ドライビング・ミス・デイジー  04.02.06

ドライビング・ミス・デイジー

この映画、1989年の映画である。

日本でいえば年号が平成になった頃の作品で、題名がユニークで、見たいなと思いながらも見逃していた作品で、今回改めてじっくり見ることが出来た。

2004年2月5日の話だ。

実に面白い作品で、おかしさがじわじわと心の底にしみこんでいくような作品であった。ストーリーの主題は、ほとんど老人介護の話と言ってもいいくらいだが、日本の介護の話と違って、アメリカ的にあっけらかんと明るいところが良い。

ストーリーの流れとしては、昔教師をしていた老婦人(ジェシカ・タンデイ)が買い物に行こうと車を車庫から出したとたん、操作を間違えて物損事故を起こしてしまう。

この事故で、母親の老齢、つまり加齢を心配した息子が専門の運転手を雇うことになった。

その運転手がモーガン・フリーマン扮するところの黒人運転手ホークである。

息子は長男で、紡績で成功して金持ちになっているので、専用運転手の賃金を自分の方で払い、母親には負担させないよう気配りをしたつもりであるが、この母親、運転手から見たミス・デイジーは老人特有のひがみ根性でなかなか心を開こうとしない。

この専用運転手、映画の中ではホークと呼ばれているが、このホークが誠実な人で、このミス・デイジーがいくら意地悪をしても、金は長男の方から出ているのでこの初老の婦人に誠意を持って仕えようとする。

この初老の婦人、ミス・デイジーとこれも初老に近い黒人の運転手ホークの掛け合い非常に面白い。

勿論、私には英語のままで理解できる能力は持ち合わせていないが、字幕からでもそのおかしさは心の内側から湧き出てくる。

ミス・デイジーの「いじわるばあさん振り」というのが一品で、これこそ老醜の典型的なものだと思う。

成功した長男、そして彼の妻、運転手の初老の黒人と、ミス・デイジー本人の人間関係が年寄りを抱えた一家の苦悶というか、実態というか、今日本で問題となっている介護の問題を直撃しているという感じがする。

老人の我儘というのはやはり洋の東西を問うものではなさそうで、アメリカの年寄りも、我々に劣らず相当我儘で、その我儘は子供たちの生活まで脅かそうとしている。

そして頼りにされるのはやはりここでも長男で、その上長男の嫁には辛らつな批判が浴びせられるわけで、この辺りの情景はまるで我々、日本人の家庭の問題と完全に相似している。

親としては長男を頼りにし、何かと相談するにもかかわらず、長男の嫁というのにはどうしても心を許す気になれない、というあたりの事情は我々の周辺にいくらでも転がっているような題材である。

人は自分の汚い部分は意識して見せないように気配りをするので、案外見落とされており、奇麗事ばかりが罷り通っているが、人間なんてものはやはり何処の人間でも、どの国の人間でも、基本的には同じではないかと思わせる作品である。

このミス・デイジーの意地悪や我儘を、長男も、運転手のホークも、上手に聞き流してはご機嫌をとってやり過ごそうとするのだけれども、加齢は皆に同じように降りかかってくるわけで、そのあたりの機微が非常に面白い。

しかし、私はこの映画を見ていても日本人とアメリカ人では「年を取る」という考え方に相当の違いがあるように感じられた。

特に、黒人の運転手ホークのいう台詞にはいちいち納得させられたものがあった。

彼は、人の生涯には老いが迫って来ることを自然のものとして受容しているので、誰でも何時かはこうなるということに達観し寛容である。

その運転手ホークは字もろくに読めないにもかかわらず、教養ある、知性のある、金持ちの夫人が言い込められて納得するところが面白い。

最初、彼が家に来たときはけんもほろろの扱いであったが、その彼がこの婦人に誠意を尽くすにしたがい、心が打ち解けて最後はベスト・フレンドというまでになる。

その過程において様々な出来事があるが、そこにはアメリカの病根とでもいうべき偏見というものもサラリと描かれている。

田舎道で、路肩に車を止め、婦人は室内で、運転手は屋外で昼食をとっていると、二人の警官がやってきて職務質問した後で、何も不審なところがないと判った時の警官がいうつぶやきの言葉の中に、その偏見が含まれていたが、こういうあっさりとした描き方は非常に好感が持てる。

こういうちょっとしたショットの中にも、アメリカにおけるユダヤ人に対する偏見が判るかわからないような形で埋め込んでいる辺りが心憎い演出だと思う。

またキング牧師の演説を、本人の顔をこれ見よがしに面に出すのではなく、演説に聞き入る聴衆の顔に焦点をあて、又カーラジオで聴くという形でキング牧師の存在を示しているところなど心憎いばかり演出である。

主役の登場人物の言葉や動作だけではなく、脇の人間や、背景の小物に主張せんとする趣旨をこれとはなしに埋め込んで、見るものに判らせるという演出は、心憎いほどの巧みなテクニックではないかと思う。

その意味では、あの警官の人種差別的な独り言、キング牧師の説教、黒人女の召使アデイラのいう台詞などは非常に効果的なものである。

それにつけても人間の老いというのは厄介な問題だと思う。

年を取ると周囲の人に対して意地悪をしたくなるというのはいったいどこから来るものなのだろう。

我々の住む国では「二度わらし」と称して年をとると子供に返るという言い伝えがあるが、まさしく幼児返りである。

教養をつみ、経験をつんだ挙句が、加齢と共に幼児になってしまうわけで、これは一体どういうことなのであろう。

しかし、ここでも我々の国とアメリカでは同じ老人の問題でもその社会的な背景が大きく違うような気がしてならない。

この違いは一体何処から来るのであろう。

ただ、私の個人的な想像からすると、やはり国土の広さの違いではないかと思う。

この国土の広さは個人の家の広さに繋がっているわけで、この家の広さが年寄りの生き様の違いとなっているのではないかと勝手に想像している。

我々は島国根性なるが故に、常に他国と比較して、追いつけ追い越せの発想になるが、その時に根拠のするのが統計上の数字だと思う。

数字的に追いつき追い越せという発想になるが、この発想の中には広さの感覚が抜け落ちているので、いくらアメリカの後を追いかけても差が縮まないのではないかと思う。

数字が同じであったとしても密度が違うわけで、我々は密度が高いので、その分ゆとりというものが追いつけないのではないかと思う。

同じ一人暮らしの独居老人でも、アメリカと日本ではその惨めさに雲泥の差がある。

老人が子供に返るというのは正真正銘の脳の退化なのだろうか。

私はこの映画は題名から、初老の婦人と黒人運転手との「弥次さん喜多さん」風の珍道中記のようなものと思っていたが、どうしてどうして奥の深いシリアスな内容を含んだ、見ごたえのある作品であった。

ところが安易な気持ちで見ていると、そのシリアスさを見落としてしまいがちである。

良い作品であった。

 

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