「バニッシング・ポイント」

 

「バニッシング・ポイント」というDVDを買った。

私の好きな部類の映画だと思って買ったが、大いに満足するものであった。

内容的にはさしたる特長はない。

ただただアメリカの荒野を車で走るだけのストーリーである。

とはいうものの、ただただ走るだけでは意味を成さないので、それなりのストーリーというものはあるが、この映画の私にとっての魅力は、そのストーリーよりもアメリカの荒野の情景である。

ストーリーとしては、車の運び屋の二コルスキーという男が、デンバーからサンフランシスコまで一台の車を運転して運ぶというだけのことで、その車がダッジ・チャレンジャーである。

我々の世代ならばフォード・ムスタングの方がなんとなく馴染み深いが、これは70年代の作品である。

主役が交代させられているという感じだ。

途中、警察無線を傍受していたラジオ局が、このひたすら走り回る英雄に対して声援を送るようになって、それがソウルフルな音楽と共にDJで流れるところなどは非常に興味深いものを感じる。

この映画の全般に70年代のアメリカの雰囲気が脈々と息づいているように見える。

ベトナム戦争後のアメリカ人の自信の喪失、退廃した社会的な雰囲気というものがソウルフルなDJと共に全編に醸しだされている。

この雰囲気をかぎ分けるには、それ相当の思い入れがないことには、その感じというのは判らないのではないかと思う。

当然、カー・チェイスのシーンもふんだんに出てくるが、いつも不思議に思うことは、アメリカでは車が転倒してもめったに人が死なないということである。

日本車ならば明らかに即死というような場面でも、のこのこと人が出てくるシーンをみると不思議でならない。

これも映画の決まり事で、ピストルで撃たれたら皆死んだり、刀で切られたら皆死ぬのと同じように暗黙の了解の下、ストーリーが成り立っているのであろうか。

リアリテーというのもあまり執拗にきちんと見せ付けられると辟易する部分がある。

ピストルで撃たれたからといって皆が皆即死するわけでもなく、刀で切られたからといって皆が皆即死するわけでもないが、映画の中ではそうなっているのは、やはり見世物としての決まり事としてそうなっているものと思う。

この映画をロード・ムービーという言い方をする向きもあるようだ。

確かに、ロード・ムービーというに値する。

この類の映画には デニス・ウイ―バーの「激突」というのがあった。

これも、ただただ車で走るだけの映画であったが、私は好きな映画の一つである。

この「バニッシング・ポイント」は、ただ車で走るだけの中にも70年代のアメリカの情感があふれているところが秀逸である。

それが感じとれる最初のシーンは、まず薬の服用である。

この薬というのは当然マリファナのような興奮剤を意味しているわけで、70年代にアメリカでこういう薬が蔓延したという事は、ベトナム戦争後の社会不安が広範囲にいきわたっていたということに他ならない。

それと、おかしな宗教の蔓延もその現れてみなさなければならないと思う。

これは砂漠の真ん中で車がパンクし、それを修理している祭に出会った老人を介在してオカルト宗教との関係が表現されていた。

フラワー運動などと称して、自然回帰を目指しているが如き、極端な自然志向というのも、ベトナム戦争後の嫌悪感、抑圧感からの逃避の表れではないかと思う。

映画も、これほど深読みすると非常に面白いが、気を付けないと見当違いの知ったかぶりに終わる可能性があるので注意が肝要である。

この映画の中でアメリカ社会の空気を如実に表している場面というのは、最初に言った薬を飲む場面と、砂漠の真ん中で拾った老人がオカルト的な宗教の集団に出会う場面と、ピッピーの男女が登場して、女が素っ裸でバイクに乗っているシーンである。

ところがこのオカルト宗教の集団が、野暮ったい特設ステージで歌をうたっている場面は案外見ものである。

そして裸の若い女が現れるというのも唐突としているが、やはりこれも70年代のアメリカ的な光景の一こまのように見える。

そして彼を追う警官たちの描き方も徹底的にアメリカ風に描かれている。

物語の展開と共に主人公二コルスキーの正体が徐々に紹介されていくという筋書きであるが、その中でベトナム戦争に従軍し、それから警察官になったが、同僚のあくどいやり方に業を煮やし、それからレーサーになり、その後車の運び屋になるという主人公の経歴が見る人に紹介される。

彼を追う警官たちも徹底的にアメリカ人で、彼を待ち伏せしている時の彼らの描き方というのは、まさにリアリテーそのものではないかと思う。

何もない荒野に車を止めて、帽子をパトライトの上に被せ、くつろいでいる姿というのはアメリカそのものである。

それと同時に、バックに流れる背景というのが西部の荒野そのもので、私にとってはこういう荒野が大好きで、そこに車のラジオから流れてくるマウンテン・ミュージックというのが、これまたたまらない魅力である。

上下にうねっているカントリー・ロード、決してハイ・ウエイではない田舎道、何もない砂漠、こういう光景が私は好きだ。ここには大地の広がりがある。

この映画、制作の時点では、まだ昼間でもヘッド・ライトをつけるという規則にはなっていなかったようだが、今日では規則によって昼間でもヘッド・ライトをつけなければならないということだ。

しかし、これは実に理にかなった規則で、あの大地、上下にうねったカントリー・ロードでは、ヘッド・ライトを点けて走るという事は、離れた場所にいても車が来ることを認知させるのに有効な措置である。

この田舎道とカントリー・ミュージックと荒野というのは、アメリカの本質そのものだと思う。

小さな田舎町の放送局、寂れたガソリン・スタンド、そこの若い娘の何とも怠惰な生き様、ヒッピーの気ままな生活、これらを全部飲み込んだ70年代のアメリカそのものが、この映画のなかには描かれていると思う。

我々はそれに迎合する必要はない。

しかし、第3者の目としてアメリカを知ることは必要なわけで、そういう視点で映画を見ると、これまた一段と興味深いものになると思う。

 

2003・10・04

 

シネマ・サロン別館に戻る