シャレード  04.01・15

シャレード

 

これも古い映画だ。

今回改めて制作年度を見てみると1963年となっている。昭和でいえば昭和38年だ。

私がまだ高校を出るか出ないかの時期ということで、確かにあの頃この映画のあったことは知っていた。

ところが、その時点でこの作品を映画館で見た記憶はない。

今回、改めて見てみると実に華麗な映画で、まるで大人のお伽噺といった感じの作品である。

冒頭、タイトルの出る前にヨーロッパの田舎を疾走する列車の中から一人の男が放り出されて死亡するシーンで始まり、それからタイトルがおもむろに現れるが、このタイトルも意表をつくものである。

そして映画はスイスのスキー場でヘップバーンがくつろいでいる場面から始まる。

40年も前の大人のお伽噺として、今更ストーリーを内緒にしておくべきものでもないので、最初に種明かしすれば、この列車から放り出された男がオードリー・ヘップバーンの夫で、この夫は25万ドルという金をどこかに隠して、それを妻のヘップバーンにも内緒にしたまま殺されてしまったわけである。

それで3人の悪漢どもが執拗にこの金目当てにヘップバーを追い回すわけだが、そこに現れた正義の味方がケーリー・グラントという設定である。

 

ところがこのケーリー・グラントも悪漢どもの言葉でヘップバーンは信用できず、彼も金目当ての悪漢だと思い込んでしまう。

ところがここに第4の悪漢がいて、彼はオードリーを上手に懐柔して、自分を味方だと思わせ、ケーリー・グラントを悪漢に仕立てることに成功する。

最後のどんでん返しで、彼はアメリカ財務省の役人であったので、めでたしめでたしというわけである。

映画の筋としてもなかなか手が込んでいて、ヒッチコックの作品のように見る側にとっては不思議がいっぱいである。

ただぼんやり見入っていると、どうしてもケーリー・グラントが犯人ではないかと思わせるような嗜好が凝らされている。

そういう意味で観客は何度も騙されるわけであるが、ケーリー・グラントとオードリー・ヘップバーンの作品で、グラントが犯人などという事はありえないと思いつつ眺めていると、最後にやはり彼はアメリカ財務省の役人で、ヘップバーンの身の安全を陰で支えていたというわけだ。

彼女が得た金は、彼の元に返還されるという大団円に結びつくというストーリーである。

ところが25万ドルという金をヘップバーンの夫を含めた4人の男が戦争中に運び、その途中でねこばばするという設定は凡庸であるが、切手にかえて隠すという設定は極めて面白いと思った。

オードリー・へプバーンとケーリー・グラントという世紀の映画スターの魅力を余すところなく観客に見せるためのプロモーション映画のようなものである。

その割にはストーリーの組み立てにも結構手の込んだ作品で、その意味では「パリの二人」という作品とよく似た側面を持っている。

オードリー・ヘップバーンという女優は、もう存在するだけで見る側が魅了されてしまうから不思議な力を持ったスターだと思う。

この映画でもシーンが変わるたびにファッションが変わっているわけで、女性の服装に無関心なものでも、ついついその着こなしに目を奪われてしまう。

彼女の場合、アメリカ映画でありながらパリを舞台とした作品が多いという点から見ても、彼女の存在というのはパリのファッションと大きく繋がっていたのではなかろうか。

彼女のあの体型というのはヨーロッパのファッションには打ってつけの素材で、彼女ならばどんな服を着せても様になってしまうのではなかろうか。

映画を通じて私が知りえたアメリカ感から想像すると、あの「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラにしてもパリには憧れを持っていたわけで、アメリカ人からするとやはりパリというのはあこがれの地であったのではないかと思う。

だからこそ「パリの二人」でもオードリー・ヘップバーンをパリに登場させたのではないかと想像する。

「パリの二人」に較べると、こちらの方はいかにもスリルとサスペンスに富んではいるが、基本的には大人のお伽噺風として軽い気持ちで見れる作品である。

美しいオードリー・ヘップバーンを見るには格好の作品である。

この中でジェームス・コバーンが悪漢の一人として登場しているが、彼はなかなか味のある脇役と思う。

「天使のラブソング」でもチョイ役で出演しているが、私の中では彼のイメージが「荒野の七人」の中のニヒルなナイフ使いというイメージが出来上がっているので、彼がこういう滑稽じみた役で登場するとおかしさが先に立ってしまう。

 

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