巻 頭 言
人は非日常を求めて旅に出る
ルーチン化した生活から脱出すると
魂が癒され、ものを考える
だとしたら、その考えたことを記しておきたい
旅は未知との遭遇である。
未知と遭遇したとき、そこで何かを思い、考え、思索する
自分の目で見、耳で聞き、肌で感じ
未知を解明しようとする
未知のものに遭遇して何も感じなければ人として意味がない
人は考える葦と言った人がいる
考える衝動は未知と遭遇した時に沸き立つ
自分の考えたことを遺したいという衝動は誰にでもあろう
以下の駄文もその一つである
平成16年4月末日
目 次
巻頭言 2
出発 4
ワシントンD・C 9
国立航空宇宙博物館・本館 22
一般論としてのスミソニアン 25
公共性を考える 28
B−29エノラ・ゲイ 33
別館・そしてp−40 41
チャンスボートF4Uコルセア 44
本物のエノラ・ゲイ 49
紫電改・晴嵐・桜花 52
挑戦者としての技術者 59
日本食を考える 64
アメリカ海軍兵学校 67
美術館と自然史博物館 77
アムトラック 80
初日のニューヨーク 84
「ライオン・キング」 88
デイナー・クルーズ 95
エンパイヤーステートビル 97
04032401
今回、再びアメリカに行くことになった。
過去2回アメリカの自然を見てまわったので、今回はアメリカの文化を見てまわることにした。
それでワシントンD・Cのスミソニアン航空宇宙博物館とニューヨークのジャズを聴こうと思って出かけたが、結果的にはニューヨークのジャズを聴くということは出来ず、今回の旅は半分失敗かと思えたが、それを補うに余りある感動を得ることが出来たので、トータルとしてこれまでにも増して良い旅であった。
近頃の海外旅行というのはどうしても文明の利器としての航空機に頼ることになるが、私はこの航空機、特に近頃の旅客機というものが何百人という人間を乗せて空を飛ぶことが不思議でならない。
40年前、航空自衛隊に在籍していた身として、今更そんなことをいうのもおかしいと自分でも思うのだが、人間を200人も300人も乗せた飛行機が、猛烈な上昇角度で空に駆け上がるというのが不思議でならない。
今回のアメリカ行きは成田乗り継ぎのため、先ず最初に成田まで飛ばなければならなかった。
有り難いことに今回の旅行は空港での駐車料金コミであったので、誰の世話にもならず空港まで自分の車を乗りつけることが出来たのでその点は良かった。
旅行会社もこういう不景気のときで、様々なアイデアを絞って、少しでもサービスを向上させることで客の気を引こうとしているようだ。
しかもこの日の出発はやけに早い時間で、朝7:20にはもう成田に向かって旅たたねばならなかった。
その為、駐車場が確約されているというのは非常にお客にとっては便利なサービスだと思う。
飛行機の旅というのは列車の旅のように駅に着いたらすぐ出発というわけには行かず、空港での搭乗手続きというのが結構まどろっこしいものである。
しかし、このまどろっこさを含めても、単なる移動時間という点で飛行機の方が勝っているわけで、現代人は飛行機に頼る度合い多くなっていることは致し方ないと思う。
で、この成田行きの便は定刻に何の支障もなく飛び上がったのだが、この時の機体がB767−300 というもので、最新鋭のものである。
搭乗の乗客は約100%、200人以上のお客を乗せて天に駆け上がるような角度で上昇するのを体感していると、こういう旅客機が飛ぶこと自体不思議でならない。
翼の上と下の空気の流れ方の違いで揚力が生じ、それが機体を引き上げていると理屈ではわかっているが、空気の流れというものがいくら窓に顔をくっつけて見ていても理解できないので、未だに自分自身納得できていない。
それと最近の旅客機の上昇する能力というのは実に恐るべき能力だといわなければならない。
これはひとえにエンジンの能力の向上がもたらしているのであるが、一昔前は軍需技術が民間企業の技術革新を誘引するといわれていたが、最近ではこれが一部において完全に逆転してしまって、民間の技術革新を軍事技術が借用するという状況も現実に存在してきている。
ボーイング社の作る旅客機、エアバス社の作る旅客機というのは、完全に軍用機の性能を上回ったものもあると思う。
窓に顔をくっつけてフラップの動きをみていると、こんなことで飛行機が飛ぶことが不思議でならない。
滑走し始めたと思ったら、もうケーブルカーがそのまま空に駆け上がるような角度で上昇し、その間に主脚が完全に伸びきって地面から離れるドスンという音と共に、格納庫に収納する時のギアの回転するのがわかる。
この機体もエコノミー席の全席にテレビ・モニターがついていたので、早速フライト・データーを見ようとコントローラーを弄繰り回してみたけれど、結局は使い方が判らず、もたもたしているうちにもう成田に着いてしまった。
成田空港というのも過去において相当に物議をかもし出した空港ではあるが、あまりにも百姓どもの強欲がすぎて、開港が大幅に遅れ、その間に航空機の方の技術革新が進んでしまって、出来上がった時には既に時代遅れになってしまったと言われている。
とはいうものの、その活況はやはり日本の玄関口として何とか機能しているように見受けられた。
この空港が開港したことによって、この地域の就業の機会は大幅に増えたのではないかと思う。
空港というのはパイロットとスチュアーデスだけで持っているわけではない。
色々な職業の人々が何層にもわたって絡み合いながら航空機のスムースな発着ということが可能なわけで、ただただ土地だけの問題ではないはずである。
成田闘争というのはそういう視点の抜け落ちた、百姓根性のエゴイズムのみを前面に打ち出し、それを利用しようとした共産主義かぶれの革新勢力の、戦後民主主義の奇形児的な闘争であったと私は思う。
ただ単なる百姓根性の強欲さを、戦後の日本のインテリと称する共産主義に被れた学生や労働組合や大学教授が、奇麗事で国家と対立した構図だと思う。
上空から見る成田の土地というのは、実に美しい日本の田舎の光景そのもので、ただただこの美観を損なっているのがゴルフ場という享楽施設である。
日本の進歩的知識人というのは一度自分たちの住んでいる土地を上空から見る必要があるのではなかろうか。空港よりもゴルフ場のほうが日本の景観を如何に損なっているかということを真摯に考えてみる必要があると思う。
ゴルフ場というのは地上で見る限り奇麗な芝生で覆われて如何にも緑に満ち溢れた地域に見えるが、これを上空から見ると国土の破壊そのものだということが一目瞭然と理解できる。
自然の景観をこれほど損なっているものは他にありえないと思う。
アメリカのラスベガスにゴルフ場を作るというのならば、地球の緑化に貢献することになるが、日本でゴルフ場を造るということは、地球の破壊そのものである。
成田も上空から見る限り、あの成田闘争の痕跡すら捜し出せない。
成田に着くともう家内は免税店で友人との約束だからといって買い物をしていた。
此処でものを買えば、帰ってくるまでそれを持って歩かねばならないが、そんなことで喧嘩をするわけにもいかず、家内のするがままにさせておいた。
先回の時は此処でインターネットなどをして閑を潰したが、今回はただ一人、エプロンを眺めて時の来るのを待っていた。
時間になって搭乗機に移る際には低床式のバスでの移動であった。
そして与えられた席が一番後部の右側の席で、窓から景色を見るにはうってつけの場所であった。
ここでもフラップの動きを見ることが出来たが、これを見ていると、ますますこんな大きな飛行機が空を飛ぶのが不思議でならず、理解しがたいことに思われてならない。
機体はB777−200であった。
タクシーウエイをしばらく走ると、クリアランス待ちでランウエイの前でしばらく待機していたが、ランウエイに出てほんのしばらく走り、少しスピードが出たかなと思った瞬間、急にノーズが上がり、ガタンという音と共にもう空中に舞い上がっている。
しばらくの間は高度を稼ぐために一直線に上がっているがその間に雲をかき分け瞬く間に雲上にでてしまった。
雲上に出てしまうと太陽はさんさんと輝いており、逆に白い雲に太陽光線が反射してまぶしいくらいである。
最近の旅客機には前席のイスの背面に小型の液晶テレビがついていており、お客を退屈させない工夫がなされている。
私はこれでフライト・データを見るのが好きで、今回もこのコントローラーを弄り回してこのデータを見るチャンネルを探し当てた。
このフライト・データには地図と共にその図上に自機の位置を表示する機能があって、今自分の乗った飛行機がどの辺りを飛んでいるのか一目瞭然と判るシステムがついている。
それを見ていると、成田を飛びたって1時間もすると太平洋を東に向かって飛んでいることが一目瞭然と理解できる。
高度は最初のうちは28000フイート、メートル法に換算すると8686mの高度を
約1000km/hのスピードで飛行していることがわかる。
飛行機の外の温度はマイナス50度ぐらいである。
悲しいかなこういう事をいくら知識として知っていても実感というのがさっぱり判らない。
いくら窓に顔をくっつけていても、風きり音が聞こえるわけではなく、温度が伝わってくるわけでもなく、空気が見えるわけでもなく、果たして本当にそうなのかさっぱりわからない。
昔、漫才で「地下鉄を何処から入れるのか、考えると夜も眠れない」というのがあったが、それと同じで飛行機が何故空を飛ぶのか不思議でならず、それを考えると夜も眠れないはずであるが、心の隅では他のお客と同様に安心しきっている部分がある。
機内ではスチュワーデスが間断なく立ち働いていた。
乗客の方もそういうことに何の関心も持たず、自分のことに集中している人ばかりである。
飛行機に乗るたびに思うのだけれども、機内サービスというのは果たして本当に必要なことなのだろうか。
確かに長距離の時は何も出ないというのは苦痛を伴うことだろうが、だからといってあの狭い機内でスチュワーデスが四六時中立働かなければならないほどのサービスというものが必要なのだろうか。
高い航空運賃を取っているのだから、あれぐらいのサービスは当然だと思っている者が相当いるに違いない。
しかもこれは日本だけの習慣ではなく、世界的に飛行機の中ではあの程度のサービスが普通に行なわれている節がある。
最初はお絞りの提供で、それが終わると飲み物の提供、その後食事の提供となるわけで、あの機内サービスのシステムというのは実に見事な合理主義主の具現化だと思う。
密室化した狭い機内で、如何に手際よく、尚且つ総てのものを軽量に、動線を少なくし、効率よくこなすかということが究極の域にまで考え尽くされているように見える。
そして飛行機というものが約1000km/hのスピードで東に飛んでいると、何時まで経っても時間が過ぎず、日が暮れないというのも不思議なことだ。
機内食を食べてしまうともうすることがないので、寝る以外にない。
外はさんさんと太陽が照りわたり、それが雲に反射してまぶしいので、窓のシエードを下ろして眠ることになる。
時間はまだ2時か3時でしかないが他にすることがないので致し方ない。
一眠りして気がつくとフライト・データーは自機がアメリカ大陸に差し掛かろうとしていた。
アメリカとカナダの国境近くのバンクーバーの西を飛行していた。
大陸に入ると機は高度を35000フイートから37000フイートまで上げた。
これは恐らくタービランス・乱気流を避けるための措置ではないかと想像するが、このタービランスつまり乱気流というのも不思議でならない。
空気の流れというのは目に見えるわけではないので、実感として納得しにくいものであるが、飛行中に飛行機ががたがた揺れるのは、機が乱気流の中に突入したからあのトラックがでこぼこ道を走る時のような振動があるわけである。
これがあまりにも突然現れると、乗客や乗務員が怪我をすることがあるわけで、そういう事を避けるために機は高度を上げたのではないかと思う。
37000フイートという高さは11277mで、地上から11kmも上を飛んでいるということになる。
この時、窓の外を見てみると、地上の景色はまるで箱庭のように奇麗に見えるが、やはり日本との相違は歴然と判る。
大陸と島国の違いというのは如実に現れるわけで、大自然のスケールの大きさというものが歴然としている。
日本では自然を削ってゴルフ場にしたように見えるところが、こちらではそれが砂漠なわけで、そういう砂漠があちらにもこちらにも散在している。
そして今までは窓の外にジェット・エンジンの噴流というものが見えなかったけれど、ここに来るとジェット・エンジンから白い煙のような噴流が猛烈な勢いで後ろに流れていくのが見えた。
恐らくこれを地上から見ると飛行機雲に見えるのではないかと思う。
空軍関係の業界用語でコントレイルと称して、これが出来ると地上からでも肉眼で察知されるので、非常に警戒すべき気象現象であるが、民間の場合はそういう危惧は毛頭不必要である。
これが出来たり出来なかったりするところが不思議だ。
エンジンの噴出する排気ガスの微粒子に、空中の水分の微粒子が反応して出来るといわれているが、これも私にとっては不思議なことの一つである。
対地速度の1000kmというのも偏西風に押されてのデータではあろうが、これも判らないことの一つである。
ワシントンのダラス空港にはほぼ予定の時間についたようだ。
道中12時間半の窮屈な思いから開放されると心からヤレヤレという感じがする。
入国審査を通過して荷物を受け取り到着ロビーに出てみると今回のツアー会社、全日空ハローツアーの係員が小さな看板を胸に掲げてまっていてくれた。
私と同世代と見受けられる温厚な紳士でワシントン滞在中は彼の世話になった。
初対面の挨拶が済むと彼(高橋氏)は我々の荷物を転がして、止めた車の方に我々を案内した。
その車は例によってV8エンジンのフォードのバンである。
アメリカ旅行ではよくこのバンに世話になるものだ。
日本でいえばトヨタのハイエースバンか三菱のデリカという位置づけのものであろう。
アメリカに長いこと住んでいると、日本人も結構アメリカナイズされて、駐車場の係員との掛け合いにもそれが如実にでるから不思議だ。
今回のガイド・高橋氏も滞米17年というからアメリカの習慣にも相当馴染んでいるに違いなく、することがアメリカ人と全く同じである。
ダレス空港からワシントンの市内までは約40分ぐらい掛かるが、道は空港専用のものらしく、その両側に一般道としての道が同じ方向に向かって走っていた。
高橋氏の説明によるとこの辺りはタバコの産地として有名なところであったが、タバコ産業の衰退に伴ってビジネス街として生まれ変わろうとしているとのことである。
バージニアのタバコといえばつとに有名であったが、今アメリカではタバコ産業というのは完全に斜陽化しているとのことである。
今回の旅行では、私自身がタバコを吸うのでその辺りを関心を持って見ていてが、アメリカ人というのは実に見事にタバコとを縁を切ったようだ。
つい90年代の映画では、まだタバコが動くアクセサリーとして立派に通用していたのに、今日では徹底して禁煙の国となってしまっている。
ガイド氏の話によると、今アメリカでタバコを吸う人は人間並みに扱ってもらえないという雰囲気らしい。
「部屋の中では一切吸ってはならない」となれば、人並みに扱われていないと言わざるを得ない。
いつも思うのだが、こちらのガイドは車を運転しながら、それも道路が良いので100
km/hのスピードで走りながらガイドしてくれるので、こちらの方が恐ろしくてならない。
走りながら説明し、書類をごそごそ捜しながら、携帯電話で対応しながら運転しているが、彼らはそれで馴れているのか知らないがこちらは心配でたまらない。
そして何処をどう走ったか皆目見当もつかないままアーリントン墓地に案内された。
アメリカにはこういう公共の墓地が100あるということだ。
各州に2つづつあるという勘定であるが、このアーリントン墓地というのはケネデイー大統領が埋葬されていることと、無名戦士の墓があるということでつとに有名である。
それで駐車場に車を止めてみると辺りは小高い起伏に富んだ土地で、奇麗な公園という感じがした。
休憩所をかねた施設の脇を通って中に入っていくと、木立の間に白い墓標が整然と並んでいた。
その並び方というのが実に見事で、この墓標の位置が埋葬者の顔の位置に当たるということだ。
ここでは総て土葬で、そのあたりの認識が我々の国とは大いに異なるところである。
良し悪しの問題ではなく、認識の違いなのだから、それはそのまま認めなければならないが、私の悪い癖ですぐのその相違の比較をしてしまうからいけない。
ガイド氏の説明によると、こちらでは墓参りの習慣がないということで、確かにその点は大いに我々の習慣と違っているが、これも死生観に対する認識の違いだと思う。
このアーリントン墓地というのは、アメリカ国家に貢献した人々を埋葬しているということである。
特に、兵役を通じて国家に貢献した人々を埋葬しているということである。
兵役を全うした人ならば、戦死したものばかりではなく、除隊後人生をエンジョイした後で死んだ方でもここに埋葬される権利を有していると説明された。
この辺りの考え方が我々の国の靖国神社とは大いに異なるところである。
我々の国の靖国神社というのは、その発想の段階から、戦いで一命を落とした人を祭るということが本旨となっているわけで、この違いの良し悪しを論ずるわけにはいかないと思う。
靖国神社というのは、近代日本の礎となった戊辰戦争の犠牲者を敵味方区別することなく同じ日本人同士だからというわけでその死をいたむ気持ちで出来たもので、アーリントン墓地の趣旨とは多少その経緯の相違があったとしても致し方ない。
問題は国家に貢献するという部分である。
アメリカの靖国神社、つまりアーリントン墓地というのは、はっきりと「祖国に貢献する」ということを謳っているが、日本の靖国神社の場合、祖国に貢献しようがしまいが、戦死さえすればここの祭られるわけで、この相違をどう理解したらいいのであろう。
そしてアメリカ人の場合、死んだものに未練を残さないわけで、埋葬されたらそれで故人との一切のつながりがきれてしまうが、日本の場合、毎年盆には死者との再会があるわけで、これをどう比較検討したらいいのであろう。
人が戦争で死ぬということを考えるとき、我々は観念論でそれを罪過と捉えて。それが人として本来の博愛精神だと思い込んでいる節があるが、これで本当に良いものだろうか。
ベトナム戦争華やかりし頃、アメリカ軍は戦死した兵士の遺体をホルマリンにつけて本国まで送り返し、遺族の元に返した後、こういう墓地に埋葬したに違いない。
ところが我が同胞が戦争中にしていた行為というのは、白木の箱に遺骨を入れて遺族に渡したけれど、白木の箱が届けば良い方で、最後には一遍の戦死公報のみで済まされてしまった。
この認識の相違をどう理解したらいいのであろう。
死者に対して何時までも未練がましく思慕する我々が、白木の箱で済ませて、死者に冷淡なように見えるアメリカ人が、遺体を遺族にまでも届けるという行為の相違をどう理解したらいいのであろう。
激戦地だから遺体の回収などできないというのであれば、それは日米とも同じ条件なわけで、問題はする気があるかないかの違いだと思う。
この白い墓標のならんだ丘を見ながら進むと、一段と奇麗に整備された小山に行き着き、そこは周囲の墓標とはいささか趣を異にする墓石があった。
50cm四方の銘板が3つ並べた小高い地面があった。
それがケネデイー元大統領と彼の夫人であったジャックリーヌの墓だということだ。
ケネデイー大統領に関しては本も読み映像も見ているが実にスキャンダラスな人であったことは間違いない。
しかし、彼が太平洋戦争中はアメリカ軍の軍人として日本と果敢に戦ったという事は。私を非常に感動させたものだ。
そしてわずか43歳という若年にもかかわらず、アメリカ大統領になったという事も、その彼がキューバ危機のときは毅然とした態度で旧ソビエットのフルシチョフと渡り合ったということも、テキサスのダラスで狙撃されて絶命したという事実も、マリリン・モンローとの浮いた話も、私を魅了して止まない話題だ。
それから少し離れたとこに白い十字架が立っており、その前に同じような銘板があったがこれが弟のロバートケネデイーの墓だ。
元アメリカ大統領の墓が意外と質素なのは、やはり彼らの死生観と直接繋がるものがあるからに違いないと思う。
東洋的な死生観では死者は何時までも現世とつながりを持っているので、死んだ後でも立派な墓に葬ることによって現世とのつながりを維持しようとするが、アメリカ人の発想では死んだものは埋葬の時点で現世とのつながりが断絶してしまうのだから墓を立派にする意味がないのであろう。
アメリカ最高の権力者、地球規模でも最高の権力者にもかかわらず、彼らの墓というのはその権力の大きさに較べるとまことに質素なものといわなければならない。
ガイド氏の説明によると、このケネデイーの墓と無名戦士の墓に献花できるのは国家元首だけだということであるが、それを無視してしまったのが元外務大臣の田中真紀子だったらしい。
日米関係を語るとき、不思議でならないのはアメリカをよく知っているべき人が案外その実情を知らないという事実である。
今の田中真紀子氏もそうだが反戦運動家の小田実氏あたりもアメリカ事情には非常に詳しいように思えるのだけれども案外そうでもないし、戦前の例で言えば、日本の国際連盟脱退をしたときの松岡洋介辺りは、アメリカ事情に精通していたはずなのに、根が貧乏人のひがみ根性だったものだから、アメリカの本質を見失っていたに違いない。
人間の生来持って生まれた性質というか、根性というのは、育ち方で大きく増幅されて。貧乏人根性とか卑しさというのは、生涯直らないものらしい。
戦後の民主教育では、こういうものの考え方を偏向だとか、差別用語だとか、偏見という言葉で封殺しようとしているが、人間の本質をいくら言葉を変えたところで変えれるものではなく、いくら奇麗事で言い包めたところで、その人の行為が身の卑しさを露呈してしまっている。
このアーリントン墓地のケネデイー家の墓からワシントン市内が一望できるが、このワシントンという街は人工的に作られた街で、それが周囲の景観と見事にマッチしている。
ケネデイーの墓と、リンカーン記念館と、ワシントン・モニュメントの劣塔と、国会議事堂・キャピタルが一列に配置され、この中心線の脇にホワイト・ハウスが配されている。、
それとアメリカの首都がワシントンD・Cというのも我々には理解しがたいところである。
そもそもワシントン、Washingtonというのは初代大統領ジョージ・ワシントンから来ていることは理解できるが、ジョージ・ワシントンという人そのものがイギリス・ブリテン島の部落の名を姓とする一族の人ということで、それがアメリカに渡ったというところから来ているということである。
このワシントンという固有名詞には古代英語で「ワッサーという人が住んでいた土地」という意味があるらしいが、それが1千年という風雪の流れの中で、再び土地の名前として蘇ったといわれている。
ワシントンという言葉の概略はこれで何となく判ったような気になるが、その後にくっついているD・Cとは一体何ぞやとなる。
これはDistrict
of Columbiaのアブリベーションをとったものだという事は理解できる。
このDistrictを我々は特別区と大雑把に訳しているが、こういうアメリカの行政単位というのは我々に理解しがたい面を持っている。
ステートとテリトリー、その真ん中にデストリクトという呼称があるわけで、ステートを我々は州と理解し、テリトリーを準州と理解しているが、ならばデストリクトはその中間に位置するといわれても理解がついていけない。
我々がついていけないほどの複雑さというのも、この国が移民で成り立っているということに大きく関わりあっているわけで、それは同時に民主主義の浸透にも深くかかわりを持つという相乗効果を形成していると思う。
つまりアメリカ建国の初期においては、我々の感覚でいうところの国会を、各地回り持ちで行なっていたらしく、それでは大統領をはじめ各閣僚も、他の議員も不便この上ないので、恒常的な場所ということで1791年ポトマック河畔の土地をワシントン大統領の決定で首都とすることが決められた。
そしてワシントン大統領の命を受けて、フランス人のランファンという人が都市計画を設計しそれに基づき街が作られたそうである。
ところがこの時点でその土地の所管が正式に決まっていなかったので、首都のある地域の土地をコロンビア準州(Territory of Columbia)とし、街の名前をワシントン市(the City of Washington)とした。
これはいわずもがなアメリカの発見者としてのコロンブスと、初代大統領のワシントンを顕彰する意味も含まれていたことはいうまでもない。
ところがである、この新首都で1800年11月22日に行なわれた第1回連邦議会においてDistrict of Columbiaと記載されてしまったので、それ以降というものこの言い方が恒常的に定着したということらしい。
この地域、都市、首都は連邦政府の直轄地なのだから州でもなければ準州でもなく、日本でいえば徳川幕府の天領という位置づけと思えば間違いないと思う。
因みにアメリカにはワシントンと称する呼称が300以上もあるという。
シアトルのあるワシントン州はいうまでもなく、群の名称に至っては30以上にも及ぶといわれている。
そういうものと区別するためにもワシントンD・Cと呼称していると資料は語っている。
アメリカ50州の中には流石にインデアン語から来ている州名のものが多く、27州がインデアンの言葉が州名になったと資料はいっている。
アラバマ、アラスカ、アリゾナ、コネチカット、アイダホ、その他数々。
こういう点についていえば、我々の国の
やはり人間というのは同じような境遇では同じような行動をするものらしい。
ここで話は飛躍するが、今我々はアイヌの名前だろうが、インデアンの呼称だろうが構わないが、現代に生きているアイヌなりインデアンの人々は、この現状をどのように考えているのであろう。
これを大きな目で見ると、黄色人種つまりモンゴリアンというのは白人に淘汰されてしまって、抹殺されているとしか言いようがないではないか。
今生きているとしても歴史の表面に立つこともなければ、人類全体に奉仕したり、貢献したりすることもないまま、ただただ観光資源として見世物として生きているに過ぎないではないか。
我々の同胞の中でも、教養深くて心優しき善人と自認している進歩的知識人と称する人々は、この現実を白人の横暴、アメリカの独善、富める国アメリカの傲慢と言って、弱者の肩を持ち、弱者の味方になることに生きがいを感じているようであるが、それは歴史というものを知らない者の戯言だと思う。
歴史を知らないというよりも人間を知らないといった方が適切かも知れない。
淘汰される側には淘汰されるだけの理由があると思う。
勝ち残る側には勝ち残るだけの理由があると思う。
日本人の心優しき文化人は、そういう弱者を救済しなければいけないという。
この考え方こそ人を馬鹿にした発想で、思い上がりそのものだと思う。
弱者救済という事は、持っている者が持っていない者に物を分け与えるということで、これほど相手を侮辱し、軽蔑し、自己の優越さを見せびらかす思い上がった発想もないと思う。
例えば、西部劇で幌馬車を追いかけるインデアンに、物や金や文明生活のノウハウを与え、教えたところで、それを彼らが素直に受け入れ、そういうものに素直に順応したとすれば、西部劇そのものがなりたたないと思う。アイヌにしても同じことがいえると思う。
彼らはかたくなに自分たちの生き方を変えようとしなかったわけで、それは彼らが誇りを持って自分たちの生き様を生き抜いたということであり、それが民族の淘汰に繋がったとしても、それは自然の摂理に素直に従った結果だと思わなければならない。
我々の歴史だって、明治時代の変革を拒否し続けていればアイヌやアメリカ・インデアンと同じ道を踏襲していたに違いない。
ある民族が淘汰を免れようとするならば、自らの自助努力で外圧を撥ね退けるか、それとは全く逆に相手に順応する他ないわけで、我々は明治以降その両方を経験してきたわけである。
滅び去る民族を生き残った民族が救済しなければならない、というのは驕りもはなはだしいと思う。
滅び去る民族を生き残らせたところで、それは観光資源としての見世物にするだけで、民族に誇りというものがあるとすれば、彼らはきっとそんな差し出がましい行為を拒否するに違いない。
だからこそ彼らは滅び去ろうとしているのである。
21世紀において、アメリカをリードするものはやはり白人であることに間違いはない。
今日においてはマスコミ二ケーションというものが発達して、様々なメデイアが様々な情報を提供しているが、その情報に接している限り、特にアメリカという土壌においては、人種の壁は存在しないかに見える。
人種の壁は存在しないとしても、あらゆる業界でトップの地位を獲得するのは白人になってしまうのは一体どういうことなのであろう。
あらゆる組織の中で中間層の間では有色人種の活躍も目覚しいものがあると思うが、トップとなると白人になってしまうというのは一体どういうことなのであろう。
アメリカ・トップ50の企業で、有色人種の経営者というのはどれだけあるのであろう。
人種的偏見を助長するつもりはもうとうないが、ヨーロッパ大陸から渡ってきた白人達の末裔が、この新大陸で生きていくその根本のところにはやはりフロンテイア・スピリットが脈々と生きて流れているのではないかと思うからである。
それに引き換え我々大和民族は「赤信号皆で渡れば怖くない」という戯れ言葉のとおりで、大勢に迎合してしか生きれないので、自己の信念を通すということには悪いイメージが先行する雰囲気がある。
みんなと一緒でなければ生きておれず、みんなと一緒であれば奈落の底に転がり落ちても怖くはないし、みんなと一緒であれば景気が良い時はつるんで浮かれ、いつもいつも隣の芝生を気にしていなければ生きておれないのである。
この皆と一緒でなければ気が落ち着けない、という雰囲気が非常に問題なはずであるが、我々の同胞はそれに全く気がつこうとしていない。
その場の雰囲気に左右される、という民族的性癖が奈落の底の落ちる時にも、高度経済成長の波に乗る時にも大きく作用しているにもかかわらず、その点に言及した我同胞の論理的考えというのは一向に現れる気配がない。
我々が1941年、昭和16年にアメリカと戦争を始めるに当たっても、天皇陛下が号令をかけたわけでもなく、総理大臣が積極的に発言したわけでもなく、戦争に対するOR,オペレーション・リサーチもして、その結果として勝ち目はないという結論を出していたにもかかわらず、なんとなく、ただ何となく、軍部の雰囲気に飲まれて真珠湾攻撃となってしまった。
そこには積極的でなおかつ好戦的な論議もなく、又逆に戦争回避を促す非戦の立場で論理的に筋の通った議論もなく、ただなんとなく沈黙のうちに戦争することが決まってしまった。
我々のうちでは政治を「まつりごと」と称しているように、政治というのはお祭りと同じなわけで、神輿を担いでいるほうが面白いわけである。
その神輿が結果として国民を幸せにする方向に向かっている時はお祭り騒ぎで済むが、これが逆の方向に向かうと、国民の恨みは神輿の担ぎ手に一気に覆いかぶさってくるのが当然である。我々の場合、神輿の担ぎ手というのは一人か二人の独裁者ではないわけで、大勢がワッショイワッショイとやっているものだから恨みの持って行き場が特定できないわけである。
東京国際軍事裁判というのは、勝った側が勝った側の論理で、「こいつが我々にとって悪人だ!」と思った人間を、勝った側の裁量で決めて、勝手に裁判を行ったものである。
我々の内側から、同胞を奈落の底に転がり落とした者を、我々、同胞の手で糾弾するということは未だにやっていないが、我々は勝った側がやった裁判で納得してしまっている。
考えてみれば、戦争という神輿を日本人全部で担いでいたわけだから、我々の手でその張本人を暴きだすということは不可能かもしれない。
あの戦争の犠牲者というのは何も我々の側だけにあるのではなく、アメリカ側にも相当の犠牲者がいたはずであるが、戦後の日本の知識人というのは戦争の犠牲というのは日本人だけで、アメリカには犠牲者はおらず、だからアメリカはいつも好戦的だと思い違いをしている向きがある。
イラク戦争が勃発して1周年になるということであるが、あの戦争にアメリカが積極的に取り組んだことに対して世界中が快く思っていないが、アメリカのこういうパッション・熱意が建国300年でアメリカを世界一にまで押し上げたエネルギーではないかと思う。
日本の知識人というのは日本の中だけで売文業を生業としているので、彼らは口先で奇麗事をいっていればそれで生活ができるわけである。
2001年の9・11事件はアメリカにとっては屈辱的な事件なわけで、その時即座に「これは新しい戦争だ!」といったブッシュ大統領の見識は相当なものだと思う。
我々にとっては対岸の火事で済ませておれるが、あの事件の犠牲者の中には同胞が居たにもかかわらず、その同胞を痛む気持ちは毛頭無く、対岸の火事として、傍観者の一人として、「テロに対する報復は新たなテロを生むから慎むべきだ」とテロを容認するような発現を平気でしている。
アメリカはテロの可能性を徹底的に潰そうとしているわけで、アフガニスタンにテロの芽が出ればそこは叩くし、イラクのサダム・フセインがテロ集団を匿っている可能性があれば、当然叩き潰すわけである。
理由など後から何とでもくっつけるわけで、テロをされる前にその矛先を叩き潰すのがアメリカ流の合理主義なわけである。
それでなければアメリカ大統領として、アメリカ国民の安全を保証することにならないわけで、テロが再び起きて再度アメリカ国民の犠牲者が出てからでは遅いわけである。
日本の知識人はその時アメリカは他国民の犠牲の上にアメリカの国益を優先させていると非難するが、テロ集団を匿うような人々をテロ集団と選別して考える論理はアメリカ側にはないわけで、テロ集団を匿うような人々はアメリカから見れば全部同じ敵とみなしているのである。
現時点でまだアルカイダのオサマ・ビンラデインが捕まっていないが、彼を匿うような人々は当然オサマ・ビンラデインと同じ敵とみなされても致し方ない。
アメリカの攻撃に晒されたくなかったら、オサマ・ビンラデインを捕捉してアメリカに突き出せば無関係な人々に対する無益な殺傷は即時なくなるのである。
今回のイラク戦争というのは完全なる西部劇の論理である。
単純明快、勧善懲悪の論理であると思う。
21世紀においてはますますこういう単純明快、勧善懲悪の論理が大切になってくると思う。
我々の同胞の進歩的知識人は、これからの世界はグローバル化が進み、ますますボーダーレスになり複雑化してくるといっているが、東西冷戦が終焉した今日、世界は極単純に区分化されてくるように思う。
きちんと整った近代国家と、未開の前近代的な主権があるのかないのか判らないような曖昧国家に分離するのではないかと思う。
こういう状況下で、世界的規模のテロ集団というのが未開の国から出てきては近代国家に痛撃を与え、又未開国家に逃げ込むということを繰り返すのではないかと思う。
イラク戦争でフセイン亡き後のイラクというのはまさしく未開国家で、治安状況が極めて悪いが、それをアメリカの所為にしている日本の識者がいる。
イラクの治安はイラク人が正常にすべきで、アメリカはアメリカの論理で悪党狩りをすれば良いのである。
イラクの治安とアメリカ軍の悪党狩りとは直接は関係がないわけで、イラクで起きているテロ行為はイラク人が押さえ込むべきである。
テロの標的がアメリカ軍に向いていれば当然アメリカ軍としては報復するわけで、それはイラクの治安問題とは関係ない話である。
イラクには宗教対立が激しくスンニ派だとか、シーア派だとか、クルド人の問題とか、我々門外漢にはわからない複雑な問題を抱え込んでいることはよく理解できるが、イラクの治安回復はイラク人の問題だということは誰が見ても当然なことで、こういう単純明快なことが出来ていないということは未開国家といわれても致し方ないと思う。
中国と同じように人類誕生の時からの歴史を引きずっているイラク人が、たった300年の歴史しか持たないアメリカにいいように料理されて、彼らの誇りというのは一体何処にいってしまったのであろう。
歴史の長さで文明の度合いを測れるものではないが、今のイスラム圏の人々がアメリカに楯突いているのは、イスラム文化圏の人々はキリスト教文化圏の人々から抑圧されている、という思い込みからその反発が具現化しているわけである。
だとすればイスラム文化圏の人々は、キリスト教文化圏の人々をしのぐような文化的発展をしなければならない。
ところがイスラム圏の人々の考える文化の度合いというのは、あくまでもイスラムの教えに従順たらんと欲するあまり、現実の生きた人間の欲望と衝突してしまうわけで、その衝突の具体的な表現として、テロという手段にならざるを得ないのである。
科学技術というものは精神活動とは相容れないもので、宗教に固執すれば科学的な発展は望めないのである。
宗教は個人の心の平安を満たすことは出来ても、人々の欲望を押さえ込むことは出来ないわけで、キリスト教文化圏の人々は自らの欲望を満たそうとするときには宗教を少し脇において、先に自らの欲求を満たしておいてから心ばかりのお祈りをして懺悔するわけである。
ところがイスラム圏の人々は、自分は一生懸命お祈りをしているのに欲望が満たされないのはアメリカの所為だと思い違いをしているのである。
だからイスラム圏では、我々の認識でいうところの主権国家が、国家のプロジェクトとして文化の発展、科学技術の推進に力を入れないので、国家としての正面戦争は仕切れないわけである。
お互いに同じ武器で堂々と渡り合うということはありえないのである。
あまりにも格差がありすぎて最初から勝負にならないのである。
だからテロという方法でしか近代主権国家に太刀打ちできないわけであるが、テロというのは実に卑劣な戦いの手法であって、その卑劣という部分では恐らくイスラム圏でも同じ認識ではないかと思う。
人間が古典的な考え方をすればするほど、テロの卑劣さというのは比重が重くなるはずで、アルカイダというテロ集団がそういう方法でしか異文化に対して挑戦する手段を持たないということは、実に文化の度合いの低いことだといってもいいと思う。
イスラム教というのも基本的には誇りある宗教ではなかったかと思う。
ところがマホメットの教えをあまりにも熱烈に抱え込んでしまったので、考え方の多様性を失ってしまった結果ではないかと思う。
聖戦だとか、ジハードなどと称して無意味な殺生を繰り返すこと、そのことが人間の考え方の多様性を否定している証拠である。
傍観者としての日本人は、アメリカの独断専横を糾弾して止まないが、もともとは
9・11テロというものがなかったならば、その後のアフガニスタンもイラク戦争もなかったわけで、我々はものの本質をきちんと見据えなければならないと思う。
平和ボケの日本では、アメリカの悪口をいくらいったところで、それで抑圧されることがないので、言えばいうほど文化人としての価値が上がる不思議な国である。
「アメリカは国連の決議もないまま戦争をしたからけしからん」といってはばからないが、アメリカから国連を見れば、国連など屁とも思っていない筈だ。
所詮は烏合の衆のおしゃべりサロンぐらいにしか見ていないわけで、超大国のアメリカと、吹けば飛ぶような泡沫国家が一堂に会したところで意味を成していないと常日頃思っていたに違いない。
第2次世界大戦というのは、かくいうアメリカも大きな犠牲を強いられたわけで、その犠牲を少しでも満遍なく世界各国に分担させよう、というぐらいの気持ちで国際連合というものができたに違いない。
日本が戦前の国際連盟を威風堂々と脱退したように、時と場合によっては何時でも脱退する気で居るものと思う。
国連のいうことを聞いていたら、アメリカ国民の安全とアメリカの国益が脅かされないと考えているかもしれない。
だからアメリカは自分の都合に合わせて国連というものを利用しているに過ぎず、第2次世界大戦後でも朝鮮戦争は国連軍という名目ではあるが実質アメリカ一国で戦ったようなものだし、先の湾岸戦争も全くそれと同じ図式であった。
ベトナム戦争となると、戦う相手が国連の一員であったのでこれは国連軍になりえないわけで、国連、国連といったところで所詮その程度のものに過ぎないわけである。
それは兎も角として、このワシントンはアメリカの政治の中心地である。
政治の中心地にふさわしく色々なものがあるが、その中でも偉容を誇るのがリンカーン記念館である。
この建物に行く前にタイダル湖という池に立ち寄った。
この池が例によって日本からアメリカの首都ワシントンに桜が送られ、その桜が生きているところで、我々の認識ではワシントンのポトマック川の河畔という風に聞いているが、この池そのものがポトマック川と繋がっているので実質此処で花見が行なわれるらしい。
我々の行った日にはまだ「つぼみ固し」と言った所であったが、この2,3日非常に暖かい日が続いたので開花も間近であろうということであった。
ワシントン市内では部分的に満開になった木も見受けられた。
この桜は日本が日露戦争の調停をアメリカに依頼して、その御礼として3千本送られたとガイド氏は言っていた。
その後沖縄返還で再び2千本の桜が送られたという話である。
日本から桜の送り先はワシントンだけではなく、ニューヨークにも同じように送られたが、こちらの方は全部枯れたそうである。
そして日米開戦の1941年には、夜間この桜を切る者が現れたらしいが、日系人たちが自分の体を木に縛り付けて、「私を殺してから木を切ってくれ」と懇願したので、それ以降そういう行為は収まったとガイド氏が言っていた。
それで再び日米開戦の話になるが、あの真珠湾攻撃が起きたとき、こちらに居た日系人の心境はどんなものだったろうと気になってガイド氏に聞いて見ると、数字としてははっきりしていないし確たる証拠もないが、相当の人が自殺したということらしい。
無理もないことだろうと思う。
そういう贖罪の気持ちがこちらに住んでいた邦人の間には強く、その裏返しの現象として、2世部隊としてヨーロッパ戦線で勇猛果敢に戦った若い二世たちの存在があったものと考える。
そしてこういう我々の行動、日本民族としての行為と行動が、アメリカ人における日本に対する警戒心を強めたものと推測する。
アメリカ人が他民族を迫害、圧迫したのは日本人だけで、中国人や黒人や、ヒスパニック、ネイテイブ・アメリカンの人々を抑圧したことはない。
ところが日本人だけはアメリカ人から抑圧され、迫害され、隔離された歴史があるということを忘れてはならないと思う。
それは当時の日本人の行いそのものがアメリカ人に対して非常に警戒心を起こさせていたからだと思う。
彼らは何に対して警戒心を持ったかといえば、それはもしかしたら日本人は彼らを超える存在になるかもしれない、ということを畏れていたのではないかと思う。
中国人や、ヒスパニックや、ネイテイブ・アメリカンはいくら数が多くても白人、いわゆるWASPを超える存在となる心配はないが、日本人だけはうかうかすると白人社会を凌駕してしまうかもしれない、という恐怖心を持っていたのではないかと思う。
だから彼らは敢て日本に対し戦争を仕掛け、再び立ち上がれないほどのダメージを植えつけることに専念したわけである。
戦後の日本の知識人たちは、あの戦争は日本が仕掛けたものだと思い違いをしているが、この自虐史観というのは一体何処から来ているのであろう。
あの戦争で勝った側の敵の総大将・マッカアサーが「絹織物以外産業を持たない日本は、あの戦いに踏み込まざるを得なかった」と我々の立場を擁護する発言をしているのに、何ゆえに負けた側の我々が「侵略であった」と言う必要があるのか。
あの戦争は、アメリカ側はしたかった戦いであったが、我々は避けるべき戦いであった。
にもかかわらず、まんまとアメリカの術策に陥って、開戦に踏み切った遠因は、我々の側の無知によるものだと思う。
戦後は反戦平和が日本の知識人たちの共通分母として定着しているが、こんなことは世界中皆同じなわけで、赤ん坊から幼児に至るまで、平和を好まない民族などあるわけがないのに、さも自分たちだけが平和の使徒のような振りをして声高に叫んでいるバカが、自分がバカであることに気がつかないのと同じで、物事を冷静な目で見れば赤ん坊でもわかることをさもインテリぶった表現で語っているだけである。
これと同じ類の無知が、我々を奈落の底に転がり落としたのである。
この池の傍にリンカーン記念館というのがあって、この建物は大理石で出来ており、周囲に柱が36本並んでいると説明された。
それはリンカーンの治世のときはまだアメリカは36州しかなかったので、その数の柱が建物を支えているということである。
あの南北戦争もリンカーンの治世のときであったと記憶しているが、その戦いでは双方で50万人の犠牲者が出たといわれている。
この数字はアメリカ建国以来ないということである。
南北戦争の時の様子は「風と共に去りぬ」の映画の中で描かれているが、大体あれを想像すればいいと思う。
結果として北軍が勝って、負けた南部諸州が黒人を解放したまでは良いが、解放された黒人は、自分たちで生きる術を探さねばならず、こういう人々が大挙してこのワシントンに集まったといわれている。
リンカーンの黒人解放も、戦後の我々の同邦の進歩的と称する知識人の発想からすれば、非常に良い事に映るだろうけれど、現実に解放された黒人というのは、その日から路頭に迷ったに違いなかろうと思う。
彼らはアフリカの原野から連れてこられて、農場で働かされていたので、日本人の発想からすれば、「可哀相だ!」という感情論が先に立つだろうが、彼らにしてみれば元々無学文盲なわけで、いきなり「お前達は自由なのだから好きなところに行け」といわれてもさぞ困ったに違いないと思う。
それにアメリカに限らず、農業というのは集約的に人手がいるわけで、それゆえに農業国というのは封建主義的にならざるをえないものと思う。
ところがアメリカでは黒人奴隷というものが居たので、封建主義というものを形成する必要がなかった。
同じ民族の中でヒエラルキーを作る必要がなく、その部分を黒人奴隷が形成していたわけである。
ところが我々の国をはじめとするアジアの農業国では、耕作を管理する側と、マネジメントを受けて労力を提供する側というのが同じ集落の中に存在していたので封建主義というものが生まれ、それに依拠した考え方として封建制度というものが出来てきたわけである。
リンカーンは奴隷解放の推進者であったので、それがため逆に暗殺される嵌めに至った。
暗殺されたことで、ますます評価が高まって結局これほど立派な記念館に納まるということになったのであろう。
建物も立派ならば中のリンカーン自身の石像も実に立派なものである。
ケネデイー家の墓が案外質素なのに、このリンカーンの記念館というのが法外に立派なのは一体どういうわけなのであろう。
そして此処は政治の町で、イラク戦争経過後1周年ということで、新たなテロの警戒が厳しく、あらゆる場面で警備の強化がなされ、あらゆる公共施設が防護のための補強を迫られている。
ガイド氏は車を運転しながら説明に余念がないが、折角来たホワイト・ハウスも、国会議事堂いわゆるキャピタルというのにも入ることができず、車の窓から見るだけで終わってしまった。
アメリカでは納税者に対して公共の施設は情報開示をしなければならないそうで、それでホワイト・ハウスでも国会議事堂でも公開されていた。
ところが9・11事件以降は、テロに対する防止措置ということで非公開になってしまったといわれている。
あの事件は行政サイドに情報開示を拒む立派な理由を与えてしまったわけで、これが民主主義に逆行していることは誰の目にも明らかであるが、テロの防止という大義名分を出されると、市民サイドとしては協力を拒むわけにはいかない。
9・11事件と同じようなテロを再び引き起こす可能性のある組織は、アメリカ国家として放置しておくわけには行かないのも無理ない話だと思う。
国連が何と言おうとも、アメリカ単独でも、ああいう組織を叩き潰す戦いには敢然と立ち向かうというのがアメリカの潜在意識としてあるわけで、誰が大統領になろうとも、結果的に同じことをしていると思う。
このワシントン郊外にある国防総省、通称ペンタゴンも、あの攻撃にさらされたわけで、再びああいう攻撃にさらされない措置というのは拒否のしようがないと思う。
ワシントンというのは政治の町で、街中のいたるところにある公園には夫々に凝ったモニュメントが添えられている。
その一つ一つにはそれなりに曰く謂れがあるのだろうけれど、今回はそれを探索する閑はなかった。
街中をガイド氏に説明されるまま、あっちを見たりこっちを見たりしている間にスミソニアン航空宇宙博物館に到着した。
此処が飛行機を集めた博物館ということは前から知っていたので、一度それを見てみたいと思っていたものだが、去年の年末にそれの別館がダレス空港の近くに出来た。
展示されている飛行機の数は、新しく出来た方が多いとされているが、それでもその本館なるものを見ないことには先に進めない。
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ガイドの高橋氏はワシントン市内を一通り案内してくれた後で、キャピタルの前を西に走っているモールという公園道路に面したほうからスミソニアン航空宇宙博物館に車を付けてくれた。
此処で1時間半ばかりの自由時間を取って、再度その入り口で落ち合うという約束で我々は博物館の中に入った。
このスミソニアン博物館というのは一切入場料というものを取らないということである。
その代わりといっては失礼だが、警備上のボデイー・チェックは厳しく、空港で行なわれているものとほとんど同じ規模で荷物検査から身体検査まで遺漏なくなされた。
時節柄致し方ないものと思う。
この時は館内に入って先ず最初に腹ごしらえをせねばならず、真っ先にフード・コートに行ったが、アメリカの食事というのは実に大雑把で、大きな箱に入ったサンドイッチとコーヒーのスモール・カップで、それを腹に流し込むほかなかった。
此処に収められている展示物は、歴史的に有名な機体ばかりだということは理解できるが、私はライト兄弟の最初の飛行機などという古典的なものにそう興味を持つほどのマニアではない。
しかし、此処では飛行機の発達の段階を判りやすく展示するように心がけているに違いなく、そういう類のものが豊富にそろえてあった。
特に、ライト兄弟が最初に飛行したフライヤー号の展示が此処の目玉となっているとのことである。
それが1903年のことで、昨年が人間の飛行100周年という経緯から、このフライヤー号に話題が集中しているという感じがする。
そしてこのフライヤー号にまつわるエピソードとして、最初はライト兄弟と博物館側との間で何か見解の相違があって、素直に展示にこぎつけたわけではなく、この人類最初の飛行機というのはヨーロッパで展示されていたものを、その後の交渉の結果ここに持ってくることになったということらしい。
私にとってはこの凧に毛の生えたような人類最初の飛行機は左程感心の持てる代物ではないが、この博物館の一番目に付く特等席に展示してあった。
世の中でいわゆる博物館に展示されるということは、それなりの曰く因縁があるものと考えていいと思う。例えば、この航空宇宙博物館に展示されるという事は、その機体がなにかしらユニークな存在であったからこそ展示されるわけで、その意味からリンドバークが最初に大西洋を横断した「Spirit of St,Louis」という機体は一見に値する。
このリンドバ−クの偉業は「翼よあれがパリの灯だ」という映画にもなってジェームス・スチュアートがリンドバークの役を演じていたと記憶する。
あまり大きな機体ではなく、セスナに毛の生えた程度の機体であったが、大西洋を飛び超えるため、燃料を一杯積み込んで離陸に苦労したという筋書きだったように思う。
大西洋を無着陸で飛ぶために窓があまり大きくなく、長時間のフライトのため一人で孤独と睡魔と闘っているとき、一匹のハエがパイロットの気を紛らせるというエピソードを含ませた作品だったように覚えている。
このフライヤー号の右の方にはDC−3の機体がそのままの形で天上からぶら下がっていたが、この機体もその生産数という点からして実に世界の名機というに十分に値すると思う。
正確な生産数は知る由もないが、私の記憶が正しければ、この機体は私の年齢と同じ年数を重ねているはずである。
つまりこの飛行機の初フライトは63年前の1940年だったと思う。
私がオギャアと生まれた頃に生産が開始され、恐らく第2次世界大戦が終わる頃まで生産が続けられ、後発の飛行機が開発されてもなお飛び続け、今でも世界のどこかで空を飛んでいるのではないかと思う。
余分な塗装は奇麗に剥がされて、ジュラルミンの地肌はぴかぴかに磨きこまれ、いかにも空を飛んでいるかのような形で展示してあった。
入り口をはいった左側にはロケットが幾つか展示してあったが、ロケットというのは味もそっけもなく、全く面白くもないものだ。
ただただ燃料タンクのドン殻に過ぎず、ロケット・エンジンといったところで酸素と水素の調合コントローラーに過ぎない。
技術的には非常な困難をともなう新技術の集大成であろうことは理解できるが、出来上がったものとしては、造形の美しさにも欠け、人を魅惑する目に見える形としては面白さに欠ける。
どれを見ても皆同じに見えてしまう。
ただしフード・コートの手前に展示してあった月着陸船というのは異様な形をしており、しかも金色に輝いていたので、これは不思議な造形をしていた。
此処で私が一番面白く尚且つ私の興味を引いたものといえばSea-Air Operationsというコーナーであった。
2階のフロアーの隅にあった展示室であるが、周囲を空母の艦内に見立て、そこに艦載機が2機置いてあった。一機はA6もう一機はA4だった。
飛行機そのものは左程珍しいものではないが、ここでは着艦フックのワイヤーが見たかった。
我々は映画でしか空母に艦載機が着艦する光景というものを見ることがないので、そういう映像で見る着艦のシステムというものが見たくて期待を持って覗いてみたが、実質はワイヤーの切れ端だけしかなかった。
この博物館は私には非常に興味あるところであるが、この日に限ってはガイド氏と約束もあるので1時間半ぐらいの見学で外に出た。
しかしスミソニアン博物館というのは名にしおう立派なもので、しかも入場料を取らないというところはいかにもアメリカ式に太っ腹だと思う。
ガイド氏の説明によると、アメリカは建国の歴史が浅いということを国民的なコンプレックスと考えている節があって、そのために文化的には非常に背伸びした発想をしがちで、アメリカの政治と文化の中心地として此処からアメリカの文化を広範に普及せしめるためにこういうものをただにしたといっていたがかなり正確な観察かも知れない。
私の実感としても、ものを知らないということは実に悲しいことである。
私はスミソニアン博物館という単語をうろ覚えで知っていたが、これは一つの博物館だと思い込んでいた。
それで今回、旅行するに当たって少々調べてみると16もの博物館を統合したものということが判った。
要するに多くの博物館を統合するスミソニアン協会というのがあって、その協会のもとに16もの博物館が管理運営されているということである。
そのうちの9つがワシントンの議事堂からワシントン記念塔の間のモールと呼ばれる通路にあり、他のものはワシントン市内をはじめとする各地に存在するとなっている。
その上、このスミソニアン協会そのものがイギリスの科学者ジョージ・スミソンという人の寄付で設立されたということである。
1845年の事という。ぺりーが浦賀に来航する前の話である。もう既にその時からアメリカではイギリス人の寄付により知識の向上と普及のために博物館というようなものが設立され、それが民間の力で運営されていたという事はまことに驚くべきことだと思う。
我々は悠久の歴史を持っていると思い込み、アメリカには歴史がないと思い込んでいるが、この発想の違いは歴史の長短では測りきれないし、歴史の長短など人類の貢献を測る尺度には全く関係ないし、意味を成していない。
民族の繁栄と衰退は、その民族のもつ歴史の長短ではなく、バイタリテイーの有無だと思う。
国家の繁栄は民族の底力によるもので、国民のバイタリテイーと発想の柔軟性にあるのではないかと思う。民族の繁栄と国家の繁栄とは別のものではないかと思う。
優秀な民族だから繁栄するのではなく、優秀な国民だからこそ国が繁栄するわけで、国の根幹をなす国民というのは、民族とは関係なく、その国の中に生きる人々の生きがいそのものではないかと思う。
不思議でならないのは、アメリカという国の基礎が今でいうところのグローバルな影響力の上に出来上がっているというところである。
ワシントンという都市そのものが、アメリカ人のみならず西洋列強の力を融合した形で出来上がっており、その街にイギリス人がイギリスの立場からすれば植民地のような新興国に、知識の向上と普及を促す施設を作る、という発想は今日的な考え方からしてもかなり積極的なグローバリズムの具現だと思う。
アメリカは確かに旧ヨーロッパの人々からすれば新天地であり、新世界であったろうと思う。
我々はアメリカというものを第1次世界大戦では孤立主義を守り、第2次世界大戦では連合国の主要メンバーとして存在し、冷戦では旧ソビエットに勝利し、今は世界に独善を押し付ける国という捉え方をしているが、アメリカのバイタリテイーというのは決して侮れないものを持っていると思う。
このバイタリテイーが何処から来ているのかと問うてみると、案外それに言及したものがないように思う。
私見ではアメリカ大陸、いわゆる新大陸、新世界に渡ってきた人々が「自分の意志」で来たというところが、バイタリテーの源泉として大きく作用しているのではないかと思う。
西洋列強がアジアやアフリカに植民地を開いたのは、その当時の国家の意志で、統治者の国益追求の結果として、富の獲得を目指していたのに反し、アメリカ大陸というのは個人レベルの意志で人々が渡ってきたという点に大きな相違があったのではないかと想像する。
個人レベルの意志で新天地に渡ってきた以上、国家の保護を求めるわけには行かず、あらゆる艱難辛苦を自分たちで解決しなければならなかったに違いない。
それが精神的なバックボーンに存在していたので、頼りになるのは自分の力しかなく、そのためには銃で我が身を守り、それは同時に敵を倒すことにも繋がり、銃社会が出来上がったと思う。
ところが自分たちの仲間が多くなると、仲間内の意見の相違のたびごとに殺し合いをしているわけにもいかず、自治という発想が自然派生的に生まれ、自治を平和的に維持しようとすれば、お互いが法の遵守ということに努めなければならなくなったものと考える。
その上、海を渡ってきた移民ということで、既存の権力者というものが存在してなかったので、統治という行為に対して、自らの生命、財産をそれを専門に管理する者に付託する、という意識が人々の間に大きく作用していたものと考える。
だから統治する側に自分たちの命を預けているのだから、常に統治するものを監視するという意識が大きく働いており、それは同時に統治するものが決めたルールには黙って従う、という心構えとして作用していると思う。
この法に対する感覚の違いは、我々日本人では埋めることが出来ないのではないかと思う。
我々は太古から連綿と農耕にいそしみ、生れ落ちたときから同胞に囲まれ、同じ同胞の中で成育し、同胞の社会に埋没するわけで、その同胞というのは大昔からの風習ないしは習俗の中で生きているわけである。
自らを自分たちの意志で管理する、統治するという発想は決して生まれてこないのが当たり前の世界に生きているわけである。
住民自治という概念すら我々にはないわけで、戦後アメリカ流の民主主義というものが流布されると、「民主主義とは個人の我儘を押し通すことだ」と勘違いし、住民自治とは「地域エゴを押し通すことだ」と勘違いするようになったわけである。
我々、日本民族は農耕にいそしむ民族なるが故に、和の精神には長けているが、和の精神と民主主義とは両立しないと思う。
民主主義というのは過酷な面を持ち合わせており、少数意見は抹殺するという殺伐な面があるにもかかわらず、我々はその過酷な面を冷酷に切り捨てることに躊躇して、八方美人的な奇麗事で済まそうとするから、「皆の合意で!」という発想になるが、それならば民主主義というものを真っ向から否定していることに気がつこうとしない。
だからこの地に移ってきた人々は、法というものは自分たちの都合に合わせていくらでも変更、改革、改善するのがあたりまえで、それは人間の理性でコントロールしうるものだと思っている。
ところが我々の場合は生れ落ちたときから因習、風習、風俗というものが存在していたので、それは法を超越してしまっていたわけである。
だから自分たちが生きていくうえで都合の悪いことは法で規制し、押さえ込もとし、それが行政の責務と勘違いしており、そういう民衆の願望に応えない行政はけしからんというわけである。
行政とか統治とは、自分たちを安逸で、豊な生活を維持することを保障するもので、それに応えきれない行政、統治というのは江戸時代の悪代官と同じだ、という発想に繋がるわけである。
自分たちは統治されながら、行政側乃至は統治する側に対して善政を期待し、それはお上の慈愛深い思し召しと、庶民を愛する慈悲の心で、上から降り注ぐ恩恵でなければならなかったのである。
自分たちが下から築き上げるものではないわけである。
現在ある法を少しでも改正しようとすれば、意見としては当然反対意見というものが出てくるわけで、それを多数決で決めるという事は極めて冷酷なことだと思う。
我々のように「少数意見を尊重しなければ!」といっていれば、民主主義そのものが存在しきれないと思う。
だからその部分を我々は「和を持って尊としす」と言って誤魔化しているわけである。
「誤魔化す」という言葉は言いすぎであって、我々は誤魔化すつもりで言っているのではなく、それが習慣の中に埋没してしまっており、生活そのものとなっているのでいる。
だから多数決助原理を完全に捨て切れないまま、民主主義に則って何事も奇麗事で解決しようとするから、合議ということになり、合議とは言葉を変えれば談合ということになり、ここで良心とモラルが衝突し、軋轢が生まれるわけで、それが結果として曖昧な結論となり物事は一向に前に進まず先延ばしで終わるということである。
大英帝国から見て植民地に等しいアメリカに、知識の向上と普及のために、宗主国の人間が私財を投ずるということは限りなく意義のあることだったと思う。
そしてその目的のために、今日に及んでも博物館が入場料も取らず、何の偏見もなく来た人に公開するということは真に以って懐の深い行為だと思う。
博物館の維持管理には金が掛かるということは理解できる。
スミソニアン博物館の入場料が無料ということは、その金の掛かる部分をスミソニアン協会が工面しているということで、こういうところが実に合理的というか、立派なことというべきか、我々には発想も出来ないところである。
我々の場合、どんな小さなちゃちな博物館でも必ず入場料を取り、それで館が維持されていると考えて、入るほうも何となく納得してしまうが、中には金を払って見るに値しないようなところも多々ある。
この感覚の相違は、「知識の向上と普及」にどれぐらいの公共性を認めるかという問題だと思う。
公共性という問題に主題がスライドすると、我々は大いに反省しなければならない。
特に戦後の民主教育で成育した我々よりも若い世代には、この公共性という問題を真摯に考えてもらう必要があると思う。
博物館に関して公共性ということを考えれば、当然それは教育と繋がっていると思う。
西洋列強、いわゆるキリスト教文化圏において、公立の学校と私立の学校では公立のほうがレベルが低く、私立のほうが高いとされている。これは無理もないことだ。
公立学校というのは無学文盲の児童にミニマムの教育を施すことに主眼があり、余裕のある金持ちは私塾的な教育機関に子供を預け、英才教育を授けることが普通の認識として普遍化しているからである。
明治維新で西洋に追いつけ追い越せの掛け声と共に、我々も西洋の教育制度を模倣したとき、我々のおかれていた状況も、無学文盲の一般大衆に広範な知識を早急に普及させねばならない、という大命題に早急に応えるために日本全国津々浦々に公立の学校を作った。
ところがこれで培われた日本人の精神構造というものは、富国強兵を目的とする挙国一致体制に順応する従順な国民を作ることであったわけで、それがあの第2次世界大戦が終わると全否定されてしまったわけである。
ところが、戦前の教育理念というものが全否定されたにもかかわらず、制度としてのシステムと教育至上主義はそのまま残ってしまい、ここに我々の曖昧さがあって、理念と現実が乖離してしまったわけである。
明治維新の頃の無知蒙昧な一般大衆を、限りなく高踏的な人間に仕立てることが「善」であるとする価値観は戦前にはそれなりの意義があった。
そして戦争で負けると、占領軍が押し付けた民主教育というお題目を金科玉条として、「国民には教育を受ける権利がある」という左翼思想が無知蒙昧な国民の中に浸透して、能力の有無に関係なく、行きたいものにはことごとく高等教育を受けさせるのが国家の義務だと思い違いするようになってしまった。
だから味噌も糞も一緒にしてしまったので戦後の教育界が混乱したわけである。
それと戦後の民主化の象徴としての平等主義が共鳴しあって、学校間の格差を否定しながら、人の形をしたものはすべからく高等教育まで公の費用で、つまり公立で賄わなければならないという考えに至ったのである。
これは完全なる共産主義社会を目指そうとする発想である。
教育を受けることを「国民の権利」と言ったものだから、その対極には教育を授けることが「国家の義務」となってしまったわけである。
だから高校でも大学でも行きたいという人間は皆行かせることが国家の義務となってしまったが、進学希望者の全員に高等教育を受けさせることは物理的に不可能なわけで、それを補完する意味で私立というものが許されたまでは良いが、これが今度は金儲けの手段に転化してしまったわけである。
いわゆる私立というのは、そういう公立には入れきれない、またはついていけない子供を収容する補完的な施設であると同時に、事業者にとっては教育が金儲けの手段として十分利益を上げられるという認識にたどり着いたのである。
我々、今に生きる日本人の最大の失政は、戦後の日本の教育現場を共産主義者に開放したことである。
何の偏見を持たない純白な児童の頭に、日教組のメンバーが共産主義の偏向教育を行なって良い訳がないではないか。
それは戦前の教育現場において軍国主義が教え込まれたのと裏返しの現象で、こういう平衡感覚の欠如が明治維新以降、日本の国民が教育の公共性の名の下に、時流によって右にいったり左にいったり、人間として確たる倫理を喪失し、大河の岸辺をくるくる回りながら流れ続ける浮き草と同じで、ただただ我が身の安泰のみを願う人間を形成してしまったわけである。
右に行って奈落の底の転がり落ち、左に行って根無し草のように、自尊心も、名誉も、民族の誇りも、祖国の概念も失った堕落人間を作ってしまったわけで、これは人が生きる上で自らの能力で自らを開拓するという生き様を知らないものの有態ではないかと思う。
常に周りの物が気にかかって、左を見ては我が身を振り返り、右を見ては我が身を嘆く種族の習い性で、それは人間性の回復という一見進歩的に見えるスローガンを刷り込まれてしまった結果だと思うし、これが曖昧な生き方しか出来ない我が民族の現実の姿だと思う。
我々は生れ落ちた時から同胞に囲まれているわけで、それはぬるま湯の世界であり、殻を打ち破るにはあまりにも危険と思い込んでおり、冒険する勇気がないにもかかわらず、周りを見ると我が身のみすぼらしさが気になって、それに追いつき追い越せという発想に至ったものと思う。
だから目標が目の前にあって、それに追いつき追い越せと努力している間はまだいいが、自分が先頭になってしまうと、さてこれからどう身の振り方を処したらいいのか皆目見当がつかなくなってしまうわけである。
教育の公共性というものは無知蒙昧な民衆に、ミニマムの教育を授けることにあったわけであるが、無知蒙昧でない人に対する本当の教育というのは、公共性の高い施設を利用して、私塾的な英才教育を施すことでなければならない。
勉強の嫌いな子に権利だからといって無理やり押し付けるものではないと思う。
将来、焼き鳥屋の親父や、喫茶店のマスターになろうという人に高等教育を受けさせるということは国費の無駄である。
教育は「国家の義務」だと言いながら、それを受ける側はブランドとしか認識していないわけで、学歴は人を測る時の「箔」としての価値しかないわけである。
本来ならば大学の施設、特に国立大学の施設というのは国民の納めた税金で出来ているという点からしても最も公共性の高い施設でなければならない。
納税者ならば誰でも接することの出来る施設でなければならないと思う。
日本の大学の序列というのは、この公共性の高い施設を私物化している結果ではないかと思う。
国立大学の中の研究というものは、本来ならば一般に公開されていなければならないと思う。
興味と感心のあるものならば、誰でもそこにいって研究し、触って、実験して、意見交換をして、論文をまとめて、公表してもいいはずである。
入学試験を課して、篩をかけ、それの利用を限定した人間に限ってしまうことは、学問の公共性、大学の公共性に反していると思う。
スミソニアン博物館というのは正に教育の真の理念を見事に具現化しているものと思う。
創始者のジェームス・スミソンという人間もそういうことを願い、期待してこういう施設を作ったのではないかと思う。
日本にも私財を投げ出して博物館を作った人は大勢いる。
ブリジストン美術館、大原美術館、等々枚挙にいとまないが、惜しむらくはこういう美術館、博物館というものが富の自慢たらしく見えるところである。
創始者の側は決して自分の富をひけらかすために行っているのではないと云うだろうが、腹が見え透いているように思われる。
その証拠に入場料を取っているではないか。
入場料は館の維持のためのミニマムの経費の捻出だというだろうが、ここに我々の欺瞞がある。
それは我々の倫理観の中に、富をひけらかすことは意地汚い行為だと思う潜在意識があって、それを取り繕うために、入場料はミニマムの経費だと奇麗事をいって、言いつくろおうとするわけである。
我々はこれだけ儲けたのだから、儲けさせてもらったお礼に、これだけのものを寄付します、と堂々と言えばいいのである。
そういう事をしたのがロックフェラーであり、カーネギーであり、スミソンであったわけで、日本でもそういう寄付の形で公共の用に供されている施設というのも数えてみれば案外ある。
例えば浜離宮とか、徳川園等々は将軍家から、つまり徳川家からの寄付で今日まで来ているが、如何せんこれは封建制度の落とし子の様な物で、上からの授かり物の域を出るものではない。
教育論はさておいて、ガイド氏との約束で外に出てみると、次にホテルに案内してくれた。
その車中でその後のオプショナル・ツアーの話をした。
翌日、我々はダラス空港の近くにある新しい航空宇宙博物館に行くことを話し、そして次の日にはアナポリスにあるアメリカ海軍兵学校の見学をするつもりであることを彼に話した。
そして案内されるままホテルに入った。
ホテルはワシントン市内から少し離れた大きく立派なホテルであった。
ワシントン市内で休憩をした折、街中に満開の桜の木があったのでその下で夫婦でお互いに写真を取り合った。
車中から窓外を見ると満開の桜のように見える木がある。
よくよく見てみると、それはもくれんの木であった。
こちらではもくれんが大きく育って、それが一斉に開花すると遠目には桜と見間違う。
一服してから外に食事に出かけた。
このホテルはコンベンション用のホテルで、我々の滞在中も何か大きな会議があったようで、ホテル内も町中も同じ体裁の本を抱えた人たちであふれていた。
ホテル内のレストランよりも街中で食事をしたほうが得策だと聞いていたので早速ホテルから歩いて外に出て、散策がてら食事をするところを探した。
ホテル・マリオッド・ウオードマン・パーク・ホテルというのは小高い丘の上にあって、建物から出て100mも坂を下ると地下鉄の駅があり、その界隈は食堂街に似た雰囲気の町並みであった。
だだっ広い道路の両脇に、あらゆる種類の食堂が並んでいるという感じである。
その食堂というのが総て、店と同じくらいのスペースを道路、つまり戸外にテーブルを並べ、店の一角となしていた。
そしてお客といえば店の中よりも外の方を好むらしく、外の席の方が混んでいた。
この日、我々はインド料理に挑戦してみた。
我々にはやはりアジア系の食事の方が合うようだ。
料理そのものは可もなく不可もなしといったところであった。
それでこの日は食事に祭にのんだビールが非常によく効いて深い眠りに陥った。
この日は朝の5時から起きて、その後飛行機の中で少し眠ったとはいうものの、いつまで経ても日が暮れないので長い長い一日であった。
翌日、朝、昨日のガイド氏、高橋氏から電話があり、STEVEN F.UDVAR-HAZY Centerに案内するといってきた。
これが例のスミソニアン航空宇宙博物館の別館というものである。
ライト兄弟が最初に動力による飛行というものをしてから100年が経ったことを記念して、昨年の暮れダラス空港の近くに開館した新しい国立航空宇宙博物館というものである。
此処に広島に原爆を投下したB−29を展示するということで、日本でも話題になった博物館である。
ところがこのネーミングが私には読めず、何と呼んだらいいのかさっぱり判らなかった。
UDVAR-HAZYという部分を日本語でどう発音していいのかさっぱりわからなかった。
日本で発行されているある航空雑誌にその開館の様子を紹介した記事が載って、それで始めてウードバー・ハーゼーと読むのだということが判った。
私が今まで呼称してきたスミソニアン航空宇宙博物館というのは正式には国立航空宇宙博物館というべきで、基本的にはスミソニアンという呼称はついていない。
依って、別館の方も国立航空宇宙博物館・ステイーブン・F・ウードバー・ハーゼー・センターというのが正式な呼び方だと思う。
建物はまだ真新しく、いかにも新築という雰囲気であるが、問題は中味の展示内容である。
此処に例のB−29 エノラ・ゲイが展示された。私はそれが一番見たかった。
我々日本国に住む人々はこの「エノラ・ゲイ」という単語を忘れてはならないと思う。
これは59年前日本に原爆を投下した飛行機の名前である。
1945年、昭和20年8月6日、この「エノラ・ゲイ」というB−29が広島に「リトル・ボーイ」と名付けられた原子爆弾を投下した。
その3日後の9日には「ボックスカー」というB−29が長崎に「ファットマン」と名づけられた原爆を投下して我々は太平洋戦争、第2次世界大戦を終了した。
「リトル・ボーイ」は14万人の
戦後の我々はこういう経験から平和の大切さを身に沁みて、それ以来60年近くも国の主権の行使としての戦争はしてこなかった。
60年近くも戦争というものを経験していないということは、まことに有り難いことであるが、そこで我々はその実績を我々の努力の結果だと思い違いをしている節がある。
それは我々の努力の結果ではなく、世界の思し召しで生かされてきた、という謙虚な気持ちを失なって、恰も積極的に努力した結果として平和が保たれたと思い違いをしているところが少なからず不安材料として漂っているように私には思える。
不安材料としては、あの2発の原爆で我々はPTSD,つまり外因性精神萎縮症、正確には心的外傷後ストレス症候群に罹ってしまい、生ある人として正常な精神状態に戻れなくなってしまったということである。
早い話が金玉を抜かれてしまったということである。
我々は先の戦争で見事に完璧に敗北した。
それまでの日本の都市という都市は見事に灰燼と化してしまった。
それこそ灰以外何も残っていなかった。
ところが敵は京都とか、奈良とか、皇居というのは意識的に攻撃しなかったところが実に心憎いではないか。
こういう状況から我々は再び祖国を再生してきたわけであるが、この再生された祖国というのは戦争の前よりもかえって豊になってしまった。
我々の国は飽食の国になってしまった。戦争前には想像も出来なかったことである。
戦争に負けたから豊になった、というのも実に不思議なことだが現実がそうだから文句の言いようがない。
そこで我々は、再び、あの悲惨な状況には何が何でも立ち返りたくないという一心で、平和を追求し続けてきたわけであるが、平和の維持というのは極めて政治的な行為のはずで、平和な時代にこそ究極の危機というものを考えておかなければならないと思う。
それで戦後60年近くも平和でこれたのだから、我々は「平和」、「平和」という念仏だけ唱えておれば、これからもその状態が末永く続くと考えがちであるが、そこに我々が考えなければならない課題があるのである。
平和なときだからこそ、その対極にある究極の危機のことを考えておかなければならないと思うが、そこでそうならないのはPTSDという病に冒されている所為だと私は思う。
主権国家が戦争をするということは極めて政治的な行為なわけで、あらゆる主権国家は好きで戦争をするわけではない。人殺しが好きだから戦争するわけでもない。
それはあくまでも政治の具体的な行為として存在するわけで、突き詰めれば国益の獲得であり、擁護であり、ひいては自国民のために有益なことに違いない、という政治の延長線上にあるわけである。
アメリカの日本に対する原爆投下も、アメリカの政治戦略の一環であったわけである。
政治的戦略という事が、政治の究極の姿だったとしたら、その政治的行為の中には当然人間の根源としての偏見ということも内包しているわけで、これは良し悪しの問題を超越していると思う。
それゆえ広島があり長崎があったものと考える。
負けた我々の方にも、戦争の大儀としてはアジアの開放があり、5族協和があり、その発想の行き着く先には、我々日本民族の貧乏からの脱出ということが、戦争遂行のスローガンの後にはあったわけである。
ところが我々日本民族というのは、その政治という行為を感情論で進めようという風潮というか、性癖というか、潜在意識があるので、近代の政治、その政治の延長としての戦争にも失敗するわけである。
アメリカで、この広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」というB−29を展示するについて、博物館側はその被害状況の写真も並べて展示しようとしたが、それはアメリカ議会やアメリカ人の在郷軍人会の反対で、館長の辞任ということにまでいってしまったという。
これに対して、日本から写真を並べて展示するよう抗議の手紙をはじめとする行動がなされ、それの板ばさみとなって館長が辞任に追い込まれたと理解していいと思う。
しかし、此処はアメリカなわけで、それを展示するスミソニアン航空宇宙博物館というのはアメリカ人のアメリカ人に対する施設であるわけで、それは当然アメリカの国益に沿った線で運営されるのも致し方ない。
にもかかわらず原爆を投下した機体と、その結果としての悲惨な被爆者の写真を合わせて展示しようとした博物館の学芸員としての良識というのは、見上げたものだといわなければならない。
結果としては被爆者の写真の展示は実現していないが、その過程は賞賛に値するものだと思う。
日本が地球上で最初の被爆国だから、加害者の側のアメリカは、我々の言う事を聴けと抗議してみても、それは思い上がりというもので、彼らにしてみれば「いらぬお節介」である。
政治的な戦略というのは、当然偏見を内包しているわけで、それを見越した上で相手の政治的戦略に対してこちら側も合理的な政治戦略で対抗しなければならない。
このように相手の思いを無視して、自分たちの思い上がりだけを縷々述べるところが政治的に非常に未熟な点である。
スミソニアン博物館というのは世界中に開かれているとはいえ、基本的にそれはアメリカ人に対する施設なわけで、外国人である我々がスミソニアン博物館に難癖をつけたところで、何の解決にもならないはずである。
こういう政治的な思慮に欠けるところが我々の民族の致命的な欠陥で、先の戦争もこれがあったが故に、東京が灰になるまで相手から叩かれてしまったわけである。
先の戦争の終結の仕方を見ても、我々、日本人の同胞の中には、天皇陛下がポツダム宣言を受諾することにさえ反対で、徹底抗戦を主張した同胞がいた事を忘れてはならない。
昭和20年8月の東京の姿を目の当たりにしていながら、なお戦争を継続しようと主張した同胞・日本人がいたことを我々はどう考えたらいいのであろう。
我々、日本人というのは政治を感情論で語り、戦争を感情論で語るから、世界規模の近代戦争ではそういう感情論が通用しないことを理解し切れなかったわけである。
政治も、外交も、戦争も、合理主義でなければとても勝ち目はないものを、感情論で考えるから、我々は失敗を繰り返しているのである。
スミソニアン航空宇宙博物館のB−29、「エノラ・ゲイ」の展示に際して、その傍らに「被爆者の写真を合わせて展示してくれ」というのは、被爆者の感情としてはもっともなこととは思うが、合理的に考えてみれば、元敵対国の博物館が、さも自分たちが人道主義に反するようなマイナス・イメージの写真の展示を安易に許すはずがないではないか。
彼らにしてみれば、原爆投下は戦争を速く終結させるための必要不可欠な行為であったという主張を崩すはずがないではないか。
そして事実はその通りであったわけで、戦後の日本の平和主義雄者たちがいくら感情論で己の意思を貫こうとしても、その挑発には乗らないのが当然である。
それよりも我々が学ぶべきことは、勝った側がその象徴を末永く展示して、後世に伝えるという姿勢である。
これは我々の古い諺でいうところの「勝って兜の緒を締めよ」ということだと思う。
我々にも、広島の原爆ドームというものが当時のままの姿で残されているが、これを地球規模で歴史の教訓として人々に知らしめるには、あの原爆ドームを総て覆い隠して、自然の風雪による劣化を防ぎ、そのために巨大な施設を作って建物自体を風化させないようにすべきである。
被爆者の写真を展示するしないと感情論で相手に抗議するよりも、自らの受けた仕打ちを未来永劫忘れないように、感情論ではなく、冷静な思考と、判断力と、合理主義に徹した方策でスミソニアン的なものを作るべきだと思う。
日本の原子爆弾を投下したB−29,「エノラ・ゲイ」と「ボックスカー」はいづれもテニアン島から出撃して来た。
それでテニアン島は一体何処にあるのかと地図で調べてみると、日本の南はるかかなたのグアム島とサイパン島に挟まれた真ん中にあった。
2002年にグアム島に旅行に行ったとき、戦跡を少しばかり巡って来たが、大日本帝国臣民(軍人と民間人)がこの辺りまで進出していたということは驚くべきことであった。
そしてこのグアム、サイパン、テニアンという島はいづれも小さな島で、これを日米双方が必死になって攻防戦を繰り返し、結果的にアメリカが占領し、そのことが広島・長崎の原爆投下に繋がったわけである。
戦後の我々の同胞の中でも教育レベルの高い知識人といわれる人々は、「日本軍の侵略」という言葉を好んで使っているが、太平洋の孤島に進出した旧日本軍は、原住民に米作を教え、サトウキビから砂糖をとることを教え、それの工業化まで目指していた節がある。
ところが此処を占領したアメリカは、島の人々が耕作することを禁止し、必要な食料はアメリカ本土から空輸し、完璧な軍事的前進基地にしたわけで、これはこれで実に驚くべきことだと思う。
アメリカ本土からハワイに行く丁度倍くらいの距離ではないかと思う。
恐らく此処からフイリッピンと日本は同じくらいの距離ではないかと思うが、この小さな島から彼らは出撃してきたわけである。
原爆投下は広島と長崎の2回だけであったが、その訓練として模擬原爆をつかって何度も日本の空襲に参加していたということで、その事実を知れば知るほど日米の戦争に対する考え方の決定的な相違を知らされる思いがする。
感情論、観念論、場当たり的、泥縄式な発想での戦争遂行と、合理主義に基づいた綿密な計画遂行としての戦争というものの真価が如実に現れている。
当日、この機の乗組員は12名であったが、一番若いもので20歳、一番年長者で44歳となっている。
機体に関係するもの、飛行機の運航に携わるものは総て30歳前後で、44歳のものは特殊な爆弾という意味で直接原子爆弾にかかわる操作をするものであったようだ。
12名のクルーが、一瞬のうちの14万人の生命を奪ったわけであるが、これをどういう風に見るかは、その人の持つ価値観が左右するものと思う。
敵、つまりアメリカ側から見れば、確かに戦争の終結を早めたといえるが、我々の側から見れば、残虐非道そのものとしかいえない。
しかし、双方ともに国家総力戦の最中であったとすれば、人情論で相手を責めるわけにもいかない。
この歴史的事実から我々が学ぶものがあるとすれば、政治というものを合理主義、合理的判断力で眺めなければならないということだと思うが、我々はまだその域には達していないのではなかろうか。
イラクの自衛隊派遣でも、合理的精神で世界の情勢を見聞きした上で反対しているとは思えない。
ただただ与党のすることに反対したいだけで反対と言っているに過ぎない。
大量破壊兵器が見付からないのでアメリカの大儀は無意味だったと言い、アメリカに追従するのはけしからんと言っているが、イラクの情勢を見て、これほど無知蒙昧な判断も他にないと思う。
民主政治というものが与党と野党という対立軸で行なわれている限り、完全なる民主政治というものはありえないと思う。
ならば対立軸のない独裁政治ならば良いのかといえば、これも旧ソビエットや中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国の例を見ればわかるように、これらの国では政治そのものが私物化されてしまっている。
民主政治は独裁政治よりはましであるが、それをより効果的ならしめるためには、与野党共に国益ということを念頭に置けばその対立軸の幅は狭くなると思う。
昨今、情報開示ということが姦しく言われているが、これも程度問題で、何でもかんでも開けっぴろげにすればいいというものでもない。
特に、軍事に関することについていえば、秘密にしておくこと自体が既に作戦の一部になっているわけで、イラク戦争の前にサダム・フセインが大量破壊兵器を隠匿し、国連の査察団にも見せなかったという事は、サダム・フセインは既にその時から戦争を開始していたわけである。
イラクに大量破壊兵器がないにもかかわらずアメリカが攻撃したから、あの戦争は間違いだったという日本人は、まさしく平和ボケのきわみである。
冷静に考えてみれば、大量破壊兵器があろうがなかろうがアメリカは戦争を開始していたに違いないし、逆にサダム・フセインが一切合財公開すれば戦争にはならなかった。
考えてみれば21世紀の戦争は実に人命尊重のもとで行なわれている。
太平洋戦争はB−29の2回の出撃で14+7万人という犠牲の元で終焉したが、イラク戦争ではアメリカ軍の犠牲者はバクダットを陥落した以降を含めても千人にも満たないのではないかと思う。
イラク人の犠牲は、その大部分が自分たちのテロで死亡しているとみなすべきで、自分たちの同士討ちの感がするので、何でもかんでもアメリカを悪者にすれば事が済むというものではない。
尚、戦後の日本人は極めて平和ボケに徹しているので、戦争というものを冷静な判断力で省みるということを拒否し続けているが、これはこれで再度日本を奈落の底に転がり落とす危険を潜めていると思う。
鉄砲の撃ち合いさえなければそれが平和だと思い違いをして、それが思い違いであるということさえ気が付かずに感覚が麻痺している。
1983年、昭和58年、9月1日アメリカ・ニューヨーク発アンカレッジ経由で飛んで来た大韓航空007便のジャンボ機がサハリン上空で旧ソビエットのスホーイ戦闘機に撃墜されるという事件が起きた。
旧ソ連側から見て領空侵犯という措置で落とされたわけであるが、これは日米双方でその経緯を詳細にわたって知っていた。
ところがこれの詳細を暴露することは相手、つまり仮想的としてのソビエットにこちらの情報収集の能力をわからせてしまうことになるので、防衛庁は慎重に扱ったが、政府当局の方はそういう意識が皆無なものだから簡単に情報開示に応じようとした。
この事件は後に米ソの駆け引きの材料に使われた節がある。
今回のイラクの自衛隊派遣でも、隊員の行動や行き先を安易にマスコミにもらせば、待ち伏せに会う危険性があるので慎重に構えると、マスコミ各社が情報開示を渋っているという論議に成ってしまう。
我々、日本人は秘密保持ということは民族的に不得意で、秘密を守れない民族としてつとに有名である。
戦争というものはドンパチだけが戦争ではなく、政治そのものが既に戦争であることを我々は知ろうともせず、外交という事は既に戦争の前哨戦にもかかわらず、話し合いで事が解決できると思い違いをしているわけである。
外交の場でさえ、大量破壊兵器を持っているか否かがカードになっているわけで、北朝鮮の拉致の問題でも、家族を北朝鮮に留め置く事が既に戦争状態にもかかわらず、そのことを全く考慮しないので何時までたっても埒が開かないのである。
外交の場でテーブルを挟んで話し合っているテレビの映像を見ていると、戦争とは程遠い感じがするので、別のものだという認識に陥っているが、外交の場こそ戦争の萌芽である。
戦争はしないに越したことはない。せずに済むものならばそれに越したことはない。
しかし、一旦戦火が開かれた以上勝てねばならない。
外交の場で、戦争にならないような方策を講ずることは当然のことであるが、外交という交渉事には相手があるわけで、相手の言う事にどこまでも妥協して、相手の言いなりになっていれば戦争にはならないわけである。
今日の我々には、それだけの覚悟があって戦争反対を唱えているのであろうか?
確かに北方4島の問題でも、北朝鮮の拉致問題でも、ホットな戦争には至っていないが、だからと言って問題が解決したわけではない。
問題が棚上げされているだけで、解決に至っていないことは自明である。
だからと言って今すぐホットな戦争をするには、その損得勘定を考えた場合果たしてそれだけの大儀があるかといえば、これも非常に曖昧だからこそ問題の先延ばしになっているだけのことである。
その前に我々国民の側に、北方4島や拉致被害者を救済するために実力行使というリスクを背負う気概があるかどうかが最大の問題である。
国民の総意としては、北方4島など捨てておけばいいし、拉致被害者の件にいたっては、政府に任せておいて政府の悪口だけを言っておればいいという感じではないかと思う。
突き詰めて言えば、今日の我々の国というのは、人のために自分が犠牲になることなど真っ平ごめんだという風潮ではないかと思う。
何でもかんでも悪いのは政府なのだから、政府が解決すればいいという発想ではないかと思う。
近代の戦争というのは、好むと好まざると国民総動員を強いられるので、国民の戦う意思がないことには成り立たないわけである。
外交の場で解決の糸口が見付からないときには、その後ろに控えている国民が一致団結して実力行使も厭わないという断固とした決意を示さないことには、交渉相手に妥協を強いることはできないはずである。
外交交渉が行きつまり、いよいよ戦争になりそうな雰囲気であるが、なれば「なってから考えましょう」では戦いというものが非常に不利になるのである。
だから主権国家たるものは、そういう状況を常に考え、自分たちの主張が拒否された時はいかなる対応をとるべきか常日頃から考えておかなければならない。
こういう事を「考えましょう」というと、進歩的な知識人というグループがすぐさま「戦争好きなものが戦争の準備をしようとしている」と声高に叫ぶのが戦後の日本の顕著な事例だと思う。
これこそ平和ボケの最たるものである。
戦争は悲惨で、罪もない人々が意味もなく殺されるから「止めましょう」というのは極めて人間的な感情の発露である。
誰しも戦争を好き好んでするものではない。
しかし、人間の集まり、人間社会、国際政治の場としての人間の集まりの中では、諍いを皆無にすることは不可能である。
我々、人類の歴史というのは、それこそ戦争の歴史であったわけで、人々は平和を願いながら戦争をしてきたのである。
人間というのは口から食べ物を食べては排泄して生きているわけで、食べることは良いが排泄の行為は汚いから止めましょうといっては生きておれないのと同じなわけである。
人が集まれば自然発生的にグループが出来、そのグループ内のみならずグループの外部についても諍いは不可避的に生まれるわけで、グループ毎に内側には警察が必要になり、外に向けては軍隊が必要不可欠なわけである。
平和、平和と言っておれば他から何の迫害もないと思い込むのはあまりにもノー天気な発想だと思う。
現に、北方4島の問題から北朝鮮の拉致問題が我々の目の前に転がっているではないか。
我々はアジアでも最強の兵力を持っているにもかかわらず、もっとも根源的な憲法では戦争放棄を謳っているので、日本の周辺国は勝手し放題である。
彼らは、日本は決してその最強の軍隊を使わないということを見越して、言いたい放題、したい放題のことをしている現実をどう考えればいいのであろう。
主権国家の学校教育の教科書にまで嘴を入れ、日本の首長が英霊へ参詣することにまで嘴を入れてくるという事は完全に主権国家としての日本を舐めて掛かっていることである。
いくら相手が舐めて掛かっても、それで日本側に死者が出たわけではないので、相手が日本をバカにしていることすら気が付いていない。
これこそ平和ボケのきわみと言わずしてなんといえばいいのであろう。
今回のアメリカ旅行の最大の目的はこの「エノラ・ゲイ」B−29を自分の目で見ることであった。
それで私たちは約束の時間にホテルのロビーで待機していると高橋氏がやってきて、我々をこのセンターに案内してくれた。
空港に向かう専用道路を約30分ほど走り、センターの入り口の駐車場の前で我々を下ろしてくれた。
建物の入り口まで車を入れると駐車料金を取られるので、駐車場の入り口で下ろしてくれたが、実に広大な敷地の博物館である。
此処には地下鉄も来ていないのでその分駐車場が広く取ってあるが、実にアメリカ的な光景の中に広大な博物館が屹立していた。
アメリカ的光景というのは大自然のままの風景ということである。
周囲の雑木林は自然のままの姿で、沼地があったり、小川があったり、倒木があったりという風に、自然のなすがままの光景である。
勿論、人の通る道、車の通る道というのはきちんと整備されているが、それ以外の空間は自然のままという感じである。
これが我々に本当の自然というものを実感させてくれる。
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この国立航空宇宙博物館、別館というのは原野の中に屹立する超モダンな建物で、入場に際して入場料というのは例によって無料であるが、あのボデイー・チェックは免れることができない。
それでそれを通過して中に入り、直進すると2階のテラスから景色を見るような形で館内を一望できる作りになっていた。
真正面の両脇には天上からP―40とF−4Uが中空にぶら下がっていた。
そして階下の真下、前方にはSR−71が鎮座し、その奥には宇宙シャトル・エンタープライズがその存在感を誇示していた。
入って真正面の左側にあったP−40、カーチスP−40「ウオーホーク」は、例のシャーク・マウスというサメの顔の塗装が施されたものだ。
この機体だけではなく、ここに展示してある総ての飛行機に、それぞれ本一冊以上の物語を秘めているのではないかと思うが、私はそれを語るほどマニアではない。
それでいろいろな資料を読み漁ってみると、この飛行機は通算15000機も作られたということだ。
資料の写真によると、その生産現場ではまるで魚河岸にマグロが水揚げされたように組み立て前の胴体が並んで完成を待っている写真がある。
この飛行機が日本が中国に進出した頃、昭和の初期の、いわゆる太平洋戦争の始まる前の、中華民国の蒋介石の要請で中国大陸に展開していたということだ。
それは同時に、この機体は当時のレベルでは非常に使い勝手が良かったようで、ワールド・ワイドに世界中に展開していたということでもある。
当然イギリスもこの飛行機を使ってドイツと戦ったわけで、あの第2次世界大戦というものが地球規模で展開されたことから、この飛行機も地球規模で世界中に展開していたということだ。
極寒のアリーシャン列島から熱砂のアフリカ大陸まで展開していたというのだから驚きである。
ここで私が少々こだわりたいのは、中国戦線にこの飛行機が展開していた事実をもう少し掘り下げて考えてみたいと思う。
同じアジア人でありながら、中国はアメリカの支援を得、日本は何故アメリカと敵対関係に陥ったのかということである。
今の日本人で、こういう視点から国際関係を語る人はいないが、私の推測では中国人というのは決してアメリカを凌駕することはないが、日本人にはその可能性が十分にあったからアメリカは中国を助け、日本は叩いたものと思う。
アメリカが「日本憎し!」という感情を持つようになった原因は、やはり日本の中国進出であったことは否めないし、事実そうだと思う。
日本が中国東北部に満州という国家を作り上げて、これが日本と一体となったときのことを想像すると、アメリカ側に恐怖の戦慄が走ったに違いない。
だから日米開戦の時のアメリカ側の口実は「中国大陸からの日本軍の撤退」というものであった。
それはそれとして、アメリカにとって同じアジア系の人間でも、中国人は怖くもなんともないが、日本人だけは怖くてならなかったのである。
だからこそ、戦闘機P−40を展開させて中国に恩を売りつけることができたが、日本に対してはそういう慰撫の仕方が出来なかったので、真正面から対峙しなければならなかったのである。
それが証拠に、アメリカ政府が国内に住む異邦人を抑圧したのは日本人だけであったではないか。
同じ敵国であったもドイツ人も、イタリア人も、収容所に収容された人間はいない。
アメリカに渡った同じアジア人の中で、中国人も朝鮮人も収容所に収容されたものはいない。
アメリカは移民国家と言われている中で、ただひとつ日本人だけが収容所に隔離されるという差別を受けたのである。
この一事を以ってしても、アメリカが如何に日本人を恐れていたか理解できると思う。
昭和初期の時代、日本が満州国を作り、中国本土を何処までも支配し、大東亜共栄圏というものを作り上げしまったら、アメリカの覇権は完全に脅かされるわけで、そういう意味でアメリカは日本を恐れていたのである。
彼らが日本を恐れていたという事は、彼らなりにアジア人というものをよく研究しており、中国人でも、朝鮮人でも、アメリカに面と向かって衝突してくる力量はないと見ていたが、日本だけはそれを仕兼ねないという危惧を持っていたからである。
だからこそルーズベルトは日本を罠に嵌めてまで開戦に仕向けたのである。
無理もない話だと思う。
あの時代に、つまり昭和の初期の段階で、中国の蒋介石がいくら頑張ったところで、中国人の手で飛行機、戦闘機というのは作りえないわけで、日本が空から南京を攻めようとすれば、蒋介石としては既に出来上がっているアメリカの戦闘機P−40「ウオーホーク」を借りてこなければならなかったわけである。
アメリカは中国にそういう能力がないからこそ、同盟国として安心して遇することができたのである。
この機体、ワールド・ワイドで展開したことはともかくとして、あのシャーク・マウスというデザインを我々としてどう理解したらいいのであろう。
あのサメの顔が機体によくマッチしていることは見事という他ないが、あれは落書きなのかそれとも部隊の象徴としての記号なのか、果たしてどちらなのであろう。
遊び心で描いた落書きのようにもみえるが、ならば原爆投下に使われたB−29の「エノラ・ゲイ」というマーキングは一体どう解釈したらいいのであろう。
我々の既定の認識からすれば、戦闘機というのは国家財産の筈で個人のものではない。
依って、それに不要なマーキングなり落書きなりはしてはならない、という極めて真面目な発想から抜けきれない。
マーキングするにしても、陸軍なり海軍なりの軍の所管を表記するもの意外ありえないように思う。
「エノラ・ゲイ」など、機長の奥さんの名前というのだから驚く。
我々の感覚からすれば不謹慎極まりないということになってしまう。
原爆投下という任務いかんに関わらず、軍の爆撃機に自分の奥さんの名前を付けるなど、不謹慎極まりなく、懲戒免職ものだと思う。
このカーチスP−40「ウオーホーク」、実に格好の良い飛行機だ。
我々の世代が戦闘機というものにもつイメージにぴったりのフォルムを持っている。
これは陸軍の所管だから、それと対を成して海軍のチャンスボートF4U「コルセア」が同じように空中から下がった形で展示してあった。
この機体は資料によると1940年初飛行したとなっているので私と同じ年であり、同時に零戦とも同じ時期に登場したということになる。
これは100%艦載機だ。
航空母艦から離発着出来るようになっているので見た目がいかにも頑丈そうに見える。
飛行機を船に積んで戦争をするということは誰が考え出したものだろう。
私が生まれた頃、昭和15年前後、日米ともにそのことを考えていたわけで、アメリカも日本も航空母艦というものに飛行機を積んで敵地を叩くという発想があったわけだ。
ところが船から飛行機を発着させるという事は非常に条件が厳しく、それは船にとっても飛行煮にとっても、タイトな条件となるわけである。
それは滑走路が十分に取れないということである。
これは船の方にも決められた枠の中で滑走路を如何に広くとるかという無理を強いることになり、飛行機にとっても、滑走の短さというのは厳しい条件なわけで、発艦のときはカタパルトで押し出し、着艦のときはロープで引っ掛けて無理に止めるということをしなければならない。
艦載機というのはこういう無理が最初からわかっているので、それに対応出来るようにするため、むやみやたらと頑丈な機体になってしまう。
アメリカはこういう道理にそった発想で、目的と用途に合わせて機体を開発するが、我々の方はそういうゆとりがないものだから、現にあるものを改良して用途に合わせようとする。
もしくは開発の段階から様々な用途に合うように多目的なものを開発しようとする。
結果として中途半端なものが出来上がるということになる。
私は第2次世界大戦の戦史について左程克明に知っているわけではないので、正確なことは判らないが、あの戦争を通じてヨーロッパ戦線においては機動部隊同士の決戦的な戦いというのはなかったのではないかと思う。
ドイツの電撃作戦とロンドン空襲というのはつとに有名であるが、空母同士が死闘を繰り返したという事は大西洋ではなかったのではないかと思う。
だとすれば、それは太平洋方面に限られるわけで、こちらでは日米ともに機動部隊同士が文字通り死闘を繰り返し、結果として日本側が敗北したわけである。
そのロケーションの中で、アメリカ側で大いに活躍したのがこのチャンスボートF4U「コルセア」であったものと想像する。
アメリカ側にとっては記念すべき機体であったに違いない。
我々は確かに日米戦でアメリカに敗北した。
しかし、アジア人、東洋人、黄色人種がアメリカ、つまりアメリカの基底に横たわっている
WASPにこれほどの戦いを挑んだという事は、その後のアジアや中近東の人々にとっては大きな自信になったものと想像する。
今回の9・11事件にしろ、それが引き金になってアフガニスタンやイラクの状況というのも、かっての日本を見習うという部分も大いに有るのではないかと思う。
おしむらくは、彼らの背景には宗教がその基底にあって、宗教の名で戦いを挑んでいる点が前近代である。だからアフガニスタンでもイラクでも、自国民さえ統一しきれていないので、その結果としては世界から共感を得られていない。
日本がアメリカと同等の、全く遜色ない機動部隊をもって、それで正面からアメリカに対峙する能力を持っているという事は、アメリカにとってこれほど恐ろしいこともなかったわけである。
あの昭和初期の段階で、イギリスは既にドイツの制空権のもとで身動きがとれず、フランスはあっさりと負けてしまい、中国は最初から能力不足だし、誕生したばかりの共産主義国家・ソビエットは革命の余波としてスターリンの同胞殺戮・粛清が完成しておらず、アメリカとまともに対峙できる国家といえば、日本だけしかなかったわけである。
それでアメリカは太平洋体艦隊の空母、航空母艦にこのF4Uを満載して、南太平洋に展開したものと想像する。
アメリカ人のやることは実に大雑把というか、合理的というか、目的意識が強く、その目的のためならば強引なところがある。
で、この飛行機を発進させるときは蒸気カタパルトで大砲を撃つように大空に送り出し、収容するときは降下スピードがかなり残っているにもかかわらず、ロープで引っ掛けて急停止させたに違いない。
だとすればパイロットにも相当な負担を強いていたに違いない。
この機体はそれが可能なように頑丈に出来ていたものと思う。
あの南太平洋の海戦では、日本側に神風特攻隊というものが誕生した。
これをいまアルカイダが自爆テロという形で模倣していると思うが、あれも最初は偶発的なことであったのではなかったかと想像する。
敵を攻撃に行って、途中で自分が被弾して帰艦不能となったとき、もっとも合理的な判断は、どうせ帰れないものならば、敵艦の機能を少しでも阻害すれば、それが祖国に貢献することになるのではないか、という判断だったと思う。
それが度重なるうちに、その行為が目的となってしまったのではないかと思う。
最初は偶発的なことが、最終的には目的となってしまうところが極めて日本的だと思う。
それは同時に死生観の日米の相違でもある。
アメリカのパイロットでも一度ミッションについて敵地に攻撃に向かえば、自分が帰還できなくなる可能性は日本側のパイロットと同じであるが、彼らは被弾すればそこで機を捨て自分は脱出する。
その後は自分のウンに任せるわけで、無事もとの部隊に生還できるときもあれば、日本人に殺される場合もあったはずで、それは本人のウン次第であり、天命以外の何物でもない。
戦争に携っているものの宿命と考えているものと思う。
日本は太平洋上でアメリカ軍と対等に互角に戦ったが、今から考えるとあの戦いは日本のとって相当に無理があったことは否めない。
我々は歴史の教訓として。何故無理を承知で開戦したのか、ということを真摯に考えなければならない。
あの当時の政治家はこぞって開戦には消極的であった。
ところが軍部に押されてしぶしぶ開戦という決定に仕切られてしまった。
それで戦後の日本人は軍部というものが極悪非道の妖怪、日本人とは別人種の悪魔の集団とでもいう風な論調を展開しているが、あの徴兵制の生きていた時代の軍部というのは、我々日本民族そのものであり、日本の総体であったわけで、むしろ政治家の方が異人種であった。
端的に言えば、政治家が「嫌だ!嫌だ!」と言っているのを、国民の側が「ヤレ!ヤレ!」と言っていたようなものだ。
戦後の歴史はその部分を捏造して、恰も政治家という悪人が国民を奈落の底に突き落とした、という風の論調をしているが真実は逆だと思う。
その反省がないものだから、勝った側が規定した東京裁判史観から抜け切れず、自分達の英霊に対しても参詣することを拒否することになっている。
この博物館はアメリカ人の博物館である。
入った正面にアメリカ陸軍とアメリカ海軍を象徴する二つの機体が誰の目にも入るようにレイアウトされている。
アメリカ人ならば否が応でも愛国心が刺激されるに違いない。
我々からすれば敵の飛行機だ。
しかし、敵ながら天晴れな機体で素晴らしい。
この二つの機体の下、少し奥まったところにロッキードSR−71という飛行機が鎮座していた。
雑誌等でこういう飛行機の存在していることは知っていたが、まさしく怪鳥そのものである。
その名も「ブラック・バード」、怪鳥そのままのネーミングである。
私自身その名を知っているだけに過ぎず、この飛行機に対する思い入れというものは全くないが、この機体もそれに携わった人からすれば面白い物語があるに違いない。
巨大な飛行機だ。全身真っ黒だ。巨大なエンジンが二つついており、三角翼に近い形態である。
機体の素材は恐らくチタン合金であろう。冷戦時代の産物であろうが、その目的も定かではないようだ。
冷戦時代には目立たなかったが着実に実績を上げたのはやはりU−2であろう。
これは偵察機として実績を上げたが、その過程において旧ソビエットに撃墜され、その秘匿性が暴露されてしまった悲劇の機体だ。
それに引き換えこのSR−71はそういう話題性も持ち合わせていないが、特に功績があったということもなさそうだ。
ただ速度記録を樹立したということになっているが、速度記録などというものは、技術革新が進めば常に更新されるわけで、左程のこともないと思う。
航空技術というのは日進月歩で進化しているわけで、その過程において技術的な新しい実験に供されたのかもしれない。
飛行機というものは目的と用途に合わせて開発されるわけで、電子技術が普及する以前では、軍需用と民間用では技術に大幅な乖離があった。
20世紀後半までは軍需技術が民間の航空機にも応用されるという形が普遍的であったが、電子技術、ICの普及とともに、その乖離が極端に縮小して、今では逆転しているようなところもある。
その意味で20世紀最後の実験機だったのかもしれない。
ところがこの機体を後日ニューヨークで見たときは驚いた。
ニューヨークに係留展示されている空母「イントレビット」の飛行甲板にこれが乗っていたので、それを一目垣間見たときは違和感さえ覚えた。
このSR−71、実に奇怪な飛行機であったが、この機体の向こう側には別の部屋があって、そこにはスペースシャトルのエンタープライスが展示してあった。
これは実に大きな機体であったが、ニュースの映像で何度も見ているし、あまりにも現代に近いので私の感想としては思い入れが未だに定まっていない。
現代の科学が、20世紀の技術が、ここに集約されるまでの様々な過程が、この博物館、この建物の中にはあったわけだが、私自身はあまり感心がなく、記憶にも残っていない。
この博物館は立体的に見れるように館内に通路がこしらえてあり、この入り口を入ったところは2階になっていた。
その正面から右に行くとスロープで下に降りれる。又入り口を少し戻って左に行くと回廊になっていてそれを進むと例のB−29の機首の部分に行き着く。
それでさっそくB−29の元に行ってみた。
「エノラ・ゲイ」は脚の部分を黄色く塗られた治具の上に乗せられて展示してあった。
表面は無塗装でジュラルミンの地肌がきらきらと輝いていた。
B−29は「ストラト・フォートレス」、別名「空飛ぶ要塞」と言われたぐらいで、全身ハリネズミのように機銃が装備されていたはずであるが、それが一つもない。
わずかに後部に一連の銃座があったが他には何処にもついていなかった。
恐らくその特殊な任務のため少しばかりの改造がなされていたのであろう。
あの見慣れたフォルムをそのまま示していた。
B−29のフォルムを見慣れたというのもおかしなものだが、我々は映像でそれをあまりにも見すぎた。
B−29の考察については先に述べているので繰り返さないが、今この場でその姿を見てみると、美しささえ感じる。
同胞を17万にも一蹴にして消し去った飛行機を見て、奇麗などとは不謹慎かもしれないが、造形の美と怨念とは別の次元のことだと思う。
むしろその怨念を忘れているのが今の我々の同胞ではないかと思う。
同胞を17万にも一瞬のうちの殺されたという怨念があれば、戦争は「悪」だとか、非武装だとか、ノーモア広島だとか、奇麗事など言っておれないのではないかと思う。
我々にその怨念の感情があるとすれば、仕返しを考えるのが人間としての普遍的な発想ではないかと思うし、暴力には暴力で以って報い、目には目を歯には歯を以って報いるのが、普遍的な人間の基本的欲求ではないかと思う。
アメリカは日本人のこの怨念、日本人が怨念をもって仕返しをするのではないか、人としてはそれが一番自然なのだし、きっと彼らは仕返しをするに違いない、そのことを一番怖がっていたのである。
だからこそ国家の主権の行使としての戦争を放棄することを我々に押し付けたのである。
我々の側は逆にあの戦争でPTSD(心的外傷後ストレス症候群)に陥ってしまって、人間としての基本的欲求さえ喪失してしまい、自分達が金玉を抜かれたことさえ気がついていない。
B−29の操縦席というのはガラス張りである。
ガラスのドームになっていた、これならばパイロットの視界も極めて良好であろうが、何故そうなのかと思いを巡らすと、私の推測では爆撃機というのは爆弾はつめるが速度はそう速くはなく、その分敵からは見付かり安いので一刻も早く敵の存在を知るために視界を良くしているのではないかと思う。
そして一度見付かったら最後、敵の仰撃機から逃げ切るのが容易ではないので、その分機銃を装備して、相手を撃ち落すという考えにいたっているのではないかと思う。
ところがこの原爆投下という任務はアメリカにおいても特殊なミッションであったわけで、何しろ人類最初の原子爆弾の投下であり、出来たばかりの原子爆弾であったわけで、特殊任務の中でも一段と特殊な任務であったと思う。
必然的にそれに使われる機体もその任務に合わせて改良が加えられたに違いない。
通常、我々が写真で見るB−29よりも何だかスマートに見える。
機体から余分な銃座を除去しているので、その分スマートになったのであろう。
我々からこの機の搭乗員を見ると、まるで悪魔の権化のように見えるが、彼らにしてみれば、自分の任務を淡々とこなしただけである。
自分のした行為で日本人が17万人も死のうが、それは国家主権の命じるまま行なったミッションに過ぎず、彼らはその結果に責任を負う立場ではない、と割り切っていたに違いない。
とはいうものの、その結果を知って、その後悩んだ人もいるに違いない。
そこを狙って、日本人の核廃絶を支援する人たちが、広島の惨状を写した写真を「並べて展示せよ」と迫ったわけであるが、ここでも冷静な判断力を働かせば、相手がこちらの要求を飲むかどうかは察しがつくはずである。
それでも尚押したということは「駄目モト」の精神、「駄目でもともと」という気持ちで推し進めたと思うが、これこそ日本的な発想だと思う。
日米開戦に至る過程でも、我々の偵察で日米の国力の差は歴然としていることは判っていたが、そういう科学的データを無視して、一旦開戦すれば精神力でそれを押し切れると思ったわけである。
この判断が非常に甘くて、まさしく戦いは時の運ということを信じ切っていたわけで、合理的で、理性的で、冷徹な判断力を失っていたわけである。
「もしかして、運が良ければ勝てる」と思っていたが、この「運が!」というところが非常に日本的な発想であって、国力を結集した戦争に「運」を持ち込むこと自体間違っていたわけである。
確実に勝利を納める目処がない限り、戦争という政治的手法をとってはならなかったわけである。
明治維新以降、日本が行なってきた戦争というのは、その総てがこういう理性のもと,確実に勝てるという確信のもとで行なわれたのではなく、この運に恵まれて勝てたものばかりであるが、一般国民は運に恵まれて勝てたという事実を知らないものだから、やれば必ず勝てると思っていたわけである。
ところが内情は火の車で、勝ったという結果だけを見て大喜びをしていたのが日本の大衆という一般国民であった。
我々の国には昔から「勝って兜の緒を締めよ」という諺があったにもかかわらず、勝った勝ったと有頂天になるばかりで、誰一人その真実を知ろうとしたものがいなかったのである。
原爆の写真の展示も、これは良い事なのだから、頼み込めば相手はきっとこちらのいうことを聞いてくれると思い込んでいたが、相手にしてみれば、原爆というのは戦争を早く終結させ、アメリカの将兵の命を救ったという解釈になるわけである。
こういう我々の側の勝手な思い込みが随所にあるわけで、「大東亜共栄圏を作ればきっとアジアの人々は喜んでくれるに違いない」と思い込んだのも、その典型的な例だと思う。
そこには精密な市場調査、いわゆるORをせず、自分達が良いことだと思ってすることは、相手も喜んでくれに違いない、という勝手な推測があるだけである。
合理的、理性的な判断というものが欠けていたわけである。
人間は偏見を持つ動物で、好き嫌いは致し方ないが、その偏見そのものが理性と知性で成り立っているわけで、我々はそういう偏見そのものが「悪いことだからそれ自体を拒否しよう」としているのである。
だから、その根底にある理性と知性を失ってしまい、感情論だけが残り、その感情で物事の判断をするものだから失敗するのである。
感情というのは理性や知性の対極にあるもので、感情でものを考える国と、理性や知性でものを考える国の戦いが日米戦争であったと思う。
このB−29の後部に当たるスペースに、日本製の飛行機、「紫電改」と「晴嵐」と「桜花」という機が展示してあった。
三機とも完全に復元されて立派な機体に蘇っているが、こうしてここに納まっても決して他の機体にひけをとるようなところはない。
ここに展示されるということは、それだけで立派に価値あることで、世界の飛行機の中で何かしら立派な価値を認められたからこそ、此処に展示されているのである。
それで我々の国の戦闘機も、そういう意味で世界のものと伍して此処に存在しているわけである。
事実、他の飛行機と較べても決して見劣りするようなものではない。
昭和初期の段階で、我々の国がアメリカに伍してこれだけのものを作り上げ、それでもってアメリカに挑戦してきたということは、こちら側に住んでいたアメリカ人、特にWASPにとっては全く脅威に思われたに違いない。
彼らにしてみたら、黄色人種の日本人など中国人と同列だし、人間のうちにも入っていなかったに違いない。
完全なる偏見であるが、その偏見が理性と知性に包まれているものだからこそ、日本人がアメリカ人と同等以上のものを作るなどという事は、驚天動地のことであったに違いない。
彼らが驚くのも無理ない話で、今此処で我々の先輩諸氏が作った飛行機、「紫電改」と「晴嵐」と「桜花」を見てみると、今の私でさえ大きく驚かざるをえない。
中でも「桜花」は、文字通り特攻兵器で、アメリカ人からすれば究極的に馬鹿げたものと評されている。
一つの主権国家が人間爆弾というようなものを使わねばならない状況というのは、その一事で以って国家の存立が成り立っていないということである。
これは実に小さな機体で、まさしく爆弾に人間が乗るという形そのものである。
アメリカ軍がつけたニックネームガ「BAKA」というのだから、哀れなネーミングであると同時に、終末期の大日本帝国を具現化しているような気がしてならない。
私は常づね思っているのだが、日本人というのはあまりにも真面目すぎると思う。
一寸軌道が間違っていると、その軌道の誤差に全く気がつかず、自分が間違ったレールに乗っていることに気がつかないまま、真面目に真面目に突き進もうとしているようである。
例えば、草野球のチームを作ったとすると、最初のうちは、「勝ち負けに関係なくお互いが楽しめばいい」と言いながら、最終的には「どうせやるなら勝たねば面白くない」ということになる。
私が個人的に世話になっている自分史のサークルでも、最初はただ投稿するだけでもいいような雰囲気だったが、回を重ねるうちに「より良いもの、より良い作品を目指さねば!」という風になって、真面目に、真面目に、わき目も振らずにのめり込んで心のゆとりを失ってしまう。
この真面目さが曲者だと思う。
日本が戦争という泥沼に転がり落ちる過程で、「戦前には治安維持法があって、特高が目を光らせていたので、ものが言えなかった」という話をよく聞くが、これも我々の側の国民、一般大衆、無知蒙昧な群集というものがあまりにも真面目すぎて、隣近所の噂話を官憲に垂れ込んでいたからこそ、そういう状況があったわけである。
治安維持法は今の価値観からすれば悪法であったが、その悪法を一生懸命、真面目に、真面目に遵守しようとした我々の同胞がいたわけである。
隣近所の根も葉もない噂話を、さも国家の危急に関係あるかの如く官憲に御注進することが、善良なる大日本帝国臣民の義務とでも勘違いした、真面目な、真面目な、糞真面目な人々がいたわけである。
真面目という事は基本的には良いことであるが、問題は自分の頭で考えたかということである。
人が言うからする、人がやっているからする、常に人の振り見て我が振り直す、その事を真面目に追求しようとするからこういうことになるわけで、人の言う事、人のすることを自分の頭で咀嚼すれば、こういうことにはならないはずである。
1万mの高空を飛来するB−29に対して、我々の側は、ハタキと竹槍で対処しようとしたけれど、こんな陳腐な発想もないと思う。
しかし、町内会長から「防火訓練だ!」といわれると、真面目に、真面目にバケツ・リレーと竹槍の訓練をしたわけで、その時の真面目さというのは一体なんであったのだろう。
特攻兵器「桜花」も、その真面目さの延長線上の産物だと思う。
こういう兵器に搭乗する搭乗員を集めるときに、指揮官というのはさぞかし苦慮したのではないかと思う。
死ぬことが確実な任務なるが故、きっと志願を募ったと思うが、私の経験からすると、小隊なり分隊の全員を整列させておいて、その前で「お前達の命を俺に預けてくれ!」というような話をして、志願を募るのではないかと想像する。
するとこれは公開の場で志願を募るということである。
こういう場では一人も志願者がいないという事はありえないわけで、誰かが「良い格好しい」という感じで手を上げると、それに刺激を受けて追従するものが現れる。
この状況が極めて日本的だと思う。
志願を募る指揮官、最初に手を上げる志願者、それに追従する志願者というのが極めて日本的だと思う。思慮分別ある指揮官ならば、「夜中に俺のところに出頭せよ」というに違いない。
戦時中の軍歌に「上海便り」と言う歌がる。その中に「あいつがやれば俺もやる」という台詞があるが、これこそそのことを如実に現していると思う。
この機体の横に展示してあった「晴嵐」という飛行機は私には、馴染みのないものであったが、実にいいフォルムをしていた。
資料によると、潜水艦から発進してパナマ運河を攻撃するために開発されたとされているが、この作戦は既に時期を失しており、実現しなかったが、雄大な計画であったことは間違いない。
南太平洋の数多の海戦で機動部隊の大部分を失った日本は、起死回生を測るべく、潜水艦でパナマ運河を攻撃するということを考えた。
そして巨大な潜水艦に、この飛行機を積んで太平洋を潜航しながらパナマ運河に近づき、そこで浮上して攻撃するというアイデアだったらしいが、そのアイデアは兎も角として、こういう飛行機を作り上げたという技術力は実に素晴らしいものだと思う。
その隣に陳列してあった「紫電改」と共に、この機体もアメリカの戦闘機と較べても決してひけを取る代物ではない。
この飛行機は名古屋の愛知航空機の製作とされているが、愛知航空機というのは名古屋空襲で壊滅的な打撃を受けて、それ以降製作できなくなってしまったものと思う。
我々はあの日米開戦を振り蹴ってみたとき、軍艦とか飛行機というもの、つまりハード・ウエアーに関してはアメリカと比較しても決して劣っておらず、見劣りしていなかったと思う。
ただ決定的な相違は物資不足であったろうと思う。
アメリカに対して我々が物資の面で非常に見劣りがすることは最初からわかっていた、だからこそ満州への進出であり、中国への進出であり、東南アジアへの進出であったわけで、私の言葉でいうところの「貧乏からの脱出」だったわけである。
これは戦後日本を占領したあのマッカアサー元帥も、本国に帰ってアメリカ国民に対してそう説明している。
ここで不思議なことに、あの戦争を辛くも生き抜いた我々の同胞が、「あれは日本の侵略であった」と、自虐的な発言をすることである。
物作り、ハード・ウエアーの面では、我々は決してアメリカに劣ってはいなかったが、貧乏なるがゆえに限られた制限の中でそれを行なわねばならず、その分アイデアと創意工夫が要求されたので、出来上がったものはますます良いものに仕上がったわけである。
良いものが出来上がったものの、今度はそれを使いこなすソフト・ウエアーが欠乏するようになった。
ソフト、つまりハードを使いこなす人間の側の問題となると、我々は実に下手で、その究極の手段が特攻兵器ということになるが、あの時代の我々の価値観では、国のために個人が滅私奉公することは尊いことだという思い込みに浸って、それに真面目に真面目に沿うように勤めていたわけである。
パイロットを養成するには金が掛かっている。
その金を掛けて養成したパイロットが、出撃のたびに死んでしまえば、これは金の浪費に繋がっているわけだが、当時の我々はそういう考え方をしなかった。
それを「名誉の戦死」とか「国に殉ずる」と言い換えていたのである。
金を掛けて養成したパイロットは、出来るだけ長生きしてもらって、何度も出撃してもらい、後輩を何人も養成してもらわないことには、掛けた金が生きたことにならないが、当時の我々はそういう発想を全くしていなかった。
物を作ることには長けていても、人間を統治するという政治の面では実に稚拙であったわけである。
あの大政翼賛会という挙国一致体制そのものが、人間性を無視した考え方だと思う。
この「晴嵐」、大きなフロートを付けていたが、これは飛び立つとき一度海面に浮かべなければならなかったからであろうが、それにしても実に良いフォルムをしている。
そして潜水艦に積むという、より厳しい制限が加えららためであろう、発想の段階から様々なアイデアが盛り込まれており、その中でも尾翼を折りたたむというのは世界に又とないアイデアということである。
艦載機は空母から発着するので、限られたスペースに収納するという宿命を背負い、そのため主翼を折りたたむのが普通であるが、「必要が発明の母」と言われるのもむべなるかなである。
ここには旧日本軍の機体が3機並べて展示してあったが、最後の機体は「紫電改」である。
この機体も米軍機と較べ何ら遜色はないが「晴嵐」と並んで展示されていると、なんとなく印象が薄い。
B−29の周囲に並べられた機体は、第2次世界大戦中のものが多かったが、特に日米戦争にまつわるものが多かったように思う。
それ以降の機体は違うスペースに展示してあったが、中でも旧ソ連のミグ15とミグ21は特筆だと思う。
飛行機の性能としては当時のアメリカ軍とさしたる相違はなかったようだけれど、随所にアイデアの面白さがあったような気がする。
例えば、インテーク・ダクトの中に照明があったり、空気整流板があったりして、アメリカの機体にはないアイデアが盛り込まれていた。
ただ私の思いからすると、ここにミグ25がないことがさびしい。
ミグ25が函館空港に不時着したとき、アメリカは大いに喜んだに違いない。
冷戦真っ盛りの最中に、旧ソ連の最高機密が転がり込んできたのだから、アメリカとしては相手側の機密を探るに格好のえさが転がり込んできたことになる。
ここに展示してあるミグ15と21がどういう経緯でここに並んでいるのか知る由もないが、共産圏の機体がここにあるという事はある種の驚きでもある。
戦後の日本人は鉄砲の撃ち合いだけが戦争だと思い違いをしているが、こういう認識不足というのが一番危険だと思う。
平和なときこそ敵を知る一番の機会なわけで、函館にミグ25が不時着したときでも、平和ボケの我々はそういう視点で見ることをしなかったが、アメリカは徹底的にあの機体を分析したのである。
あの事件は日本にとっても痛恨の一撃だったはずであるが、我々はそういう意識を持った風には見えなかった。
ソビエットの戦闘機が日本の防空網をかいくぐって、函館に着陸したということは、日本の航空自衛隊は何をしていたかと言わなければならないが、そういう議論は持ち上がらなかったと記憶している。
函館空港のミグ25不時着事件、大韓航空のソ連戦闘機による撃墜事件、旧ソビエットの東京エキスプレスという偵察行動、これらの行動、行為は一触即発の危機を秘めているが、それが大事にいたらないのは微妙なミリタリー・バランスに寄りかかっているからで、そういう認識を持たないまま平和・平和といっていれば平和がこのまま続くと考えているわが同胞は、平和ボケ以外のなにものでもない。
アメリカ側が時代の推移と共に戦闘機も進化したのと同様、ソビエットのほうも同じことが続いていたわけで、ミグ15よりも21のほうがかなり進化していることは歴然としている。
そして第2次世界大戦後の戦闘機の進化というのは、私にとって非常に興味あるもので、もう既に退役してしまったが、F104などという機体は懐かしささえ覚える。
この機体も、我々が目の当たりにしていた頃は、両翼にチップ・タンクを取り付けた姿で見慣れているが、これを取り去った本来の姿というのは実に美しいフォルムをしている。
「最後の有人戦闘機」という触れ込みでデビューしてきたが、何のことはない、それからも尚優秀な機体が次から次へとデビューしてきた。
その中でもマクダネル・ダグラスのF4ファントム2世が傑出していたが、この機体のフォルムはどちらかというとずんぐりむっくりで、スマートさには欠けるがその性能を買われて傑作機の名をほしいままにしている。
これもオリジナルの機体はそれなりにスマートさを供えているが、実戦配備では、様々な機能を付加されて、もともと無骨なフォルムが一層無骨に見える。
そうして今では少々時代遅れの感を免れないが、ワールド・ワイドに展開して、世界各国で活躍している。
私がかって航空自衛隊にいた頃、実戦部隊の一線ではF104が主力であったが、そこに米軍のF4が飛来すると羨望の眼差しで見たものである。
F104は俊足なるが故に、運動性能に限界があったが、F4の方はその両方が揃っていたし、そのレーダーの能力が抜群で、このことはパイロットにも航空管制にも非常に有益であったと記憶している。
その後日本でもT−2からF−1という形で、日本製の戦闘機、戦後の日本製の戦闘機が開発されたが、戦後の制約を完全の乗り切れたわけではなく、やはり戦前の航空業界と同じ轍を踏んでいるような気がしてならない。
それは開発にあたって無理な要求を入れ込むという点にあるのではなかいと思う。
例えばT−2にしても、練習機として開発しておきながら、それを戦闘機としても使えるように考えられていたわけで、一種類の機体に2つの違った目的に合うように考えられている。
そしてそれが程ほどにこなされているので、そのまま通用してしまっているわけである。
こういう点が技術的に器用なわけで、器用なるがゆえに、その器用さにおぼれて、それを過信してしまうので、少し時が立つとその欠陥がモロの現れてくるのである。
例のゼロ式戦闘機でも、あの時代の傑作機という評価、世界に伍して一歩もひけをとらないという評価におぼれ、被弾しやすいという欠陥に最後まで気がつかなかったわけである。
尚戦後の問題として、いくら良い戦闘機を開発しても、それを海外に売ることが禁止されているので、どうしても少量生産で止めておかなければならない。
すると開発費の回収さえ不可能というわけで、いい作品というのは机上の計画の段階から存在しきれないということになる。
だから丸ごと輸入ということになるわけである。それがC−130である。
私は戦前の日本がそうであったように、今の日本でも、決してアメリカに技術的に劣るものではないと思う。
昨年末、日本はH2Aロケットの打ち上げに失敗したが、アメリカの宇宙開発と日本のロケット開発では大人と子供の違いほどの格差があると思う。
この違いは恐らく戦前にもあったと思う。
ところがそれを無視してアメリカの挑発に嵌ってしまたのが日本であったと思う。
今の日本の識者が、戦前の日本はアメリカの挑発にまんまと嵌った、嵌められたという認識を全く持っていないことは憂うべきことだと思う。
アメリカは日本を罠に嵌め、アメリカに住むあらゆる民族の中で、日本人だけを収容所に入れ、日本にだけ原爆を2発も落とし、最初の人体核実験をしておきながら、当時の日本の政治家たちを戦争犯罪人と言い包め、日本の仕返しを恐れ戦争放棄の条項を憲法に盛り込み、6年間も占領したので、この経緯を勘案すると、日本の技術力は戦前の水準まで回復していないと思う。
スペースシャトルとH2Aを較べてみれば歴然としていると思う。
物を作ることは出来ると思うが、作る前提条件が整っていないように思う。
これは戦前でも同じであったと思うが、戦前の日本が機動部隊をもち、空母を何隻も持ち、南太平洋でアメリカ機動部隊と互角に渡り合ったということは、今でいえばアメリカのしている宇宙開発と同じレベルのことをして当然ということだと思う。
そう考えると、今の日本の技術力というのは相当に遅れているといわなければならない。
B−29の展示フロアの反対側には、主に民間機の展示場であったが、その中でも特筆すべきはコンコルドであろう。
この機体、音速の2倍で100人程度のお客を運ぶことが出来るという触れ込みであったが、開発費と運営費が膨大なものに膨れ上がったので、機数としてはそう沢山生産されたわけではない。
主に大西洋線に投入されていたので、我々はあまり見る機会に恵まれなかったが、映像ではよく見た。
あの機種を少し下げて離発着する姿は映像でしか見たことがない。
しかし、まじかで見てみると実に大きな機体で、その首脚の長いことといったらない。
まるで電信棒の半分ほどもある。飛行性能の制約の関係でああいうフォルムになったものと思う。
飛行機というのは、その用途に合わせて様々な制限をクリアしなければならず、その意味からして全体のフォルムが3角翼になっているのも致し方なく、高速で高空を飛行するため、窓もきわめて小さくならざるを得なかったことは理解できる。
しかし、これでは乗っているお客は外を見ることも出来ず、缶詰の缶に入れられて運ばれているようなもので、早く移動できるというメリットはあるかもしれないが、旅をするという意味では、全く無味乾燥した気分になると思う。
早く飛べる飛行機ではあっても、客のほうではそんなに急ぐことがあるのか、という点でやはり需要の頭打ちという事はあったものと推察する。
1、2時間、時間を節約できたとしても、その間、狭い客席で窮屈な思いを強いられるよりも、快適な広いイスで心豊に空の旅を楽しみたい、というお客のほうが多かったのではないかと思う。
人間というのは、特に技術者というのは、未知への挑戦ということに非常に大きな夢を持っているわけで、このコンコルドもそういう意味で存在価値があったものと思う。
技術者は、どこまでも技術的な挑戦に挑みたい欲望や夢を持っでいるであろうが、これを経営という観点から、運用する立場としてはそうそう技術者の欲求に応えることは出来ないわけで、この二つの願望が交差する点は常に移動していると思う。
20世紀末までの国家プロジェクトとしての軍需産業というのは、軍事目的という大義名分の下、コストということを考えずに、純粋に技術のみをどこまでも追求できたが、もうそんな時代は過去のものとなったわけで、特に民間ではコスト管理を厳しくしないことには経営そのものが成り立たなくなってきた。
このコンコルドとB−29の中間辺りに、ボーイング707のプロトタイプのものが展示してあったが、これなども開発されて既に半世紀ぐらい経っているのではないかと思う。
私が40年前、航空自衛隊にいたころの旅客機といえば、このボーイング707とDC−8が花形であった。
当時でさえ巨大な旅客機だと思って感心していたが、その後ますます巨大かつ快適な機体がデビューしてきた。
そういう意味からこのボーイング707のプロトタイプというのは、その後の巨大旅客機の開発に先鞭をつけた機体ではないかと想像する。
戦後開発された旅客機の中でも既に消え去った機体もある。
例えば、イギリスのコメットも退役して久しいし、ボーイング727というのも、今の日本の空では見られないのではないかと思う。
20世紀も後半になると、地球規模で見て、人々の移動は航空機にシフトしてしまって、船の移動というのは皆無になってしまった。
南米から日本に出稼ぎに来る人々も、中国大陸から日本で一稼ぎしようと悪事を企んでいる人々も、皆飛行機を利用している。
こういう事情に合わせて、旅客機も日進月歩で進歩しているわけで、今ではまさしく庶民の足と化した旅客機を、乗客もろともテロの道具として使った9・11事件というのは許しがたい行為である。
この事件の後遺症として、今イラクでアメリカが戦っているが、この戦争を見る日本の識者の目というのは、あまりにも奇麗事過ぎると思う。
傍観者としての奇麗事に過ぎないと思う。理想に溺れた夢遊病者だと思う。
平成16年4月16日現在、イラクで拘束された三人の日本人が開放されてマスコミは大喜びであるが、この事件を語るとき、「アメリカがイラクの治安を治めないからこういう事件が起きる」という論調がもっともらしく言われていた。
冗談ではない。イラクの治安はイラク人がすべきであって、それが出来ないからこそアメリカが居残っているのではないか。
アメリカに「イラクの治安をしっかりせよ」ということは、アメリカにサダム・フセインと同じことをせよというに等しいことが日本の識者には分からないのであろうか。
日本の識者というのは、イラクとアメリカの確執に対してあくまでも傍観者の立場に身をおいて、奇麗事だけを言っているのである。
話を元に戻して、旅に出て飛行機に乗ると、他の乗客は出された機内食を食べるとさっさと毛布をかぶって寝ているが、こういう快適な空の旅が出来る裏側には、様々な人々の目に見えない仕事があって、その上に成り立っているということを知っているであろうか。
この博物館には航空管制に関する展示場も供えてあって、裏方の仕事も理解できるようになっている。
建物の右手に丸い円筒形の施設がって、そのエレベーターで上の方に行くと、ワシントン・ダラス空港を離発着する飛行機が見えるし、さらに上の階に行くと、そこではタワーのコントロール・ルームが再現されており、航空管制を体験できる仕組みになっている。
驚いたことに、ここで私が40年前自衛隊で体験したフライト・プランを記入するフライト・ストリップというものが未だに生きていたことである。
フライト・プランを書き込む幅約3cm長さ約20cmぐらいの少し厚めの紙で、それをアルミの専用フォルダーに差し込んで使うものであるが、あんなものが未だに生きているとは思いもしなかった。
航空管制という仕事は、非常に公共性が強く、広く公開もされているので誰でも見ることが可能であるが、私が本当に見たいのは、こういう公開された部分ではなく、非公開の部分が見たい。
しかしそれは安易に許されるものではない。
その意味から、この博物館で一番秘密のベールに包まれた機体といえば、恐らくF−22「ラプター」であろう。
尤も、既にこの博物館に展示されているという事は、秘密区分は何もないということかもしれないが、我々にとっては、最も知りにくいし、知られていない機体だと思う。
見るからに精悍そうな機体であるが、日本の航空雑誌にもあまり掲載されていないのではないかと思う。
先にも述べたように、軍用機というのはコストの制約が甘いわけで、その分その開発を任せられた技術者というのは技術的な挑戦が可能なわけである。
それで新しく開発された機体が就役すると、その瞬間からもう次の開発に夢が飛ぶわけで、つまるところ開発競争には行き着くところがないわけである。
F−14,F−15という機体が就役しても、尚技術者の夢は先にあるわけで、それがこのF−22というものではないかと思う。
ここまでくるともうそのキャパシテーを語っても意味がない。
むしろ我々にとって興味あるところは、その開発のコンセプトである。
開発のコンセプトといっても、それは、つい就役したばかりの優秀な機体に対して、どういう難癖をつけるかに尽きると思う。
過去の経緯から押して、最良のものを開発して、それが就役したとたん、それにどう難癖をつけて次の開発の口実にするか、という点に興味が集中する。
この博物館が果たしていくつの機体を展示しているのか定かには知らない。
機体ばかりではなく、ロケットから宇宙船カプセルまであるのだから、一日がかりで見てもそれを全部頭の中にインプットすることは私には出来なかった。
数ある中で、私の興味を引いたものは既に述べてきたが、まだドイツの飛行機については語っていない。
ドイツの飛行機で一番興味を引いたのは「アラド」という双発のジエット・エンジンをつんだ軽爆撃機であった。
あの第2次世界大戦の最中に、ドイツがジエット・エンジンを開発していたというのは、驚きであると共にこの機体のフォルムが非常に私好みのものであったので、特に印象に残っている。
アメリカの爆撃機のようにドデカイものではなく、小さくて、それでいて爆撃も出来るという点が非常に気にいっている。
そして前のキャノピーがB−29のようにガラス面が多く、いかにも見晴らしが良さそうなデザインが気にいった。
思えばドイツも傑出した名機を沢山輩出しているが、こういう技術立国のドイツが、何故にヒットラーの政策に加担してしまったのであろう。
そういう意味で日本もドイツもよく似た面があると思う。
これに私なりの歴史的解釈をすれば、日本もドイツも同じように近代思想に立ち遅れたことが原因で、貧乏からの脱出ということが国民的願望となっていたからではないかと思う。
先進国の狭間に身を置いたとき、周囲の国に追いつき追い越せということをあまりにも性急に希求しすぎたのではないかと思う。
そして技術的には決して先進国に見劣りしていなかったものだから、その技術で先進国に対して太刀打ち可能と過信したところにボタンの掛け違いが潜んでいたのではないかと思う。
19世紀までの先進国の認識では、技術者とか、技術屋というのは一段下の階級に属していたわけで、そういう人間の上には政治家とか、銀行家、資本家という階層が君臨していたわけである。
日本もドイツも、そういうソフト面には疎く、物作りには長けていても、人の管理、人の統治、政治ということには非常に稚拙であったに違いない。
日米開戦においても、時のアメリカ大統領はルーズベルトであったが、戦後の日本人で、彼の罠に嵌められたという認識・意識を持った者がほとんどいないということは、それだけ彼、ルーズベルトが人を統治する術、自己の本音を隠しながら自国の国益を擁護する政治力、統治能力に長けていたわけである。
我々の国には昔から「肉を切らせて骨を切る」という諺がある。
ところが、我々の場合、肉が切られた時点で大騒ぎをして、国論が一遍に沸騰してしまって「鬼畜米英何するものぞ」と興奮状態になってしまう。
ドイツ人にも同じような気風があるのではないかと想像する。
ドイツだ第2次世界大戦を始めた遠因は、第1次世界大戦の賠償が厳しく、それが国民の間に不満となって容易にヒットラーに傾いていったといわれているが、やはりその基底には貧乏からの脱出という国民願望があったものと思う。
ところがここで私が不思議に思うことは、ドイツがソビエットを攻めるのに何故あの時期(1939年、昭和14年、9月)にしたかということである。
攻めている間に冬になれば、戦いそのものが不利になることは明らかなのに、ナポレオンと同じ轍を踏んでいるわけで、歴史の教訓が全く生きてはいないではないか。
日本もドイツも、技術ではアメリカ、ロシアをしのぐ能力があるにもかかわらず、やはりトータルの国力ということになると、どうしても太刀打ちできない。
その太刀打ちの出来ない部分を、本当は政治力がカバーすればいいのだが、その政治力が全くないものだから、今の状況に甘んじなければならない。
この「アラド」に引き換え、ユンカースの輸送機というも実に特異な形状をしていた。
3発で、しかもプロペラは2枚羽というもので、これだけでも奇異な感じを受けるが、それに胴体がトタン板のような波板である。
まるで「空とぶリヤカー」のようなもので、これで本当に空を飛べるのかと思えるような代物である。
他にもドイツの名機としてはV−1ロケットやメッサーシュミットの名機があったが、私自身がドイツの飛行機にはあまりなじみがないので強烈な印象にも乏しく、あまり記憶に残っていない。
第2次世界大戦の前、世界中が混沌とした中で、日本とドイツはどうして手を結んだのであろう。
日本の軍国主義とドイツのナチズムというのは、どういう牽引力があってお互いに引き合ったのであろう。お互いに技術は一流、政治は三流という共通項を持ちながら、何故世界を敵に回して戦ったのであろう。
それは政治が三流という共通項の中に原因があって、戦争が政治・外交の延長線上にあることを考えれば、日本もドイツも政治下手ということに尽きるであろう。
ドイツが戦後40年以上も分裂したままでいたということも、政治下手の歴然たる事実であろう。
同じように、日本が未だに憲法さえ自分達で作りえないでいるのも、政治下手の顕著な例であろう。
この二つの事実から、我々は自分達の民族さえ意思統一が出来ていないということで、これほど政治下手を露呈した現実も他にないと思う。
国内で自分達の意思統一も出来ないものが、国連という生き馬の目を抜く外交の場で、その存在感を示すことはありえない。
日本は、国連の中ではただ金つるになっているだけで、未だに敵国扱いではないか。
にもかかわらず我々の国の学識経験者と称する識者達は、世界規模で何かことが起きると、「国連に依拠するように」と言ってはばからないが、これほど無責任な発言もない。
国連が事を解決したことがあるかといいたい。
今までの例では、国連の名の下でアメリカが動いたから解決したかに見えるが、国連というのは実質何も解決できていないのである。
今回のイラク戦争でも、国連の施設が自爆テロの標的にされたら、人命尊重の名の下にさっさと引き上げてしまって、何一つイラク復興の具体的行動に出ていないではないか。
この博物館一日かかっても見切れるものではない。
040406
夕刻5時に駐車場の入り口の朝車を降りたところで待ち合わせになっていたので、そこまで行って待っていると彼が約束どおり迎えに来てくれたが、この時間になるともう駐車場の係員はそこを引き上げていた。
それでこの日は直接ホテルまで送ってもらった。
ホテルで一服した後、さて今夜の腹ごしらえというわけで、ホテルの下に並んでいる街に繰り出したところ、昨日と同様レストラン街は何処も大入り満員であった。
昨日よりも遅い時間だったので、余計混んでいた。
大勢の人が外の薄暗い店先で夫々に食事をしていた。
外国まで来てわけのわからないものを食したら後が面倒なので、あまり得体の知れないものは敬遠したいところである。
それで夫々の異国のレストランに混じって、日本の寿司やが店開きしており、店員が浴衣姿で接待していたので、この日はついつい郷愁に駆られて、ここに入ってみることにした。
ところが通されたテーブルの周囲は若いアメリカ娘、ヤンキー娘ばかりであったが、こればかりは世界各国共通と見えて、盛んに仲間内でおしゃべりに興じていた。
そのうち彼女達に料理が運ばれてくると、この彼女達が結構上手にハシを使っているので驚いた。
最近の日本の若者のハシの使い方よりも上手に見えた。
ただ持つ位置が少々前過ぎるかなと思ったが、指の使い方、添え方は日本の若者よりも優れている。
翌日ガイド氏にその話をしたら、こちらでは日本食がステイタスとなっているらしく、こちらの人は日本のものを苦労してでも身につけようとしているということであった。
当然、日本食にまつわるハシの持ち方もその苦労の一環に入っているわけで、彼らは努力して日本通になろうとしているということであった。
ところが日本食とは別の問題で、彼らが屋外で食事をしたがる習癖というのは不思議なものを感じる。
そして照明に対する感覚も我々とは大いに異なっている。
この日本風の寿司やさんも、店の半分以上が屋外にあるわけで、照明も全く暗い。
上から蛍光灯でこうこうとテーブルに照明を当てるのではなく、テーブルの上に小さなランプ型の白熱灯があるのみ、手元がほんのりと明るいだけである。
これはホテルの部屋でも全く同じで、天上から部屋全体を明るくするということはまったくない。
スタンドで足元、手元、枕元の必要な部分のみほんのりと見える程度にしか照明がついていない。
我々の感覚からすると、部屋の中は真っ暗ケという感を免れない。
話を元に戻して、この寿司や、やはりアメリカの寿司やであった。
私は気が小さくて、本物の寿司やというのは日本に居てさえも行ったことがない。
寿司屋で、値段の表示していないものを、カウンターで注文して食すほど、金を持って入ったことがない。
私に言わしめれば、「時価」という値段表示で具体的なことを表示しない商習慣、又寿司職人は米粒で客の食した料金を勘定するといわれているが、こういう不明朗な会計そのものが反吐が出るほど嫌いだ。
寿司職人の側からすれば、客の懐具合を見計らって、値段をふっかけているわけで、こんな日本的な商売が21世紀に通用するはずがないと思っている。
アメリカの食というのは極めて単調で、繊細さにかけている。
それに引き換え日本食というのは極めて繊細で、見た目が美しく、華奢で、豪華なものから素朴なものへと変化に富み、西洋人の感覚からすれば大いに興味をそそるものに違いない。
しかし、それを我々日本人が内側の視点で見たとき、大いに考えさせられるものがあるように思う。
この相違を語り始めるとそれだけで一冊の本になってしまいそうであるが、日本とアメリカの食の相違は、そもそも文化の違いに根ざしていると思う。
先に言及したように、日本の寿司の業界、寿司職人の客あしらいの仕方というのは、21世紀のビジネスとしては死文化するのではないかと思う。
日本でも一人前の寿司職人になるには何年もの修行がいると言われていた。
ところが今ではそういう修行に辛抱しきれる若い人間がいないものだから、職人の腕も落ちたといわれているが、「食を作る職人」という発想そのものが既に時代錯誤である。
それは伝統という名の閉鎖社会から出ようとしない発想で、このことは日本人の生き方そのものを象徴しているように思う。
伝統の中に身を置き、伝統に従い、伝統に則って生きようとする発想、ものの考え方そのものが、日本人の文化の基底には流れているものと思う。
回転寿司の寿司も、有名店の寿司も、見た目は同じにもかかわらず、回転寿司の方は下とし、有名店の方を上とする既定概念そのものが間違っており、それを大事にする発想というものが既に時代の欲求に応えていない。
「有名だ!」というだけで値段が高いという時代は終わったのではないかと思う。
握り寿司を握るだけで、何年も修行がいるなんていう発想そのものがおかしいと思う。
これこそまさしく戦前の日本を支配していた精神主義の権化だと思う。
良い寿司を作るには何年も下積みの苦労を重ねた職人でなければ、本当の寿司というものは出来ない、という発想、思い込みそのものが完全なる精神主義の具現化であって、この発想から抜け出せない、抜け出ようとしない勇気の無さが、伝統という美名の下にそれを継続させてきたのだと思う。
そういう伝統を持たない人々は。ものの本質の良いところだけをさっさと借用するわけで、かってはこういうことは我が民族の最も得意とするところであった。
だから寿司一つとっても、我々は「握り寿司は食の芸術だ」などといっている間に、彼らはどんどん新しいネタを取り込んで、我々が想像も出来ないものを作り上げており、寿司そのものがまさしくグローバル化しつつあるようだ。
そこにもってきて我々の方はハシの持ち方も下手糞になりつつあり、西洋人の方はそれもますます上手になっていくわけである。
文化の浸透という事は実に面白い。
日本の寿司がアメリカでも好まれるようになったということは、日本の文化の一つであるところの寿司というものの良さがアメリカ人に認められたので、彼ら自身がそれを追求するということだと思う。
我々も明治維新のさいは、西洋的なものを何でもかんでも真似することで、西洋文化に追いつき追い越せとしゃにむに努力する雰囲気に浸っていた時期があったことは素直に認めなければならない。
しかし、国民が乃至は民族がこぞって異文化を受け入れるということは、その国家なり民族をなしている人々の頭脳が相当に柔軟でないことにはそういうことにはならないはずである。
ネイテイブなアメリカ原住民、中近東の遊牧民族、アフリカの未開地域の原住民というのは、自らの伝統に固執するあまり、異文化に極端な拒否反応を起こすわけで、だからこそ近代化という人間の生き様から完全に取り残されてしまっているわけである。
こういう人々は他を知らないので、全宇宙がこんなものだと思っているため、自分の惨めさに気がつかないでいる。
他と比較することを知っている人々は、異文化というものの良いところ、自分にとって都合のいいところはさっさと利用することを知っているわけである。
我々がアメリカ人の食事に辟易したのと同様、彼ら自身も、自分たちの食事には辟易していたに違いない。そこで日本食という異文化を体験しみると、最初は馴染みにくそうに見えたが、馴れてみると結構おいしいし、ダイエットにも良さそうだし、ということに気がついて社会全体が受け入れるようになったものと推察する。
ところが此処で驚いたことは、最初に沢庵が出てきて、その後味噌汁が出てきたまではいいが、その味噌汁にケレンが付いて来たことだ。
彼らの発想では、味噌汁というのはスープだという発想が抜けきれていないに違いない。
だからこういう仕儀に至ったものと善意に解釈しているが、この夜はある意味で面白い異国体験をした感じでした。
食事後、この日は早い時間にもう眠ってしまった。
翌日は(26日}はアナポリスにあるアメリカ海軍兵学校を見学する予定になっている。
それで翌日早朝に目が覚めたので、約束の時間までは少々時間があったので、ホテルの周りを散策して昨日のレストラン街などを見てまわろうと街に出てみた。
ホテルを出て坂を下るとすぐに地下鉄の駅があったので一体どうなっているのだろうと思ってその駅に降りていってみた。
地下鉄といえば名古屋の地下鉄なり東京の地下鉄を思い浮かべるが、此処の場合はまさしくアメリカ的に大雑把なものであった。
入り口の大きなことと行ったらない。
大きなトンネルがそのまま斜めに地下に向かって延びている。
入り口は一応雨水の侵入を防ぐために一段と高くなっているが、それを乗り越えると地獄の底に向かって大きなトンネルが口をあけており、トンネルの側面はコンクリートむき出しで、何の装飾も無ければ広告もなく、コンリートの地肌がそのままである。
長い長いエスカレーターが時々レールの継ぎ目を越す時の音を出してゴトンゴトンと音を発していた。
その上、こちらの人々は照明というものを天上から蛍光灯をこうこうと照らすということをせず、足元だけにほんのりと明かりを灯すという仕方なので、トンネル全体としては暗くて壁のコンクリートの白い地肌とエスカレーターのほのかな明かりだけというわけで、全体としてはうすぐらい雰囲気であった。
斜めにズボンと掘りぬいたトンネルの先は改札口とホームになっていたが、旧ソビエット連邦や中華人民共和国では、冷戦華やかりし頃、原爆攻撃から国民や政府高官の身を守るために地下鉄というものがその防空壕の役目を果たす役割を担っていると聞いたことがあるが、このワシントンの地下鉄もそういう意味があったのかもしれない。
入り口に爆弾の直撃を受けない限り、恐らく原爆の攻撃に耐えられる仕様になっているに違いない。
この日、ガイド氏とその話をしたところ、確かに此処の地下鉄は防空壕の代用も出来るように作られているということであった。
そしてあのトンネルは掘ったのではなく管を埋めて作ったという話をしてくれた。
料金はどこまで行っても1ドル20セントだといっていたが、アメリカは自動車王国で、鉄道の利用というのは斜陽だと聞いているが21世紀ではもう自動車の時代は終わりを遂げるわけで、これからはますますこういう公共交通機関が望まれるに違いない。
朝の散歩から帰って、ロビーでガイド氏の登場を待っていたら、約束の時間に姿を現して早速アナポリスに向けて出発となった。
例によってガイド氏は車を運転しながら電話したり、後ろを向いてガイドしたりと、乗せてもらっている方は冷や冷やであるが、そんな事はお構いなしに我々を目的地まで運んでくれた。
アナポリスといえばアメリカ海軍兵学校の所在地としてつとに有名であるが、私は今回此処を訪れるについてはっきりとした目的意識を持っていなかった。
他に面白そうなオプショナル・ツアーが無かったので、これを選択したに過ぎず、本来ならば日本の旧海軍兵学校を見てから来るのが本筋だろうと自分でも思っている。
そうすれば真に比較検討ということが出来るが、片一方を見ていないので比較することができない。
ガイド氏はメリーランド州の曰く、生い立ちを語っていたが、こちらでは「あの町この町」という言葉が実感を持って思い浮かべることができる。
日本でも一昔前までは「あの町この町」という実感が感じられたものであるが、昨今ではそれが一続きになってしまって、あの町とこの町の切れ目がなくなってしまった。
メガ・タウンとして1つに繋がってしまったので、言葉の実感がともなわない。
ところがこちらではまだその実感が残っていて、車で今いる町を通り抜けると、次に現れる新しい町までは時間差がある。
その間、雑木林があったり、農園が合ったり、田舎屋が散見したりと、「あの町」と「この町」の間に距離感が残っている。
そしてこの光景が極めてアメリカ的で、いくら立派な舗装道路が何車線にもわたって広がっていても、この光景が見えるかぎり、それはアメリカに違いない。
ガイド氏が走りながら電話したり、書類をチェックしたり、後ろ向きで話しかけても、それが可能な環境である。
ワシントンからアナポロリスは車で約1時間程度の距離で、車は静かの住宅地の中を徐行して駐車スペースを探したがこの日はあいにくと見付からず、港のパーキングまで行ってしまった。
このアナポリスというのは来て見て始めて判ったが、小さなヨット・ハーバーである。
それだけに瀟洒な港町で、日本でいえば湘南の雰囲気が漂っている。
それで例の兵学校というのは、この小さな港町の中の静かな住宅地の中にあった。
施設はコンクリートの万年塀に囲まれていたが、正面入り口では迷彩服の兵士が物々しく警備しており、我々もパスポートを掲示して中に入った。
パスポートさえ見せれば特にうるさいこともいわずにあっさりと入れてくれたが、このあたりはやはりおおらかとでもいう他ない。
ガイド氏の説明によると、アメリカでは公共の施設というものは、国民、つまり納税者に対して公開する義務があるということだ。
昨今我々の間で言われている情報開示ということであろうが、ところがこれが例の9・11事件から行政サイドとして「テロの防止」という名目で、情報開示を渋る好都合な理由が出来たわけで、これだから世の中というのは常に試行錯誤の連続だと考えなければならない。
ゲートを通過しても、来るものを威圧するような建物はない。
ところが道路の左側にかなり大きな構造物があったので不審に思っていたらガイド氏が「あれはアイスホッケー場だ」と教えてくれた。
館内にはもう既に氷はなかったが、この施設は実に立派な施設である。
我々の日常生活の中の認識でいえば、高校生や大学の部活の1つの種目のために、
それと同時にアイスホッケーというのはまさしく格闘技で、スケートから連想するような優雅な競技ではない。
男と男が本当の闘志剥きだしで戦うスポーツである。まさしく古典的な擬似殺し合い的なスポーツである。ガイド氏がいうには、此処の学生は4つのスポーツを選択しなければならないということだ。
私は自分が運動神経が鈍いのでスポーツに対する認識でもかなり思い違いをしていた部分もあるが、人は生きる上でスポーツの意義というものを大いに考えなければならない、ということを自衛隊にいるときに悟ったが、此処ではそれが実践されているわけだ。
このアイスホッケー場を通過するとその先には立派なキャンバスになっていたが、このキャンバスは実に良い感じである。
地面のグリーンと、木立の緑陰と、コンクリートの遊歩道と、その先に立つ白い建物との調和が実に素晴らしく絵になる光景である。
この木立の間をリスが走り回り、この奇麗なフィールドの中を、白のユニフォーム、乃至は黒のユニフォームを着た学生が行き交っているわけで、いかにもアカデミックな雰囲気が漂っている。
ガイド氏の説明によると、白のユニフォームは本来の在校生で、黒のユニフォームは既に任官した人の在校生ということである。
今の自衛隊の言葉でいえば部内幹部候補生ということだろうと思う。
この兵学校、正門の標識にはU・S・NAVAL ACADEMYとなっている。
我々、特に戦後の日本人は、兵学校というと「殺しのテクニック」を教えるところだと思い違いをしている向きもあろうと思うが、むしろ逆に人を殺さない方策を考えているところと言ってもいいと思う。
殺し方を知っているという事は、その対応策にも長じているわけで、戦後の我々は「戦争は悪いことだ」という認識に凝り固まっているが、悪いからこそ排除しなければならないわけで、そのためにはデモやシュプレヒコールだけで戦争を回避できるものではない、ということを実践的に考察する必要がある。
戦いを研究するという事は、同時にその防御についても合わせて研究することに通じているわけで、それだからこそアカデミーなわけである。
私自身も、このアメリカ海軍の兵学校には軍事的な様々なものがところ狭しと並んでいるのではないか、と幼稚な発想をしていたが、実にアカデミックな施設で驚いている。
ところが中で行きかっている人間はまさしく軍人の端くれで、男女を問わず、その歩く姿の凛々しさには敬服する。
彼らは誇りと自身に満ちてており、現世の世界の人間とは別世界の生き物という感じがする。
この違和感は一体何処から来るのだろう、と常に考えているが、私が想像するに、それは制服に由来しているのではないかと思う。
ユニホームというものをきちんと着ると、そこには凛々しさと威厳が自然と沸き立ってくるのではないかと思う。
以前「トップ・ガン」という映画があった。
その中でF14の優秀なパイロットのトム・クルーズが私服で教官の家を尋ねるシーンがあった。
私服でいくら750ccのオートバイを駆ってみてもただそれだけだが、これが飛行服に着替えると歩くだけで様になる。
この違いは一体なんであろう。
昨年、海上自衛隊の観艦式を見に行ったさい、護衛艦に同乗して、彼らの仕事振りを目の当たりにしたものだが、この日は彼らも観艦式ということで制服で勤務についていた。
するとそこで仕事をしている全員が、いかにも凛々しく、頼もしく、自信に満ちて、誇りをもって職務を遂行しているように見えてならない。
ところがこれが私服に着替えると、恐らく巷の若者と何らかわらならないと思う。
昔から「馬子にも衣装」という言葉があって、服装にその人柄が現れるというようなことがよく言われているが、これは真実だと思う。
昔は兵学校のみならず軍隊そのものが、しかも日本だけの特殊事情でもなく、世界的にも男性社会で、女人禁制の職場であった。
ところが昨今ではこの男社会に女性が進出してきて、男の職域を凌駕しつつある。
これも日本だけの現象ではなく世界的にもそうである。
日本でもアメリカでも、海軍だろうが陸軍だろうが、男社会に女性がどんどん入ってきているわけで、これをどう考えたらいいのであろう。
先に兵学校は「殺しのテクニック」を教えるところではないと述べたが、まさにそれだからこそ女性が進出してくるのであろう。
「暴力には暴力で」というのは人間としてもっとも基本的な人権だと思う。
ところが人々が教養というものを重ねてくると、このもっとも基本的な人間の発想を野蛮な考え方として排除することが文明の名のもとで良い事だと思い違いをされるようになって来た。
人間の歴史というのは、基本的に暴力には暴力で対応し、対処し、それで物事を解決してきたのである。
9・11事件を見ても、あの事件そのものが暴力であり、アメリカのとった措置も暴力意外に何ものでもないし、あれを暴力以外の手法、方法で解決の仕様があるかといえば、それはありえないわけで、どこまでいっても金太郎飴と同じで暴力以外の芯、つまり解決法はありえないのである。
軍隊というのはただただ戦う集団でもなければ、人殺しの集団でもなく、基本的には相手の暴力に対抗する対抗勢力でなければならないと思う。
今回のイラク戦争でも「アメリカが国連のいうことも聞かずに単独でイラクを攻撃したのはけしからん」という論調が多いが、最初にあのテロ行為がなければああいうことにはならないし、一旦なった後でも国連にあの9・11の再発、乃至は再現を防ぐ能力があれば、アメリカも単独行動などしないはずである。
国連にはあのテロの再発を阻止し、首謀者を討伐する能力が無いわけで、アメリカにしてみればそんな不安定な抑止力に気を使うよりも、自ら率先して戦うことでアメリカ市民の安全が脅かされないようにせねばならずだからこそ単独行動になったものと思う。
国連がアメリカ市民の安全を保障してくれるわけでもなく、アルカイダにテロを止めさせるわけでもなく、サダム・フセイン大統領の独裁を止めさせることもできず、大量破壊兵器の公開もさせられず、9・11テロの首謀者を割り出すことも出来ず、結局国連というのは世界の秩序と安寧を維持するのに何一つ役立っていないわけである。
これこそ国連の現実の姿だと思う。
国連が地球規模の警察機構を持って、9・11テロの首謀者をアメリカ側にきちんと突き出すことが出来たならば、アメリカだとて不要なイラク戦争などというものをしでかすことはなかったと思う。
アメリカがアメリカ市民の安全を自らの手で積極的に守ろうとしたとき、その任務に積極的に協力してくれる人々、つまりアメリカ市民が国の防衛を付託すべき人々が、此処の学生達とその卒業生ではないかと思う。
そういう意味から此処の学生はアメリカ市民からの期待と嘱望を担っているわけで、それは同時に選ばれたという誇りと、名誉を併せ持つことにあるわけである。
やはり今でも誰で彼でもそうそう安易に入れるものではなく、此処には入れたということは、家族は勿論、親類縁者からも、地域からも誇りとなるということである。
正面に屹立していた4階建てくらいの白亜の建物では、なにかしらセレモニーが行われているらしく、制服の人々がきちんと整列していた。
この建物は要するに学生寮という類のものらしいが、その立派なことといったらない。
我々の国でも基本的には旧日本海軍の兵学校でも、東京大学の建物でも、名古屋大学の建物でも、公共の建物という意味では同じ価値の線上に並ぶと思う。
ところが旧海軍の施設はその後の管理がそれに関連した部署が行なったのに対して、旧文部省の所管であった旧帝国大学の建物の荒廃は誰がどう説明するのであろう。
軍関係の建物は、占領軍が接収したという事は考えられるが、占領軍に接収されなかった建物が荒廃して、接収された建物が荒廃から免れたという事はどう説明したらいのであろう。
一言で端的に言えば、我々の同胞には公徳心というものが存在しないということである。
例えば、東京大学の建物というのは日本で一番のエリートが学ぶところで、その施設が先鋭的な共産主義者に破壊されたということは、そこの在校生、そこの卒業生というのは、自分たちの学び舎をそういう破壊から、そういう勢力から守らねばならないと考えてしかるべきだと思う。
公共の施設で、これからも後輩達が此処で学ぶであろう、こういう公共の施設が破壊されていくのを傍観しているだけで、良心になんとも感じなかったのだろうか。
ということは、破壊者と同罪であり、同じ罪科を背負うべきである。
日本で一番優秀とされる人々の良心、教養、知性を問い詰めなければならないと思う。
それを問い詰めてみれば、公共のものを大事にするという道徳心のかけらもこういう人々は持っていなかったわけで、国費で教養・知性・教育を授かったものの、それが個人の道徳心を培って人間形成に貢献することには何一つ繋がっていなかったということに他ならない。
ただたんなるインテリ・ヤクザを作っただけで、国家に対する感謝の気持ちがないものだから、当然国家に貢献する精神、奉仕の精神も芽生えないわけで、国から取れるものは強欲に要求し、自分は何一つ人のために働こうとしないわけである。
我々は国家という言葉を使うとき、その中には人間、つまり国民がいることを忘れて、国家には政府という悪人だけが住んでいて、それが善良な市民を抑圧しているという構図で見がちであるが、国家という言葉は森羅万象あらゆるものを内包している言葉だと思う。
これを書いているとき(平成16年4月7日)福岡地裁で、「小泉首相の靖国神社参詣は違憲だ」という判決が出た。
自分たちが選んだ自分たちの国家元首が、自分たちの英霊に参詣することが憲法違反だというのだから我々の国というのは一体どうなっているのであろう。
アメリカの大統領が、アーリントン墓地に墓参りすることがいけない、というようなもので、こんな事がアメリカで通用するであろうか。
戦後の我々にはこういう思考、ものの考え方が根底にあるものだから、学校というのは世渡りのテクニックを教えるだけで、その教えられたテクニックで私利私欲を何処までも追求して,国家というものは個人の私利私欲の追及の手段をただで教えるべき存在だとでも思い違いしていると思う。
要するに、日本国民というのは、自分さえ得すれば後のことは一切関わってはならないというわけである。
公共のものは税金で出来ているのだから、いくら壊してもそれは国家が保全、補修して当たり前という考え方である。
税金で出来ているからいくら壊してもいい、という発想はアメリカとは逆の発想になっている。
これがアメリカと日本の発想の相違の原点、つまり民主主義の原点の相違といってもいいと思う。
アメリカだけとの相違ではなく、いわゆる「日本の常識は世界の非常識で、世界の非常識が日本の常識」といわれるものだろうと思う。
世界の常識では公共のものは大事にしなければならないとなっているが、我々の常識では公共のものはいくら壊しても国家が修繕すべきだとなっているのである。
ここで私が思い浮かべていることは、かってあった学園紛争の時の状況をいっているのであって、あの数年後で私が名古屋大学の公開講座を受講した時の名古屋大学の荒れようといったら筆舌に尽くしがたい状況であった。
あれが日本の高等教育の現場かと思うと、この先日本が良くなる筈がないと真底思ったものである。
現実にその状況に今なっているわけである。
自分たちの国家元首が自分たちの英霊に参詣することが違憲等という判決を出す裁判官の存在がそれを端的に示していると思う。
21世紀になって、我々は今も尚単一民族とは言い切れないが、それでも他の主権国家から較べると同一民族の度合いはかなり強いはずである。
同一民族ならばこそ、裁判官も、政府要人も、国会議員も、国家元首を告訴する愚民も、同じ日本人同志なわけで、その中ではいくら意見の諍いが存在していても、それはあくまでも小さなコップの中での争いなわけである。
小さなコップの中という小宇宙での諍いなわけで、いくらコップの中が荒れてもユダヤ人の受けたホロコーストも、旧ソビエット連邦の粛清も、中華人民共和国の文化大革命も、カンボジアのポルポト派の虐殺も、我々にはありえないわけで、我々はこの小さな島の中で飽食の生活が送れることはまず間違いがない。
そういう安易な未来志向が根底にあるものだから、外国特に中国や韓国に気兼ねばかりして、表面的な平和思考のみで満足しているものと考える。
小泉首相が我々の英霊を参詣することが憲法違反だとて、だからといって我々が数年後にすぐ死滅するわけでもなく、外国からの抑圧にさらされるわけでもない。
自分たちで自分たちをいくらこき下ろし、蔑み、自虐的な思考を重ねていても、それが直ちに他人の生命に関わる問題ではないので、コップの中の嵐はますます浪立つだけである。
いくら波立ったところで、それはコップの中だけの話で、いわば同じ民族同志という甘えから、甘えの極致に立っているものと思う。
だから他から見れば取るに足らない話で終わってしまうわけである。
このキャンバスを行きかっている男女の学生は、実に清楚で、凛々しく、若者らしい風体をしているが、それはユニフォームだけの所為でもないと思う。
やはりここに入学したということは自分自身の誇りにもなっているに違いないく、それが体の隅々にあふれているからではないかと思う。
日本ではいわゆるセレモニー、卒業式とか入学式というセレモニーに国旗の掲揚や国歌の斉唱が廃れてしまったが、これは一体どういうことなのであろう。
しかし、同じ日本でも日教組の居ない学校、それは特殊な学校ということになるが、そういう学校では世界の常識に則って国旗の掲揚や国家の斉唱が行なわれているが、日本の公立の学校、特に義務教育の場であるべき小学校中学校、こういう学校は当然のこと日教組という共産主義者に蹂躙されているので、こういう学校では自分の国の国旗とか国歌というものを認めていないようだ。
冷戦が終結して早や10年以上経っているので、今更共産主義という言葉を持ち出すのも時代錯誤かと思うが、今日の我々の周りでは、この共産主義という言葉こそ時代遅れとなっている。
しかし、共産主義に毒されたゆがんだ精神は未だに生き続けているからそれが尚のこと恐ろしいのである。共産主義という言葉を使わずに、その精神のみが未だに脈々と生き続けているわけ、人々はその言動の後ろに共産主義というものを見失ってしまっている。そこが恐ろしいところである。
共産主義というものが、人権問題とか環境問題とか、言論の自由乃至は表現の自由という言い方でカモフラージュされてしまって、そういう問題提起の後ろに共産主義思想が隠れていることに気が付いていない節がある。
尤も、今の若者にとっては共産主義という言葉そのものが死語となっているかもしれない。
この言葉を使うこと自体、思想のシーラカンスなのかもしれない。
だとしたら、我々以上に若い人々が何故自分の国の国旗と国歌に敬意を表しないのであろう。
それは我々の戦後の教育の中でそれを教えてこなかったからではないか。
その責任は何処にあるかと問えば、やはりそれは戦後の日本の教育界を席巻した日教組、共産主義者としての公立学校の先生方の責任といわなければならない。
こういう先生の下で、生徒達が我々の先輩諸氏、我々の父や兄や、おじいさん達、おじさん達というのが中国を侵略し、朝鮮や台湾を抑圧し、罪もない人々を殺してきたと教え込まれれば、その生徒達が大人となった今、自分の国の国旗にも国歌にも敬虔な気持ちを持ち得ないのも当然のことだと思う。
このアメリカの海軍兵学校の見学は私にとって非常に意義あるものであった。
ここには兵器とか軍事に関するものは何一つなく、あるのはリスの走り回る瀟洒なキャンバスと、誇りと自信に満ちた男女の学生だけであった。
やはり私の所感では、祖国を護るという行為は気高く、奉仕の精神でなければならないと思うが、それがここでは具現化している。
祖国を護るという事は、確固たる主権国家の市民・国民の義務なわけで、奴隷や、抑圧された人々には祖国を護る義務もなければ義理もないわけである。
市民意識のないものは、そういう義務を負う意識もなければ義理もないのである。
その良い例が今のイラクの状況で、イラクの人々に自分の祖国という意識があれば、フセイン大統領なきあとは自分達でさっさと自分達の国を作ればいいのである。
それが出来ないということは、彼らに自分達の祖国という意識が根底に存在していないからで、イラク市民、イラク国民という概念そのものが民衆の間に出来上がっていないということである。
フセイン大統領がアメリカの攻撃で力を失った時点で、イラク人が自分達の国家というものを自分達で作り、正常な国家機能を作り上げれば、アメリカの占領もそれだけ短くなるはずである。
自分達が自分達の国家さえ作りきれないものを、アメリカの占領の所為にするほど馬鹿げた話もないと思う。
主権国家が自分達の国を護ってくれるであろう若者を養成する機関を作るということは、大きな国家事業だろうと思うし、普通の主権国家ならばそれに期待を掛け,自国の若者にそういう教育を施すと思う。
国を護るという言葉を使うと、我々はすぐに軍事的なことを思い浮かべそうであるが、そんな単純なものではなく、国を護るということは政治経済の総てを網羅した行為だと思う。
そんな思いに耽りながらこのアナポリス兵学校を門を退出してきた。
門を出てぶらりぶらりとアナポリスの町を散策しながら駐車場まで戻り、ここでガイド氏とは1時間ばかり別行動をして、我々はアナポリスの町を見てまわった。
兵学校というものがなかったらひなびた小さなヨット・バーバーに過ぎない町だと思う。
港には大小さまざまなヨットが係留してあった。
我々は町のスーパー・マーケットのようなところに入ってスナックを買ったり、ショウ・ウインドウを眺めたりしていた。
そんなことをして1時間ばかり時を過ごした後、再びワシントンに向けて出発したが、市内に入って我々は再度スミソニアン博物館の前で下ろしてもらった。
というのもこのうちの美術館を見ておきたいとの、地球で一番大きなダイヤモンドというものを一度この目で見たいと思っていたからである。
それで美術館の前で車を下ろしてもらい、中に入った。
例によって警備は厳しくカバンの中まで調べられ、カバンはクロークに預けるように言われた。
この美術館はメロン財閥が寄与するところが大であるとガイド氏は言っていた。
美術に関んして私は疎い方なので、この美術館が如何なる作品を所蔵しているか不勉強であったが、ガイド氏の説明によると、入って左翼の方にフランス、バルビゾン派の絵があり、右翼にはピカソの絵があると教えてくれた。
それは心に留め置くとして、この時は時間にして14時頃で、我々はアナポリスの町で食事らしい食事をしてこなかったので、この美術館の真正面にあった瀟洒なレストランで食事をすることとなった。
他の客はワインなど飲んで、優雅な時を過ごしている風に見えた。
何しろ入場料がただなので、中で少々高い食事をしても勘定負けすることはない筈で、良い雰囲気の中でゆっくり食事をするのも上手な時の過ごし方には違いない。
ところが我々は異邦人で、それほどの心のゆとりを持ち合わせておらず、あっさりとしたサンドイッチで簡単に済ませるつもりでいた。
ところが出てきたサンドイッチがこれまた典型的なアメリカスタイルで、大口を開けて頬バラなければならないほどの無味乾燥した代物であった。
それでほうほうの体で食事を終え、館内を見てまわったが、その立派さにはいささか驚いた。
作品の良さというのは正直言って理解できなかった。
どれが良くてどれがそうでもないかという事はさっぱり判らなかったが、建物の立派さにはいささか驚いた。
この辺りを素人なりに勘案してみると、やはりアメリカというのはヨーロッパに対して文化的に相当コンプレックスを抱いており、ヨーロッパに追いつき追い越せという気概を持っているのではないか思われる。
この建物自体が相当フランスに似せて作られているような気がしてならない。
大理石をふんだんに使って、荘厳かつ華麗な石つくりの建物で、一部屋一部屋を回廊でつないで作品を展示するという発想そのものがヨーロッパに対する背伸びした精神の表れではないかと想像する。
とはいうもののあまりにも広くあまりにも作品が多すぎてゆっくり見てまわる余裕がない、
バルビソン派の絵というのは判らずじまいで終わり、ピカソの絵というのは係員に聞いてやっとたどり着いたはいいが、これは小さな小さなデッサンで期待したものではなかった。
この美術館をゆっくり見ようとしたらやはり一日がかりで、朝から腹を据えて見なければならない。
そういう点でもあまりにもスケールが大きすぎる。
しかし、この美術館のいいところは入場料がただという点もさることながら、いくら写真をとってもいいという点である。
中で床に座り込んで写生していた若い人もいた。
文化というものはこうでなければならないと思う。
日本の美術館では大方のところが写真撮影は禁止になっていると思うが、本来美術品というのは大勢の人に見られることこそ使命な筈で、それが肉眼でなければ駄目だというのではあまりにも狭量だと思うし、その発想そのものが美術というものに対する独断専横の思い上がった考え方だと思う。
これは昨今の知的所有権の問題ともからんでくるだろうが、良い作品が真似されては困るという考え方は、一見整合性があるかに見えるが、創造者の保護という名目の閉鎖的思考に繋がっていると思う。
良いものならばどんな形で真似されてもいいわけで、それが創造したものの独創性を侵害するという考え方は文化向上に対する冒涜だと思う。
真似されて困るようなものならば、最初から公開しなければいいわけで、一旦公開されてこれは独創性に富んだ良い作品だと評価されれば、それはどういう形で利用されようとも創造者の名誉だと思う。
そういう観点に立ってみると、写真撮影もOKというこの美術館の処置は立派なことだといわなければならない。
この美術館には2時間もいたであろうか。とても見切れるものではないとなると、逆にあきらめの境地になってしまって早々に切り上げて、外に出て陽光のさんさんと照るモールを歩いて次の自然史博物館に移った。
ここは自然史というだけあって地球上の森羅万象を網羅している。
それ故に子供向けの展示になっており、大勢の子供が押しかけていたが、入り口の警備は子供だとて容赦なく、全員がリュックサックの中まで点検され、金属探知機を潜らされていた。
我々のこの日の目的はただただ地球上で一番大きなダイヤモンドを見るだけだったので、一目散にその場に行ったが、これもなかなか見つけにくかった。
3階のフロアの中央付近にガラス張りの小さなケースがあって、その台そのものが360度回転していた。そこに鶉の卵ほどのダイヤモンドが陳列してあったが、こういう代物には色々はエピソードがついて回るようだ。
そのエピソードの一つは、これは元々この倍あったという話であるが、私にとってはダイヤモンドの大きさなど如何ほどのものであろうとも「馬の耳に念仏」であり、「猫に小判」の域を出るものではない。
それよりも、こういう宝石には当然因縁話がつきもので、その話のほうが実物の宝石よりも余程面白い。
その中でも一番普遍的な話が、「こういう宝石を持つと身に不幸がおとづれる」という話で、これは恐らく持たないもの、持てないものの、ヤッカミからそういう話が捏造されるのであろうが、そういう話のほうが人間味があって楽しい。
この日は朝から地下鉄の穴倉を覗いたり、アナポリスで希望と期待を背負った颯爽たる士官候補生の姿を見、立派な美術館を見、地球で一番大きなダイヤモンドを見て実り大きな良い日であった。
スミソニアンのモールからはタクシーでホテルに帰ったが、この日の夕食はホテルの外に出て、再びタイ料理なるものを食した。
昼間のアメリカ風サンドイッチには閉口したので、やはり我々にはアジアの料理が一番無難なようだ。
ホテルの部屋に入ってしまえばもう寝る意外にすることがない。
時差ぼけか何だか知らないが、早く寝るせいであろう、夜中の思わぬときに目が覚めてメモなどとってみたりした。
次の日(27日)はアムトラックで二ューヨークに向かう日である。
この日、約束の時間にホテルのロビーで待っていると今までの高橋氏ではないガイド氏が迎えにきてくれてワシントン市内の駅、ユニオン・ステーション駅まで送ってくれた。
ガイド氏は手馴れたもので、駅の正面に車を止めると、ポーターに我々のトランクを渡し、我々を乗せたまま車を駐車場に入れた。
この駐車場で車を降りてエスカレーターで下のフロアーに降りるとそこが駅の待合室になっていた。
この待合室がまるで空港の待合室と同じだ。発着を示す掲示板もそっくりである。
発車時間まで1時間近くあるので、駅の構内を散策することになったが、この駅の立派なことと言ったらない。
日本の名古屋駅でも東京駅でもそれなりに立派ではあるが、この駅とは何かしら違う雰囲気が漂っている。立派さの質の相違とでもいうのであろうか。
よくよく観察してみると、やはりその違いは人の数ではないかと思う。
我々の国ではあまりにも人が多すぎるので建物の立派さがその人の渦の中に埋没してしまっているが、こちらでは人の数がまばらなので、建物の立派さが浮き出ているように感じられる。
アメリカという国には一極集中ということが全くないので、このワシントンからアメリカ全土に向けて鉄道が延びているというわけでもない。
とはいうもののやはりアメリカ東海岸の中心にあるわけで、ここから南北に伸びる路線は今も生きている。
アメリカでは鉄道が斜陽化していると昔聞いたことがあるが、どうしてどうして、まだまだ健在という感がする。
この駅の立派さというのは、その素材が石で出来ているという点にあるのかもしれない。
それとアメリカ人が公共の施設には惜しみなく金を掛けるというところにもあるようで、アメリカの鉄道が私企業とはいうものの、鉄道という事業が極めて公共性に富んでいるので、駅舎も実に立派なものを作ったに違いない。
我々は駅の真正面で荷物をポーターに預けてから再び駐車場に行き、そこからエスカレーターで降りてきたが、この真正面から中に入ると、そこが広いコンコースになっていて、そこが改札口毎に待合所になっていた。
駅の中をうろちょろ歩いて散策した後、その待合所で待っていると、先のポーターがホームへの入場を促した。
聞くところによると、ポーターに荷物を預けた人は優先的にホームには入れるとのことであった。
これはこれで駅の業務に携わる人の助け合いというか融通のし合いというか、一つのサービスになっているらしい。
面白いことに、我々の国でも駅で荷物を運んでくれる人を「赤帽」と呼んでいるが、こちらでもまさしく「レッド・キャップ」といっていたのが面白い。
「赤帽」という言葉が「レッド・キャプ」をそのまま翻訳したのかもしれない。
この待合室の天井は非常に高く2階になっており、1階も2階もショッピングモールになっていた。
そのショウ・ウインドウは奇麗なデイスプレイが施されており、ウインドウ・ショッピングするにはもってこいのロケーションである。
2階の中央にはコーヒー・スタンドがあり、ここでコーヒーを飲んでしばらく時を過ごしたが、駅舎は立派でも東京や名古屋のように人であふれているという事がないので落ち着いた気分で居れる。
そして駅の端には立派な本屋があって、こうこうと蛍光灯をつけ店内は明るかったが、その本の多さにはびっくりしたものだ。
戦後間もなく、日本に占領軍としてやってきたアメリカのGI達はろくに字も読めないということが言われたものだが、あの時代は日米ともに兵隊などという人種は無学文盲が多かったわけで、日本でも似たり寄ったりであったはずだ。
ただ我々の育った生活環境では字の読める者が普通にいたので、アメリカの兵隊やロシアの兵隊は無学文盲ばかりだと勘違いしていただけのことで、日本でも同じ割合でそういう類の人はいたと思われる。
アメリカ人は本を読まない、という我々の側の思い込みは大いに改めるべきで、彼らも実によく本を読んでいる。
むしろ今では日本の若者の方が本を読まないと思う。
アメリカの場合、色んな人種がいるので、一目見てヒスパニック系の人たちは確かに本を読んでいないが、白人といわれる人はそんなことないし、黒人も実によく本を読んでいる。
日本では大概駅で読む本といえば週刊誌か漫画であるが、こちらではハードカバーの本が主で、日本でいう週刊誌のようなものは見当たらない。
よく探せばあるだろうが、普通の旅行者の目に付く範囲では見当たらなかった。
そんなことを考えながら時の来るのを待っていたら、発車の30分ぐらい前にポーターが荷物を持って先導してくれ、我々はホームにと入った。
この地のホームというのは、我々の認識でいうところのプラット・ホームではなく、地面からいきなり車両に乗るという仕掛けである。
車両の方に階段と手すりがついている。
だから二つの荷物を出し入れする作業というのはかなり大変で、女性では難しいような気がする。
よって「赤帽」の存在が今に生きているのであろう。
我々も自分の荷物の出し入れぐらい自分達で出来ないことはないが、そこは「郷に入って郷に従え」というわけで、ガイド氏から言われるままにその言葉に従った。
こういう業界は、こういう業界同士で話が出来ているはずで、我々の払うツアー料金もそういう諸々のサービス料も含まれているはずだからなすがままにしていた。
列車は既にホームで待機しており、ポーターは我々の荷物を専用スペースに入れてくれた。
。
それで適当なところに席を占め、後は発車を待つばかりである。
こちらの列車は発車のベルもなく、アナウンスもなく、いきなり黙って出発するということを聞いていたので、少々心配であったが先頭車の写真が撮りたくて、小走りに走って先頭車、いわゆる機関車の写真を撮ってきた。
この駅舎の裏側というか、列車の発着するホームの雰囲気というのも、我々の認識の中にあるホームとは大いに異なっている。
活気がないというか、殺風景というか、閑散としているというか、日本のように列車がひっきりなしに発着しているわけではないので、我々の駅というものに対する感覚からすると拍子抜けの感がする。
やはり斜陽というものであろうか。
しかし、出発にさいしては非常にスムースに動き出したので驚いた。
日本ですと、長い列車では連結器の遊びの関係でガタンガタンという振動がどうしても起きるが、それが一切なく、スーッと動き出した。
車両そのものの大きさは新幹線と同じくらいだが、座席の数が少ないのでその分広く感じ、その上こちらの鉄道は広軌なので揺れも少なく、実に快適である。
走り出して間もなく車掌が検札に来た。
ガイド氏は、パスポートの提示を求められるかもしれないといっていたが、そんな事はなかった。
そしてこちらの切符というのはまさしく航空券と同じで、その半券を網棚の近くに挟みこんでいた。
あれはどういうシステムなのであろう。
券の挟んでないところは自由に座っていいということだろうか。
車内の様子を見ていると、席を変わる人はその券を持って差し変えていた。
車窓の景色はやはり100%アメリカ的で、雑木林の自然林が目に付くが、その中のところどころに人間の営みとしての民家や工場が目に付く。
日本の都市近郊では、都市と都市の間に民家が密集して、「あの町この町」というイメージがわかないが、ここでは1つの町を通り過ぎると、次の町まで何かしらの空間があって、「あの町この町」という感じが実感をともなう。
大地が自然のままに存在して、林の中の倒れた木がそのまま朽ちたり、小川があったり、沼地があったり、廃屋があったりして、いかにも自然のままという感じがする。
大地の自然に人間が手を加えていないという感じがする。
実際には、大いに手を加えたが、それが長いこと放置され続け、再び自然に戻ったという感じがする。
私が一番自然を感じることは、小川なり、少々大きな河川なりに全く護岸工事がなされていないという点だ。
川の岸辺には葦が自然のまま生い茂って、水面と岸辺の境界が定かでないほど埋もれていることである。
車中はさほどのこともなく、時間の経過とともに大都会にだんだんと近づいてきたが、それでも辺境と都会という境界線はきちんと存在しており、東京と横浜がくっついているような有り様ではなかった。
葦の原っぱを1時間走るとようやく都会に入るという感じで、「あの町この町」の違いは歴然と残っている。
アメリカの列車はダイヤ通りには走らないと聞いていたが、我々の乗った列車は見事にダイヤ通りに走って定刻に着いた。
ワシントンを出るときには「降りたところから決して離れてはならない」と厳しく言われていたので、トランクを抱えて降りたら、もうそこにこの地のガイド氏が来ていた。
乗った列車番号と座席の位置が既に知らされていたので、ぬかりなく接触が可能であった。
このニューヨークの駅も大きな駅で、我々の乗った列車がついた駅はペンシルベニア・ステイションであった。
ところが着くやいなやガイドに手際よく案内されて、駅構内をうろうろする間もなかったので、駅の印象というものが何も残っていない。
さっさと先に行くガイドの後を追いかけるのが精一杯で、何も目に入らず、印象に残っていない。
それで、このニューヨークのガイド氏も例によって例のごとく、バンで街中を案内してくれた。
旅行案内のパンフレットに載っているとおり、旅行日程表に書かれているとおり、国連ビルやエンパイヤーステートビル、セントラルパークからダコタハウス、その他諸々の観光名所を案内してくれた。
当然といえば当然で、これも料金に入っているわけだから。
ただ、西部の大自然ならば車の窓から見ていても心に残り、印象にも残るが、大都会の中でいくら次から次へと説明されても一向に印象に残らない。
形のあるものは判る。確かに国連本部のビルは見れば判るし、エンパイヤーステートビルも見れば判る。
セントラルパークも見ればわかる。
しかし元のワールド・トレードセンターのあったグランド・ゼロは、目標物が存在していないので、車の窓から見る限りわからなかった。
何処をどう通ったのかさっぱりわからない。
ウオール街も車の窓から見る限りさっぱり判らない。
ただ思いのほかせまっ苦しい通りだ、ということは理解できた。
それで一通り市内観光をしたら、海岸べりに出て新しいレストラン街のようなところで食事をするように言われた。
確かにどんな食事でもありそうな面白いところでピア17パビリオンという。
このパビリオンの前には大きな帆船が2隻係留されていた。
1つはペキン号といって、大きなものであった。
何か曰く因縁がありそうであったが、この時点ではまだ不明である。
このショッピング・モールで軽い食事をしようとしたが、あまりにも色々なものが目の前に並んでいると選択に困る。
それで私はラーメンもどきのものを注文したが、異国で食べ慣れないものを食べるとおなかを壊すのが心配で、熱の通ったものならばいいだろうという判断からである。
この位置からは丁度前方にブルックリン橋とマンハッタン橋という二つの橋が視野いっぱいに広がっていた。
ニューヨークの映像というのは、下から見上げたフォルムが結構絵になるようで、そういう写真をよく見かけるが、この位置から見る光景が正にそれである。
水面近くから聳え立つビル群を、空を背景として写しとると、一服の絵になる。特に夜はそれが尚生きる。ここで食事をした後もガイド氏は2,3箇所案内してくれたが、車窓から見る景色というのは何も記憶に残っていない。
チャイナ・タウンやコリアン・タウンでは、道の両側に車が止まっていて、その間をガイド氏が縫うようにして運転していたのが神業に見えたものだ。
最後にガイド氏がセントラル・パークの脇に出て、ダコタハウスというところで車を止め、ストロベリー・フィールズを見てくるように促した。
このダコタハウスというのは例のジョン・レノンがオノ・ヨウコと甘い生活をしていたところで、昔も今も超一流の高級マンションということである。
このマンションの前で彼は撃たれたということで、このダコタハウスというのがニューヨークの観光名所のひとつになっているということだ。
外目には何の変哲もないアパートで、それほど高級という風にも見えないが、とにかく高級なものらしい。セントラル・パークの西側の辺の真ん中頃にあり、道路を一本隔てて公園の入り口になっている。
この公園の入り口から公園内に散策路が出来ており、コンクリートで舗装されているが、10mもはいると、ストロべり・フィールズと書いた標識があり、その前に赤っぽい御影石に「イマジン」と彫った直径1mぐらいのものが埋め込まれていた。
その周りを花で飾った人がいて、ギターを奏でている人や、感慨深げに見入っている人がいた。
ガイド氏はここまで車で案内してくれたが、後から落ち着いて頭を整理して、ゆっくり地図を眺めてみると、我々が案内されて泊まったホテルはニューヨークのど真ん中で、この日案内されて見てまわったところの大部分は歩いてでもいけるところだった。
ガイド氏に悪意があったわけではなく、彼は仕事上の契約に基づいて我々を案内したまでで、ホテルに着くとこれからのことを彼は気にかけて、家内が見たがっていたミュージカルの切符の手配など積極的にやってくれた。
ニューヨークでのホテルもべらぼうに大きなホテルで、館内で迷子にでもなりそうな感じだ。
最初は度肝を抜かれて、そんな感じがしたが慣れてしまえばこれほど便利なロケーションのホテルもない。とにかく着いた初日というのは頭の中が混乱していて要領がわからないが、しばらくして自分の足で歩いてみると周囲の状況がだんだんと頭の中にインプットされ、それが徐々に蓄積されてくると好奇心が頭をもたげ出歩きたくなる。
040409
ニューヨークに着いたとき案内してくれたガイド氏は、その後のオプショナル・ツアーに関して色々気を使ってくれたが、我々も不勉強でスケジュール的に非常にまずい時期に来てしまった。
というのは着いた日が土曜日で、翌日は日曜日である、その次が月曜日で、私が見たいと思っていたものはスケジュール的にかなり無理をしなければならず、家内の希望との調整も、興行との兼ね合いも、非常にタイトなものが多かった。
家内の見たがっていたミュージカルの興行も、やっていたりいなかったりと、切符が手に入るかはいらないかという問題とあわせて、非常に窮屈な選択となってしまった。
結果的には翌日、日曜日の午後のミュージカル,「ライオン・キング」とその夜のクルージング・デイナーは確保できたが、私の見たかったジャズに関する興行はその次の日、月曜日は全部休みで、結果的に念願が叶わなかった。
依って月曜日というのは完全にフリーになってしまったが、後から考えてみると、これはこれで良い旅の思い出として生きることになった。
というわけで、着いた日、部屋で一呼吸おいて、呼吸を整えて「食事にしようか!」ということになったが、ホテルのレストランというのは値段ばかり高くて我々、貧乏人が心からくつろげる雰囲気ではない。
「旅に出たときぐらいレストランでゆっくり、おいしい食事でも!」と考えるのは、余程裕福な人でなければそういう心境には至らないのではないかと思う。
我々、下層階級は、あのナプキンとフォークとナイフを目にするだけで緊張してしまって、心のゆとりを失ってしまう。
日本にいるときは、こういう機会というのは1年に1度か2度のことでまだ我慢が出来る。
ところが旅に出て毎日、毎日となると、それだけで心が萎縮してしまう。
そういうわけで、ホテルに泊まってもホテルのレストランだけは行きたくない。
それで外に出て気安そうな店を探して入ることになる。
ついでにビールを買い込んでくる。
ところがである。朝はホテルの食事の方が良い。
バフェ・スタイルの食事は自分の好きなものを好きなだけ取ってこれるので、今回の旅行では朝の食事で一日分の栄養を補給しなければと思って、色々バラエテーに富んだ食材を選択して栄養補給に努めた。
こちらではコーヒーとオレンジ・ジュースはただみたいでいくらでも勧めに来る。
日本では牛のBSEの問題が大きく取り上げられておリ、米国産の牛肉を輸入禁止にしているが、牛肉の消費大国であるアメリカ人はなんとも思っていないわけで平気で食べている。
この事実をどう説明したらいいのであろう。
アメリカ人はBSEの牛を食べて病気になっても構わないが、日本人はそれが原因で病気になったら大変だということでしょうが,アメリカ人だろうが日本人だろうがBSEの病気が人間に感染したら大変なことに変わりはない。
ただ違うのは安全に対する考え方の相違である。
もっと掘り下げて言えば、確率の認識の相違である。
我々は食品の安全性に完全を希求するが、100%の安全ということは、この人間の生きる世界にはありえないわけで、アメリカの牛にBSEの牛が見付かったとしても、自分が危険だと思えば黙ってアメリカ産の牛を敬遠すれば済むことである。
自分がアメリカ産のものを買わずに、オーストリア産なり、和牛で済ませればいいわけである。
輸入禁止措置などとはお門違いだと思うが、我々のやっていることは「アメリカの牛はBSEに犯されているから輸入も駄目だ」というものだ。
これは原子力発電に100%の安全性を求める論理と同じで、食品は安全に越したことはないが、危険だと思ったら自分のほうから安全なものを選択し、危険なものを排除する自己防衛本能を働かせれば済むことで、その自己防衛本能を放棄した発想だと思う。
自分が危険だと思ったら、自分の方から危険を避け、身を護る努力をする事を怠り、それを政府の責任に転化する発想だと思う。
確かにアメリカの牛にBSEに感染したものがいたことは事実であろう。
だからといってアメリカ人が牛を食べることを止めたかといえば、今までどおり彼らは食べているわけで、私も彼らと同じように皿に一杯もってきて大いに食べた。
このバフェ・スタイルの食事というのは実にいいもんだ。
自分の好きなものを好きなだけ取れるというのは実に良い。
ハム、ソーセージ、ベーコン、我が家の食卓に登らないようなものをふんだんに食べることができる。
とはいうもののそうそう食べれるものではなく、少量ずつを多品種食べるに限る。
今回の旅行では家内は総ての支払いをカードで処理していた。
食事が終わるとウエイターが伝票を持ってくる、すると家内はウエイターにチップの料金を確認させてサインしていた。
このチップの制度も最初はうっと惜しいと思っていたが、上手にやれば結構面白いものだ。
ところが我々はやはりそのタイミングを掴むのが下手なような気がしてならない。
街中で人様の様子を伺っていると、彼らは実にさりげなく渡している。
例えばタクシーを降りるとき、ドア・マンが扉を開けてくれたとき実にさりげなく渡しているが、我々がやるといかにも野暮という感じになってしまうに違いない。
カードでチップを払う場合は請求書にチップの金額を書かねばならないが、家内の場合、それをいちいち相手に確認させていたので、これがいわゆる野暮というものであろう。
それは兎も角として、この日の午前中はさしたる予定がなかったので、午後の「ライオン・キング」の劇場でも下調べをしようと、散策を兼ねて街中に繰り出した。
我々のホテル、シェラトン・ニューヨークというのは実に便利な立地条件のところにあって、何処に行くのにも歩いて行ける位置にあったが、最初はそれがわからないものだから不安でたまらなかった。
ホテルのアドレスが7th Avenue 52nd Streetとなっている。
この7th Avenueというのは丁度セントラル・パークの南の辺の真ん中辺りから南に下りた街路で、西に行くに従い番号が多くなる。反対の東に行くにしたがい番号は若くなる。
そして52nd
Streetはセントラル・パークの方向、つまり北に行くに従い番号が高くなるわけで、これさえ知っていれば何処にでも行くことが可能である。
それでホテルの正面玄関の前の道、つまり7th Avenueを少し南に下がってみると、道路が斜めに交差しているところに来た。
街の真ん中にわけの判らない三角の土地があって、安全地帯になっているようでもあるが、どうも妙なものだと思っていたら、これが例のタイムズ・スクエアであった。
四つ角にもう一本斜めの道が交差しているので、わけがわからないように見えたが、
これが名にし負うタイムズ・スクエアであった。
南の方を見るとあの広告塔が見えた。
日曜日の午前中にもかかわらず大勢の人が行きかっており、広告塔も盛んに点滅していた。
テレビや映画の映像でしか見たことのなかったタイムズ・スクエアである。
周りの雑踏は皆私達と同じようなおのぼりさんに違いない。
あちらでもこちらでも写真ととりまくっていた。
此処で、斜めに交差している通りが、あのブロード・ウエイトいうわけである。
ブロード・ウエイという言葉から私は昔の浅草の六区を連想していたがどうも趣が違うようだ。
タイムズ・スクエアを越したあたりで右の方向、つまり西の方向に歩いていくと大きなバスターミナルがあって、道路を挟んだ対面にはB・Bキング・ブルース・クラブというのがあった。
これは私が聴いてみたいものの一つであったが、如何せん日曜日の午前中ではなんとも致し方ない。
こういうものは当然夜と相場が決まっているはずだ。
その正面に我々が行くべき劇場、ニュー・アムステルダム劇場というのがあって、此処で「ライオン・キング」を上演していた。
この時は劇場を確認するだけが目的だったので、後はその辺りをぶらぶらと散策のつもりで5番街までいき、そして左回りに北に向かって歩いてホテルに戻った。
街が南北の線と、東西の線できちんと区分けされ、それにきちんと道路標識がついているので迷うことなくホテルに戻れた。
途中、ロックフェラー・センターのスケート場を覗いてみたが、もう少し早い時期ならばアイス・スケートであろうがもう今の時期ではローラー・ブレードで皆が楽しんでいた。
私はいつも思うのだけれども、アメリカで新しいスポーツが流行ると直ちにそれが日本にも普及して、日本の若者もそれをするようになる。
猿真似といわれればそれまでであるが、アメリカで流行ったものを日本ですると、必ずといっていいほど規制の網が被せられる。
法的な強制力を持たないとしても、「危険だから何処どこではしてはならない」という禁止の措置がとられる。一頃はやったローラー・ゲームもスケート・ボードも、結局は「危険だから」ということで厳しく規制されて立ち消えの形になってしまった。
スポーツでも、ある種の遊びでも、少々の危険をともなうからこそ、スリルがあるわけで、スリルがあるからこそ面白いわけである。
だから若者がそれに惹かれるのである。
我々の考えの中には、自己責任という認識が全く欠けている様な気がしてならない。
スポーツでもある種の遊びでも、自己責任において危険のともなうスリルを味わうからこそ面白いのであって、100%安全なものならば面白くもおかしくもないはずである。
我々の考え方の中には、新しいものは危ないからまず規制しなければならないという発想がある。
それは我々の全体に自己責任というものの認識がなく、人が怪我をしたら、それは行政の管理責任の怠慢という風に捉えて、自分の責任を行政の側に転嫁する考え方によるものと思う。
自分が怪我をするのは、自分が未熟だとか、油断していたとか、それを甘く見ていた、という風に自分の至らなさを認識せず、悪いのは危険を放置した行政であり、それを規制しなかった行政であり、全部相手が悪いという発想である。
我々がこういう発想に至ったのも、新しいゲームなりスポーツをする側にも問題があるわけで、新しいものに挑戦するまではいいが、その結果として怪我をしたとき、こういう新しいもの好きな人までもが、自己の責任を行政の側に負い被せようとするものだから、それが習い性となって、怪我をされたらたまったものではない、というわけで行政サイドは何でもかんでも新しいもの禁止するということになったわけである。
ローラー・ゲームもスケート・ボードも若者にとっては非常に面白い遊びだと思うので、行政サイドも積極的にそういう場を提供する方向に向けばいいのに、何でもかんでも禁止さえすれば行政の責任を果たしているとでも思っている向きがある。
このロックフェラー・センターの前のスケート場は左程広いものではないが、それでもローラー・ブレードを楽しんでいる若者がいた。
結局この日の午前中は7番街を南に45丁目まで下って、それから5番街までいき、再び北上して帰ってきたという形である。
これはこれで結構良い散策であった。
これだけ歩いただけでも方向感覚がつかめ、街の雰囲気を嗅ぎ、地理を理解しやすくなった。
それで一旦ホテルに戻って12時頃再び歩いてニュー・アムステルダム劇場に行った。
入り口は長蛇の列であったので、我々も人々の後に並んだ。
13時からの開演なので、場内にはスムースに入れたが、我々の席は舞台から12,3列目で非常に見やすい席だった。
この日は日曜日ということもあって、家族連れというか、子供連れの観客も結構多かった。
この劇場は左程大きな劇場というわけではなく、せいぜい1200名ぐらいの収容能だろう。
後ろの方は3階まであり、両脇には張り出した客席があったが、あの席は正式にはどういうのであろう。
最初は気がつかなかったが、舞台の下がオーケストラ席になっており、そこで生演奏していた。
そして張り出した客席にはドラッム奏者がいて、劇の進行に合わせてドラムを奏でていた。
「ライオン・キング」の正式なあらすじは以下のとおりである。
「The lion
king」あらすじ
舞台はアフリカのサバンナにある動物王国ブライドランド。
この日、ライオンの国王ムファサの息子シンバの誕生を祝ういために、あらゆる動物達が王国のシンボル・ブライドロックに集まっていた。
次期国王であるシンバに対して、父として国王として厳しく愛情を注ぐムサファだが、その裏ではスカーのブライドランド乗っ取り計画が着実に進められていた。
シンバをまんまとおびき出し、ヌーの大軍に襲わせようとするスカー。息子の危機を察知し、シンバの命を救ったムサファは絶命してしまう。
父の死の原因としてスカーに咎められたシンバは罪を感じ王国を去っていく。
傷心のシンバは新しい土地でミーアキャットのデイモンとイボイノシシのブンバーに出会う。
2匹に励まされ不思議な共同生活を始める3匹。やがて立派な若者と成長したシンバは、幼馴染のナラに出会う。
叔父スカーの悪政により困窮したブライドランドの惨状を聞き、ショックを受けるシンバ。
ナラはブライドランドをかっての平和な王国に戻すべく、助けを求めて旅をした。
父の死の原因が自分にあると信じていたシンバは、故郷に帰る決心がつかない。
そんなシンバの前に亡きムサファの亡霊が現れる。父の霊に励まされブライドロックに戻りスカーと対決することを決意したシンバであった。
この中で「あらゆる動物達がブライドロックに集まる」というシーンで、我々の観客席の横の通路を色々な動物に変装した俳優達が怒涛のような勢いて駆け抜けていって、舞台にはい上がっていったのには真底度肝を抜かれた。
私は舞台に集中して前方を見ていたので、一瞬何事が起きたのか理解できなかった。
そしてこのあらゆる動物というのが、その姿もさることながら、その動きも全くリアルに再現されていたのには驚いた。
象とかキリンの動きが実にリアルであった。
ヌーの動き、ミーアキャットの動作、イボイノシシの動き等々、どれをとってもその動物の習性を研究し尽くした上で、その特徴を如実に表現出来ているので、まことにもって感服する。
舞台芸術とはよく言ったもので、正に芸術の域に達していると思う。
私はこういうものにすぐ感情移入するタイプで、もう夢中になって見入ってしまった。
ただ惜しむらくは、英語が不得意なものだから、人が笑っているときにそれについていけず、何故笑っているのか作中のユーモアが解せないことである。
この作品はミュージカルとなっているので、ある種の音楽劇のはずである。
最初のうちは舞台の上の動物の動きに集中していたので気がつかなかったが、舞台の下ではオーケストラが生で演奏していた。
横に座っていた家内が指でつついて教えてくれたが、確かに指揮者が指揮棒を振って指揮しているのが見え隠れしていた。
指揮者の頭が動くのと、指揮棒が時々見える程度にしか見えなかったが、生演奏で劇が進行していたわけである。
ミュージカルというのは大変な作業のようだ。
それと、俳優も、人間を演ずるのならば地でやればいいが、動物を演ずるとなると、人間にはない特殊な動き、特殊な張りぼてで動きを表現せねばならず、これも思ったよりも大変な演技ではなかろうかと想像する。
例えば、キリンや象など、両手両足に張りぼてを持たねばならず、大変な肉体労働だろうと思う。
それにしても見事なミュージカルであった。様々な賞を総なめするだけの価値はある。
これが芸術の創造性というものであろう。
旅行の最初の段階から私はこのミュージカル鑑賞ということについてあまり良い感じを持っていなかった。
妻に対する義理で付き合うという気持ちが強かったが、大いに認識を改めさせられた。
それでこれが終わってもう一度ホテルに帰り、一休みした。
次はデイナー・クルーズである。
これもあまり乗り気ではなかったが終わってみればそれなりに納得できるものであった。
約束の時間にロビーで待っていると、先日とは違うガイド氏が現れて、我々夫婦を船、バトー号に案内してくれた。
その港に行く途中、マンハッタンの西海岸を走っているとき1隻の航空母艦が見えた。
「あれは何ですか?」とガイド氏に聞くと「イントレビットという空母だ」という。
1941年(昭和16年、太平洋戦争が始まった年)ごろ建造されて太平洋戦争は勿論、ベトナム戦争まで就役していたが、その後博物館としてあそこに係留されているという話である。
これについては私は全く情報不足であった。
目の前に現れるまで何一つ情報を持ち合わせておらず、知らなかった。迂闊だった。
この時は車の窓から見るほかなかったので、時間を見つけてきっと見に来ようと思って、実際そうしたのだけれども、その日が丁度月曜日で、来るには来たが中には入れずまことに残念であった。
車の窓から見る限り、空母「イントレビット」の後部甲板には艦載機が並べてあったようだが、それに混じって先日博物館でみたSR−71・ブラック・バードの真っ黒い機体が垣間見れた。
しかし、この飛行機はこの状況にそぐわないものと思う。
これが空母というものを無視して、ただの軍事博物館としての展示だとしたらそう咎めることもなかろうが、空母というものを主体とした博物館だとしたら違和感を拭えない。
翌日、ここまで出向いたとき、中には入れなかったが周囲を見る限り、軍事博物館の色彩が強いようで、戦車とか潜水艦の展示もあるようなので軍事に関すルあらゆる物を展示しているのかもしれない。
ここを過ぎてしばらく行くと、車は大きな魚河岸のようなところに入って行った。
ここでガイド氏は我々を下ろして、船に促し、先方の係員と何か打ち合わせをしていた。
船はバトー号といい、フランスのセーヌ川を行き交っていたものということである。
大きさは、東京の晴海桟橋と浅草を結んでいる隅田川を行きかう水上バスの2倍くらいのものと思えばいい。デイナー船というだけあって、船内には既にテーブルがセットしてあり、白いクロスのかかった席に案内された。
我々は窓に寄った方の二人用の席に案内されたが、既に通路側には4人用の席に先客がいた。
彼らも日本からのお客のように見受けられたが、滞米中の家族の下に知人が訪ねてきたという感じのグループであった。
しかし、ここも例によって室内は薄暗くテーブルの上だけがほんのりと明かりが灯っているという感じで、我々にしてみれば違和感を免れない。
ガイド氏はメニューについても事細かに説明してくれたが、いくら説明されてもレストランのメニューなど私の頭脳には入りきらない。
ただガイド氏が言った言葉がいささか気に障った。
というのは、日本人はチップに不慣れなのでそれは処理しておいた、ということを言っていたが、確かに日本人はこういう場面でのチップというものに不慣れなことは事実であろう。
私は既に何度も言っている様に、こういうところでは緊張感が先に立って、料理を楽しむとか味わうなどということが出来ない。まことに情けない。田舎者の根性が抜け着れない。
貧乏人の習い性が抜け着れない哀れな人間だ。
それで、成る様になれと開き直った気持ちでいると、ウエイターが何やらもってきて説明しているがさっぱりわからないし、食べられないものではなかろうと、さっさと食べてしまった。
窓の外にはニューヨークの夜景が見事に展開している。
船は舫を解き、出発して、白いクロスの掛かったテーブルでは、気の効いた会話が弾むところであろうが、35年も連れ添った古女房とでは話す話しもない。
さりとて今更見詰め合ってばかりでも仕方がない。窓の外の夜景を見ているほかない。
しばらくすると船内で演奏が始まって女性ボーかリストが歌をうたいだした。
これは大いなる救いであった。
最初はスタンダード・ナンバーから始まったが、知っている曲もあったりして結構楽しめた。
そのうちにメーンの料理が運ばれてきたが、如何せん、照明が暗いのでいかなる出来具合か正確に見ることも出来ない。
私は肉のステーキを頼んでおいたが、ただたんなるステーキでも、もっともらしい凝った名前がついているので、目の前に出てくるまでは如何なるものが現れるのかいささか不安だった。
BSEなど糞食らえというわけで、この地では、この地のもっとも普遍的なものを食べてみた。
ナイフとフォークでしゃにむに口の中に入れたが、そう不味いものではなく、私の口には合っていた。
結構、美味しいと感じた。
料理が終わりかけた頃、船は「自由の女神」の下を通りかかり、彼女がライト・アップされた中で、ほのかな青白い光の中で立っているのが見えた。
この頃になると船客が皆料理の手を休めでデッキに出て写真をとったり夜景を見たりしていた。
そして昨日見たブルックリン橋とマンハッタン橋を越えたあたりでUターンしたようだ。
帰りにはこの「自由の女神」の立つ島、リバテイー島を一回りしたようだ。
その時、バンドはアメリカ国歌を演奏し歌手は高らかに歌っていた。
そしてここを船がゆっくりと離れるときは、同じようにバンドが「ニューヨーク・ニューヨーク」を演奏し、歌手がそれを歌い、お客がそれにあわせ合唱していた。
これで本日のクライマックスが終わったかに見えたが、この頃になると船客の方も緊張感が取れてきたのであろう、バンドの演奏にあわせてフロアで踊りだした。
恐らくヨーロッパから旅行者であろう皆陽気に踊りだした。
そしてバンドと歌手とお客が一体となり演奏を盛り立てて、陽気な雰囲気に成ってしまった。
1時間ばかりの航海で、船が元の港に戻って下船するとき、ヨーロッパからの旅行者はきっとチップを弾んだに違いなかろうが、我々はチップ不用と聴いていたのでそのまま降りてしまった。
自分の心が豊になったと感じたときは、やはりチップというものを出したい衝動に駆られるものだ。
このデイナー・クルーズも、最初は家内のお付き合いの気持ちであまり乗り気ではなかったが、終わってみれば結構楽しい思い出となった。
というわけで、この日は一日中、不本意ながら家内のお付き合いするという気持ちであったが、結構自分が楽しんでしまった。
ワシントンで家内を一日中私に付き合わせたので、ニューヨークではそのお返しという気持ちでいたが、やはりこの街はエキサイテイングな街で、ブルーな気持ちでおれるところではない。
この日もホテルに帰る前に、街のデリでビールを買ってそれを持ち込んだ。
このデリというのは日本でいうところのコンビニと似た感じの店だが、それとも少々違うように見える。
その違いは、雑貨類がおいてないというところかもしれない。
主に食料品が並んでおり、これが街のあちこちにあるので、我々にとっては非常に便利だ。
この日も早々に眠ってしまったが、翌日は月曜日ということを失念していて大失敗をした。
このニューヨーク最後の日は、家内にサービスをする日と決めて、彼女に付き合うつもりでいた。
で、例によってホテルでバフェ・スタイルの食事をとって街に出た。
ホテルのすぐ脇に地下鉄の駅がある。
ここの地下鉄の入り口というのは、ワシントンの地下鉄とは対照的に、その入り口が全く小さく、人一人通るのがやっという狭さである。
これは一体どういうことなのであろう。
事前によく調べたつもりであるが、地下鉄で北のほうに向かって家内の目指すプラダの店に行こうとした。ところが狭い階段を降りて地下に行くと、もう東西南北もわからなくなってしまい、来た電車に乗って3つ目で降りたところ、これが目指した方向とは全く逆で、南の方に来てしまった。
それで地上に出てきょろきょろしていると、目の前にエンパイヤー・ステート・ビルがあるではないか。
しかもその入り口が工事中で足場が組んである。
此処まで来てこれに登らないという手はない、と思って早速登ってみることにした。
この日は全く予定がなく、一日中フリーだったので、このニューヨークのシンボウルでもあるビルに登ることにした。
工事中の入り口から入ると、中は立派な大理石のエントランス・ホールになっていた。
その正面に係員がいて、展望台にいく人を案内していた。
この場面では、まだ観光客の姿が見えなかったので気がつかなかったが、案内にしたがって奥に進むと、大勢の人が順番待ちしていた。
途中、身体検査やら持ち物検査があったが、これから先どれだけ待たされるかわからないが、とにかく並んで待っているほかない。
結局、展望台に上がるまで小1時間待たされたであろうか。
無理もない話で、此処の展望台というのはそう広いものではなく、エレベーターの能力だとて限りがあるので致し方ない。
それで長いこと待たされてやって展望台に出ることが出来た。
やはり此処から見る眺望は素晴らしい一言に尽きる。
此処の眺望の素晴らしさは、人間の能力の素晴らしさを見せ付けている。
大自然の織り成す眺望とは又別の感慨がある。
このエンパイヤー・ステート・ビルというのは色々な映画の舞台としても数多く利用されている。
中でも究極の使われ方は「キング・コング」であろう。
巨大なキングコングがこのビルによじ登るというものであるが、この映画は私の好むものではなく、見たこともないので詳しくは知らない。
私にとっては「めぐり逢い」の情景が最も好きだし、何時でも瞼の裏に再現できる。
このビルが出来たのが恐らく1930年代の後半であろう、私の生まれる少し前辺りではないかと思うが、「めぐり逢い」の映画が出来たのがおそらく1950年代の初頭だと思う。
大西洋航路の豪華客船の中で知り合って、たちまち恋に落ちた男女が、ニューヨークに着いたとき、船上から見たエンパイヤー・ステート・ビルの屋上で、半年後に落ち合うという約束をして下船したが、半年後そこに向かうべき彼女、デボラ・カーはビルの下で交通事故の逢い、そのまま入院してしまう。
それを知らぬケーリー・グラントは、夜中まで彼女の現れるのをこの展望台で待っているというものである。
その後、二人が再開するのがカーネーギ・ホールのバレーの観劇の終演で、此処も我々の泊ったホテルのほんの近くにあった。
というわけで、私にとってはこのエンパイヤー・ステート・ビルというのは映画とともにある。
それで工事中の入り口から入ってみると、そのエントランス・ホールというのは見事に立派で、このホールを左のほうに行って、展望台に通じるエレベーターにたどり着くわけだが、その行列の長いことといったらない。
途中で何度も帰りたくなったが、ここは我慢のしどころだと思って、人と同じように並んでいた。
エレベーターは2段になっており、最初は一気に80階まで駆け上った。
まるで煙突の中と同じで、ノン・ストップで80階まで来た。
その後、6階用の短いエレベーターに乗ると、漸く天空に出れた。
エレベーターを降りるとそこはスーベニア・ショップのようになっており、そこを抜けて外に出ると、そこはまさしく天空であり、ニューヨークであり、眼下にはエキサイテイングな街、地球上で一番活気に満ちた街が展開していた。
四方八方、360度、見渡す限りビル、ビル、ビルで、見えるものといったらビルと空しかなかった。
こんなところに2時間も3時間もおれるものではない、30分ほどいて写真を一通り撮ったらもう用はない。登ったという事実の確認だけで、自己満足に浸るだけのことである。
このエレベーター、映画「めぐり逢い」の中ではエレベーター・ボーイが蛇腹式のドアをいちいち開け閉めしていたが、今では扉は自動で、係員が外から赤外線センサーで操作していた。
ところが後から考えてみると、あのビルはただ展望台があるだけではなく、普通の事務所としても生きているのではないかと思う。
だとすれば、そこに出入りする人は一体何処から出入りしているのであろう。
別の入り口があって、そこから出入りして日常生活が出来ているのであろうか。
そこまで見てこなかったのは私の落ち度だ。
私の想像力を酷使して考えてみると、一番最初に入ったエントランス・ホールで我々は左のほうに案内されてしまったが、あのホールの右のほうに行けば、きっとか各階どまりの普通のエレベーターがあったにちがいない。
ここを下りたら次は家内がメーシーズに行くという。
私には予備知識がないが、メーシーズというのはアメリカのデパートらしい。
それでそこに行ってみた。歩いて10分ぐらいのところにあって,着いたら最初地下に行ってみた。
すると日本と同じように、そこには食料を売る店があって、街中のデリと同じである。
依って、このデパチカ(デパートの地下)で腹ごしらえすることとなった。
サンドイッチや飲み物を購入し、その場で腹に詰め込んだ。
その後、各階を見てまわるべく段々上の方にあがっていったが、如何せんこのデパートは実に古い。
最近の日本のデパートを見慣れたものにとっては、いかにも古臭いという感を免れない。
エスカレーターなども、足を乗せる踏み板の部分が木造である。
ピアノの鍵盤のようなものである。この古さにはいささか驚いた。
こういうハードの部分ではいまや日本に勝るものがないのではないかと思う。
日本とアメリカではデパートいうものの位置づけが大いに異なっているのであろう、こちらでは大型小売店としてのデパートの役割が大きく廃れてしまっているものと想像する。
家内のいうことには、このメーシーズというのは大衆向けのデパートで、いま日本で日の目を見ているブランド品を扱っていないということだ。
それはそれとして、このデパートに付き合ったということで、私は家内に対して少し義理が果たせたというわけだ。
それでも午後からもう一度家内の希望に添うべく、高級ブランド品の店を回ることにした。
一旦、セントラル・パ−クまで出て、その南の辺に沿って5番街まで行き、そこから北に向けて歩くことにした。
それでセントラル・パークまで行くと、そこには観光馬車が何台も待機し、客待ちをしていた。
ニューヨークと馬というのはどういう取り合わせなのであろう。
今回はお目にかかれなかったが、映像ではニューヨークの騎馬警官というのもあるようで、この超近代的な街に馬というのは私の感覚ではどうみてもミスマッチのように見えるが、現実にそれが存在している。
このセントラル・パークの南の辺に沿って歩いていると、公園内に真っ黒な岩石が散在しているのがわかる。
ニューヨークという街そのものが、大きな岩盤の上に乗っかっているという事は知識としては知っている。
だから地震が無いのだ、ということも理解している。
公園内に黒い地肌を見せている岩石が、ニューヨークを支えている岩だとガイド氏は説明していたが、だとすると、それは何億年という歳月がそこには凝縮されているといってもいいと思う。
そう思って黒い岩石を見ると、アメリカ大陸の歴史そのものに思いが馳せ参じる。
このエキサイテイングな街、ニューヨークがヨーロッパから移住してきた人々が造ったということは周知の事実であろうが、私はそこで、元々この地に住んでいた人々は一体何をしていたのかということに思いが行ってしまう。
セントラル公園の黒い岩石が、アメリカ大陸の誕生とともにあったものだとすれば、それに伴って当然人も住んでいたに違いないと思う。
ところがその人達というのは一体どうなってしまったのであろう。
アメリカ大陸というのは、それこそ大昔からあったに違いないが、ここには元々原住民というのが住んでおり、そこにヨーロッパの白人が来たことによって、この大陸は人種的に大きな変革を余儀なくされた。
私は生来西部劇が好きでよく映画を見るが、西部劇に出てくるインデアンというのは厳密にいうとアメリカ原住民の筈である。ネイテイブ・アメリカンである。
ところがこの大陸にもともと住んでいた原住民というのは、文字を持っていなかったといわれている。
さらにこの原住民というのは、この大陸にもともと最初から居たわけではなく、アジア大陸からシベリア、アラスカを経由して渡ってきた人たちということだ。
ならばアメリカ大陸というのは最初は無人であったものだろうか。
白人達が入り込んだ時点で既にそこに生息していた人たち、通称インデアンといわれている人々は元々アジア大陸にいたアジア人であったわけで人種的にはモンゴリアンと呼ばれている。
つまり蒙古人が先祖でその末裔といえばわかりやすい。
西部劇に出てくるインデアンは確かに蒙古人に近い顔つきをしているが、彼らが文字を持たなかったというのは不思議でならない。
蒙古人が文字を持っていたかどうかは定かに知らないが、現代の内モンゴルに住んでいる人々の生活ぶりというのはインデアンの生活によく似ているところがあるように思う。
それはともかくとして、このインデアンといわれている人々が、後から入ってきた白人と全く融合しなかったというのは一体どういう理由なのだろう。
又、広大なアメリカ大陸において、彼らの統一国家というものを作らなかったのは何故なのであろう。
我々の先祖の日本人も、ペリーが浦賀にやってくるまではかたくなに白人の文化、西洋文化、キリスト教文化というものを拒否し続けてきたことは周知のとおりである。
しかし、ある時「これでは駄目だ!」と悟った我々の同胞としての先輩がいたわけで、それに気付いた日本人、日本民族は、それ以降というもの西洋文化を積極的に尚且つ徹底的に吸収し、ヨーロッパ人の発想をも克服しようと努力を重ねた。
西洋人の富の獲得を真似、西洋人と同じ轍を踏めば人類の栄光、民族の繁栄は間違いないと思い込んだのが、ある種の植民地主義、帝国主義であって、それは結果的に我が同胞を一旦は奈落の底に突き落とすという事態を招いた。
がしかし、その奈落の底から再び這い上がった再生日本は、その後世界に冠たる経済大国となってしまった。
西部劇を見ていて、どうして彼らはこういう選択をしなかったのか不思議でならない。
アメリカ・インデアンは、内モンゴルの人々や、アフガニスタンの人々や、中国の人々と同じで、アジアで生まれたモンゴリアンという共通分母を持ちながら、彼らは何故西洋文化いうものを拒否し続けてきたのか不思議でならない。
アメリカに住むインデアンが文字を持たなかったという事は決定的な要因ではないかと思う。
日本の明治維新の前、1868年には既にアメリカはペリーの率いる太平洋艦隊を日本にまで遠征するぐらいの力を持っていた。
アメリカ大陸はコロンブスによって発見されたが、アメリカ大陸という命名については、アメリーゴ・べスプッチという人にちなんで名づけられたということである。
アメリカ大陸の命名に関しては、既にこの時から非常にグローバルな運命を背負っており、直接の命名はドイツ人の技師で、フランスのストラスブールの大学の地理の先生であったバルトゼミューラーが、ギリシャ語で書いた本に、アメリーゴ・ベスブッチが第4番目の大陸を発見したと紹介されていたので、最初の発見者にちなんでアメリカと命名されたという。
ところが実際はこの記述は間違っていたわけで、最初に発見したのは疑いもなくコロンブスであったが、コロンブス自身はその地が新大陸ということを知らずに、あくまでもインドの一部と思っていたので、コロンブスの名が冠せられなかったそうである。
本来ならばコロンブス、コロンブス大陸とならなければならないところがこういう複雑な経緯でアメリカとなってしまったそうである。
1507年にはもうその名がヨーロッパには知れ渡っていたわけで、日本の年号でいえば足利義高の鎌倉時代である。
アメリカがヨーロッパの白人に席巻されたのは大陸発見以降のことであるが、この時アメリカの原住民というのはどうして白人を追い出すなり、それがかなわないと判ったならば、その時点で逆に自分たちが同化するという選択をしなかったのであろう。
この地では強烈な宗教というものもなかったみたいで、キリスト教、マホメット教、仏教というものもなかったようだが、アメリカ・インデアンにはどうして部族を超越した価値観というものが生まれなかったのであろう。
それを我々の卑近な例に当てはめるとアイヌの衰退と全く軌を一にしていると思う。
文字も持たず、宗教も持たず、統一国家も作らない、作れない民族というのはやはり必然的に淘汰される運命に甘んじなければならないのではなかろうか。
こういう民族をビジュアル的に描くと、どうしても西部劇のインデアンという構図になってしまうのも致し方ないと思う。
アメリカ大陸に西洋文化、キリスト教文化が入ってきたとき、原住民にとって「これはかなわない、太刀打ちできない」と感じた時点でどうしてそれを融合し、自分たちがそれに合うように考え方を変えなかったのだろうか。
ヨーロッパ人の方はだんだんとフロンテイア、未開の土地、それは言わずもがな原住民の土地を蚕食していくことになるが、そのことは同時にインデアンの領域がだんだんと狭まることで、それを阻止するか、それが出来なければ、それに同化するということが何故彼らには出来なかったのであろう。
同じようなモンゴリアン、アジアを起源としながらも太平洋の端の小さな4つの島に移り住んだ日本族、日本民族、大和民族、日本人はそれをしたではないか。
同じアジア大陸を起源とする我々は、小さな4つの島にいながら、文字を持ち、異文化を外から吸収し、それを自分のものとしてきたが、アメリカ大陸に住んでいた彼らは我々と同じことが何故出来なかったのであろう。
思えばこの宇宙船地球号には色々は民族が起居している。
民族学者ではないので詳しいことは知る由もないが、大雑把に見ても白人、黒人、黄色人種ぐらいのことは誰でも理解できる。
しかし、この中で世界をリードしているのは不思議なことに白人ばかりである。
人類の遠い遠い過去の歴史の中には、黄色人種が白人世界を席巻したこともあるが(ジンギスカンのヨーロッパ席巻)、世界の歴史というのは大方白人の歴史である。
21世紀において、この宇宙船地球号の舵取りをしているのは言わずもがなアメリカと言っても過言ではない。
異論は多々あろうが、大雑把な見方をすれば白人系のアメリカ人がこの21世紀の地球の大部分をリードしているといってもいいと思う。
19世紀から20世紀、そして21世紀における人類の葛藤の中では、ヨーロッパ系の白人の活躍がアメリカ人の白人の葛藤にスライドしてしまった。
19世紀以前の大航海時代から、植民地獲得競争としての帝国主義の全盛の時代はまだヨーロッパ系の白人が活躍する場が残っていた。
しかし、それは20世紀中ほどの第2次世界大戦までのことで、その後においてはヨーロッパ系の白人が活躍する場はなくなってしまい、20世紀の後半に至ると完全にヨーロッパ系の白人は精彩を失い、アメリカ系の白人が活躍する時代になってしまった。
こうなることはあの西部劇の映画を見ても何となく理解できる。
映画というのはその大部分がフイクションで、真実を表現していないのは当然であるが、それでもあの荒野を開拓する熱意、そしてインデアンと戦うファイト、物事を合理的に解決する能力、そして自分たちの仲間内では民主主義を確立する理性、こういう背景の上にフイックションとしての西部劇があると思う。
こういう能力は悲しいかなモンゴリアンには欠けている。
それを如実に現しているのが、インデアンであり、インデオであり、アイヌであり、内モンゴルの人々であり、中国、台湾、朝鮮、南アジアの人々としてのモンゴリアンである。
そういうモンゴリアンの中でたった一つの民族だけが、過去においてこういう白人系の文化、文明,世界制覇の野望に敢然と戦いを挑んだ種族がある。それが我々大和民族である。
あの太平洋戦争の時、我々の側の戦争の大儀は、五族協和、言葉を変えれば東アジアのモンゴリアンの共存共栄を図ろうとするものであったではないか。
この地球上に数多ある黄色人種の中で、我々、大和民族だけが白人支配、白人の世界制覇に敢然と闘いを挑んだわけで、だからこそそういう事を考えた我々は白人社会から徹底的な報復を受けたのである。
それが広島・長崎の原子爆弾であり、60万人にも及ぶシベリア抑留である。
ロシア人というのは元々ヨーロッパ系の白人であったことを忘れてはならない。
こういう白人に国土をいいように取られたアメリカ原住民は、自分たちの住んでいた地域を彼ら自身はどう呼んでいたのであろう。
西部劇というのはアメリカ・インデアンからすれば国辱ものであろうが、そういう気概を彼らが持っていなかったからこそ白人、つまりヨーロッパ人に国土、土地そのものを席巻されてしまったと思う。
現在においては目立った紛争はおきていないようであるが、彼らがアメリカ社会に完全に融合しているとは思えず、やはり差別の対象になっていると思う。
アメリカ社会には厳然と差別意識が残っているように思うが、アメリカ・インデアンというのは、黒人やヒスパニックよりももっと下に位置するのではないかと思う。
今回の旅行でガイド氏から聞いたところによると、本来のアメリカ・インデアン、ネイテイブ・アメリカンというのはアメリカ市民になりきっていないということだ。
彼らはアメリカ国民として認められてはおらず、税金を払う義務もなく、公共の施設はすべて国からの無償援助で、だからこそ居留地という枠の中で彼らの伝統にのっとり、彼らの生活様式を維持しながら生かされているということである。
これも言い方を変えると、「居留地の中で自治を与えられている」と言われているが、もう一方の視点から、近代思想の視点から意地悪く表現すれば、「基本的人権を無視されて飼い殺しされている」と見ることも出来る。
セントラル・パークの黒い岩の起伏を見ながら、思いはそんなところまで飛躍していった。
それで家内がどうしても行きたいといっていたプラダの店には何とかたどり着いたが、ここではあいにくと家内のお目当ての品物はなかったようだ。
その後も、この界隈の高級ブランド品の店を覗いてみたりしていたが、この類の高級店にはどの店にも黒人の屈強そうな大男が、黒いスーツで身を固めて、張り番をしている。
要するに文字通りの用心棒であろう。
外から覗いて、そういう用心棒がいるとドアを押すのに緊張してしまう。
我ながら気が小さいと思う。
そんなこんなで、この日の午後は5番街を中心としたウインドウ・ショッピングで歩き回り、家内は相当疲れたみたいだ。
ところが私はどうしても昨日車の中から見た「イントレビット」が見たくて、地図を克明に頭の中にインプットして。徒歩で出かけた。
目的地には30分ほどでたどり着けたが、運の悪いことにこの日は定休日で、黒人の係員は中に入れてくれなかった。
仕方がないのでまわりの物を写真に収めて退散なするほかなかった。
この施設、正式にはなんというか知らないが、空母が係留されている埠頭には戦車や潜水艦まで並べられていた。それが見れなかったことはまことに残念であった。
次の日はいよいよ帰ることになるが、今までホテル内で日本人に出会ったことがなかったが、帰る段になると、同じホテルに10組ぐらいの日本人がいて驚いた。
そして迎えに来てくれたガイドが女性で、彼女の後にくっついて外に出てみると、大型のバスが待機していてこれにもびっくりした。
ガイド嬢は当たり障りのない話で時間を稼ぎ、我々を難なく飛行機に乗せるべく手配をしていた。
帰りの飛行機はB747-400で俗にテクノジャンボといわれるものである。
席も後ろの方で景色もよく見えた。
例によってフライト・データーを見ていると驚いたことにケネデイー空港を飛び立つと、後はどんどん北に向かって進み、5大湖のエリー湖、オンタリオ湖をかすめカナダに入っていった。
帰路は12時間近い飛行なので途中気をつけてみていたらアラスカを通り、べーリング海を飛び、カムチャッカ半島の脇を通り、私が航空自衛隊にいたとき業界用語で「大圏コース」といっていたのと同じコースを飛行しているではないか。
おそらく44N(ノース)150E(イースト)でポジションレポートをしていたにちがいない。
このコースは大韓航空がソビエットの戦闘機に撃墜されたコースでもあるが、恐らく乗客の中でそんなことに思いをはせている人は一人もいないであろう。
高度は来る時よりも高く11000mであったが、相当に偏西風が強いみたいで時速千km/hを越すことは全くなく、900km/h以下であった。
機内のアナウンスで向かい風が強く遅れたことを詫びていた。