをして、いよいよ搭乗手続きが始まったので人の後に並んで、搭乗切符を渡すと、脇に寄れというではないか。

何事が始まるかと思うと、ボデイー・チェックである。

最初のうちはリュックの中や、ウエスト・ポーチの中をかき回していたが、その内に靴を脱げという。

靴を脱ぐと、その靴を二つに折ったりして念入に調べ、挙句の果てに足の裏まで金属探知機で調べだした。

徹底しているといったら完璧に徹底している。

こういうことは素直に相手の言う事を聞いていれば何事も無いが、その素直さは相手にもわかるもので、そう問題視する事もなく、ただそれだけの事であるが、家内は相当に自尊心を傷つけられたようで憤慨していた。

ボデイ・チェックが厳しいしいということは認識していたが、まさか足の裏まで調べるとは驚いた。

このソルトレイク行きの飛行機はボーイング757で、約一時間の飛行である。

一時間の飛行というと、日本で言えば名古屋と北海道ぐらいの距離で、このときの席は通路寄りの中央であったので、外の景色を見るということはしにくかった。

しかしアメリカの景色と日本の景色では大いなる相違点がある。

我々の祖国は飛行機から見ると確かに緑したたる豊穣の国という感がするが、アメリカの景色というのは、あくまでも大陸の景色そのものである。

これが地上に降りてみると、上から見る概念とは裏腹で、その豊穣というものは逆転してしまうから不思議である。

緑したたる豊穣の国が、実は何も天然資源に恵まれない国土であり、砂漠ばかりで人の住めそうもない土地が、豊な資源を内蔵しているわけで、外観だけではわからないのは、人の心ばかりでなく土地そのものも外から見た外観だけでは真偽が定かにわからないわけである。

というわけで、厳しいボデイ・チェックを受けたとはいうものの、なんとかソルトレイクまではたどり着けたわけである。

ここで問題となってくるのが時差の概念である。

人間が極短時間で地球の裏側まで移動してしまうと、地球の自転との齟齬をきたしてしまうので、時差というものが生じてくる。

それで時差ぼけという現象が起きるわけであるが、サンフランシスコに着いた時点で現地時間に合わせ、ソルトレイクに着いた時点で、またまた時計を合わせなければならなった。

それで何時まで経っても7月3日のままで、ソルトレイクの空港に降り立った時点では、まだ7月3日の17:54のままであった。

ここではガイドのスキナ・コブリーという若者が我々を待ち受けていてくれた。

画用紙ぐらいの紙に、ハセガワとヤマモトとカタカナで表示した看板を持って我々を待ち受けていてくれた。

彼は、これから我々をイエローストーンに案内してくれるガイドであるが、日本語はたどたどしいが誠意に満ち溢れた好青年であった。

その彼が我々を案内して市内のホテルまで連れて行ってくれた。

空港から市内のホテルまでかなり有ったように記憶している。

ところがこちらの街は交通の流れがスムースなので、時間距離が非常に短い。

30分かそこらの移動でも、距離としてはかなり長い区間を移動したことになる。このソルトレイクという街は宗教がらみの町で、その所為でもないだろうが、街が非常に大きくて綺麗であった。

そういう印象を受けるのは、道幅が広くて整然としているからだと思う。

何しろアメリカというところは土地がふんだんにあるので、上に積む必要がなく、横に面の広がりとして整然と区画整理ができるので、美観上実に綺麗だ。

そしてモルモン教という宗教に立脚した街なるが故に、そういう関係の建物は実に厳かに聳え立っている。

動くバスの中から見る限り、いくら説明を受けてもあまり印象に残らないのが残念であるが、その分本から知識を得るほかない。

モルモン教というのは、日本でいえば戦後急速に力を伸ばした創価学会と同じような、ある種の新興宗教と思えばいいのではないかと勝手に想像している。

どんな宗教でも最初は新興宗教なわけで、日本の場合は、日蓮宗から創価学会が派生したように、アメリカにおいても敬虔なキリスト教徒から末日聖徒イエスキリスト教と言うものが派生したわけで、1843年にジョセフ・スミスによって興され、それをプリガム・ヤングという人物が大勢の信徒を引き連れてこの地に移り住んだのが始まりといわれている。

アメリカ社会を築いた清教徒達は、ヨーロッパにおける自分達の安住の地を追われるという形で新大陸に渡ってきたのに対し、彼らモルモン教徒と言うのは、自ら進んで難渋の道を選択してきたわけで、自分の方からわざわざ苦難の道を選んでこの地に移り住んだというのだから、そこに信仰の恐ろしさを垣間見る事ができる。

そして快楽を拒否し、肉体に汗して働く事を尊び、禁酒禁煙を守り、ミツバチのように集団で働く事を信条としているわけで、我々のような俗っぽい人間は、とても帰依する事が出来ない。

そして働いて得た金の10%を寄付するとなれば、ある意味で原始共産主義のようなものである。

そうして集まった金で立派な礼拝堂が出来ているわけで、今回わたしたちはそれを見逃してしまった。

スキナがたどたどしい日本語でガイドしてくれたのを車の窓から眺めただけで終わってしまった。

しかし車の窓から見るかぎりにおいて、ここは素晴らしい街である。

モルモン教というのは収入の1割を寄進するだけあって、そういう金が集まって、立派な聖堂を作り上げ、それが市の象徴になっている。

そして道路が広く、道路が広いので渋滞もなく、車はスムースに流れている。

この日の宿、クオリテイー・インに一旦荷物を置き、外に食事に出たが、道路が広いので車無しではなんとも動きが取れない。

仕方がないので宿の向かい側にある、レストランに入ってみようとしたが、足の悪い家内が、信号で渡るのさえ危なっかしい有り様であった。

歩行者用の信号が非常に短くて、渡りきらないうちに変わってしまいそうで、実に危なっかしいものであった。

それでも向かい側にあるイタリアン・レストラン・オリオという店に入ったところ、店内の内装が非常に重厚な作りになっていた。

アメリカ人というのは室内をあまり照明で明るくせず、どちらかというと薄暗い感じを好むものらしい。

ここもその例に漏れず、店内は薄暗くて、外のかんかんに乾き切った空気とは別世界のような感じがした。

食事が終わって叉広い道路を渡ろうとしたら、2ブロック先のほうで、白い馬車が同じように道路を渡ろうとしているのを見たが、2ブロックも離れていたのでよくは見れなかった。

アメリカというところは実に不思議な国で、モーター・リゼイションの国であると同時に、昔の馬車というようなものが堂々と生きている。

騎馬警官というような物まで実際に実在するのが不思議でならない。

そうかと思うと自転車(マウンテンバイク)のお巡りさんも居るわけで、人と物を適材適所に使うという合理主義の顕著な例なのかもしれない。

この日は食事をしてバスに浸かってすぐに寝てしまった。

長い長い一日であった。

 

7月4日 ソルトレイクからウエスト・イエローストン

 

アイダホ・ホールスまで

 

この旅館、クオリテイー・インはソルトレイク市の町外れという感じの位置にあり、広い道路で挟まれた一角にあった。

アメリカの宿泊施設としては当たり前になっているインinnというのは、アメリカ人の生活には不可欠のものになっているようだ。

というのは、彼らは非常に移動性が高く、広い大地を車で移動するためには必要不可欠な施設となっている。

いわばモーター・リゼーションに発達に伴って必然的に出てきた施設と思って間違いないと思う。

車で乗り付けて、そのまま部屋に入るというスタイルになっているので、ある意味では便利であるが、日本人の旅に対するの感性からすれば、木目細やかなサービスは期待できないわけで、そういう意味では我々にとって無味乾燥な施設と映るかもしれない。

道路からいきなり部屋である。

道路から靴のままいきなり寝室に入るという感じで、日本の古い感覚ではいささか馴染めない人も居るに違いない。

しかし、私はこの合理主義というのは好きだ。

朝起きて部屋の外に出てみると、いきなり大通りが有り、潰れたスキー・ショップが有ったりして、世の移り変わりを垣間見た感じがする。

このソルトレイクという街は、先回の冬季オリンピックオが行われた町でもあり、ウインター・スポーツの基地の町である。

周囲にはスキー場に適した山がいくつもあり、そのためウインター・スポーツの店は今の時期店を閉めているので、そういう店は倒産したように見える。

ウインター・スポーツの基地の町ということはサマー・シーズンになれば叉夏のリゾート地になるわけで、そのためかどうか判らないが、サマー・バカンスを楽しむ車が非常に多い様に見受けられた。

朝早くこのインの近くを散歩してみたら、その近くにある同じようなインには、そういう車が非常に多く駐車していた。

彼らは乗用車よりもピックアップ・トラックを好むようで、車の合理性ということを考えれば、人しか詰めない乗用車つまりセダンよりも、ピックアップ・トラックの方が人も物も運べるという意味で合理的なわけである。

その意味で、このリゾート基地のソルトレイクでは、ピックアップ・トラックが非常に多い。

朝、宿の周囲を散歩していてそんなことを感じた。

そして車道と歩道の間には綺麗な芝生が敷き詰められており、それが綺麗に刈り込まれていた。

まさしくグリーン・ベルトになっていたが、通りの向こうの方では、この芝生と歩道のコンクリートの境にスプリンクラーのノズルが隠されており、そこから散水していた。

ブロックごとに歩道の脇からスプリンクラーが散水していた。

町を綺麗に維持するということは、見えないところに莫大な金がかかっているわけである。

朝の散策を終え、食堂に行くと、ここではバフェ・スタイルの朝食にありつけた。私は単純に手間の掛からないものを取り寄せてそれで済ませたが、家内は自分で焼くワッフルに挑戦していた。

こちらの朝食というのは、ジュースがつき物のようであるが、ジュースが出てくるとコヒーとの関係で悩んでしまう。

この日はどうも近くで空手か柔道の子供の大会が開催されるようだ。

大勢の家族連れが、そのなりの格好をして食事をしたり屯していた。

出発の時間になり、集合場所に行ってみると、昨日の山本姉妹とは別に、もう一組佐藤夫妻というグループが居る事がわかった。

これからのイエローストーンの旅は、この3グループで行動を共にすることになった。

昨日、空港に迎えにきてもらったときはダッジのミニバンであったが、今回はもう一回り大きいバンで、やはりダッジだったと思う。

V8の4千ccぐらいの強力なエンジンのようだ。

定刻に宿の前を出発すると、いくらも走らないうちにもう高速道路並みのルート

15号線に乗ってしまった。

道幅が広いので車が実によく裁け、渋滞知らずだから、時間距離が非常に伸びるようだ。

つまり短時間で遠くまでいけるわけである。

郊外に出るとまさしく大地という感じの草原というか、荒野というべきか、大陸というべきか、日本の光景とは異質な世界をひた走るわけである。

このルート15号線というのは、先回、ラスベガスからザイオン国立公園に向けて走ったときも使ったように記憶しているが、それがソルトレイクを通って、さらに北のほうに向かっているわけである。

そして道の両側の風景というのは、まさしくアメリカ映画に出てくる光景であり、現実のアメリカの今の姿である。

西部劇といえば日本でいうチャンバラ映画に匹敵するものであろうが、この西部劇に出てくる光景と今私達が走っている光景があまり変わりがない。

即ち100年前か200年前の光景と今の光景に左程の変化がないということである。

アスファルトの舗装道路がまっすぐに伸び、道端には電線が道に沿って並んでおり、後は交通標識のみである。

低い岡が海のうねりのように奥行きのある広がり示している。

この広がりそのものがアメリカそのものである。

私の住む濃尾平野でも、東京の関東平野でも、そこから工場とか、マンション、民家、商店、という人間の生活に不可欠な施設を全部取り払った光景と思えばいい。そういう世界を我々は想像できるであろうか。

今、私は名古屋から東名高速で東京まで4時間ぐらいで走る。

しかし、この日本の高速道路でも一番のドル箱である東名・名神というのは、雨どいの中を走っているようなものである。

フェンスとか金網で囲まれた雨どいの中を、押し合いへし合いと、我先に走っている感じがするが、こちらのフリーウエイは如何にも開放感があって、樋の中を走っているというような思いは全くしない。

しかも、何所まで走ってもタダである。

これは基本的にモーター・リゼイションというものに対する認識の違いだろうと思う。

アメリカでの生活は車なしでは成り立たないわけで、社会そのものが車社会を前提として物事が考えられている。

ところが我々の場合は、まだそこまで意識が高揚しておらず、車なしでも生きておれるゆとりというか、余裕というか、そういうものを混在した社会なわけである。「車に乗れない人を何とか助けましょう」という相互扶助といえば聞こえがいいが、

弱者救済を善とする意識を払拭しきれず、その延長線上に、お上に依存して他人任せ、他人に対する依頼心を払拭しきれない、なあなあ主義が罷り通っているわけある。

車社会というものを真剣に考えれば、逆に、東名、名神のトラック輸送というものなど、鉄道輸送に切り替えるべきである。

モーター・リゼーションということは、何でもかんでも車に依存すればいいという事ではないはずで、社会にとって如何に合理的に車を使い分けるか、という事を考えなければならないと思う。

何台もの大型トラックが、一台ごとにドライバーを要する不合理な手法で、同じ地域から同じ目的地に物資の輸送などをすべきではない。

我々は民主主義というものが未熟で、自分の私利私欲のためには徹底的に合理主義で貫き通すが、社会全般という見地が抜け落ちているので、抜けがけして自分だけの利益を追い求めているわけである。

社会全般という広い視野で見れば、東名・名神のトラック輸送というのは、鉄道輸送に振り返ることは可能だと思う。

あの樋の中のような狭い高速道路で、押し合いへし合いわれ先に先を争う必要はないわけである。

それに比べると、このルート15号線というのは実にゆったりとした気持ちで走れると思う。

遠くの山並みを見ながら、広い空間を心穏かにハンドルが握れる。

それでいて制限速度は65マイルから75マイルである。

これは日本に直すと100kmから120kmということである。

このスピードで何所までいってもタダという事を我々は考えなければならない。

日本の高速道路の制限スピードが、アメリカでは公道のスピード制限となっているわけである。

当然、人の住んでいる町中ではもっと押さえられている事は言うまでもない。

ソルトレイクを出て、快適に1時間ほど走ったところで最初のトイレ・ストップになった。

東名・名神のバス・ストップのようなところに止まると、周りにはそれぞれに休息している車があったが、その中に三輪車のオートバイがあったのには驚いた。

昔、日本にあったオート三輪と構造的には同じであるが、もっともっと遊び心に満ちあふれたハーレーダビットソンであった。

それをぴかぴかに磨き上げて、高くて細く、よくしなうアンテナを立てて駐車していた。

昔の日本のオート三輪というのは、いかにも使役の為の車で、無骨で、貧相で、遊び心など微塵も感じられない代物であったが、そのセンスの対極にある代物である。これを中年の夫婦が乗り回していた。

ところがこの不良中年夫妻、同じような同好の士であろう、ハイウエイを警笛高らかに鳴らして走り去るオートバイの群が通過すると、それに合流すべく慌てて出て行った。

察するところ、同じお仲間であったにちがいない。

そしてそれから叉約1時間ほど走ると、再びトイレ休憩で、今度はネイテイブ・アメリカンが経営するスーパー・マーケットに案内された。

ここのトイレは店のオフイスの奥の方にあり、店の舞台裏が全部見えてしまった。おそらくスキナ・コルビーの会社が、この店と契約しているのであろう。

アメリカのスーパー・マーケットというのは実に品物が豊富で、しかも我々の思っているよりもサイズが大きいので、我々にはかえって買いにくい面がある。

このスーパーの同じ敷地内には、同じ経営者の店であろう、お土産屋が有った。

こちらではいささか購買意欲をそそられたが、如何せんまだ旅が始まったばかりで、今買えば荷物になるだけだと思って我慢した。

しかし、この店はトラッカー達の贔屓の店だと見えて、多分、店の敷地なのであろう、大きなトレーラー・トラックが駐車していた。

先回のアメリカ旅行では、このトレーラー・トラックを一枚も写真に収める事が出来なかったが、今度はふんだんに撮影する事が出来た。

これをこちらではエイテイーン・ウイール(18輪)と呼ぶ事は先に述べたが、この巨大な動く怪物は私を魅了して止まない。

これを運転している女性ドライバーを見たことがあるが、こうなるとまさしく映画「平原児」に出てくるカラミテイー・ジェーンである。

アメリカ映画には、こういう怪物トレーラーを主題にした映画も多々あるようだ。私が知っているだけでも、デニス・ウイバー主演の「激突」という映画。

そして題名は忘れてしまったが、デビット・ジャンセンがこの巨大なトレーラーを運転する映画、そしてそのものズバリ「コンボイ」という映画等々、この巨大なマシンは映画の主題には充分なりきれると思う。

アメリカまで来て、トラックの写真をとって喜んでいるのを人が見たら笑うに違いない。

しかし、好きなものは好きだから仕方がない。

それでここを再び出発すると、今度は熊牧場のようなところに案内された。

ここは規定のコースには入ってなくて、オプション扱いであったが、ガイドのスキナの説明よると、「イエローストンに行っても実際に動物に遭遇できるかどうかはわからないが、ここならば確実にそういう動物が見れる」ということで、全員一致で立ち寄る事になった。

ここはいわばサファリー・パークで、車内から放し飼いになっている動物を見るという形で、車に乗ったまま園内を回るシステムになっていた。

荒野の真っ只中を、電流を流した柵で囲み、その中でイエローストンの動物で、自然界では生きていけないようなものを集めて保護と同時に介護をして、再び野生に返す段階で、金を取って人に見せているというようなものであった。

ここでは早速バッファローと熊を見た。他には狼とエルクという鹿を見た。

その他小動物はもっといたに違いないが、昼間は相手も我々の目に見えるようなところには現れない。

ここで一時間ばかり費やして、さらに走るとアイダホ州に入り、かなり大きな街に入った。

程ほどのビルが立ち並び、歩道もきちんと整備され、並木もかなり大きく成長し、落ち着きのある町であったが、これがアイダホ・ホールスという町であった。

この町の中心には、町の名前のとおりのアイダホ滝というものがあり、落差は2mぐらいしかないが、幅は100m以上もある幅広の滝があった。

どういう仕掛けになっているのか知らないが、ここでは電気を起こしているということである。水力発電である。

説明文は掲示してあったが、如何せん英語でかかれているので、読むのが億劫になり、その内容はわからずじまいである。

この滝の傍で遅めの昼食となったが、ここでは同行6人ともそれぞれに食事を注文した。

しかし、メニューを見てもその実体が想像できず、アメリカの経験豊な人は控えめのメニューを選択したが、慣れていない人は勝手が判らず、盲滅法注文したので、食いきれないほどの量を頼んでしまう事になった。

アメリカでの食事というのは、我々日本人はよほど控えめに注文しないと食べきれない事になる。

ここでの食事は旅費の中に含まれていると見えて、若いスキナ・コブリーが支払っていたが、やはりチップを忘れずに置いているのを見て、我々は一つ学んだ。

その後の行程の中で、家内が支払いを担当したが、旅なれてくるに従い、上手にチップを渡すようになっていた。

 

オールドへイスフル間欠泉

 

この閑静で落ち着いた町で一休みして、一気にイエローストン国立公園に走ったが、ここまでの窓外の景色というのは、砂漠のような低い岡の連続に、雑草のようなものが所々に生えている砂漠とも雑草地ともわからないような荒涼たる光景であった。交通量も左程多くはなく、時速100km近いスピードでドンドン飛ばしてきたという感じである。

1時間も2時間も何もないところを走るということは、我々には信じられない事である。

しかし、このアイダホ・ホールスを過ぎたころから、道の両側には木が多く見られるようになって来た。

日本でいえば、杉並木というか、杉の植林地というような感じで、天に向かって真っ直ぐに伸びた木々が窓外に見られるようになってきた。

こういう植生の変化というのは、我々島国の人間にはどうにも不可解である。

日本ならば、南の九州から北の北海道まで、木の種類は違っても一応緑したたる国土である。

ただ垂直方向には、高山植物の例に見られるように、植生の変化が見られるが、地上という面の変化に対して、植生が極端に変わるということはない。

ところがアメリカ大陸というのは、砂漠からいきなり緑したたる大地まで同じ平面に存在するわけである。

そこでこのアメリカ大陸というものを考えた場合、私の脳裡からプレート・テクトニクスを抜きには考えられない。

つまりアメリカ大陸というのは、地球のマグマの上に浮上している大きな岩の塊と理解すべきではないかと思う。

私の素人なりの推論では、アメリカ大陸というものをマグマの上に浮かんだ硬い硬いせんべいと考えると、内陸というべきせんべいの中心は、外気の影響を受けて植物の成長が阻害されるほど過酷な条件に晒されているが、これが緯度が上がって、外気というか、太陽の熱の影響が少なくなると、俄然植物が茂るのではないかと思う。

イエローストーンが近くなってくるという事は、緯度でいうと日本の稚内ぐらいのところにあるわけで、この辺りになれば冬の降雪で水もふんだんにあるわけであるが、ソルトレイク辺りではその水がすぐに蒸発してしまって半砂漠のような状態になるのではないか、と勝手に想像する。

ソルトレイクを出て、イエローストーンに近づくにつれて、天に延びるような樹木が多くなったが、それがあまり巨木ではない。

ヨセミテのセコイアのように何十mというような巨木ではない。

せいぜい10mから15mほどの背丈で揃っているが、それと同時に、そのくらいに成長すると自然と倒れてしまうのかもしれない。

というのは天に向かって櫛を入れたように真っ直ぐに生えている木の中に、倒木がいっぱい有った。

あっちを向いたり、こっちを向いたり、と全く無造作にマッチ箱をぶち開けたように、緑の樹林の中に倒木が放置してある。

故意に放置してあるのではなく、これが本当の自然のまま姿なのだろうと思う。

日本では杉の木を植林して、毎年毎年枝を打ち払って真っ直ぐな木に仕立て、台風などで倒れようものなら、倒れた木をすぐに除去して、生きている木を守ろうとするが、ここではまさしく自然のままに放置してあるというか、積極的に敢えて自然の姿のまま保存しているという感がする。

そして倒れた木をよく見ると、根が実に貧弱で、木の背丈の割に、根の張り具合というものが実に貧相である。

主根が真っ直ぐに地中に入っているという風ではなく、木の幹の周りの僅か1mほどしか根が張っていない。

そして倒れたまま風雪の力で木の表面がなめされて、京都大原の「磨き杉」のようになっている。

あのまま引っ張り出してくれば、そのまま床柱にでもなりそうな按配で放置してある。

この根の張り方が貧弱という事は、表土というものが非常に貧弱で、いわゆる土の層というものがあまり無いのではないか、と素人なりの想像している。

先に述べたマグマの上に浮かんでいる硬いせんべいの表面が、地上付近まであるが故に、その上に被さっているべき表土の層が薄く、木が根を張ることが出来ないのではないかと想像している。

アメリカの光景というのは、このプレート・テクトニクスのプレートのことを抜きには語れないのではないかと思う。

硬いせんべいのようなアメリカ・プレートというものが、その上に乗せた表土が非常に薄いという事で、それがイエローストーンの光景に大いに関係があるような気がしてならない。

プレート・テクトニクスによると、アメリカ東海岸にあるアパラチア山脈というのは、古い岩石でできているという事だが、このイエローストーンにあるロッキー山脈というのは、新しい岩石ということである。

アメリカ大陸プレートが太平洋プレートの下に潜り込む時、その圧力がしわという形で盛り上がったのがロッキー山脈だとすれば、マグマの上に浮かぶアメリカ大陸プレートというせんべいの一番薄い部分が、東から押し付けられる力に抗し切れず、盛り上がってしまったと考えられる。

せんべいに薄い部分があったればこそ、マグマがより地表に近い部分にせりあがってきて、火山活動をしているのではないかと考えられる。

イエローストーン国立公園そのものが、大噴火の跡で、いわば阿蘇の大噴火と同じように、外輪山に囲まれた地域とみなしていいと思う。

そして緯度が高いので、全体が樹林地帯になっているが、その樹林に人間の手が加わっていないので、倒木があちらにもこちらにも転がっているという感じである。この人間の手が加えられていないという部分で、自然界の本当の自然がかろうじて残されているわけである。

逆にいうと、人間が今まで手をくわえる価値のない土地、ということでもあったわけである。

途中、この日の宿泊地であるウエスト・イエローストーンという町を通過して、もっと先まで進んだが、この町を過ぎると道の左側に、マデイソン川という河が流れていた。

この辺りの景色は北海道の層雲峡の景色と酷似しているが、道は谷底を這っている。そして、その斜面にはがれ場となっており、高い崖の上から小石がばらばらと落ちて、それが積み重なり、丁度ボタ山のような形になっていた。

それは石臼で豆を挽いたときのような光景を呈している。

そして、このマデイソン川は全く護岸工事というものがしてなくて、そのがれ石がいきなり川面まで達していたり、そうかと思うと広い河川敷になったりして、実に変化に富んでいる。

この河川敷には、当然、雑草やその他諸々の木が生えているわけで、そこにエルクという野生の大鹿がいるわけであるが、この国立公園に来る人は皆そういう動物を見に来るわけで、野性の鹿を見つけるとどの車も徐行してしまうので、とんでもないところで大渋滞になっていた。

しかし、渋滞のところでは何か野生の動物がいるわけで、渋滞しているので車中の人はドライバーを残して皆車外に出たり、写真を撮ったりしていた。

ある時、例によって渋滞しているので「今度は何がいるのかな!」と思ったら、道路からほんの2、3m離れた雑草の中にある高い樹の上に、白頭鷲がいるということであった。

行く手の前方の右側の高い木の上に確かに鷲がいた。

こんな道路脇によくも営巣したなと思うぐらいである。

ここではこんな道路脇の立地条件を選ばなくても、他にいくらでも大自然が残っているのに不思議な気がしてならない。

その事はつまり、野生動物にとって人間の存在など眼中に無いわけで、彼らにして見れば、自分達の作りたいところに巣を作るわけで、それを「人間が自然を破壊したから鷲がいなくなる」というのは、自然というものを知らない人間の驕りではないかと思う。

確かに、絶滅に瀕している動物というのが多々あることは承知している。

しかし、それも自然界の厳然たる摂理の一つなわけで、適者生存、自然淘汰の一環なわけである。

白頭鷲とくれば、我々は、おじろ鷲と連鎖反応を起こすわけであるが、我々の対応は、おじろ鷲の営巣を邪魔してはならないというわけで、人の側が遠慮して計画中の工事を中断したりしたが、こんなことは自然を知らない人間の極端な思い込みではないかと思う。

カルガモが10個卵を擁卵したから雛を10匹とも健気に育てるとは限らないし、鷲や鷹は雛が2匹かえれば、弱い方を自ら殺してしまうわけで、それが自然界というものである。

南海のアホウ鳥や、アメリカ・バイソンのように、人間が殺して殺して絶滅に瀕した動物というのは、人間の側で増殖の手を貸さなければならないが、そうでないかぎり、注意しながらの無関心というのが、自然に対する一番親切な接し方ではないかと思う。

車の中から川辺で草を食むエルクを見たり、高い枯れ木の上で休息している白頭鷲を見たところで、そうそう感動できるものではない。

ただこういう大自然の中に身を置いている、という意味では非常に感動するが、問題は、それを愛でる人々の意識のほうが大事だと思う。

ここに野生動物を見に来る人々というのは、野生動物そのものも見たいだろうが、その野生動物を育んでいる大自然に身を置くことに価値を認めた人々だろうと思う。そういう土地が、この地球上に残っているという事を身をもって体験したいという事ではないかと思う。

こういう渋滞に巻き込まれながら、午後遅い時間に車はオールドへイスフルという間欠泉についた。

ここは地上何10mも吹き上げる間欠泉のあることで有名なところである。

イエローストンを案内する観光パンフレットには必ず記載されている場所である。実際は、大きな樹がまばらにある、開けた空間に観光案内の建物やレインジャーの施設があって、その向こう側に例の間欠があるという風になっていた。

間欠泉を中心として、半径1000mぐらいの空間は、植物が淘汰されてしまい、地肌が見えているといった感じである。

そしてその間欠泉の前には、野外劇場の観客席のような観覧席が設けてあった。

我々が到着したときは、次の吹き出しまで約30分ぐらい時間があったので、土産屋を見を覗いたりして時間を潰した。

それでいよいよその時間になると、周囲の観光客が皆一斉にその観客席に殺到して、それを遠く離れたところから眺めると、その全員がこちらに尻を向けて並んでいるわけで、それが写真の被写体としては面白い構図だと思った。

ここの間欠泉は大体1時間ぐらいのサイクルで水蒸気を噴出するらしい。

やはり水蒸気の噴出は一つの大スペクタルで、見事というほかない。

噴煙というか、噴気が真っ青な青空に向けて吹き上がる光景というのは、周囲の景観とも見事にマッチして一見の値打ちはある。

この周囲にはどういうわけか松林があったが、そのなかを騎馬のレーンジャーがパトロールしていた。

彼らは男女ペアのレーンジャーで、謹厳実直に職務に励んでいるという風ではなく、気楽に観光客と話をしながら、PRに努めているという感がする。

馬に乗った人間というのは随分大きく見えるものである。

超現代のアメリカで、未だに馬が社会で活躍しているというのは不思議な気がしてならない。

然し、これは当然といえば当然の成り行きかもしれない。

ソルトレイクを出て、ここまで来る間に、我々はいくつも馬牧場、牛牧場を見てきたわけで、その事は社会的な需要があるからそういう牧場があるわけで、近代的な機械ではなしえないメリットが有るに違いない。

確かに馬の方がこういう大自然のなかでは小回りが効くのであろう。

然し、馬を維持するということは相当金も掛かるに違いない。

おそらく自動車に匹敵する経費というものは掛かるに違いない。

この場所も、地上から蒸気が天空に向かって時間ごとに噴出するということは、地下のマグマの所為であるわけで、私の言うせんべいの薄くなった部分ではなかろうか。

地表近くまで熱が浸透してきているので、普通の植物は枯れてしまい、その部分だけはげてしまったのではないかと思う。

この鯨の潮吹きのような噴気ショウが終わって、家内と木陰で休んでいたら、ガイドのスキナが慌てて探しに来て、「観光施設の中で映画があるからそれを見よ!」と言ってきた。

それでその映画館に入ってみると、火山活動に関する映画であったが、映像で人を魅了してはいるが、火山列島に住む我々にすれば、常識的に理解している内容であった。

火山の無いアメリカの人々にとっては、未知のことかもしれないが、我々は常識的に知っている事ばかりである。

このイエローストーン国立公園というのは、その全体が活火山の中にあるわけで、日本でいえば阿蘇山のようなものである。

然し、自然を自然のまま残しているアメリカ人の心意気というものは感服せざるを得ない。

何しろここがアメリカ国立公園の第1号という事で、すでに1872年、明治5年、日本では明治維新を経て朝鮮に開国を迫り、琉球王を華族に入れようとしていたころであり、岩倉具見がアメリカ・グラント大統領に謁見した、その大統領が決定をした国立公園である。

倒れた木をそのまま放置しておく、という事など日本ならば世論が許さないと思う。即ち、我々ならば、倒れたものは直ちに撤去しなければならない、美感上よろしくない、という発想に成り、自然を自然のままにしておくということが、思い余って逆に自然に手を加えてしまうに違いない。

そして国立公園というものを国家の財産と考え、国民には一切関与させない態度とは、我々にはなじまないものだと思う。

この後で行ったヨセミテ国立公園でも、日本人ガイドは「ここのものは石ころ一つ、松かさ一つ国有財産で持帰りはならない」という事を言っていたが、まさに至言だと思う。

アメリカの国立公園のモットーは、「残すのは足跡だけ、撮るのは写真だけ」というもので、まさしくそうだと思う。

ここを見終わったら、再び先ほど通過したウエスト・イエローストーンの街に戻ったわけであるが、その途中にも白頭鷲の巣の下を通り、エルクの屯する川面を眺め1時間ほどのドライブでこの日の宿に着いた。

ここでは夕食が無いのでガイドが車で街のレストランに案内してくれたが、これが休みであった。

というのもこの日がインデイペンデンス・デイで、この町でもお祭りがあり、レストランも早仕舞いしてしまっていた。

かろうじて店じまい寸前の店に飛び込み夕食にありつけた。

ここで支払いを済ませ、外に出ると丁度花火が始まった。

然し、この打ち上げ花火に関しては、日本の右に出るものはない。

ここの花火も実に単調なもので、我々はそう驚くべきものではなかった。

然し、こちらの人たちはそれでも充分に楽しんでいるように見えた。

こちらは緯度が高く、日本でいえば稚内辺りのところにいるわけで、丁度、この時期は昼が長く、夜9時ころまで明るいので、時間の感覚が狂ってしまう。

ウエスト・イエローストーンのステージ・コーチ・インというのはアメリカの旅籠としては可もなく不可もなしというところである。

あくまでもinnであるので、ホテルのようなわけには行かない事は言うまでもない。

 

7月5日 ウエスト・イエローストンからジャクソンまで

 

マンモス・ホット・スプリングス

 

この夜泊まったステージ・コーチ・インというのは3頭の馬に引かれた幌馬車の看板が出ていたが、昨夜は遅く着いたのでそれが判らなかった。

そしてステージ・コーチというのは幌馬車そのものである。

その上、最初に着いたときは裏口から入ったので、表玄関というものが判らなかったが、この表玄関というのは実に質素なつくりで、誰でも見落としがちである。

片開きのドア一枚で、そのドアを押してはいると、突き当たりが暖炉になっており、其処には大きなムースの壁掛けが設置してあった。

その右手が受付という形になっていた。

その日は表側の駐車場が満杯で、裏側に回ったわけであるが、パック・ツアーで何もかも人任せなものだから、こういう時に今一印象が薄い。

それでこの日はある意味で温泉めぐりであるが、日本の温泉めぐりのように風呂に入るわけではない。

先日はこのウエスト・イエローストーンの町を通過して、マデイソンというところで右に折れ南下したが、この日は其処を左折してさらに北上するわけである。

ここまでの行程は、それこそマデイソン川にそって、川面の景色を見ながらのドライブであった。

この辺りの風情は、日本でもあちらこちらに散見できるありきたりというか、我々にとってもなじみのある光景だが、周囲に民家や人の住んでいる痕跡というものは見当たらない。

それでマデイソンというところで左折すると、どういうわけか道が未舗装の道路になり、左右に大きく揺れだした。

道路工事中で、一車線になったり、交互通行になったりして、日本の山奥に行ったのと同じである。

日本の中部山岳の山の中を走っているのと何ら変わりはない。

そしてマンモス・ホット・スプリングなるところに来た。

この辺りは道路を走っていても、道路脇のあちらこちらから温泉が湧き出ており、その中には既に涸れてしまって穴だけ見せているものもあった。

しかし、温泉が集中しているところには、木で遊歩道が出来ており、それを歩いていけばそれなりに1週できるように施設が整えられていた。

よってその遊歩道を進んでいくと、実に見事な色合いの温泉がある。

この色合いの違いは、その温泉に生息するバクテリア・スルフォバレスの種類によって、それぞれに違う色をしているということである。

ここでも生物の進化をみるわけであるが、生物が進化するということを考えると、希少動物の保護ということも、その前提から崩れ去るのではないかとさえ思えてくる。

このスルフォバレスというバクテリアは、酸素を嫌い、90度以上の水温で、しかも強酸の中で生息するといわれている。

この熱い温泉の中でも生きているバクテリア・スルフォバレスがいるということは、そのバクテリアが自らの環境に合わせて進化したわけで、自然界というのは人間が特別に手を加えなければ、それぞれに適材適所に順応して、自然淘汰してしまうものもあるが、進化するものもいるわけである。

先に述べたアホウ鳥やバッファローの場合、人間があまりにも殺しすぎたので、その自然界のバランスが壊れてしまった為、今は人間の手で再びそのバランスを回復しなければならない。

しかし、自然界では消え去るべくして消え去る生き物も多々あるに違いない。

例えば、日本の佐渡で一生懸命増殖しようとしているトキなどは、元々自然淘汰される運命を負っている生物ではなかろうか。

このホット・スプリングの中に微生物がいるなどということは、素直に信じられない事である。

しかし、その色は実に素晴らしいものであった。

この遊歩道の脇には普通の地面と変わらない様相を呈した部分があるので、その中に足を踏み入れたい衝動に駆られるが、もしそんなことをしたら熱湯に足を引っ張りこまれかねない。

見た目は普通の地面と変わらないが、それは表面に出来たかさぶたと同じで、その表皮が破れれば、中は灼熱地獄かもしれない。

そういう意味の注意書きは所々に出ていた。

見た目が澄んで綺麗にみえるので、普通の水かと思うと、熱水だったりするわけである。

この遊歩道は、そうそう広いというわけではないが、それでもこの地下の火山活動の影響で、周囲は植物が生えておらず、開放的な空間となっており、時折硫黄の匂いが鼻を刺激する。

日本ならば、何とか地獄とか、何とか坊主というように命名されそうなホット・スプリングが無数にある。

それでここでいちばん有名なのが、マンモス・ホット・スプリングテラスというものである。

これはテラスというだけあって、無数に棚状の台地が広がっている。

地中に染み込んだ水が地熱で熱せられ、それが火山性のガスを熔融して、炭酸ガスを含み、それが石灰石の層を潜り抜けてくるあいだに、その炭酸ガスが石灰分を溶解し、それが地上に出たとき、炭酸ガスは空中に飛散するが、水に溶けた石灰分は水の流れに伴って台状の棚を形成するわけである。

地質学では年の単位が千年、万年、億年という単位なので、我々はその実感が伴わない。

このテラスは巨大な山となっており、木で出来た遊歩道を歩くことで、色々な角度から眺める事ができるようになっていた。

トルコに行ったことのある家内の話によると、トルコのもののほうがもっとおもしろいらしい。

それにしても奇怪な光景である。

当然、写真も沢山撮ったが、考えてみると、こういう場面では、自分で撮った写真も絵葉書の写真も大差ない。

一つ一つの池、つまり温泉には、それぞれに名前がついているが、車に乗ったり下りたりしているうちに頭の中が混乱してきて、最後は何が何だか判らなくなってしまった。

メモもとってきたが、今それを見て記述しようとしても、前後関係がわからなくなってしまって、結局のところメモの意味が失われてしまっている。

この四国の半分もある国立公園を、僅か2日間で回ろうとすること自体無理なわけで、ただただ車に揺られて見ているだけという感がする。

此処を見終わったら今度は化石になった木のところの案内された。

これは道から少し入った斜面にたっていたが、大きな木が立ったまま化石化しているという代物である。

周囲は緑の草原に包まれているが、その中にある小高い岡の斜面に、鉄の囲いで囲まれた化石化した大木があった。

立ったまま化石になるということは一体どういうことなのであろう?

この辺り一面が、かっては地中深くにあったのだろうか?

もしそうだとしても、地殻の変動で地上に露出した時、立った木がそのまま垂直のままで地上に露出するという事は考えられない。

当然、何らかの横から加わる力で、垂直のまま露出するという事は信じられない。叉、地中で何万年、何億年眠っていたとしても、周囲が全部風化して、それだけが露出したという事も考えられない。

とにかく不思議な木である。身の丈は5、6mというところであろうか。

木の太さは直径1mもないように思う。

それが石になっているというのだから不思議でならない。

此処を過ぎると次は滝に案内された。

イエローストーン国立公園の中心にはイエローストーン湖という湖があり、そこから流れ出ている川が3つあるそうで、それぞれがミシシッピ川、コロラド川、スネーク川となるということであるが、ここで見た滝というのはイエローストーン川で、これが下流でどういう川になるのかは知らない。

しかし、滝などというものはそれこそ万国共通で、上から下に水が流れているだけの事であるが、それを眺めるビュー・ポイントというのは実に素晴らしい眺めであった。

特にキャニオン・ビレッジというビュー・ポイントから眺める遠景の景色というのは素晴らしかった。

切り立った赤い渓谷を流れる水の色というのは実に素晴らしい色をしていた。

この光景を見ると、日本ならばどうなるのであろうという事が頭をよぎったが、おそらく砂防ダムがあちらにもこちらにも出来るに違いない。

川の両側はそれこそ今にでも土石流が起きそうな赤土の急斜面である。

このアメリカの赤い土というのも不思議でならない。

先回、グランド・キャニオンに行ったときも、アメリカの土の赤さには驚いたものであるが、この土の赤というのは一体何なんだろう。

日本の赤土とは明らかに違う。

尚、滝ではその後もちょいちょい車を止めて眺めたが、山国に住む我々にとって、滝というのはそう珍しいものではない。

折角アメリカまで来て、折角案内されて見る滝だから、それ相応に感動しなければならないだろうが、そうそう驚くべきものではない。

山があって、木々が繁って、滝がある光景というのは、日本でもかなりあるはずだが、そういうものを含めて大自然が残っているという点では、我々は見習わなければならない。

我々は、そういう光景をすぐに俗化させてしまうわけで、何も無い何も持たない幸せという事を真に理解し得ない民族だと思う。

国立公園というものを、こういう風に管理するという事は、我々には出来ないに違いない。

それもある意味で、国土の大きさという事が深く関わっているようにも見える。

この滝の見えるポイントを出ると、次はイエローストーン湖の湖岸に出た。

ここには実に立派なホテル兼観光施設があって、人と車で大混雑していた。

この一番眺望のいいところでは、レーンジャーが望遠鏡をセットして、野生のエルクが休息しているシーンを見せていた。

このレーンジャーは質問すれば何でも答えてくれたに違いないが、私には質問する事がわからなかった。

家内は生来のおっちょこちょい丸出しで、早速覗いていたが、確かにエルクの角は見えたが、今までの行程の中で、鹿などいくらでも見てきたので今更驚くべき事でもない。

途中、道の斜面で野生の熊さえ見たではないか。

その意味では、このイエローストーンというところは、野生動物の宝庫ではある。この観光施設の対面には小さな島が湖上に浮かんでいた。

湖の大きさも琵琶湖に匹敵するのではないかと思うが、正確なデータがないので定かではない。

不思議な事に、ここではレジャー・ボートというものを全く見なかった。

というのも、このあたりではボートを牽引している車をよく見かけたが、この湖では舟遊びという事が禁止されているのかもしれない。

アメリカ人というのは生活を楽しむ術をよく心得ている風に見える。

ハーレーダビットソンの三輪車にリヤカーのような車を牽引させたり、ピックアップ・トラックにトレラー・ハウスを牽引する事など極普通の光景であるし、この旅行中に見た最高傑作は、4人乗りの自転車にリヤカーを引いて走っている家族であった。

先頭から、多分、お父さんであろう、次にお母さんが乗り、その後子供が大きい順に乗り、その後にリヤカーを牽引していた。実に頬笑ましい光景であった。

この湖では舟遊びをしている姿は見られなかったが、次ぎに立ち寄ったルイズ・レイクでは湖上に様々なボートが行き交っていた。

アメリカ人はやることのスケールが大きいので、車でボートを牽引しているのを見ると、かなり強力なエンジンを積んだボートである。

それを引っ張って、ハイウエイを走るのだから恐れ入る。

人々が生活を楽しむ事が出来るという事は、社会そのものがそれだけ豊という事だと思う。

その意味で、日本も豊な国の一つには入っているが、我々はどうも生活を楽しむという事が下手なような気がしてならない。

陽光がさんさんと降り注ぐ昼日向からパチンコ屋に通ったり、社用でのゴルフの接待だったり、たまにアウト・ドアと楽しむ人がいると、ゴミを散らかしたり、釣り餌の始末を放置したりして世間の顰蹙を買うことになってしまう。

世間一般に生活を上手に楽しむという事が全く下手な民族のようだ。

これは金の問題ではないと思う。

金持という点では日本人も相当な金持だと思うが、我々は生活を楽しむという事が下手な民族だと思う。

生活を楽しむ事を贅沢だと思い込んでおり、自分のしたいことをするということに、何かしらの罪悪感を持っているからだと思う。

いい年をしてはしたないという感情が先に出てしまうからだと思う。

それには、その基底に人としての生き方の認識の相違があると思う。

彼らは自分の生きている間に自分の好きな事をして、自分で納得した人生を送らなければ損だ、という意識があるように思う。

一方、我々の方はそういう自意識をもっておらず、自分が生きるのも家族や、人のため、人の為に生きてやっているのだ、という捉え方をしがちである。

この違いは民族の潜在意識の相異だと思う。

この国では国立公園内に滅多矢鱈と土産物屋を作らせない。

土産物屋が全く無いかといえば、そうではないわけで、そこには国家の強力な規制があるわけで、アメリカ国民がその規制を受容しているという事である。

ウエスト・イエローストーンの町を出発して、ここまで来る間に、人口の建築物というのはほとんど何もなかった。

このイエローストーン湖湖岸のレイク・ビレッジまで半日以上走り回っても、土産物屋など一軒なかった。

その代わり、キャンプ・サイトというのはいたるところにあるわけで、ここがアメリカ魂の顕著なところだろうと思う。

我々とは発想が根本的に違うところだと思う。

我々が観光地に行くとなれば、真っ先に行った先でどういう旅館に泊まるか、という事が最大の関心になるはずである。

キャンプ・サイトといっても、道路わきに堂々とあるのではなく、わき道に入って、木陰の向こうにかすかに見え隠れするように配置してある。

そして今はアメリカのサマー・バカンスの季節で、家族ずれが思い思いのスタイルと手法で、キャンプを楽しんでいる光景が垣間見れる。

このレイク・ビレッジの立派なホテル兼観光施設を後にすると、再び草原の荒野をひた走り、とある一軒のアイスクリーム屋に車はとまった。

何の変哲も無い道端のアイスクリーム屋であるが、ガイドのスキナの話によると、ここのアイスクリームは特別に美味しいという事で小休止ということになった。

ここにおいてあった幌馬車のイミテーションが非常の可愛くて、その下でアイスクリームを舐めている2,3歳の少女というのが、これまた滅法メンコイ幼い子であった。

家内はついつい写真に撮っていたが、後でその写真を見ると、その少女が後ろ向きで失敗作であった。

このアイスクリーム屋というのは、日本でいうところの「行列の出来る店」というわけで、確かに行列が出来ていた。

そして、ここからルイーズ糊という綺麗な湖が一望できた。

先のイエローストーン湖ではボートを1隻も見なかったが、ここではボート遊びが許されていると見えて、モーター・ボートやヨットがけっこう湖面を行き交っていた。

ここでアイスクリームを堪能した後、車は再度急斜面の道を上りだして、適当なパーキングで昼食となった。

アメリカ・スタイルの弁当である。

大きな紙箱を一つづつ手渡されたが、その中にはいろいろなものが入っていた。

しかし、アメリカの昼食というのは、食通には納得のいかない代物に違いない。

箱の中身はハンバーグとスナック菓子と、小さな林檎とジュースが入っていた。

食通といわれる人たちが、「アメリカの食事はダメだ!」といくら言ったところで、それがアメリカの文化なのだから、旅行者としての我々はそれを受け入れるほかない。

世の中に、食通などという輩が大きな顔してものを言う風潮というのは、人間の傲慢さではないかと思う。

私はこういう類の人間を好きになれない。

世の中には食うや食わずの人間が一杯いることを思えば、生命を維持できるミニマムの素材であれば十分なはずである。

王侯貴族ではないのだから、食物に講釈をして、優越感に浸る行為は、人間の生きることを愚弄している事に思えてならない。

ここで極めてアメリカ風の昼食を取っていると、何所からともなくリスが近寄ってきた。

野生動物に餌を与える事は、ここでは極めて厳格に禁止されている。

野生動物がその野生さを失って、人間に慣れてしまうと、自然界では生きておれなくなるからである。

もっともなことだとおもう。

ところが自分の足元にリスがちょろちょろ寄ってくると、ついついパン一切れも与えてしまう。

この公園では、かなりの野生動物に巡り会えたが、最初のうちは何を見ても感動していた。

「あ!リスだ!」「あ!エルクだ!」「あ!くまだ!」「あ!バッハローだ!」と。

そのうちに「あ!カラスだ!」という事になってしまって、我ながら噴き出してしまった。

アメリカまで来てカラスに感動することもない。

 

グランド・テイトン

 

ここで峠越えをすると、その後はジェニー・レイクとベア・レイクという二つの湖の縁を通過して、イエローストーン国立公園を出るということになった。

この二つの湖には、それぞれにインデアンにまつわる伝説があるということだが、観光地にはそれぞれに人をひきつける物語というものがあるようだ。

ところが、ここではインデアンが物語の主人公になっているが、インデアン、ネイテブ・アメリカンというのは実に不思議な存在である。

研究者によるとネイテブ・アメリカンというのは50種類ぐらいのグループがあるそうだが、この有史以来この地に住み着いていた人々が、統一国家を全く作らなかったという事は不思議でならない。

私は自然淘汰、適者生存というのは、自然界の大命題であり、自然界の自然のままの姿だと思う。

絶滅する動植物は絶滅すべくして絶滅するのが自然界の自然の摂理だと思う。

それと同じで、人間の生存も、自然の摂理によって、豊な生活を目指しそれを実現する人も、太古の生活のまま近代文明を拒否しつつ生きている人々も、自然淘汰、敵者生存の自然界の法則に則って存在するものと思う。

ただ厄介なのは、人間というのは「考える」ということをする動物なので、自分達のした事を考え、反省して、あれは良いことだとか悪いことだと思い悩み、その呪縛に陥ってしまうことだ。

ネイテブ・アメリカンをリザベーションに入れることに罪の意識にさいなまれて、「抑圧した」という言い方をするものだから、なんだか悪い事をしたような印象を受けがちである。

このジェ二―・レイクとベア・レイクを過ぎると、いよいよイエローストーン国立公園ともお別れになるわけであるが、公園を出るときは実にあっさりとしたもので、そのまま素通りすればそれで終わりである。

国立公園に入るときは入園料というものを取られるので、どうしても一旦停車しなければならないが、出るときは全くフリーである。

しかし、出口は同時に入り口にもなっているわけで、ここはサウス・エントランスなわけである。

つまり一番南の出入り口ということでもある。

さて、これからグランド・テイトン国立公園であるが、この辺りまで来ると、実に広いという印象である。

遠くに山々が見えることは見えるが、その麓までまったく何もないという意味で、実に広々とした空間である。

あるのは真っ直ぐに伸びた道路と、道路脇の電柱ぐらいで、あちらにもこちらにもバッファローがゆうゆうと草を食んでいる光景のみである。

このバッファローも、開拓の初期、人間があまりにも殺しすぎたので、慌てて増殖して今日に至っているということであるが、こういう人間の心無い作為が自然を破壊しているわけである。

自然破壊というのは全て人間の側の心無い作為によるわけで、問題は、自分達のしている行為が自然破壊につながっているかどうか、という事を知らないでしていることである。

開拓初期に入植した白人達でも、バッファローが絶滅するなどとは思ってもいなかったに違いない。それほど沢山居たと思う。

周囲の状況を見ると、そう思い込むのも無理ない話だと思う。

道路脇の草原にはバッファローの好みそうな草がふんだんにあるわけで、その草は何所まで行っても、行っても行ってもなお潤沢にあるわけで、目の前のバッファローの群を全部狩ってしまっても、なおどこかに同じような群がいるに違いないと思い込むのも致し方ない。

そう思い込んで、目の前の群を悉く殺してしまったので、気が付いてみるともう何所にもバッファローの群がいなかったわけで、結果として絶滅に瀕してしまったわけである。

グランド・テイトン国立公園は、イエローストンほど観光の目玉には恵まれていない。

確かに、遠くには山々が見え、その一つ一つの山にはそれぞれに名前がつけられ、曰く謂れもあるに違いないが、一介の旅行者には憶え切れるものではない。

此処の観光の目玉は矢張り映画「シエーン」の舞台になった場所という事で、そのことがどの観光案内にも記載されている。

私もそういう予備知識の元、レンタル・ビデオ屋でビデオを借りてきて、その「シエーン」の映画を見てきた。

というわけでガイドのスキナはそのセットのあった場所に案内してくれた。

四方八方、草しかないだだ広い草原の真ん中に車を止めて「歩け」と言う。

アスファルトの舗装道路から外れて、叢の中を50mも歩くと、其処に漬物石ぐらいの大きさの石を円形に並べた場所があった。

まるで偽の考古学の遺跡を見るようなものである。

この場所に「シエーン」の映画にあるセットがあったという説明である。

そしてガイドのスキナは面白い事を言った。

あの「シエーン」の映画にトラックが走っているコマがあるといっていたが、どうにも信じ難い話である。

後日、時間があるときそれを確かめなければならない。

もう一つ納得した事は、こういう叢があるからカウボーイ達は長靴をはいているのだということである。

確かに現実にその場に立ってみるとよく理解できる。

こういう叢には蛇が一杯いるわけで、蛇の危害から身を守るためには、皮の長靴が一番適していることが一目瞭然と理解できる。

ここに来たときは既に薄暮の時刻で、山の稜線に太陽が沈みかけたころであった。その光景は、山の向こうから後光が差しているような敬虔な風景である。

ここからは一目散にこの日の宿泊地ジャクソンに向けひた走りに走った。

日がとっぷり沈み掛けたころ、ジャクソンの町に入ったが、この町は非常に興味ある町だ。

しかし、時間が遅いので、宿に着くやいなや早速食事に出かけたが、私たちは宿に一番近い中華料理店に入った。

先回のアメリカ旅行では、世話になった日本人ガイドがつくづく述懐していたが、中国人というのはアメリカ全土何所にでも進出している、という事を言っていたがまさしくそうである。

このジャクソンという町も、我々は国立公園を巡る旅の途中で立ち寄っただけの町に過ぎないが、アメリカ全土からすれば、田舎の中の田舎町のはずで、にもかかわらず中華料理の店があるということは、脅威的なことだと思う。

そして、その利用者も東洋系の人たちではなく、れっきとした地元の白人が、きちんと顧客として利用しているのを見て驚かずにはいられない。

つまり、これを別の表現で言えば、中華料理というものは既にワールド・ワイドに認知され、世界中何所でも食せるということに他ならない。

この店に入って、家内は最初メニューを見てもその実体がわからず、隣りのテーブルと同じものを注文していた。

そのテーブルの人が食事を終えて立ち去るとき、テーブルの上にチップを立てて置いているのを目ざとく見て感心していた。

アメリカがチップ社会ということを我々は憤慨していたが、このチップを払うということにも、ある種のセンスが必要で、その意味で「人の振り見て我が振り直す」ということが良い意味で言えていると思う。

宿に着く前に、ガイドのスキナが公園の入り口にバッファローの角で出来たアーチを教えてくれた。

この日の宿、ぺインテッド・バッファロー・インというのも、入り口からいきなり寝室というスタイルであったが、宿の周囲は非常に面白ロケーションがあった。

 

7月6日 ジャクソンからサンフランシスコ

 

洲境越え

 

この地の宿、ペインテッド・バッファロー・インというのは着いたのが夜も更けてからなので、その時は周囲の情況がよく判らなかった。

けれどもこの日はもうソルトレイクの空港に行くだけで、他に回るべき観光地もなかったので朝がゆっくり出来た。

こちらは緯度が高いので、この時期、朝が早く夜も遅くまで明るいので私たちは生活のリズムが狂いがちである。

サマー・タイムになってはいるが、それでも我々は生活のリズムがしっくり行かない。

朝起きて宿のドアを開けてみたら目の前に大きな山が迫っていた。

この地も例によってウインター・スポーツの基地の町のようである。

昨夜はすぐ近くの中華料理で食事をしたが、朝の朝食の事までは考えが及ばず、朝になってみたら何も食べ物が無かった。

それで二人のリュックの中からあるだけの菓子やスナックを出し、それで腹ごしらえをした。

幸いにコーヒーはフロントに行けばいくらでも飲めるので、その点はありがたい。アメリカという国は、どうも朝のコーヒーというのはサービスのところが多い。

それで朝はコーヒーを惜しげもなく奮発してくれる。

ところが、こちらの旅籠というのは、日本の旅館のように、スリッパをぱたぱたさせてフロントまで行くという事が出来ず、一歩外に出ようとすれば、必然的に靴をきちんとはかなければならない。

特にinnと称する旅籠は、寝間のドアを開けるとそのまま戸外になってしまうわけで、フロントにコーヒーをもらいに行こうとすれば、きちんとした格好をしなければならない。

私は旅に出るとどういうものか朝が早くて、大抵の場合家内より先に起きている。それで家内が眠っている間にその周辺を一周りするわけであるが、この日も道路を渡った反対側にあるコンビニエンス・ストアでタバコを一つ購入した。

その時、正面の山の方で大きな雷鳴とともに稲光が走った。

この日は荒天になるのかと内心心配したが、時が経つにつれて陽光が指してきた。朝の出発がゆっくりであったので、食後家内とその辺りを散歩してみたが、この町は非常に面白い雰囲気を漂わせる町であった。

旅行のパンフレットによると、カウボーイの町となっていたが、確かにその趣は充分感じられ、町のいたるところにカウボーイに関する品物が陳列してあった。

その中でも帽子屋が秀逸であった。

そして映画「シエーン」に登場するようなバーもあった。

尤も「シエーン」だけが西部劇ではないわけで、どの西部劇でもバーの雰囲気というか、作りは同じように見えるが、そういう趣のバーがあった。

しかも、そのバーの隣りはスーベニア、つまりおみやげを売っていたりして、如何にもカウボーイの町ということを印象つける工夫がされていた。

私自身、西部劇が非常に好きで、あのカウボーイ・ハットの一つも買って帰りたい心境であったが、やはりあれを町中で着用する勇気はなく、尻込みをしてしまった。カウボーイ・ハットなりカウボーイ・ブーツなどというものは、今の我々の生活とはかけ離れているので、冗談半分としても町中で着用するには非常な勇気がいる。この辺りのように、身の回りにまだ牧場というものが現実に散在しているところならば、その違和感はそれほどでもなかろうが、馬も牛もまったくいないところで、ああいうものはやはり周囲から浮き上がってしまうと思う。

そんな思いをしながら、ウインドウ・ショッピングだけで我慢してきたが、写真に撮るだけならば、被写体として面白いものが沢山あった。

この宿からものの10分も歩くと、昨夜ガイドのスキナが教えてくれた角で出来た公園のアーチに行けた。

この公園は殆んど真四角で、そう大きくはなかったが、その公園の4隅には、鹿の角を寄せ集めて、それを高く盛り上げアーチ型の門が出来ていた。

あれだけの角を集めるのには、何頭もの鹿なりエルクを殺さねばならなかったに違いない。

それが人間の生存のためだったとしても相当な数に違いない。

この公園の中央には馬に乗った騎士の像があったが、その謂れはわからずじまいに終わった。

朝の散歩が終わり、約束の時間にinnのフロントに行ってみると、同行の皆さんはも既に集合しており、直ちに出発なった。

最初のうちは静かな山間の道というか、川の淵を走っていたが、この辺りの光景というのは日本でも往々に見られる極ありきたりの光景である。

山があって、川があれば、どうしても我々の祖国と類似の光景になるわけである。ところがこれが途切れると様相が一変してくる。

我々の祖国では、山と川のある風景から逃れる事が出来ないが、此処ではそれが在り得るのである。

山が遥か後方に去っていったかと思うと、行く手の左右は、緑の草原ばかりになる。

この緑の草原は、今までのような大自然ばかりとは言い切れない。

人間の手が大いに加えられた緑の草原である。

というのは牧草地として人間に管理されているという意味である。

この辺りまで来ると、もう国立公園ではないわけで、国道脇の土地は牧場として牛や馬を飼っているわけである。

そのために牧草をわざわざ栽培しているのである。

道路わきには有刺鉄線で囲まれた牧場が見え隠れしているとはいえ、それが遥か向こうの方まで、殆んど地平線の彼方まで続いているのかと思うと、その広がりのスケールの大きさにはいささか驚く。

土地は大海のうねりのように低くうねっているが、牧場と牧草地以外に何も目の前に存在しないということは驚異的なことだと思う。

当然、このうねりの向こう側に住んでいる人もいるわけで、そういう人たちは幹線道路わきに自分達のポストを設置しており、それが道路わきにいくつも並んでいた。幹線道路まで出てくるのに一日がかり、という文字とおり僻地というところもあるらしい。

この辺りに来ると、もう牛牧場や馬牧場というのは珍しくも何ともない。

それよりも牧草地の方が興味ある存在である。

というのも、牧草地というのは決して自然のままの有り体ではなく、人間が完全に管理しているからである。

恐らく、牛なり馬なりが最も好む草を栽培していると思うが、その水遣りの手法に興味が引かれる。

この辺りで見かけた普遍的な手法は、長い長い水道管に車輪をつけて、移動しながら散水するという手法である。

その車輪の取り付け方法に各人各様のアイデアが見られる。

水道管そのものを車輪の車軸にして、第八車のような輪を取り付けたものや、そうかと思うと、飛行機の脚のようなものを水道管の下に取り付けて移動するものや、様々な工夫が見られた。

散水するといっても、我々が僅かな庭にホースで水を撒くのとはスケールが違って、その水道管なるものは50mから100mほどのものである。

これだけのものを移動させるには、やはり車輪の据付が必要なわけである。

そして、その牧草を刈り入れするのは当然機械でするのであろうが、刈る事は機械でできるにしても、それをロールにしたり、サイコロのような真四角の塊に成形するのはどういう機械でするのかそこは見そびれた。

見れたのは、牧草地の真ん中に転がっているロール状の草であったり、真四角に固められた牧草の姿だけである。

この牧草というのは日本に輸出されて、北海道の牧畜業者はそれを使用していると、昨年北海道を旅したとき聞いた。

けれども、この一つのロール状の牧草を北海道の牧畜業者が買うときは、一個10万円もすると聞いた。

我々は牛の食糧さえ自給できないということは情けない限りだ。

アメリカという国が、航空機産業、コンピューター産業で超現代を行く国でありながら、片一方で人間の生存に不可欠な食糧の生産という事でも世界を凌駕しているという現実は実に驚くべき事だ。

アメリカの農業の驚異は、後のカリフォルニアの項でも述べるつもりであるが、約60年前の日本は、こういう国に戦いを挑んだわけである。

ジャクソンを出発した時点で、ガイドのスキナは「希望があれば何所かに立ち寄る」という事を申し出たが、誰も予備知識を持たず、ガイドに一任という事で、一路南に向かった。

しかし、このコースには洲境を越えるところがしばしばあって、そのたびに停車して写真を撮った。

こちらの行政区の境を示す看板というのは実に立派で、記念写真を撮る値打が十分ある。

我々は観光客として、おのぼりさんよろしくその度毎に止まっては写真を撮っていたが、やはりアメリカ国内でも、おのぼりさん風の旅行者というのはいるもので、あるトレーラー・ハウスを引っ張った家族と後になり先になりして、同じような事を繰り返していた。

このルートでユタ州に入るまでにユニオン・パシピック鉄道の4重連のデイーゼル機関車を見た。

引いていた貨車の数は数え切れなかった。

写真に撮りたかったが、シャッター・チャンスを逃してしまったのが残念でならない。

叉大型トレーラーがトレーラーを3重連で引いているのにも遭遇した。

こういう動く怪物は私を魅了して止まない。

この国はあらゆるものが我々の常識を超えたスケールの大きさで迫ってくる。

出発から2時間ほど経つと車はオグデンという町に入った。

此処はガイドのスキナの在籍するユタ州立大学のある町で、彼は自分の大学を車中から見せてくれたが、州立大学とはいえ実に立派な大学である。

大学のキャンバスが、如何にもキャンバスらしい雰囲気を醸し出している。

日本の大学のように、「象牙の塔」という陰湿なアカデミズムというものとは縁遠く、明るくて開放的でのびのびと学生生活がおくれているという感じがする。

日本の国立大学というのは「俺たちはインテリで、下々のものとは違うのだぞ!」という雰囲気で、おたかくとまっている感がしてならない。

この大学もそれなりの伝統をもっているのだろうけれど、何しろ構内が広いので、実に開放感に満ちており、陰気臭いところがない。

アメリカの高等教育と日本の高等教育では、その発想の原点から相違があるようだ。アメリカでは、学ぶ気持ちのあるものを拒まないが、日本では入試に受かったかどうかが最重要で、学ぶ気持ちそのものには価値を見出していない。

その相異は、戦後50年以上を経過しても、尚改まらない。

この発想の違いがあるから、アメリカの大学は入るのは簡単だけど、入ったからといって、誰でも卒業できるわけではない。

入った後、勉強という努力をしたものだけが卒業できるわけである。

日本の場合、大学入試という篩を潜り抜け、入試という関門を通過したことが証明されてしまえば、後は大學で何も学ばなくても卒業できるわけである。

この日米の高等教育の本質の違いを理解し得ない日本の知識人というのはいないはずである。

ところが戦後50年以上経緯しても、一向に日本の高等教育の不備・不整合を、自らの内なる力で直そうという気運というのは現れていない。

最近になってようやく大学改革が話題になっているが、恐らく日本ではなしえないであろう。

人間が知的に一番発達の度合いの激しい時期、人の生育の過程で一番自己に目覚める時期に、たった一度の篩に掛けて、その篩の目に残ったものは、その後何も勉強らしい勉強をせずとも卒業できるシステムを温存してきた日本の大学人、日本の知識人と称する人たちの責任は大きいと思う。

かって日本はこのアメリカに戦いを挑んだ。そして敗北した。

この時、我々は自らの手でその敗因を探り、研究し、それを民族の忘れえぬ記憶として確立したであろうか。

我々は、アメリカ占領軍が押し付けた民主化というオブラートで包まれたアメリカ文化というものを嬉々として受け入れてきたと思う。

日本の高等教育の場も、民主化の波に洗われたことはいうまでもないが、その民主化の本旨を見抜くことが出来ず、うわべだけの迎合でやり過ごしてきたわけである。戦後の占領中においても、日本の優秀な若者がアメリカ留学を果たしている。

フルブライト留学生という、戦勝国の恩恵に浴して、アメリカの実体というものを目の当たりしてきた若者は大勢いたはずである。

戦勝国の金で、戦勝国の大学に留学すれば、当然そこでは日本の大学との相異を肌で感じたはずである。

それはアメリカの大学は入学時には広く門戸が開放されているが、入ってからの努力次第で、出るときの門戸は非常に狭められている、という現実を身をもって経験してきているはずである。

それが日本に帰ってくると一向にフィード・バックされていないわけで、日本の大学というのは旧態依然として、入ったものが全員が卒業できるというシステムの検討というものに結びついていない。

よって一度大学入試という関門を潜る事に成功したものは、後は遊びほうけているわけである。

そして卒業すると、社会の方で、大学を出た学識豊であるべき人々を、再教育しなければならないわけである。

この不合理に日本の知識人というのは目をつぶっていた。

ユタ州立大学の建物を見ただけで、日米の高等教育を比較検討することは暴論には違いないが、この大學の開放感あふれるキャンバスを見ると、ついついそういう方向に思考が向いてしまう。

アメリカのものなら何でもモロ手を上げて賛美するつもりはないが、結果として、この地球上で一番強力、かつ豊な力を持っているということは、必然的にそうなってしまう。

戦後60年近くを経過して、日本もアメリカに次ぐ経済大国になったとはいうものの、あの東京のゴミゴミさ、大学構内の陰湿さ、庶民の家の兎小屋のことを考えれば、アメリカ賛美にならざるを得ない。

アメリカ人の立派な家のことは日本でもたびたび報道されているので、知っている人も多いと思うが、そういう家に住む人が、わざわざ車で不便なキャンプ生活をしに行くという事を、我々はどう解釈したら良いのであろう。

あれは立派な家を持つことが彼らの生きる目的ではなく、キャンプをしたりボート遊びする事が生きる目的なわけである。

つまりキャンプやボート遊びがアメリカ人の文化なのである。

我々は、多大なローンで家を購入したとして、その家の中で日本の文化である筈の、お茶やお花、つまり茶道や華道を一般庶民が楽しんでいるのかと聞かれた場合、どう返答すべきであろう。

日本人でありながら、日本の文化には見向きもしないではないか。

アメリカ人がアメリカの文化を楽しんでいるとしたら、我々日本人も、日本文化としての茶道や華道を日常生活の中で楽しんでこそ、同等の評価ができるのではなかろうか。

 

ソルトレイクからサンフランシスコ

 

このユタ州立大学の構内の脇に大きなファミリー・レストランのようなものがあって、そこでこの日の昼食となったが、ここも例によってバフェ・スタイルのレストランであった。

土地の生活者でないものにとって、このスタイルというのは案外便利だ。

自分の好きなものを、自分の目で見て、納得して食すことができる、という意味で非常に便利である。

ここで食事を済ますと、後は一目散にソルトレイクの空港に向けて走っただけであるが、この辺りに来ると大都会になるわけで、道幅も広くなれば、通過交通の量も一段と多くなる。

それで、その後1時間ぐらいで、デルタ航空の出発ロビーに到着した。

ガイドのスキナと別れるとき、家内は握手をする右手のなかに紙幣を隠し、さりげなく握手をしてチップを渡していた。

チップを渡す要領も随分うまくなったわけだ。

他のグループがどうしたかは知らない。

ここではラスベガスに飛ぶ若い姉妹とはわかれ、同じ行程の佐藤夫妻とはなお同行することになった。

デルタ航空のカウンターに行って搭乗手続きは案外スムースにいった。

ところが時間がきて飛行機に搭乗する際の搭乗手続きでは、再び厳重なるボデイー・チェックを受けた。

係官がウエスト・ポーチをかき回していたら、何処かのレストランの潰れたマッチ箱が出てきた。

中にはマッチ棒が2、3本入っていたがそれは没収である。

その他は皆返してくれたが、例によって靴を脱がせられ、その靴を半分に折って調べていた。

足の裏も靴下の上から金属探知機で懇切丁寧に調べていた。

アメリカ入国に際して、何所でどういう風に目をつけられたか、さっぱり納得できない。

同行の佐藤夫妻はジャーキーをおみやげに持って帰らねばならず、それをトランクの中に隠し持っていたので、見つかるのではないかと戦々恐々でいたらしいが、そちらの方はお咎め無しである。

どうして我々だけが標的にされるのか皆目判らない。

私の勝手な推測では、アメリカ入国の際、家内が車椅子を借りており、そのため空港の係員が特別イージーな審査で、イミグレーションを通過してしまったので、それが祟ったのではないかと推測してみた。しかし真偽の程はわからない。

こちらのガイドに泣きついても、これだけはガイド氏も如何ともし難いらしい。

ここでは1時間半ぐらい待ち時間があったので、その辺りの店をうろうろと冷やかしたりして時間を潰した。

ソルトレイクからサンフランシスコへのデルタ航空の飛行機はボーイング737であったが、今では古い機体となってしまった。

席が通路寄りだったので窓外の景色は何も見えなかったが、1時間とちょっとでサンフランシスコに着いた。

この機の中で、家内はまたまた若い女学生と懇意になり、話しつづけていた。

家内の社交性にはほとほと舌を巻く。

彼女はサンフランシスコの郊外に住んでおり、「困ったときにはいつでも電話をするように」と言ってくれたらしい。

この言葉に家内は感動して、「アメリカの若い女性はしっかりしている」としきりに誉めていた。

日本の同世代の女性が、一見の外国の観光客に、こういう言葉を発するだろうか、と言っていたが確かにそうである。

ここではこの地のガイドと簡単にコンタクトが取れた。

荷物を受け取り、ガイドが空港から市内の我々の宿舎、ルネッサンス・パーク55ホテルまで案内する間、車の中で色々と細かい事を説明していたが、ハンドルから手を離すは、後ろ向きになるはで、後に乗っている我々の方がひやひやである。

空港から市内の通ずる道は、それこそ片側4車線も5車線もある道路で、それをお互い100km近いスピードで走りながらの行為である。

アメリカではモーター・リゼイションということが既に半世紀以上前に人々に認知されているので、考えかたそのものがモーター・リゼイションに沿ってなされている。

車をスムースに流す事に人間の英知が振り向けられており、その一環として、何車線もある道路、かなり速いスピードで走れる道路、人間の安全は自己防衛でカバーしなさい、と言う形が定着している。

身の安全は自分自身で考える、と言う事なので、オートバイに乗っている人でも、ヘルメットを被っている人もいれば被っていない人もいる。

法律で着用を義務付けているという風でもなさそうである。

運転中に手を放そうが後ろを向こうが自己責任なわけである。

我々はこの自己責任ということに非常に不慣れで、川で子供が溺れると、川の管理者が悪い、という理屈が通る世の中である。

サラ金で多重債務者が後を絶たないのは、政府がきちんと管理しないからだ、と言う論理である。

自分で自分の身を守るべき事を、政府という他人任せにするわけである。

自己責任の認識が深まらないことには、日本の民主主義というのは、何所までいって似非民主主義に他ならない。

市内は流石に雑然としている。

それでこの日の宿泊所、ルネッサンス・パーク55ホテルに着いた。

着いた端には判らなかったが、このホテル滅法大きなホテルのようだ。

しかし、どういうわけか正面の扉は出る方向にしか開かず、入るときは脇のほうに回らなければならなかった。

それで、ここでもガイド氏から懇切丁寧に説明を受けたが、というのも一夜明けた次の日に、再びヨセミテに向けて出発しなければならないので、その分説明が長くなったわけである。

このホテルのロビーというのは、ある意味で歴史を感じさせるような重厚な雰囲気を醸し出していた。

それでガイド氏の説明の通り動いて、無事チェック・イン済ませた。

サンフランシスコまで南下すると、日本の緯度で仙台から新潟のラインまで下がるわけで、生活のりジムが少しは我々の日常生活に近づく。

それで部屋で荷物を受け取った時点でまだ夕方の7時頃であった。

早速、町に食事に出かけた。

この町はいわずと知れた坂の町で、ホテルの玄関を出て左手の方に坂を登って、すぐ右に折れると、「勘太郎」という寿司屋があった。

アメリカまで来て寿司もないだろうと思ったが、アメリカ人がどういう風に寿司を食しているのか、という興味もあったので、躊躇することなくここに入ってみた。店の構えといい、雰囲気といい、全く日本にある場末の寿司屋と変わらない。

店内のごみごみとした飾らない雰囲気は、名古屋ならば大須辺り、東京ならば上野辺りの下町の雰囲気と全く同じである。

客と客がぶつかり合いそうな狭さである。

調度品の汚れ具合も、日本の下町の店と全く同じである。

ここには流石に礼装した白人の客というのは見当たらず、皆ジーンズにTシャツというスタイルで、ぎこちなく箸を使っていた。

ここでは、寿司でもいいと思ったが、私はうどんを食した。

アメリカでうどんというのも妙な取り合わせである。

そして、このごみごみとした店を出て、しばらくその辺りを散策してみた。

右に折れた先をもう少し行くと、サンフランシスコ名物のケーブルカーの通りに出た。

この日はこの程度にして、後日ゆっくり回る事にして宿に引揚げた。

この日の宿は今までのinnとは違って、歴っきとした立派なホテルである。

立派過ぎて身の置き所がないという感すらする。

しかし、このホテル内をアメリカ人は半ズボンや、ジーンズにゴムぞうりのような履物で、平気で行き交っているのにはおどろいた。

今が夏というシーズンでもあり、そういう意味で半ズボン、Tシャツでの振る舞いが許されているのであろうか。

それとも服装のTPOというものは既に過去のものとなってしまったのであろうか。

 

7月7日 サンフランシスコからヨセミテ

 

ヨセミテへの道中

 

次も日は朝8時の出発である。

目覚ましは2時間前にセットしておいたので、寝過ごすということはないが、この日も朝食に困った。

私は昨日ソルトレイクの空港内で買ったスナックで済ませ、家内は2階の食堂でパンを一個買い、それとただのコーヒーで済ませた。

この日はヨセミテに一泊するので、昨日のガイドは荷物の振り分けを心配して念入に説明していたわけである。

われわれは必要な物をリュックに詰め込めばそれで終わりなので、比較的簡単であった。

サンフランシスコは寒いと聞いてきたので、それなりに身構えて、服装に心を砕いたが、車がものの1時間も走ると、暑くてあつくてならなかった。

ここでは我々2組の夫婦とは別に、後何組かのグループをピックアップして、総勢12人ぐらいの一行となった。

ガイド兼ドライバーは日本人であったので、説明はよく理解できた。

サンフランシスコというのも、何故、よりによってあんな坂の多いところに人が住み付いたのであろう。

恐らく19世紀においては、人間の移動が船を主体として行なわれていたので、船にとっての良港というのは、必然的に坂道の多いところが選ばれたのではないかと勝手に想像している。

それで、ガイドが勝手に市内を走り回ってお客をピックアップしている間は、何所をどう走ったのか皆目見当もつかない。

それでも本日の客を全員ピックアップすると、車はサンフランシスコの郊外と向けて疾走する事になった。

この道も例によって素晴らしい高速道路である。

これに金を払わなくても済むという事は、なんとも羨ましい限りだ。

市内をものの30分も走ると、すぐベイ・ブリッジを渡る事になった。

このベイ・ブリッジは、約10年程前のサンフランシスコ大地震では中央部分が落下したといっていた。

サンフランシスコ大地震は正確には1989年10月のことで、この橋は2階建てになっており、上の部分は郊外に出る方向で、下の階は市内に入る構造になっている。

その上の部分の橋桁が落ちて、下を走っている車を直撃し、7、8名の市民がその下敷きとなり、即死したということである。

その復旧には6ヶ月以上かかるといわれていたが、アメリカは総力を結集して、それを一ヶ月で復旧した、とガイド氏は述べていた。

それは十分納得しうる説明である。

この橋は、1933年にアメリカの不況の時代に、不況対策の一環として、このベイ・ブリッジともう一つのゴールデン・ゲート・ブリッジが同時に建設着工されて、ベイ・ブリッジの完成が1936年、ゴールデン・ゲート・ブリッジの完成が1937年といわれている。

ガイド氏の受け売りでもう一つ。

アメリカ・ハーバード大学を見学したあの山本五十六が、この橋に立ち寄った時の感想として、「こういう立派な橋を作るような国とは戦争してはならない」というものだったそうだ。

しかし、我々はそれをしてしまったわけである。

文章として、文字の記述として、1933年とか1936年と言っても、実感が伴わないが、その時代というのはアメリカならばまだT型フォードの時代である。

日本ならば、松岡洋右が国際連盟を脱退して気炎をあげ、町は提灯行列で浮かれていたころである。

その時代に、自動車が5台も並んで渡れる橋を作ろう、というアイデアと言うべきか、国家プロジェクトというべきか、それを我々はどう解釈したら良いのであろう。

21世紀の日本ならば、アポロ13号を日本独自の力で打ち上げ、成功させるような出来事ではないかと思う。

1933年当時、自動車が5台並んで走れる橋、しかも上下2段になって、上下に分かれて渡れる橋という発想そのものが気宇壮大の一語に尽きると思う。

この橋を越えると一路大陸の内陸部と車は進むわけであるが、ヨセミテ公園まで距離にして350kmぐらいあるらしい。

それを4時間足らずで走るということである。

これは名古屋・東京間を走るのと大差ないが、あの雨どいの中を、高い金を払って、我先にと、がつがつ走るのとは雲泥の差である。

ガイド氏の話によると、この日のようにサンフランシスコに霧のかからない日は珍しいということである。

確かにこの日は快晴で、一辺の雲もなかったが、その分、ヨセミテでは暑いに違いないということを言っていた。

橋を越えて内陸部に入ってくると、例によって低い海のうねりのような丘の連続である。

しかも、背丈の高い草が生えているにもかかわらず、それが全部枯れている。

しかし、やはり農業国の面目如実として、牧場というのものがあちらにもこちらにも散在している。

この枯草に覆い隠された丈の低い草の岡を見ていたら、デビット・ジャンセンの映画を思い出した。

前にも記したが、デビット・ジャンセンともう一人の黒人が、政府高官から以来を受けて18輪トレーラーを運転するだけで高額の報酬が得られる、という仕事にありついた。

しかし、その積荷に関しては一切不問に付されて、二人は自分達の積荷が何だか判らないまま、悪人の追われながら、逃げ回って最終的に目的地まで無事たどり着くのだが、実際はそのトレーラーは空荷で、彼らは囮作戦の囮だったというわけである。

その映画の中で、デビット・ジャンセンが、こういう叢のなかを徒歩で足元を探りながら、相棒の黒人がトレーラーを運転して、こういう岡を乗り越えて窮地を脱出するというシーンがあった。

カリフォルニアの枯れた草地の岡を見ていたらその映画を思いだした。

この枯草で被われた海のうねりのような丘を過ぎる頃、「この先に二つ峠がある」とガイド氏が言った。

けれども、峠といえば私は野麦峠のようなものを連想するので、興味津々で構えていたが、知らないうちに通過してしまっていた。

ところが、この二つの峠の間は風の通り道となっているらしく、風車があちらにもこちらにも散見できた。

言わずとしれたカリフォルニアの風力発電である。

しかし、この風車も我々の概念でいうと、オランダの風車を連想してしまうが、

21世紀の風車というのは、あれとは随分趣の違うものである。

オランダの風車は、どっしりとした頑丈な建物で、大きな羽をつけた風車がゆっくりと回転するという認識であるが、ここにある風力発電の風車は実にスマートな風車で、細くて、長い、金属の支柱に、同じように細くて長く、しなやかな羽が3枚付いたものである。

あの細い羽のピッチは変更できるものなんかどうか私にはわからない。

このいくつも並んでいる風車は、止まっているものもあれば、ゆっくりと回転しているものもある。

この風力発電の風車に関しては、以前、山根一男が「週間ポスト」の「メタルカラーの時代」という連載の中で取り上げていたように記憶している。

その時のゲストは確か三菱重工の人間だったと思う。

しかし、この地域が風の通り道で、風力発電に適しているということは何だか不思議な気がしてならない。

この21世紀に風力発電などというものが果たした可能なのだろうか。

電気などというものは沢山出来たからといって保存して置ける代物ではないはずで、その辺りの工夫はどうなっているのであろう。

枯草の台地にあの風力発電の風車がいくつも並んで立っている光景というのは、壮大でもあるが、このカリフォルニアでは、それ以上に周りの開放的な空間に吸収されてしまって、貫禄負けしている。

此処を過ぎる頃、カリフォルニアの穀倉地帯に車は入った。

大きくて、水をとうとうと流している用水を越えると、そこは穀倉地帯だということである。

このカリフォルニアというところは非常に幸せな土地だ。

1846年というから日本では外国船が沿岸を徘徊して、幕府はそれの対応で右往左往のとき、アメリカはメキシコと戦争して、このカリフォルニアを手に入れてしまった。

手にした途端、金鉱が発見されて、それこそウハウハの状態になったに違いない。金鉱の発見は1849年で、カリフォルニアがアメリカ領になって3年目の事である。

アメリカは、金鉱が発見されたからといって、金堀りばかりしていたわけではない。掘り当てた金が実際に使われたかどうかは定かでないが、アメリカはこの不毛のカリフォルニアに、ヨセミテから雪解け水を引いてきたわけである。

先ほど渡ってきたベイ・ブリッジも、ゴールデン・ゲート・ブリッジも、いわゆる社会基盤整備の一環である。

同じように、ヨセミテの水を不毛のカリフォルニアに引くという事業も、まぎれもなく社会基盤整備である。

その社会基盤整備として、ヨセミテの雪解け水を不毛の地に引いてきたからこそ、このカリフォルニアが黄金の土地によみがえったわけである。

ここでは日本のダンプカーのあの箱の部分をうんと高くしたものに、トマトを満載して工場に搬入する車を見た。

ガイド氏の説明によると、アメリカでは中間搾取業者、日本でいえば卸業者とか仲買人であろう、そういうものがいないので、生産者は直接工場に製品を運ぶといっていた。

ここでカリフォルニアの農地の大きさというものは、走っている車の中からでは計り切れない。

向こう側の境界が車の中からではわからないので、奥行きがいったいどれほどあるのか想像もつかない。

そうこうしているうちに最初のトイレ・ストップとして道路脇の一軒のフルーツ屋に止まった。

ここはどうも日本人観光客を扱う旅行業者とタイアップしているようで、もう一団、日本人旅行者の団体のバスとかち合った。

彼らは農協の団体のようで、例によって遠慮会釈なく大声でわめき散らしていた。

日本人は個人だと非常におとなしいが、集団となると俄然傍若無人になる、というのはどういうことなのであろう。

この穀倉地帯が終わる頃になると、車の両側の光景は再び砂漠とも荒野ともいえそうな不毛の土地になってきたが、この景色をよく見ると、日本の瓦のようなものが斜めに地面につき刺さっている。

テレビのコマーシャルか、雑誌の広告で見た気がするが、アメリカの何処かの砂漠に、乗用車を斜めに頭から埋めたモニュメントいうか、何んというか、得たいの判らないものを見たことがあるが、あれと同じように地面に斜めに埋められた石という岩というか、そういうものが目についた。

これはきっとスレートだと思う。

地質学的にスレートとはどういう風に定義されているか知らないが、ありきたりの辞書では、粘土板となっている。

日本のスレート瓦というのも、その形状から命名されたのではないかと思うが、このスレートというのも実に不思議である。

これは地上で水平に堆積したものが、その後、上からの圧力で圧縮されて岩石状になり、それがその後の地殻変動で摺動して、斜めに地上に露出したものと思う。

それが証拠に、天に向けたか角度が皆同じである。

現地で計ったわけではないが、車の窓から見ても、同じ角度でならんでいるわけで、昔の人はあれを一枚一枚はがして屋根にしたのではないかと思う。

その周囲には草が生えている、ということは表面には土や埃がたまって、表土を形成しているとみなしていいと思う。

恐らく地中深く掘っても同じ角度で層をなしているものと思う。

こういう土地では、せいぜい牛か馬を飼うしか土地の利用法はないに違いない。

それで案外この辺りでも牧場というのは散見できる。

この辺りまで来ると、左側に川が流れており、それをマセド川というらしい。

山があって、川があって、谷底を進む光景といえば、日本でもおなじみで、この辺りでは我々は日常的に目の辺りにする光景と大差ない。

ここまで来ると、当然、道は片側一車線になるが、モーター・リゼーションの先駆者であるアメリカでは、こういう場合自分の後に5台車が続いたら、道をあけて、後の車を先に通さなければならないということである。

であるからして、大型のバスなどはしばしば待避スペースに身を寄せて道を譲っている。

ここでも車社会の、車の合理性を優先させるものの考え方が生きている。

そして段々と山深く入っていくと、2度目のトイレ・ストップとなったが、ここは金鉱の跡地のようなところであった。

ガイドは特別の説明はしなかったが、どうも昔の金鉱をそのまま再現したミュージアムのように見た。

しかし、金を取って見せるという風でもなく、何の説明もなかったが、どう見てもあれは金鉱の跡か、それを再現したものに違いない。

ここでガイド氏はどうも弁当を仕込んだようで、ここを過ぎるといよいよ谷底深く分け入るという感じであった。

ところが此処の谷底というのは横幅が広いので、一向に深山幽谷という感じがしない。

何所まで行っても、あっけらかんとした青空が広がっているという感じで、日本人が期待するような深山幽谷というイメージとは程遠い。

そして対岸には未舗装の道が同じように走っており、ガイド氏によると、「あれは幌馬車が使っていた道だ」ということであったが、そこでふと疑問が湧いた。

というのも、その道には朽ちた橋があったが、その橋にはコンクリートで橋桁が作ってあり、幌馬車の時代に果してコンクリートがあったのか、という疑問が湧いた。

窓ガラスとかガラス瓶というのは相当古くからあったようだが、西部劇に出てくるガラス窓とかウイスキーのビンというのは、それほど西部で出回っていたものだろうか。

西部でそういうものを生産していたとも思えないので、当然、東部から取り寄せていたと想像すべきであるが、あの時代に、このような物流というものがあったのだろうか。

そんなことを思いながら揺られていると、車は段々と谷深く入っていった。

両側の崖は見た目よりはよほど高く、何百mという単位である。

観光案内や旅行のパンフレットを見ると、このヨセミテ国立公園というのは、どれも大きな岩や滝の写真があるし、同時に掲載されている地図には、その位置関係が記されている。

それはそれでいいのだが、ここでは谷底という周囲の状況から、3次元の表現をしない事にはその実感を見る人に伝えれない。

川があって、谷があって、その両側には木々があって、その底の部分を道が走っている、というロケーションは我々山国の人間にはそう珍しいものではない。

ところがここでは何となくその雰囲気が我々日本のものとは違う。

その違いは何だろうかと考えると、やはりその谷の横の幅ではないかと思う。

このヨセミテ渓谷というのは氷河で削られて出来たといわれている。

説明ではそう言われるが、この氷河なるものを我々は日本で知ることが出来ないので、その実体をなかなか認識し得ない。

この地球上には未だに氷河の残っているところもあり、それを見学するツアーも企画されている。

私自身、まだ見たこともないので、それの実態というものが認識できない。

地球の過去には、この氷河で覆われた時期もある、といわれても何となく判ったようなわからないようなきもちである。

今回ヨセミテ国立公園を訪ねるにあたり、雑学的予備知識から推測すると、東のほうから押されてアメリカ・プレートが太平洋・プレートに潜り込む際、その時の摩擦でアメリカ・プレートの縁で摺動運動がおき、ロッキー山脈とかシエラネバダ山脈ができた。

この原始山脈は、若い山々で、自然の緩やかなくぼみを雨水が侵食し、その後氷河期が到来すると、そこに氷河が形成され、その氷河が自重で下方に下るとき、山々を削り取ってU字型の谷を形作ったということになる。

大方の案内書にはこの程度の事が記されているが、私は氷河が山削るという部分がどうにも納得しかねる。

それはそれとして、車が谷底の奥に向かうと、最初にブライダル・ホールという滝に案内された。

滝の上までは700mとされているが、この滝の水は、通常、風に吹かれて下まで落下することなく、上空に吹き上げられしまうので、そう言われているとはガイド氏の説明である。

しかし、この日は風のない好天だったので、自然の摂理に従い、下まで見事に落ちていた。

しかし、これを下から仰ぎ見ると、天の一角から水が落ちてきているようにみえる。水の落ち口が紺碧の空と一体化してしまって、それはその日の時間やその時の季節によっても恐らく印象が違うだろうと思うが、私には天空から水がおちてきているように見えた。

しかし、天からあのように大量の水が滝として落ちてくるというからには、その向こう側はどうなっているのだろう、という好奇心は必然的に起きてくる。

それは、翌日の見学で納得行くわけであるが、基本的には、滝の向こう側はアメリカ大陸という大地になっていたわけである。

先回旅行したザイオン国立公園も、グランド・キャニオンも、今回のヨセミテも、基本的にはアメリカ大陸の摺動運動で出来た皺の部分を、上から見たり、下から見たりしていたわけである。

グランド・キャニオンは、コロラド川の河の浸食とされているが、これも河そのものが地球の皺、アメリカ大陸の皺の部分であったわけで、それを川の水が尚大きくしたという意味では摺動運動の結果に行き着いてしまう。

飛行機という現代の乗り物から、地上というものを上から敷衍して眺めると、我々、地質学的には全く素人の人間でも非常に面白ことがわかる。

日本という国を形成している陸地と、アメリカ大陸という陸地では、全く異質の土地だと思う。

アメリカ大陸、アジア大陸、アフリカ大陸というのは、本当の意味で大地である。

ところが我々の祖国のような島というのは、いつ太平洋に沈没してもおかしくないまことに不安定な代物だと思う。

しかし、別の意味からすると、この緑滴る我が祖国というのは、これらの大陸にはない変化の多様性に富んでいるわけで、マグマの上に泰然と浮かんでいる大陸というプレートとは、あらゆるものの多様性という点では非常に単調で、大陸と称する大地の大部分は砂漠である。

その意味からすると、我が祖国というのは、狭いながらも実に豊富な多様性に富んでいる。

あらゆるものが豊富な多様性を内在しているので、人間が集中して住み着いたのかもしれない。

人間があまりにも集中しすぎたので、その反作用として外に向けて広がろうとしたのが、先の戦争であったのかもしれない。

ヨセミテ観光というのは、要するに、ヨセミテ渓谷の谷底観光なわけで、下から周囲の壁を見て喜ぶという形である。

この「ブライダルベールの滝」が見えた辺りになると、道の両側に日本の家一軒分くらいの落石があちらにもこちらにも転がっている。

苔むして相当年月を感じさせるものもあるが、落ちたばかりで、はがれた面が生々しく鮮明なものまである。

この家一軒分の落石というのは驚異だ。

その落石を避けるようにして道路が走っているが、途中、トンネルの前で止まって、そこから景色を見るように言われた。

確かにここから見る景色は絶景であった。

両側の山の斜面がいきなり川の中に落ち込んでおり、その斜面は自然の崩落のままの姿である。

大きな石や砂のような細かい土が自然の風化作用のままの姿で現れていた。

人間の力が加えられていない自然というのは恐ろしくさえある。

あの川の中に大きな落石が川の水をせき止めたらどうなるのだろう、と傍目にも心配であるが、大自然と言うのは、そういう人間の心配を悠然と乗り越えて存在しつづけてきたのであろう。

我々のように、自然災害から逃れられない島国の住人にとっては、自然を自然のまま放置しておくということは犯罪とさえ思えてならない。

昨今、環境問題が世情を賑わすようになると、「自然を自然のまま維持せよ」、などと一見物分りの良い声があがっているが、その片一方では「豪雨災害は行政の失政だ」などと、自然をコンクリートで固めよと言わんばかりの論議が起きている。

全く両方とも自分勝手だと思う。

自己中心主義、典型的な自己虫だと思う。

 

ヨセミテ・ロッジ

 

このビュー・ポイントを通過すると、いよいよヨセミテ・ロッジに到着した。

この施設はホテルと同時に観光案内所でもあり、レーンジャーの溜まり場でもあり、いろいろな機能を併せ持った複合施設であった。

周囲には大きな木が散在して木陰を作り、その木々の間に様々な施設が散在していたが、ここではどういうものか日本風の弁当が配られ、各自それを食して時間までその辺りを散策するように言われた。

この日の同行者は、私達夫婦と佐藤夫婦以外は日帰りコースのツアーの人たちで、時間がくれば叉サンフランシスコに帰る人たちであった。

このロッジの中庭で、ベンチに腰掛けて配られた弁当を食べていると、やはりリスがちょろちょろと現れた。

リスというものは、この辺りでは極普通の生き物として、特別な関心を寄せるものではないらしい。

自然界の食物連鎖の中では、ある特別の野生動物だけが異常に繁殖すると言う事はあまりないらしい。

人間が自然界に特別な干渉、つまりある種のものだけを絶滅に瀕するぐらい殺してしまうというようなことをしなければ、自然界というのは具合良くバランスを保っているようだ。

リスがこの辺りでよく姿を見せるという事は、恐らくそのリスを食している生き物もいるに違いない。

鷲だとか、鷹だとか、ふくろうだとか言うものも、そのリスの数に応じて、この辺りに生息しているに違いない。

ここに着いたのが昼頃で、2時まで自由行動が宣言され、2時には再びこの場所に集合という事が言い渡された。

我々はしばらくは施設の周囲を散策して様子を伺ったが、観察した結果、このヨセミテ観光というのは、この場所が基点となっているらしいという事が判った。

大勢の人が、一旦はここに顔を出し、それからそれぞれの目的に合わせて散会するという流れのようだ。

それでこの場所で様子を伺っていると、公園内のシャトル・バスは10分おきにでている。

そしてそれとは別に、この谷底観光のバレーフロアー観光の車両というのがあって、この車輌は傑作である。

バレーフロアー観光とはよく言ったもので、文字通り谷底観光である。

これはいわゆる18ウイール、大型トレーラー・トラックのトラクタの部分に遊覧客を乗せるイスを並べたトレーラーを引っ張るというものである。

もちろん屋根など全く無く天井なしである。

そして、その連結部分にガイドが客の方を向いて、つまり後ろ向きに座ってガイドをしていた。

彼らドライバーもガイドもレーンジャーの格好をしていたところ見ると、恐らくレーンジャーなのであろう。

シャトル・バスも、このトレーラーも、林間の中をゆっくりゆっくり回遊していた。そして、この国の大衆と称すべきアメリカ庶民というか、アメリカ国民というべきか、そういう人たちは、それぞれにこの観光地での観光を楽しんでいる風に見えた。ピックアップ・トラックにキャンプ道具を満載したり、大きなトレーラー・ハウスを牽引したり、オートバイに寝袋を丸めて括りつけたり、ボートを牽引したり、ハーレーダビットソンの三輪車であったり、マウンテンバイクであったり、最後はランニングだったりして、皆が皆この夏の日を楽しんでいるという雰囲気である。

この施設の周りをうろうろして、約束時間の午後2時になり、再び指定場所に集合してみると、日帰りの連中はそのまま帰っていったが、我々のようにここに泊まるものは、更なる説明で、乗るバスから翌日の予定まで、微に入り細に渡りレクチャーを受けた。

それによると、まだ少し時間があるので、公園内のシャトル・バスに乗ってみることにした。

東京の山手線のように、このシャトル・バスに黙って乗りつづければ、1時間でもとのところに戻ってくるということなので安心して乗れる。

それでバス停で2、3先にいったところで降りてみたら、そこには川があり、綺麗な水が流れていた。

その川の中では老若男女が水浴びをしていた。犬まで仲間に入っていた。

少し上流ではゴム・ボートで子供達が戯れていた。

周囲は松林で、木漏れ日が心地よく、空気が乾燥しているので、暑いとはいうものの木立の中は実に快適であった。

この木立の中に、松かさが数限りなく落ちていた。

その松かさの大きいことといいたらない。

ソフトボールほどの大きさであった。

こういうものをみやげとして持ち帰ってみたかったが、例の「取るのは写真だけ」という言葉を思い出して断念した。

だから写真だけを撮ってきた。

翌日、サンフランシスコに帰る途中に立ち寄った土産物屋の裏庭には様々な松かさが無造作に置かれていた。

松かさも松の種類のよって様々な大きさと形があるものである。

長細くて長大なものや、ずんぐりむっくりとして大きなもの、硬く実が引き締まっているが小さなもの、という風に随分種類があるようだ。

それで、この木立の中をしばらく散策して、またシャトル・バスで、もとのロッジの前に戻ってきた。

そろそろと思い、宿に向かうバスに乗り込んだ。

この場所では、我々の宿泊施設は公園のなかにあるのではなく、一旦公園の外に出て、公園の入り口に位置しているということが判った。

それで、そのバスに乗り込んでみると、時間にして30分ぐらいはなれていた。

此の間のコースは、先ほどガイドに案内されて登ってきた道で、同じ景色を何度も見るということになった。それはそれでいい。何度見ても飽きない景色ではある。それで本日の宿、ヨセミテ・ビュー・ロッジなるところについたが、ここは紛れもなく今までの例に漏れずinnであった。

格式ばったホテルよりも、この方が良いときもある。

しかし、フロントでチェック・インして部屋に行ってみると、ドアを開けた対面に、屋外に通ずるテラスがあるではないか。

そのテラスに出てみると、そぐ傍を川が流れており、まさしく日本の観光地の温泉旅館という雰囲気そのままである。

川があって、清流が流れており、ごつごつした岩があちらこちらに転がっており、川のせせらぎが絶え間なく聞こえるというのは我々の祖国の風情である。

谷あいの一軒宿といった感じだ。事実そのとおりである。

周囲にはアスファルトで舗装された一本道があるだけで、前も後も鼻を突きそうな山のみである。

そしてこのinn、例によって広い駐車場を擁していたが、その施設の中にはレストランが2軒もあった。

ということは、周辺に済む人たちが、車で乗り付けてそのレストランを利用しているに違いないと想像できる。

それで我々もそのレストランの一軒で食事をすることになった。

ここでも川面を見下ろせる窓際の席に案内されて、それなりに食事を楽しむ事が出来た。

このinnのフロントの前には、おなじみのお土産物を売るコーナーになっていた。そして部屋には電子レンジから冷蔵庫まで完備していたが、どういうものかベッドだけが一つであった。

アメリカ人がベッドで寝るということは知ってはいたが、こちらのベッドは極端に大きい。

今まで泊まったところでは、それが必ず二つづつセットされていたが、我々ならば一つで二人が寝るには十分である。

それがここでは一つだけしかなかったが、そのベッドがとてつもなく大きくて、両端にそれぞれ寝ても、尚真ん中に空間が開く。

後で人の話を総合すると、どうもその部屋はスイート・ルームであったらしい。

食材をロビーの前の売店で購入して、それを部屋で調理するというシステムだったらしい。

食器なども全部揃っていた。

アメリカ人のライフ・スタイルとして、家具ごと人に貸し借りをするといわれているので、そういう背景の上にその部屋が出来ていたのかもしれない。

 

7月8日 ヨセミテからサンフランシスコ

 

グレシャー・ポイント

 

翌日、朝、目を覚ますと谷あいの一軒宿の雰囲気は心を和ませるものがあった。

宿の周囲には人っ子一人おらず、山の静寂を独り占めしているような気分である。それで指定されたバスに乗るべく、バス停に行ってみると、此処も人っ子一人いない殺風景なものであった。走る車もない。

そのうちに同行の佐藤夫妻が現れて、麓の方からやってきた昨日のバスに乗り込んだが、この便には公園内で働いているのであろう、レーンジャーの人たちがかなりの数乗り合わせていた。

このレーンジャーという言葉も何となく使い慣れてしまったが、日本語に直すどういう感じになるのであろう。

広辞苑によると3つ訳注があり、一つはアメリカでの森林監視人、2つ目として日本での国立公園管理人、3つ目としてゲリラ戦用の特別訓練を受けた遊撃部隊となっている。

私としては第3番目の使用法が一番納得しえる語感であるが、一部の人にとっては不穏当な印象をうけるであろう。

この日の朝、バスに乗り合わせた人たちは言うまでもなく第一の訳注に属する人々であろう。

しかし、ガイド氏の話によると、この国のレーンジャーというのは、10人のうち正規の人間は2人しかおらず、後は全部ボランテイアだということである。

その事は非常に素晴らしい事だと思う。

そういうところにアメリカの民主主義の本質が潜んでいると思う。

「自分達の国を自分達で守ろう」ということは、何も戦争ばかりではないわけで、自然保護ということも立派な祖国防衛ということにつながるわけだ。

その為には、ボランテイアとして、報酬というものを度外視して、そういう運動に力を貸そうという発想は、真の民主主義の原点だと思う。

この人たちは終点のヨセミテ・ロッジの手前にある彼らのオフイスで降りてしまった。

広辞苑の訳注では、森林監視人とあっさり解釈せれているが、アメリカで国立公園を巡っていると、彼らの仕事は決して安閑とした監視業務だけではなく、日本でいえば林業に携わっている人たちの仕事を全部ひっくるめてこなしているという感じである。

たまたまヨセミテのレーンジャーは、バスの運転からトレーラーの運転までカバーしているようであるが、その他にも公園を維持するということで、我々の知らないところで目に見えない仕事をこなしている大勢の人がいるに違いない。

公園の入り口で料金を徴集するのも、彼らの仕事のうちではなかろうか。

国立公園というものは、その指定さえすれば、それで景観とか、自然というものが未来永劫、太古のままで生き残るとは限らないわけで、そういう状態を維持しようとすれば、莫大な金とそれにともなう人間の労力が費やされるわけである。

我々は叉このロッジの前で時間潰しをしなければならなかったが、こういうところでの時間潰しは苦にならない。

ベンチに座っていると、リスが入れ代わり立ち代わり顔を覗かせて、それを見ているだけでも飽きない。

この日はグレシャー・ポイントなるところに行く遊覧バスを予約しているので、そのバスの発車時間まで時間調整しなければならなかったわけである。

朝のすがすがしい松林の木立に中で時間待ちをしていると、日本人旅行者から声を掛けられた。

愛知県一宮市出身の鵜飼夫妻から声を掛けられたが、それというのも我々夫婦の会話から、名古屋地方出身ということがわかって、それで声をかけたということである。

アメリカまで来て、名古屋弁を指摘されるとは思っても見なかった。

この夫妻は、われわれと別のコースで、この日一日ヨセミテを回るということであった。

そういうツアー客や、各コースに分かれて出発するバスのお客で、早朝のヨセミテ・ロッジの前は結構にぎわっていた。

公園内を巡回するシャトル・バスは10分おきに出発しているし、グレシャー・ポイント行きのバスが有り、バレー・フロア行きのトレーラーが有り、そこにそれらを利用しようと様々な車が集まってくるので、ロッジの前は相当混雑して来た。

我々の乗るべきバスはすぐにわかり、そしてすぐに乗ったが、如何せんドライバー兼ガイドというのが、ネイテイブなアメリカ人で、彼のいう英語というのはさっぱり聞き取れなかった。

時間が来て、バスはゆっくりと公園内の木立を縫いながら進んで、グレシャー・ポイントなるところに向かったが、このグレシャー・ポイントというのは、いわゆる谷の上にあたる部分で、例のハーフ・ドームを谷を挟んだ対面の位置から見ることのできるポイントであった。

このヨセミテというところは、3次元の立体模型でない事には説明しにくいところである。

昨日、我々は西のほうからこの谷底に入ってきたわけで、その入ってくる過程で、「ブライダルベールの滝」とか、ハーフ・ドームとか、エル・キャピタンという名所を見てきたわけである。

しかし、それらは谷の底から上を仰ぎ見ていたわけで、このグレシャー・ポイントというのは、それを同じ位置、同じ水平位置から眺めるという仕掛けであった。

だからこの日のバスは、谷底から崖を攀じ登って、崖の縁に来たというわけである。普通の案内書や地図というのは平面でしか表示されていないので、それを眺めていても今一理解し難いものがあったが、現地に来てみるとそれは3次元の広がりがあるということが良く理解できる。

で、バスが松林のなかをゆっくりゆっくりと移動し、ガイドは懇切丁寧に説明しているようだが、その説明がわからないまま1時間もすると、そのグレシャー・ポイントなるところに着いた。

ここからの眺望は、やはり名にし負う絶景であった。

正面には、どの案内書、ガイドブック、旅行パンフレットにも必ず掲載されている、あのハーフ・ドームが堂々と聳え立っていた。

あのハーフ・ドームが紺碧の空をバックに屹立する姿というのは、やはり文字では言い表せない。

やはり現場に立ってみるほかない。

しかし、この景観がどうして出来たのかとなると、またまた地質学に戻らざるを得ない。

この花崗岩が氷河で削られて、こういうドームができたといわれても、どうにも納得しかねる。

それにはやはり北アメリカ・プレートというプレート・テクトニクスというものを紐解かない事には、たどり着けないのではないかと思う。

40億年前にこの辺りは海底に沈んでいた、といわれてもどうにも信じられない。海底に沈積した堆積物が花崗岩になって、その後隆起したなどと言われても、俄かには信じ難い。

その後、それの全部を氷河が覆ったといわれても、狐につままれているようなものだ。

その氷河が、花崗岩の表面を削って、岩の表面がつるつるになった、と説明されても「ほんとかいな!」と猜疑心が先に立つ。

そうは言っても、厳然と文字通りハーフ・ドームは目の前にあるわけで、その光景には威圧されそうな緊張感がただよっている。

このグレシャー・ポイントはハーフ・ドームを一望できるように、周辺には遊歩道が整備されており、その遊歩道を移動してみると、谷底が一望できるところがあった。

これはこれで叉別の素晴らしい景観を呈していた。

谷底と、このポイントでは高度が約千mあるということで、谷底の景色がそれこそ箱庭のように見えた。

我々は、昨日から半日うろうろした谷底というのは、文字とおり袋小路で、入ってきた出入り口以外逃げ道がない。

我々のような短期の旅行者というのは、その谷底をうろうろして、周囲の壁を見て堪能し、それで納得して帰るに違いない。

しかし、このヨセミテ・ナショナル・パークというのは、全体で東京都の1,5倍もあるということで、我々の見た谷というのは、その10%にも満たない。

それは公園の南西に位置するほんの僅かな地域にすぎない。

このヨセミテの魅力というのは、人の行く谷底の部分ではなく、滝の落し口のある台地の部分ではないかと思う。

この東京都の1.5倍もある国立公園には、我々が入ってきたコースを含めて、そこから南に下る道路の他に、もう一本中央付近を横断する道路があるだけだ。

という事は東京都の1,5倍の広さの土地に分け入る道路が他にはないということで、その大部分は自然のままということではないかと想像する。

アメリカの国立公園というのは、入るときに入園料というものを取るが、その代わりとして立派なガイド・ブックというか、地図をくれる。

それはどうも統一されているようで、実に見やすく使いやすい。

その地図を見ても、我々がうろちょろした地域というのは、南の方のほんの小さな地域にすぎない。

そこに観光ポイントが集中しているということでもあろうが、このグレシャー・ポイント・ツアーというのは、その谷底と、その縁をほんの少し見たというにすぎない。

ここにはやはり土産物屋もあり、軽い食事をする施設もあった。

それでここの展望台で1時間ばかり時を過ごしたら下山ということになって、叉バスに揺られて元のヨセミテ・ロッジに戻ってきた。

席が一番前だったので、真っ先におりて何気なく後からくる人を見たら、アメリカ人の観光客というのはドライバーにチップを渡しながら降りてきていた。

私はそこまでは気がつかなかった。

もっともドライバー兼ガイドがいくら懇切丁寧な説明したとしても、それが全く理解できないでは、チップが要るかどうかは難しいところであるが、アメリカ人は彼のガイドに礼を尽くしていたのだろうと思う。

それとは別に、例のバレー・フロアー観光の大型トレーラーで観光をし終わった乗客たちは、降りる際にガイドに対して盛大な拍手を贈って礼を尽くしているのも目撃した。非常に良い事だと思う。

グレシャー・ポイント観光から帰ってきたら丁度12時で、このロッジに付随したレストランで昼食をすることになったが、これが叉カフェテラス式のもので、私にとっては有り難かった。

異国では、レストランに入っても、如何なるものを食すべきか、その度毎に心を悩まさなければならない。

メニューを見て、それと実体とのギャプのことを考えなければならいし、それに会話がぎこちないとなると二重の労苦を強いられる。

ところがバフェ・スタイルやカフェテラス式ならば、そういう悩みから解放される。目で見て、自分の好きなものを取れば良いわけで、その点気分的に非常に楽である。それでここでは十分に腹ごしらえをした。

昼食を終わってもまだ集合時間には間があるので、木立の中を散策しながらアメリカ人の行動というものを観察していた。

何所の国の子供でも小学生ぐらいまでは可愛いが、それ以上になると生意気になるというか、大人びてくるというか、小憎たらしく見えてくるというのも不思議だ。男の子ならば上半身裸で歩き回ったり、女の子ならばヘソだしルックで趣味のわるイヤリングをつけたりして徘徊しているわけで.ああいう連中にもそれぞれに親がいるのだろうと思いつつ、行き交う人々を眺めていた。

しかし、これは表面上の事に違いない、

第一ここには学校の集団で来ている人はいないわけで、皆家族単位で集っているわけであり、裸で飛び回っている餓鬼も、生意気そうな小娘も、家族できているわけで、日本の修学旅行できているのとはわけが違い、家族の了解のもとでそういう現象があるのであろう。

人を見かけで判断してはならない事はいうまでもない。

 

ヨセミテからサンフランシスコ

 

そうこうしていると迎えの車が来て、我々を再びサンフランシスコの運んでくれる事になった。

このヨセミテ観光というのは、ヨセミテで一泊する人と、日帰りの人が混載で、この帰りの便は、日帰りの人を含めてやはり10人程度の小グループとなった。

この時、ガイドは最初に、ロック・クライミングの名所というところに案内してくれた。

それは大きな岩が真正面に見るところで、私は車を降りてカメラ・アングルを考えつつ上を見て進んだものだから、足元の石に気が付かず、それに蹴躓いて転んでしまった。

普通、石に蹴躓くと前のめりとなって前に転ぶものだが、その時はどういうものか2,3歩足を踏み外し、仰向けに転がってしまった。

ものに蹴躓いて転ぶときは、大業に、大げさに転んだ方が怪我が少ないということは経験上知っていたので、怪我は全くなかったが、あまり大業に転んだものだから周囲の人が逆に心配してくれた。

ここで映画「めぐり逢い」を思い出した。

エンパイアステートビルの屋上での待ち合わせを気にして、上むいて走っていて、車に跳ねられるデボラ・カーを思い出した。

それはともかくとして、ガイドが「前の岩に人間が登っている」といくら指差して説明しても、我々にはその人間の姿が見えない。

それほど岩は大きく、叉遠くに有り、人間は小さかったわけである。

岩の高さは約千m、ベテランでも登るのに3日、一週間かけて登る例もあるということであった。

一度取り掛かったら寝るのも中吊りのままだということである。

ベテランは二本の指で自分の体を支えることが出来る、とガイド氏はいっていた。この岩には世界中のクライマーが集まってくるともいっていた。

ガイド氏のいうことを皆信じるとして、人間は何故にこういう不可解な行為をするのであろう。

不可解な行為といえば、ジョギング、昔流にいえばマラソンでも、ある意味で実に不可解な行為といわなければならない。

このモーター・リゼーションの世の中で、車が掃いて捨てるほどあるという中で、何故わざわざ汗をかいて走り回らなければならないのか不可解極まりないと思う。それと同じ事で、何故に、こんな岩山を手で登って、何がうれしいのか、ということは部外者にとっては不可解先般、理解に苦しむ。

しかし、ジョギングにしろ、クライミングにしろ、やっている当人は真剣そのもので、それを生きがいにしている人もいるわけである。

こういう行為を総称してスポーツと呼んでいるが、スポーツをするということは、ある種の慰安になっているわけで、慰安である以上、常日頃精一杯仕事をした人が息抜きのためにするものでなければならない。

もしそうだとすれば、一週間なり一月なり、一生懸命仕事をした人が気晴らしのためにその辺りを軽く走ったり、低い山を登ったりすることは次なるエネルギーの源泉として価値あるものだと思う。

ところが千mもある崖を素手で登ろうとなると、もう気晴らしなどというものではないわけで、狂気でさえある。

人が敢えてそういう狂気に挑戦しようというのも、人としての生存の意義を問うものではあろうが、それはある種の自己顕示欲ではないかと思う。

太平洋をたった一人で小さなヨットで渡った堀江兼一も、これと同じ事が言えているのではないかと思う。

太平洋を越えるのに、金さえ出せば飛行機でいとも簡単にできるわけで、それを敢えて小さなヨットで渡るという事は、言うまでもなく冒険心であろう。

冒険であるからして、それは普通の人から見れば狂気の沙汰である。

狂気の沙汰に敢えて挑戦しようというからには、本人はそれに命をかけているわけで、本人はそれで命を落としても本望だろうが、一般論的に見れば、それでは人としてこの世に生を受けた意味がないではないかということになる。

人としてこの世に生を受けた以上、人並みに子孫を残し、次世代を自らの手で後世に残す、という事が並みの人間の生き様ではないかと思う。

冒険に挑戦するということは、自らこういう人としての並に生き方を否定して、自分だけが、自分で納得しうる人生を歩めばいいということになる。

それはある種の我侭に通じ、世間に対する傲慢であり、この世に生を受けた事に対する冒涜だと思う。

太平洋をたった一人で小さなボートで渡らなくても、ヨセミテの岩山を素手で苦労して登らなくとも、金さえ出せば事は簡単の済む。

百人の内99人は、叉千人の内999人は後の方のイージーな選択をするわけで、そういう人達はいわゆる並みの人間なわけである。

この並の人間たちというのは、並なるが故に全くニュース・ソースにはならないわけで、並でない人たちは希少価値という点からして、ニュースで大々的に取り上げられて現代の英雄という価値を占めるわけである。

このビュー・ポイントから、岩に取り付いている人間というのは、私には殆んど見えなかった。

よほど視力の良い人でないと、それはわからないようだ。

岩の襞と太陽光線の陰とが微妙に錯綜して、わずかに点としか識別できない。

そうして目を凝らしていると、何だか大昔、衛生事情のよくない頃、頭の虱探しのような記憶がよみがえった。

私は、この人の頭の虱というのも自分の目では見つける事が出来なかった。

ここにいるといわれてもそれがさっぱり判らなかった。

大きな岩山に取り付いている人間を探すという行為は、そんな大昔の思い出を掘り起こしてしまった。

ここからほんのしばらく移動すると、今度はガイドが川の中に入れと、全員を傍らの小川に引き連れていった。

この川はいうまでもなくマセド川で、ヨセミテの滝の水を集めて抱擁しているものであるが、こういう光景というのは、我々山国の人間からすれば、さほど珍しいものではない。

川があって、山があって、せせらぎがあるというのは、我が祖国の日常的な光景で、今更特別に驚くべきものではない。

しかしガイドが仕切りに効用を吹聴するものだから、皆それぞれ騙されて、川の中に足をつけて、しばし一時の休養となった。

確かにこちらでは空気が乾燥しているので、蒸し暑さというものがなく、汗をかかない。

汗は実際にはかいているのだろうけれど、かくと同時に乾燥してしまうので、じめじめ感がない。

あちらは寒いといわれて長袖のシャツを着込んできたが、腕まくりしているだけで一向に気にならない。

ここを出発すると、後は大体350kmを4時間ぐらいで走りきるわけで、単調といえば単調なドライブだ。

車好きの私は、車の震動に任せて行き交う車を見ていると、やはりモーター・リゼーションの先駆者としてのアメリカ人と、我が同胞では、もの考え方に根本的な相違がある事がわかった。

例えば、18世紀の産業革命というのは、物作りと市場の在り方と言うものを根本的に変えた。

IT革命というのは、情報というものの価値を根本から問い直している。

アメリカのモーター・リゼーションというものは、アメリカ人のライフ・スタイルに大きな影響を与えているが、彼らは元々馬車の時代を長いこと経験しているので、そのライフ・スタイルの変革に抵抗なく順応している感がする。

我々の場合、戦後の高度経済成長の中で庶民も車が持てるようにはなったが、その前に我々の庶民は馬車の時代を知らないわけで、我々の前にあった前近代の交通機関といえば、駕籠か人力車であった。

それぞれの民族の持つ歴史的経験の相異が、同じモーター・リゼーションの波に洗われた時、それが対応の相異となって現れていると思う。

アメリカ人にとって車というのは馬車の延長線の道具である。

しかし我々にとってそれはステータスの域を出るものではない。

だから年配者は年配者なりに大きな車に乗ることで自己満足に浸り、若者は若者でへんてこりんに改造して、それで自己主張しているわけである。

こういう人たちにしてみると、車の合理性という事は考えたことがないわけで、あくまでもイメージが先行しているわけである。

トラックなどというものは、土木作業員の仕事の道具ぐらいにしか見ていないわけである。

ところがアメリカ人にしてみると、彼らの生活にとって、人間以外何も乗せられない車というのは、贅沢品以外の何ものでもないわけで、干草の束も、農機具も、馬の鞍も積むことが出来ない車では、生活の役に立たないわけである。

カリフォルニアというのはアメリカ屈指の都会で、カントリー・ライフとは程遠いので、ここではピックアップ・トラックの需要というのはさほどでもないが、それ以外の洲では、カントリー・ライフというよりも、遊びのためにでも、乗用車では意味をなさないわけである。

だからこの国では老いも若きもピックアップ・トラックを愛用している。

もっとも彼らは車を何台も持っているので、乗用車に乗らないというわけでもなかろうが、町を走っている車にはピックアップ・トラックが断然多い。

そういう背景の元、日本製の車も随分見かけた。

が、中でも傑作なのは三菱自動車の製品にフォルテというピックアップ・トラックが過去にあった。

そのことを知っているのは、日本人でも少ないと思うが、その車をこちらでは見かけた。

そうとう古くなっていたが現役のようだった。

日本でも殆んど見かけないし、そういう車があったことも知られていないのではないかと思う。

トヨタ、日産その他日本のメーカーに車は皆揃っている。

しかも、日本では販売していない車まである。

日本製の車というのは日米貿易摩擦の時には対象品目になっていたので、そのトラブルを回避するために現地生産するようになった。

各社同じような事をしている。

こうなるとアメリカのトヨタで作った車は、日本製なのかアメリカ製なのか、一体どちらなのであろう。

こういう現象は相手がアメリカやイギリス、その他先進国だからこそうまくいき、それが企業としてなりたっているが、相手が中国だとすれば、かならず日本側は痛い目に遭わされるだろうと思う。

目下、中国の経済成長が世界の耳目を集めているが、中国という国は白豪主義の裏返しで、白人に対しては卑屈であるが、同じ色の黄色人種に対しては裏切り行為をしても良心の呵責を感じない人々と思わなければならない。

アメリカに住む中国人というのも、2世3世となると完全にネイテイブな英語を話しているが、彼ら中国人が自分達の民族のアイデンテイテイを捨て去ることができれば、アメリカ国民として同化できるであろうが、中国古来の意識が少しでも残っているとすれば、チャイナタウンから脱出する事は不可能であろう。

サンフランシスコのチャイナタウンは、この地の観光名所となっているが、ここをケーブルカーで通過したとき、家内がふと漏らした事が言い得て妙だった。

彼女は人種的偏見というのは一切持たない、思想的に無菌状態の人間であるにもかかわらず、チャイナタウンを見て「中国人はどうして町を汚くしてしまうのだろう!」と言った。

これに対して中国人の側からどういう説明が期待できるであろう。

車の現地生産の話から横道にそれてしまったが、日本では若者がスポーツカーを乗りまして粋がっているが、こちらでは事業に成功して、功成し遂げたような風格のある人がスポーツカーをのりましている。

そして若者は当然ピックアップ・トラックで、家族もちはセダン、後はそれぞれの好みでそれぞれに使い分けているようだ。

そんなことをぼんやりと考えていると車はたそがれのサンフランシスコに入ってきたが、市内に入るとガイドが色々なレストランを紹介してくれた。

車の中でいくら教えられてもすぐにそこに行けるわけもなく、ホテルで下ろされるまでは籠の鳥である。

それでホテルで下ろされ、再度チェックインを済ませた後、町に出てみた。

大自然の懐から帰ってきたばかりの身には、なんとも雑然とした雰囲気であった。

車中でガイドが勧めてくれた中華料理屋に行ってみたが、ここも先回経験した「勘太郎」とよく似た雰囲気で、まるで香港か東京上野の御徒町界隈と思えばいい。

アメリカであってアメリカではないみたいだ。

それでここでもアメリカ在住の中国人というものをよくよく観察したが、やはり彼らは生来の民族的特質をひきずったまま生きているような気がしてならなかった。

それはなぜかというと、ここの従業員であろう人たちが5,6人かたまって店の一角で食事をしていた。

それとは叉別に、少し離れた別のテーブルでは支配人らしき夫人が叉別の食事をしていたわけで、その有り体は中国古来のものの考え方がそこに現れていると想像したからである。

つまり、この店ではハンバーガー・ショップのようにアングルサクソン系の白人の若者が一人も就業していないということである。

中国人が排他的なのか、白人の側が嫌っているのか知らないが、お互いに同化していないということである。

中国人は中国人で固まってしまうということである。

チャイナタウンの存在というのはそういうことだと思う。

アメリカのレストランでは若い人が嬉々として仕事をしているが、彼らはきっとアルバイトだろうと思う。

今はレストランでアルバイトをしていても、内には将来の夢を持ち、当座の金を得る手法として、精一杯働いていると見たが、そういう生き生きとした雰囲気がこの店の彼らからは感じれない。

香港の延長のような雰囲気である。

私としては、こういう店の方が好きで、こういう店では箸で食事ができるという点で、実にもって好感が持てる。

それだけで食事をしたという気分になれるし、安心感がえられる。

それでも出る時にはチップをおいてきた。

中国系の店ならば要らないのではないかと思ったが、周囲のテーブルを見ると、やはりそうなっているようで、郷に入って郷に従ってきたわけである。

その後、多少時間があったので、その界隈を少しぶらぶらとウインドウー・ショッピングをしながら散策した。

 

サンフランシスコの一日

 

ゴールデン・ゲート・ブリッジ

 

この西海岸でもっとも古い町サンフランシスコというのは大都会だ。

その中のルネッサンス・パーク55ホテルというのは、明らかに大都会になかのホテルで、近代化の象徴のようなものである。

広くて天井の高いエントランス・ホール、エレベーターが8台も集中しているエレベーター・ホール。

最初のうちは気がつかなかったが、外からホテル全体を仰ぎ見ると、首が後ろに回りきらないぐらいの高層建築であった。

自分のフロアーのボタンを押すだけであったので、全体でいくつのフロアーがあったのか定かに憶えていない。

それで翌日は、前日早めに就寝したので朝早く目がさめ、ホテルの玄関前で一服していた。

現代のアメリカ社会は喫煙者にとって実に住み辛いところだ。

喫煙できる部屋を頼めばアメリカまで来てホタル族にならなくてもいいだろうが、我の家内がうるさいものだからタバコは外で吸わなければならない。

それでホテルの玄関脇で一服していると、ここでも興味あるアメリカ社会を垣間見る事が出来た。

というのは、現代世界中で問題となっているごみの問題である。

ホテルの前の道路を挟んだ正面の小汚い店の人間であろう、歩道の地面に敷かれた四角い板を跳ね上げていた。

何をしているのだろうかと見ていると、それは地下にゴミ箱が収納されていた。

板を跳ね上げ、それに危険防止の柵をし、ホイストのスイッチのようなものを弄くっていると、下からゴミ箱がせりあがってきた。

つまり始業前にゴミ箱の清掃をしていたわけであるが、地下にゴミ箱を収めるというアイデアは実に合理的だと思う。

早朝の大都会というのは、こういう作業を眺める事が出来る。

そしてその後、朝の食事を終えて再び玄関前で一服していると、やけに騒々しい音を立てているものがある。

朝っぱらから騒々しいなアと思ったら、街路樹の剪定をしていた。

木を剪定するだけならばそう音はしないはずであるが、それは剪定をすると同時にそれをデスポーサーのような機械で一瞬にして粉砕しており、その粉砕する機械が大きな音を立てていた。

トラックでそのデスポーサーのような機械を牽引しながら、その粉砕した屑を前のトラックに積み込んでいた。

樹を刈った後からそれをしているので、剪定した後は木の葉一枚残っていなかった。こういう合理性というのは日本では見たことがない。

この日は夜まで予定というものがないフリー・タイムであったので、朝もゆっくり出来た。

その上家内が朝食のミール・クーポンを購入しておいてくれたので、このホテルの二階でゆっくりと朝食を取る事が出来た。

クーポン券を係員に渡すと、テーブルに案内されたが、そこで早速ジュースが注がれ、後は自分の好きなものを取ってくれば良い訳である。

いわゆるバフェ・スタイルというものであるが、こういうとき家内は必ず目一杯取ってくる。

結局、食べきれずに私に助けを求めてくる。

私はほんの少し控えめにとってくるので、結果的には丁度バランスが取れるが、目の前に一杯おいしそうな物が並んでいると、ついつい欲望を押さえきれなくなるものらしい。

それで食事を済ますと、いよいよサンフランシスコなる大都会の探検ということになる。

この時、まだ時間は8時半ごろで、ホテルのすぐ近くにあるBARTのパウエル駅という場所に行ってみた。

このBARTというのがサンフランシスコの地下鉄ということは知っていたが、その終点の駅で地上に出ている部分を昨日ヨセミテから帰る途中で眺めた。

地下鉄の駅などというものは何所でも同じようなもので、さほど珍しいものではないが、この地下鉄には一度乗ってみたかった。

このパウエル駅というのは駅前が半地下となっており、その部分がちょっとした広場になっていた。

その半地下の広場にはケーブルカーをかたどったコーヒー・ショップがあった。

周囲は黒人があちらにもこちらにも屯しており、彼らは思い思いにグループを作って談笑というか、ふざけあっていた。

こんな早朝から若い男女が遊びほうけている、ということは芳しい事ではない。

しかし、何所の国にもこういう若者はいるわけで、それはそれで致し方ないと思うが、この脇にはサンフランシスコのインフォメーション・センターがあったので、そこでわからないながらも資料を得ようと行ってみた。

そうしたら時間が早すぎてまだ開いておらず、しばらく待たされた。

オープンと同時に入ってみると、若い女性の係官が早速寄ってきて「May I help you?」ときた。

それでこちらもぎこちないながらも家内と二人で、サンフランシスコの資料が欲しいということを伝え、日本語の資料を得た。

そしてゴールデン・ゲート・ブリッジに行くバスの乗り方を教わり、タクシーのチップを忘れないようにとアドバイスを受け、そこを辞去した。

ゴールデン・ゲート・ブリッジに行くには、そこから何番のバスに乗れ、とアドバイスを受けたものの、我々は先にケーブルカーに乗ることにした。

ケーブルカーの乗り場も、そこからは近いところにあったので、歩いていったが、このケーブルカーというのはこの地の名物であるだけに実に興味ある代物である。坂を下りてきたケーブルカーは、転車台の上で今度は登りのレールに移される。

そしてこの転車台の操作を人力で行なっている。

転車台に乗せるのも下ろすのも、人間が3人がかりで押したり引いたりしている。この合理主義の国の何たる不合理かと驚きである。

そして、それに乗ろうと並んでいるアメリカ人観光客は、手に手に記念の乗車券を持っていたが、我々はそれが何所で手に入るか判らず、乗ってから料金を払った。写真で見れば一目瞭然であるが、このケーブルカーというのは半分がオープンで。半分が客車となっている。

このオープンの部分は外向きの長いすになっており、その背中合わせの部分には、何だか大きなレバーが突っ立っていた。

このケーブルカーの駆動システムがどうなっているのかさっぱりわからない。

判らないなりに想像力を振り絞ると、レールとレールの間のもう一つラインがあるところから察すると、この中を常時ケーブルが移動していて、走るときにはこのケーブルに何かを引っ掛けて移動するのではないかと思う。

ケーブルカーの乗客は殆んどが観光客である。

それぞれにカメラを持ったりビデオをもったりしている。

サンフランシスコというものを地図でよくよく見ると、この町は太平洋とサンフランシスコ湾という両側に海があるわけで、ケーブルカーというのは、この両側をつないでいるわけである。

それで山の鞍部になると、直角に方向を変え叉下りとなるわけである。

この鞍部の部分にチャイナ・タウンが有り、この辺りになると何だかみすぼらしい雰囲気になる。

そして再び下りとなりサンフランシスコ湾にくるわけである。

サンフランシスコという町は、太平洋の方から船でゴールデン・ゲート・ブリッジを潜ると、3つの湾に入ることになっているようだ。

橋を潜ってから北に行くとサンパブロ湾、南にくるとサンフランシスコ湾、サンパブロ湾の奥にもうひとつグレイジー湾というのがあるということだ。

このケーブルカーを終点で降りてみると、これはこれで叉素晴らしく落ち着いた海があった。

そこは公園になっており、ガイド・ブックによると、マリンタイム・パークとなっている。

前には青々とした海が広がり、公園の緑はこよなく綺麗で、花は華麗に咲きみだれており、散策するには最高のロケーションであった。

それでしばらくはその辺りを散策していたが、この綺麗な公園のベンチで憩っている人々がどうにもこの場にそぐわない。

いわゆるホームレスという感じの人が、ベンチを占有していた。

浜辺ではかもめが休息し、セーフガード風に黒いスイミング・ジャケットの人が柔軟体操をしたりしていたが、人の数が少ないのが良い。

最初、左手の方にそぞろ歩きしていったら、何だかミュージアムのようなのが有り、その下が老人施設になってりしていた。

その後、反対方向に歩を進めるとフィシャーマン・ワーフの一角に来た。

ここはいわゆるお土産屋の連続である。

この朝の早い時間ではまだ準備中か、開店したばかりで、我々はもっぱらウインドウ・ショッピングだけで我慢した。

ここを散策して、次は例のゴールデン・ゲート・ブリッジに行こうとしたが、タクシーが中々見つからなかった。

ホテルの傍にいけばきっと客待ちの車がある違いない、というわけで近くのホテルに行ったら確かに一台いた。

ところが、それに乗ろうと思って近寄ると、その車は出ていったしまった。

後には大きな大きな黒塗りのリムジンが残っていた。

その運転手が仲間と立ち話していたが、我々がタクシーを捜しているということがわかると乗っていけという。

こんな車に乗ったら命がなくなるのではないかと思って必死で断って、その前の別のホテルで客待ちをしている車の乗ろうと、その場を離れた。

この運転手、ゴールデン・ゲート・ブリッジまで25ドルで行くといっていたが、私達がその気がないとわかると、20ドルまで下げた。

それで結局、例のイエローキャブに乗ったわけであるが、これでも結局はチップ込みで10ドルかかったので、これならば記念にあのリムジンに乗ってみてもよかったかなと、ちょっぴり後悔したものである。

このゴールデン・ゲート・ブリッジの橋の袂は綺麗な公園になっていた。

この橋は2段にはなっていなくて、片側4車線か5車線あったが、この橋が1937年、太平洋戦争の前に出来上がっていたのかと思うと全くの驚きである。

あの太平洋戦争の前に、片側5車線、往復合わせると10車線の橋というものを考え、そしてそれを作り上げた国というのはまさに驚きである。

歩行者は無料であるが車は料金を取られる。

確か出るときはタダで、入るときのみ一台2ドルだと聞いた。

つまるところ、このサンフランシスコというのは、この橋をわたるか、先のベイブリッジを渡るかでなければ来れないわけで、入る車から2ドル取るという事は、橋を渡るには1ドル要るということである。

それで我々は、ものは試しと、橋を徒歩で真ん中まで行ってみることにした。

車がひっきりなしに通るにもかかわらず全く揺れていない。

我々はサンフランシスコから対岸のサウサリート、つまり町を離れる方向に歩いていたので、後からくる車は皆フリーで、勢いよく流れていた。

前からの車は料金所があるため、橋の上で渋滞していた。

それで歩き始めると、ここでもいろいろな人が行き交っていた。

人の間を自転車ですり抜ける若者や、修学旅行のような学生の団体やら、車椅子の人など、実に様々な人が行き交っていた。

橋の取り付け位置から、橋が陸地にある部分にはどういうわけか金網で被われていた。

橋が陸地を離れると、その金網がなくなっていた。

我々は橋桁をバックに写真を撮ったりしながら歩いてきた。

我々が進む右側には例のアルカトラズ島が静かに凪いだ湾内に浮かんでいた。

その前を小さなフェリーが白い航跡を残して行き交っていた。

海というのはこういう位置から見ると黒い色に見える。

最初の赤い橋桁を通過した辺りで、もう先に行くのを止めた。

歩くということは家内の脚に負担をかけるような気がして、あまり無理をしないよう用心し、最初の橋桁まで進んだことで納得して引揚げてきた。

この日も全く天気がよくて、橋の上は実にすがすがしい気分で居れた。

再び橋の袂に帰ってくると、ここには小さな土産物屋が有り、それを眺めたり、その辺りを散策したり、望遠鏡を覗いたりして時を過ごした。

さて次は何所にいくのかということになって、一旦は市内に戻る事にした。

家内はデパートを回りたくてうずうずしているので、そちらの方の顔も立てねばな

らず、叉タクシーでホテルまで戻った。

 

ジャズ・ライブ

 

ホテルまで戻ったはいいが、そうそう高給レストランというわけにもいかず、この日は徹底的にアメリカン・スタイルの昼食ということで、ホテルの前のマクドナルドに入った。

この辺りが非常に不思議で、このホテルの前にマクドナルドの看板があったが、それは裏口で、表口は通りの向こう側にある。

それで1ブロック大回りしなければならない。

このマクドナルドというのが、これまた大流行で、皆さん思い思いの格好で、思い思いのスタイルで、ハンバーグを頬張っていた。

このようなジャンク・フードというか、ハンバーグとかホットドッグなどという食べ物は、大口を開けて思いっきり口の中に押し込んで食べなければならない。

それで箸やホークがない分、紙がその役目を果たしているわけで、大口を開けて口に押し込めば、当然、口の周りや手にケチャップがつくわけで、それを取るのが紙である。

我々日本人の感覚からすれば、みっともない食べ方となるわけである。

あの食べ方を見て、みっともないと感ずる日本人は、古風な感覚の日本人で、日本の古い美観と価値観の持ち主である。今そういう人は少なくなっている。

しかし、これも既にアメリカの文化になっているわけで、アメリカ人は老いも若きも同じようなスタイルで空腹を満たしている。

そして例によってコーラでもジュースでも、そのカップの大きい事といったらない。しかし、これも考えてみると必要から生まれているみたいで、こちらでは空気が乾燥しているので、あの大きくて一見辟易しそうな分量が、知らず知らずのうちに消化してしまっている。

ここで腹ごしらえをしてから家内に付き合うべく、メーシーの百貨店に行った。

この百貨店も日本のデパートと大差ないが、やはり売れ筋というものが日本とは違っているようで、日本のデパートのように「何でもあり」という風ではなさそうだ。私は家内のように頻繁にデパートめぐりをしているわけではないので、相異の詳細はわからないが、ここでは家具調度品を主に取り扱っているみたいだ。

考えてみれば納得のいく部分もある。

通信販売やカタログ・ショッピングが最高に普及している国で、デパートが生き残るためには、そういう業界が扱わない商品でなければ競争に勝てないわけで、個人の嗜好に深く関わらざるを得ない家具調度品が、デパートの取り扱い品目としてかろうじて生き残っているという感じである。

こんなデパートを妻と歩いていても私はちょっとも面白くないので、ここで家内とわかれて別行動ということになった。

ゴールデン・ゲート・ブリッジからタクシーに乗って帰るとき、非常に急な曲がりくねった下り坂で、両側には綺麗な花が一杯植わっている、実に綺麗な通りを通過したので、そこに行ってみようと思った。

ところがその時点では、その通りの名前がわからず、盲滅法、あてずっぽうに歩いていたが行き着けなかった。

後でわかったことだが、その通りはランバート・ストリートで、地図で見るとかなりの距離があった。

タクシーから見たので、すぐにでも行けると思ったが、行っていけない事もないが相当覚悟して掛からねばならない場所だった。

しかし、それを目指して最初ケーブルカーの通りを坂の上の方に登っていった。

すると右側に工事中の公園があったが、公園全体が覆いで隠されて、実に雑然としていた。

これが案内書によるとユニオン・スクエアである。

サンフランシスコが南北戦争のときザ・ユニオン、つまり北軍に荷担する演説がこの場所で行なわれた事によるとされている。

この辺りがサンフランシスコの目抜き通りというか、一番の繁華街というか、そういう場所らしいが、私にはそんな風には見えなかった。

それからもう少し上がるとノブ・ヒルとなるわけである。

確かにヒルhillと言われるだけあって、この辺りで一番高い位置になっている。

この街は、町作りにきつい規制があって、新しい建物を安易には作れないらしい。

だから古いものを改善しながら使っているという感じで、古いものが手入れされて残っているので、ある種の落ち着きがある。

外国の町には、街の美観を維持するために、相当に厳しい規制を設けているところがあるようだが、こういうことは日本ならば恐らく民主主義に反するという掛け声で、通らないだろうと思う。

規制緩和が主流になっているので、規制を緩和する事ならばなんでも「善」で、規制を強化するなどということは、半民主主義であるという理由つけて、建物に規制を加えるなどということは、生存権に関わる問題とされかねない。

規制を緩和すれば、それに悪乗りして、何をしても許されると勘違いしがちである。町の美観を維持しようとすれば、それに伴うデメリットというものは生まれてくるわけで、そのデメリットを皆で容認しないことには、自分達の住む町の美観が維持できないわけである。

私がアメリカは合理主義の国だというと、それは良い意味を持っているように聞こえると思うが、合理主義というのも、ある見方をすれば冷酷な側面を併せ持っている。

民主主義がその裏に少数者の抹殺というデメリットをもっているように、合理主義にも、それに付随したデメリットとしての冷酷さというものをもっている。

それはこのサンフランシスコの中心にあるチャイナ・タンウンの存在を考えると、彼らは低賃金という合理主義のもと、アメリカ国土に大量に移入させられたわけである。

そして彼らは大陸横断鉄道の建設に汗を流し、それが完成するとお払い箱である。お払い箱となった彼らは、同じ国の者同志が寄りかたまって生きなければならなかったわけである。

アメリカ大陸を制覇した白人達にとって、ネイテイブ・アメリカンや、中国から渡ってきた人間など、人間のうちにはいっていなかったに違いない。

黒人を奴隷として使うのと同じ感覚であったに違いない。

しかし、ネイテイブ・アメリカン、中国人、黒人という虐げられた人々の側にも、それぞれに事情があったわけで、黒人というのは長い奴隷生活の中でキリスト教というのが心の支えになりえた。

中国人というのは、やはりあの5千年の中国文化から精神を解放する事が出来ず、異国に来ても同化する事を拒んだに違いない。

ネイテイブ・アメリカンというのは、同化してアメリカの中に埋没したのもいれば、同化しきれず落ちこぼれているのもいるわけである。

アメリカが大陸横断鉄道の建設に中国人を多量に使ったという事は、ある種の合理主義なわけで、それは1869年の事である。

日本では、明治維新が終わって、明治新政府になったばかりの頃、アメリカでは西海岸と東海岸を結ぶ鉄道が出来ていたわけである。

そしてそれが終わると、その鉄道建設に従事した中国人は要らなくなったわけで、排斥運動が起きているわけである。

これはアメリカの大いなる矛盾なわけで、安い中国人労働者を使ったのは資本家で、工事が終わって巷に溢れ出した中国人に嫌悪感を示したのは、大衆としての庶民であったわけである。

ところが欠陥を内に秘めた民主主義というのは数の論理なわけで、数では資本家の数よりも、大衆の声が優先するわけであり、その結果が東洋人を排斥する法案の成立ということで、中国系移民の排斥、排日移民法の成立という流れになってきたわけである。

アメリカは移民で成り立っている国とはいっても、誰でも彼でもアメリカ国民になれるというものでもない。

アメリカとて、来る人を選ぶ権利があるわけで、自分達にとって良い人は来てもらいたいが、来てもらいたくない人もいるわけである。

その基準というものが、その時代や時の政府によって大きく揺れ動くわけで、それは生きた人間が国家というものを運営している限り避けられないことかもしれない。

サンフランシスコの歴史というもの紐解いてみれば、それなりに面白い発見があるに違いないが、知らない町を盲滅法歩いていても埒があかないので、いい加減のところで散策を止め、ホテルに向かった。

それで家内と落ち合い一旦部屋の入り休憩をした。

この夜はジャズを聞くコースに予約が入れてあったので、その時間までに夕食を済ませなければならなかった。

それで、手軽なところというわけで、再度「勘太郎」で済ませた。

このジャズ・ナイト・ツアーというのは、計画の段階から日本でオプションをしてきたが、私はアルカトラス島の監獄の見学の方をしたかった。

サンフランシスコのジャズというのは、今は廃れていると思ったし、こういう嗜好性の強いこだわりのコースは、それ相当の通でなければ意味をなさないわけで、並み以下のジャズ・ファンというだけでは、その真価がわからないと思ったからである。

家内の弁だと、私への誕生日のプレゼントだと言っていたが、世の女性というのは、夫の為という大儀の元、案外自分がものを買いたいという欲求を満たしている部分があるので、油断ならない。

しかし、ここは家内の言葉を信じた振りをしなければならない。

それで約束の時間になるとガイド氏が迎えに来てくれ、もう一組若い夫婦をピックアップして、夜のサンフランシスコの町を走り回り、何とかというジャズ・スポットに案内してくれた。

時間前に到着してしまい10分ぐらい店の回りをうろうろしていたが、このあたりは本屋が多く、丁度東京・神田の古本屋の雰囲気である。

それで時間になり、店内に入り、多少のレクチャーを受けると早速演奏が始まった。出演者の名前もマイナーなもので私にはわからなかったが、ピアノとベースとドラムというトリオで、昔懐かしいクラシック・スタイルのモダン・ジャズであった。

クラシック・スタイルのモダン・ジャズというのもおかしなものであるが、このジャズというのは、今は全くマイナーな音楽となってしまって、今はロック全盛で、本当のジャズというのは大人の音楽となってしまった。

1950年代のモダン・ジャズというものを、今どう表現したら良いのであろう。町のCD屋にいっても、ジャズのコーナーだけ人がいない有り様である。

同行の若い夫婦に「若いのにジャズを聞くとは珍しいですね」と声をかけると、「ジャズというものを聞いたことがないので、誘われるまま体験しようと思った」という返事だ。

彼らは途中居眠りしていた。私は十分に楽しめた。

充分に楽しめたからといって、ここで薀蓄を傾けるほどの知識は持ち合わせていないが、充分にスイングし、音に酔いしれた。

ガイド氏の言う事にゃ、「本日は予定してたジャズ・クラブで主演者が急死してしまったので、アルタネイトのところだった」と言っていたが、そんなことは言い訳しない方が懸命だ。

どうせ一介の旅行者が、そこまで確認して来ているわけではないので、ガイド側からすれば、いくらでも騙せるわけで、そう律儀に弁解する必要はない。

それでここでは1ステージ1時間ぐらいであったが、そこを出てからガイド氏は夜のサンフランシスコを案内してくれた。

ベイブリッジというのを車に乗って渡ると一つの橋のようになっているが、これは途中で二つに分かれており、途中にトレジャー・アイランドという島がある。

ガイド氏はそこに我々を案内してくれた。

その島から上の橋を仰ぎ見ると、ベイ・ブリッジとオークランド・ブリッジと分かれていることがよく判る。

両方ともつり橋で、その斜めに張られたワイヤーにはそれぞれ電飾がともされ、橋の形を浮き彫りにしていた。

ガイド氏が車を止めたところには先客がいて、それは例の黒塗りの大きな大きなリムジンであった。

ガイド氏が言うには「彼らはきっとイタリア人で、あそこでワインを飲んでいるに違いない」と言っていたが果してその通りであった。

堤防のコンクリートにワインのボトルを並べて談笑していた。

 

いよいよ帰国

 

前日は夜遅く宿に戻ったが、次の日は帰国するだけで、朝はゆっくり出来た。

この日の朝も朝食券が確保してあったので、ホテルの朝食にありつけたが、この朝食券というのは、他の場所でも使えるということで、日航ホテルに行って見ることにした。

我々のホテルからここまではほんの少ししか離れておらず、徒歩で5分も掛からないぐらいであった。

ここのレストランも立派で、立派過ぎて、我々、下々のものは近寄り難い雰囲気がある。

我々下層階級のものは、あまり立派なところでは、気持ちが萎縮してしまって、身の置き所がないという感じだ。

その点、今まで泊まって来たinnというのは気が楽だ。

どんな格好でも気兼ねなく振舞えるという意味で、精神衛生上実に好ましい。

ここでもバフェ・スタイルで、好きなものを自分で選択できるというだけが慰めである。

それでここでは家内とお互いに自分のもってきた朝食を写真に撮っておいた。

朝食後、部屋にいてもタバコが吸えるわけでもないので、朝の散策に出たが、ここでも仕事する車で面白いもの見た。

というのは、やはりゴミ収集車であるが、この時は二つのごみ缶を運転台の上を通して、逆さまにして後の荷台に収容していた。

二つのごみ缶を同時に挟んで、挟んだまま上に持ち上げると、缶が逆さまになって、中のゴミが後の荷台にはいるという仕掛けであった。

仕事する車というのは、それぞれに面白い機能をもっているので、見ていて飽きない。

足慣らしのため、その辺りを散策していると、どうも我々の泊まったホテルの裏あたりは治安のよろしくない地域らしい。

昨日のパウエル駅もホテルの近くであったが、そこに屯している若者がただものではないと感じていたが、どうもそういう地域らしい。

その辺りを散策して部屋に戻り、その後、チェック・アウトの準備をし、下に降りて行った。

そこで再び佐藤夫妻と再開し、空港まで行動を共にした。

時間になると叉昨日とは違うガイド氏が迎えに来てくれ、空港まで車で送ってくれた。

空港のチェック・インを済ますと、後は成田につくまで約10時間以上タバコを吸えなくなるというわけで、外に出て思い切りタバコを吸ってきた。

空港でのチェック・インはスムースにことが運んだ。

帰りの航空券を差し出すと、先方の職員は事務的に処理していたので、この場では気がつかなかったが、後でわかってみると我々はエコノミー席であったにもかかわらず、ビジネス席に方になっていた。

家内の足の故障が、ここで大いに威力を発揮したわけで、有り難い事である。

このときの出国検査においてはボデイー・チェックもなく、「さっさと帰れ!」という感じである。

時間がきて搭乗の際にも何ら特別の検査もなくスムースに通過できた。

空港にいて、飛行機の運行に携わっている人や車を見ていると実に面白く、飽きない。

昔は飛行機の給油にはタンクローリーが機体の傍まで来て給油していたが、今はそんな時代遅れのことをしている空港はないみたいだ。

機体が指定の位置に止まると、コンクリートの下の給油口から、両翼に直接ホースをつないでしている。

その代わり、機内食を運んできた車が機体に横付けして、時間をかけて準備をしている。

その傍らでは、手荷物を収めたコンテナがタグボートに引かれて行き交っている。こういう様子を眺めていると飽きないが、ここでも日米の仕事の仕方に違いが歴然とあるのが不思議だ。

アメリカでは働いている人の服装が全くまちまちである。

ヘルメットなど被らない人もいれば、半ズボンの人も居り、「言われた仕事さえすればいいだろう!」という感じであるが、日本のほうでは殆んどの人が、つなぎの服にきちんとヘルメット着用をしている。

これも国民性の相違といえるであろうが、その事は同時に、発想の相異でもあると思う。

我々はルールをきちんと守っていれば「善」と思い込んでいるが、その事は同時に、ルールの形骸化を招いているわけである。

それに反し、アメリカ人はルールのあることを承知の上で、自己責任においてルール違反をしているわけである。

そのことの良し悪しを結論つけることは出来ないが、ルールが形骸化しているということは、意味のないルール、時代遅れのルールでも一向に改善される事なく生き続けるという事になるし、自己責任だからルールを無視しても構わない、ということにもつながらない。

そこに見えるのは個としての意識の確立の問題だと思う。

チェック・インして、搭乗手続きの際受け取った半券を握りしめて機内にはいってみると、我々の席はビジネス・クラスの席の一番後ろ、機体の左側であった。

トイレの前で、トイレに行くには実に都合がいい。

窓からの見晴らしも実にいいところだった。

家内は「私の足のお陰だよ!」と言っていたが、まさしく「怪我の功名」とはよく言ったものだ。

しかしこの頃、日本では台風が吹き荒れていたらしく、その所為で到着が遅れ、それに伴って出発も遅れた。

出発の際、この空港では様々な航空会社の機体が見れた。

それぞれに凝ったデザインをしていた。

機が空中に舞ったら最後、我々乗客というのは何もすることがなくなるわけで、テレビを見るか本を読むぐらいしかすることがない。

私は機内食が出されたときのみ起きたが後は寝ていた。

最近の機体はテレビ・モニターで、機の情報を知ることができるので、時々それを覗いてみると、高度11、600mを飛んでいた。

この位置から下をモニターで覗いてみると、太平洋というのは真っ黒に映っていた。その黒い中に、真っ白な綿のような雲がふわりふわりと漂っていた。

遅れて出発したものの、成田についたときは定刻とそう大差なく、成田からの乗り継ぎも上等な席で大いに助かった。

約10時間にも及ぶ空の旅で、足もとがゆったりとした席というのは、このうえない贅沢である。

有り難い心配りであった。

名古屋空港に着いて孫の顔を見たら、やっと旅が終わったという実感がした。

 

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