ライトスタッフ031224

1年ほど前、NHK−BSのハイビジョン放送でライトスタッフという映画を放映していた。

最初、全く予備知識がなかったものだからただ単純に考えてビデオにとっておいた。

ところがその内容たるや滅法面白いので、後日ビデオを見直してみると、これが縦長の画面になってしまって興味半減である。

それでそのまま放置しておいたが、約半年程前スーパーのCD屋でそのDVDを見つけたが、この時も買いそびれてしまった。

それで今回インターネット・ショッピングで新たにそのDVDを手に入れ、よくよく見てみると、これが実に素晴らしい映画であった。

1983年、昭和58年の映画であるが、私はこの当時全くこの映画の存在を知りませんでした。

NHK−BSで見て、初めてこの映画の存在に気付きましたが、アカデミー賞を4部門制覇しているということも、今回DVDを購入して初めて知りました。

第2次世界大戦後、熱くホットな戦争はこれで最後かと思われたにもかかわらず、その後コールド・ウオーが始まり、大戦中は同盟国同士であった米ソが大きく離反していく中で、双方は軍拡競争に拍車がかかり、お互いに手の内を隠しながら熾烈な競争時代に突入していったことは歴史が示しているとおりである。

その過程において、航空機の発達も熾烈を極め、そこに男のロマンが絡まって、地球上で「最速の男」というのが誇り高きパイロットの目標となりつつあった古き良き時代の物語である。

しかし、地球上で「最速の男」という頂点を極めることは、同時に、音の壁に対する挑戦でもあったわけで、その代償も大きかったわけである。

その名誉を得る過程での犠牲も多かったわけ、数ある挑戦者が音の壁を破ることができず、敗北したもののも数多くいたのある。

ところがその勇気と名誉をたたえる弔いの場面が、これまた私の胸を大きく打つシーンであった。

サボテンの木が散在する荒野に、挑戦者を悼む弔問者が頭を垂れて黙祷を捧げているシルエット。

そこに故人の同僚であろうか、後輩であろうか、4機のジェット機がその真上に飛来するという設定は男の友情を示すもっとも効果的な演出だと感心して見ていた。

カリフォルニア・エドワード空軍基地というのは砂漠の真ん中にある。

映画「荒馬と女」のクラーク・ゲーブルとマリリン・モンローが野生馬(ムスタング)狩りをするような砂漠の真ん中である。

超音速ジェット機というのは、こういう砂漠の真ん中で開発されたに違いない。

此処で真っ赤に塗られたX−!がテスト飛行を待っている。

このX−!というのが人類最初の超音速機ということは知識としては知っていた。

そして、それがB−29から発進されて記録を樹立したということも知識としては知っていたが、それを映像としてみるのはこれが最初である。

映画である以上、実際とは違うことは十分承知しているがそれでも胸の踊るシーンである。

B−29といえば、我々日本人はこれに散々な目に合わされたが、どうも怨む気持ちよりも懐かしさが先に来てしまうのも不思議なことだ。

この映画、端的にいえば初期の宇宙開発計画、マーキュリー計画の7人の侍とプラス1の物語である。

このプラス1の部分が最初のX−1のテストフライトと、最後のF104のテストフライトの場面であるところが味噌だ。

これが羊羹の両端だとすると、その真ん中の部分は、当時のアメリカ空軍、海軍、海兵隊の中のえりすぐりのパイロットを選抜して、宇宙飛行士として訓練し、それと平行して国威掲揚のマスコットとして仕立て上げ、ソビエットとのコールド・ウオーに対する整合性をアピールするために利用されるという部分が本映画の餡の部分である。

設定が非常に興味を引く内容である。

首尾よく成功すれば単調なサクセスストーリになってしまうが、そこにエピソードとして失敗例を差し挟んで、全体として生き生きとしたストーリに仕立て上げられている。

このマーキュリー計画というのは、7人のメンバーを夫々宇宙に送り出す計画であったらしく、その過程においてただ一回だけ宇宙飛行士の乗ったカプセルが海面に着水した後、何かのトラブルでハッチが開いてしまい、其処から海水が浸入してカプセルが沈んでしまうという事故があった。

この場面の描写は、物事に失敗した時の悲哀と挫折感を上手に描き出していると思う。

人間よりも、カプセルに記録されたデータのほうが大事だという、レスキューのヘリのパイロットのセリフなど身につまされる思いがする。

そしてミッションがパーヘクトならば盛大な歓迎レセプションになったであろうが、失敗したが故にあわれな、形ばかりのレセプションになってしまう辺り、負け犬に石をぶつけるような対応というのが人間の哀れさを如実に表していると思う。

しかし、これが現実の人間の生きている世の中というものの真の姿であろう。

誰もそれを咎めることは出来ないわけである。

宇宙飛行士を募集する段階で、その募集係が結構コミカルな演技で見るものを引き付ける。特に、最初と最後に登場するX−1とF104を試乗するパイロット・イエーガーを、「高卒だから」と云う理由で採用の枠にいれないところが非常に笑えて来た。

アメリカでも、日本と同じようなことを考える者がいるのかと思うと、滑稽に思え笑えてきた。

それとは反対に、副大統領がいくら宇宙飛行士の奥さんとの接触を試み、それを政治的に利用しようとしても、やはりプライバシーを優先させるというところは見ていて気持ちが良い場面である。

やはり映画といえども人間のドラマを描いているわけで、人間は夫々に違ったドラマを持ち、その違ったドラマの一つ一つを組み合わせることで面白い作品となっている。

人間のドラマもさることながら、私の場合この映画の背景に流れている小道具としての飛行機の存在が楽しい。

X−1を懐に抱いたB−29,空母に着艦しようとするA−4、カプセルの回収に向かうH−19?ヘリコプター、F104の後ろにあった格納庫の中のT−33と思しき機体。T−33というのは日本の名前で、本来ならばF−80とかF−84と云うべきではないかと思うが、その辺りの詳細は私には定かにわからない。

F104がタクシーしようとしているとき、後ろに垣間見れた機体がどうにもF−4に見えて仕方がないが、そんなことはありえないと思いつつも、そう見えてしまうから不思議だ。

エフ・ワンノウホウ(当時、気障にこう発音していた)、ダブル・スターン・アタック、スターン・アタック等々の単語が頭の中を駆け巡る。

JASDFを辞め、三菱の保安に入社したとき、このF104が格納庫にきちんと並べられて駐機していた。

F104の性能に驚愕していた現役のころ、ベトナム戦争ではF−4が大いに活躍しており、あのずんぐりむっくりの機体がF104よりも性能面で優れているなどとは信じられなかった。

此処に技術革新が潜んでいたわけで現実には後発のF−4の方が大いに優位だった。

F−4の性能に驚いていたら、何のことはない瞬く間に「トップ・ガン」(F−14)の世界になってしまった。

実に恐ろしきは技術革新の波である。

 

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