駅馬車 04.02.19
駅馬車は1939年の製作ということで、当然私の生まれる前の作品で、私とほぼ同じ年かさを重ねているということになる。
古い古い映画ということになるが、内容は何時見ても新鮮そのものである。
現代の映画としても内容的に決して見劣りする作品ではない。
この映画、実に名作で、名作なるが故にちょっとした映画フアンならば誰でも知っている。ということは現代の百科事典としてのインターネットにも、いくつものコンテンツがあるので、私が駄文を書くにあたり非常に参考になった。
私の駄文は、自分の独断と偏見を披瀝しているのだから、その内容を人がどう批判しようと構わないが、それでも全く資料がないことには成り立たないので、その点非常に有り難い。
この映画でジョン・ウエインが一躍スター・ダムに乗ったという事はよく言われているが、この程度のことは私も知っていた。
とは言うものの、終盤で御者が撃たれて馬車が暴走しかけたとき、ウエインが先頭の馬に飛び移っていくシーンがスタントマンであったということを知ると多少夢が萎縮しでしまうし、馬車とインデアンが平行して走るなどという場面もいささか不思議な場面であるが、あまりリアリテイーを追求すると映画の面白さは半減してしまうので、それはそれなりに受け入れなければならない。
有名な作品なるが故に、色々な人が夫々に裏話を披露しているので、それらを真剣に受け入れると作品の面白さが半減してしまう。
あまり裏話に精通してしまうと、作品を素直な気持ちで見れなくなる恐れが出る。
中でもトントという街からローズバーグに向かう駅馬車という設定について、その途中にモニュメントバレーが見えるのは全くおかしいと言う説まで飛び出しているので、ここまで深く考えると素直な気持ちで見る事が出来なくなってしまう。
しかし、これももう一歩突っ込んで考えてみるとおかしなことで、もしそうだとすれば地名を変えるぐらいのことはなんでもないことではなかったのだろうか。
どうせフイックションだし、開拓地の辺境の町が舞台なのだから、極めてローカルな名前のはずで、だとすれば脚本の段階でもっともらしい名前に変えさえすれば、こういう不具合はおきなかったのではないかと思う。
それにしても我々部外者としての日本人が、こういう細かいことをとり沙汰し検証しているわけで、かの地に住んでいるアメリカ人はこういう不具合には全く無頓着なのであろうか。
ストーリーとしては、もう既に誰もが知っているので屋上屋を重ねるようなものであるが、色々な人生を背負った6人の乗客を乗せた駅馬車がローズバーグという街に行く際、途中で脱獄犯のリンゴ・キット(ジョン・ウエイン)を乗せるはめに至ったが、その道中で色々な事があって、最初偏見に満ちていた乗客同士が終盤インデアンに襲われたときには一致団結して戦い、あわや全滅というときに騎兵隊の救援が到着して難を逃れるという設定である。
その道中において夫々の乗客の人間性が浮き出てきて、それが単純なストーリを盛り立てている。
中でも酔っ払いの医者の存在が大きく、彼の描き方というのは「リバテイーバランスを撃った男」の中に出てくる医者と共通するものがある。
ドク・ホリデイーとも一味違った存在感であった。リンゴ。キットはローズバーグに仇がいる事を知って敵討ちにそこに行くわけであるが、馬車の着いた先でリンゴ・キッドはめでたく敵討ちをし、保安官との約束で縛を受けようとするのだが、男気のある保安官はその脱獄囚のジョン・ウエインを彼女と共に新生活を目指して開放すると言うものである。
此処にはやはり我々日本人の得意とする心根、仁侠の世界、義侠心の世界、義理と人情の世界というか、男気の世界というか、そういうものがなみなみと流れている。
やはりそういう心意気というのは世界共通のものではないかと思う。
日本の仁侠ものは、それが極端にねちねちとしつこく付きまとって、個人の自由度が抹殺されてしまっているので、私個人としてはそういうものが好きになれなかったが、やはり恩を受けたらそれを忘れないという心情は世界共通の人間としての普遍的なものではないかと思う。
男というものは、男同志の約束はきちんと守る、と言うところに男の美学があるわけで、この美意識というのはやはり住む世界が違っても人間性という共通基盤で繋がっているのではないかと思う。
男の美学を表現するにはやはり西部劇が一番で、その中でもジョン・ウエインというのはその象徴である。
しかし、あのジョン・ウエインの男らしさというのは一体どこから来るのであろう。
ジョン・ウエインが最初に駅馬車に乗り込むとき、荒野の中で立ちはだかる彼の姿は全く格好良い。
ライフル銃をわきの下を通して回転させて忽然と現れるときの格好良さといったらない。自衛隊在籍中にあれと同じことをやってみたが、やれば出来るものである。
彼ほど格好良くは出来ないが、カービン銃ならばわきの下を通して回転させることは可能であった。
彼の映画は数多見ているが、どれを見ても皆一様にあの男臭さがにじみ出ている。
惚れた女に上手く自分の気持ちを伝ることのできない、それでいて男には滅法強い男というイメージが付いて回るのは一体どういうことなのであろう。
役柄としてあまり変わった役を演じていないという面があるかもしれないが、彼の現代劇というのも全くないわけではない。彼が出演すると、現代劇でも彼のイメージは全く壊れることなく表面に出てしまうというのはどういうことなのであろう。
彼は自分のイメージが壊れるような役を最初からしないという策略なのかもしれないが、彼の場合、俳優とか役者というよりは西部劇のヒーローというか、本人のイメージから一歩も出ない、彼自身の殻から一歩も出ないように、イメージが固定しているのは一体何故なのであろう。
2000年に始めてアメリカ旅行をしたとき、このモニュメントバレーに行ってみたが、これはまさしく正解であった。
西部劇を見るときにはその背景が実感を持って納得できる。
「シエーン」の舞台となったテイトンも正解であった。
此処も「シエーン」の映画の背景に流れている光景、後ろに写っている山々を実際にこの目で見たということは私の自己満足を大いに満たすものであった。