赤い河

赤い河

この題名の映画があることは昔から知っていた。

恐らく日本で公開されたときに立て看板でも見て知っていたのであろうが、その内容については全く知らなかった。

それでNHK―BSで放映されたのを録画してよくよく見てみると、1948年製となっている。

1948年といえば終戦の3年後で、私はまだ小学生のときである。

しかし、墓場に片足を突っ込みそうな頃になって見てみても結構内容的に新しいものがある。

この映画の大筋というのは牛の大群を消費地に近い街まで移動させて換金するというものであるが、その牛の大群を追って旅をするという事柄そのものが我々、農耕民族では想像もつかない行為である。

テレビが普及して、アフリカのムウという野生牛が群れを成して移動するシーンというのはドキュメンタリーの映像でしばしば見掛けるが、あれと同じことを人為的にしようというのだから、アメリカ人のフロンテイア精神というのも見上げたものだ。

西部劇の定番としてジョン・ウエインの主演で、彼は頑固一徹でわずかな牛から広大な牧場を作り上げては見たものの、それを商品化することができず、それを商品化すべく

1600kmの旅に出るというストーリーである。

途中、様々な困難に突き当たり、その度ごとにリーダーたるジョン・ウエインが強引にことを推し進めるので、最後に息子同様に育ててきたモンゴメリー・クリフトが彼に反抗し、リーダーの地位を奪ってしまう。

リーダーを交代した彼は、無事に町まで牛を届け、牛を換金することに成功するのだが、そこに地位を奪われて怒っているジョン・ウエインが来て、親子対決をするという物語の流れである。

それで牛を追いながら旅するルートを丹念に追うつもりで大きな地図とにらめっこしながら見ていたが、とても追いつけなかった。

あまりにもローカルな地名ばかりが出てきて、とても地図上に見付けることができず、プロットすることができなかった。

彼らが最初に牧場を開いたのがリオ・グランデの近くということで、この地名を探して見ると、テキサス州の一番南西の隅にあった。

メキシコの国境に近いところにあったが、映画の最初のころに「赤い河を渡ったらテキサスだ」という台詞があったので、そういうことから考えるとこれは西の方からきたということになりどうにも納得しかねる。

私の西部開拓の概念というのは、東から西に向かって開拓されるもの、という固定観念から抜け切れない。

リオ・グランデという土地は、アメリカ合衆国でも一番南に位置し、テキサス州の中でも当然一番南に位置している。

そこから1万頭の牛を追いながらミズーリ州まで1600kmの旅をする、というのだから我々は考えることさえ出来かねる。

その旅が行なわれたのが、映画の設定では1868年ということになっているので、日本の年号に合わせてみると明治元年である。

我々の先祖も、この頃、参勤交代という旅をすることを強いられていたわけであるが、その旅の仕方がまるっきり違っているところが面白い。

我々は西部劇を見てインデアンがバタバタ倒されると拍手喝さいしがちであるが、私はもう一つその奥を考えて、インデアン達はどうして白人と同じ文化を受け入れようとしなかったのか不思議でならない。

銃というのは、白人の中の金儲け主義者が、利己的な利潤を得ようとして横流ししたので、インデアンの全体にはいきわたらなかったとしても、ある程度は行き渡ったようだが、西部劇に必ず登場する幌馬車というのはインデアン側には全く見当たらない。

これは一体どういうことなのであろう。

騎馬民族としてのモンゴル人も、馬に乗ることには長けていても馬車と云う発想はなかったように見受けられるのは一体どういうことなのであろう。

ところが西部劇に出てくる白人、いわゆるアメリカ人というのは、実に上手に馬車というものを使いこなしている。

そして用途に合わせて色々な馬車を考案し、それは同時に移動のための道具に徹しており、実用一点張りでる。

こういう発想そのものがプラグマチズムに繋がっているのであろう。

ところがインデアンの方は、そういう発想に至っていないわけで、彼らは明らかに彼らなりの伝統に生きようとしていたに違いない。

この辺りの考え方が21世紀の今日、イラクとの諍いに見られるように、イラク戦争からアラブとイスラエルの紛争にまで繋がっているのではないかと思う。

自分たちにない新しい考え方を受け入れようとせず、自分たちと同じ考え方をしないものを邪悪なものとして排除しようとするから文明の利器の利便さに浴せず、貧富の差は広がり、カルチャー・ギャップもますます広がるわけで、進んだ文明とそれに取り残される民族というものが生じてくるものと思う。

その点、我々は自分たちよりも進んだものを素直に受け入れ、最初はそれを模倣したが、その後、その本物よりもいいものを世に送り出す英知を持っていたわけである。

この「赤い河」の映画がフイクションであったとしても、その発想の元になっている考え方というのは、アメリカ人の物の考え方を如実に表していると思う。

人間の発想というのは体験した事柄からでなければ生まれないと思う。

その意味で、我々農耕民族というのはこういう発想には至らないと思う。

我々の発想からはやはり参勤交代のような、のろりのろりとした悠長な旅にならざるを得ないのではないかと思う。

この人間の体験ということからしても、日本の地形とアメリカの穀倉地帯としてのテキサスからミズーリにいたる地形というのは全く違うわけで、我々のような急峻な山に囲まれた地域では当然のこととして馬車で駆け抜けるというような発想は生まれないが、アメリカの大平原では必然的に馬車というものが発達したに違いない。

そして牛を追いながら渡らねばならなった川は、皆「赤い河」であったわけで、それはつまり川の水が赤い土を含んでいるということである。

日本ならば清流であるべきところが、あちらでは土を含んで水が赤くなっているわけである。

そして、この物語が明治元年の物語として、そこでは既に鉄道がテキサス州の真ん中にあるアビリーンといところまで来ていた、という事実を真摯に受け止めなければならないと思う。

我々の国が最初に品川横浜間に鉄道を敷いたのが1872年であったが、この時既にアメリカでは大陸横断鉄道が大陸の奥深くまで入りつつあったわけである。

西部劇もこういう見方をすると興味が倍加するようだ。

 

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