無意味な古典  03・09・11

祇園精舎

 

祇園精舎の鐘の声、諸常無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す、奢れる人も久しからず、ただ春の夢の如し・・・・・・。

この出典のわかる人は相当に日本文学の造詣が深い人だろうと思う。

言うまでもなくこれは平家物語の冒頭の書き出しであるが、私はこれに出遭ったことで日本の古典というものに一切の興味を失ってしまった。

というのも小学校を卒業して中学生になった最初の古文の授業で、いきなり先生から指名されて朗読をさせられた。

ところが今までこんな文章を見たことも聞いたこともなかったので、予習をするつもりで、教科書を開いてみても、それこそちんぷんかんぷんで判らないまま学校に行った。

そういうときに限って指名されてしまい、さっぱり読めないので、「判りません」と言ったらいきなりその場に「立っとれ」と言われた。

古文という新しい教科の取っ付きからこういう屈辱を味合わされてしまったので、それ以来この教科が大嫌いになってしまった。

そのときの古文の教科書というのは薄っぺらなB5くらいの教科書であったが、このときまで日本に古文なる教科があるということすら知らなかった。

英語のアルファベットは見たり聴いたり出来たが、古文なるものには全く接した事がなかった。

小学校を卒業したばかりの私にとってはまるでギリシャ語かラテン語のようなもので、全く理解しきれないものであった。カルチャー・ショックそのものであった。

その薄っぺらな教科書を開いてみると、小さな活字でたぶんルビも振ってあったと思うが、書いてあることがとても日本語には思えなかった。

立たされたまま先生の読むのを聞いていると、立て板に水を流すようにすらすらと、抑揚があり、耳当たりが良く、聞こえてきたので、古文というものはこういうものかと思ったものだ。

しかし、初日から立たされたという屈辱で、その平家物語の冒頭だけはその日に家に帰って丸暗記した。

それで今でもこの部分だけは記憶から消え去らずに残っているが、最初の出逢いが悪かったので、その後古文というか、古典というか、そういうものには嫌悪感を抱き、真面目に取り組む気が全くおこらなかった。

この時のカルチャー・ショック、先生の立て板に水を流すような朗読を聴いて、興味を引く方向に好奇心が向けば、今の私はなかったかもしれないが、それが初日から立たされるという屈辱のため、反対方向に向いてしまった。

その時、子供心にも同じ日本人でありながら、何故言葉が変ってしまうのか不思議でならなかった。

この疑問は未だに解けたわけではないし、老い先短くなっても尚、過去の言葉が素直に読めない自分の不甲斐なさに辟易している。

ちょっとした文章を書こうと思って、昭和初期の反乱兵士の檄文(5・15事件、

2・26事件)を読もうとしたが、わずか半世紀まえの文章ですら完全に自分のものと仕切れないまどろっこさを感じている。

約半世紀前という月日の積み重ねを過去にさかのぼると、同胞の書いた日本語がさっぱり読めないということになってしまう。

同じ同胞の書いたものが読めない、という事は自分の教養のなさを露呈していることは言うまでもないが、書いた方は、当然読む人がわかるであろうという思い込みで書いているわけで、その時代ではそれが普通の教養として行きわたっていたということであろうか。

以前、ほんの出来心で、東海道53次を歩いてみたことがある。

それで浜名湖の新居関のあたりで関所の高札を見たことがあるが、この表面に書いてあることは日本語には違いないがさっぱり何が書いてあるのか理解できなかった。

私にとっては速記者が使う速記の文字ぐらいにしか見えなった。

文字を通り越してただの記号にしか見えなかった。

肉太の毛筆で草書でかいてある日本語というのは、よほど読みなれたものでなければ読めるものではないと思う。

言葉の乱れというのはいつの時代でも話題になるが、同胞の言葉を過去にさかのぼって研究しなければならないというのもなんだか割り切れないものを感じる。

しかし、これは我々の民族だけの問題ではなく、あらゆる民族で同じようなことが起きていると思う。

英語圏にも古い言葉というのがあり また地方によっても言葉が違う、いわゆる方言というものがあると聞く。

映画「マイフェアレデイー」というのはまさしくその問題を如実に表現した映画であった。方言というのは致し方ないとしても、同じ同胞の言葉が時代を経ると通用しなくなるというのは文化の進展なのか退化なのかどちらなのだろう。

いつの時代もどこの国でも、知識人というのはその時代の言葉の乱れを憂いているわけで、その時代の知識人が自分たちの世代の言葉の乱れを憂いつつも、文化は先に進んでしまうわけで、ならばその時代の言葉を憂いた知識人というのはいったい何を考えていたのかという疑問が起きるのが当然だと思う。

知識人が「言葉の乱れ」と称する現実を憂うという事は一体どういうことなのであろう。巷間に聞くところによるとフランス人はフランス語を大事にする民族で、アメリカナイズされることに非常に慎重だといわれている。

こういう話を聞くとフランス人というのは立派な民族のようにきこえるが、果たしてそれで良いのであろうか。

この技術革新の時代、昔の認識では表現しきれない事態や、状態、物質、製品というものが次から次へと現れてくるわけで、昔の言葉ではそれを言い表すことが不可能な場合もありうると思う。

例えば、コンピューター一つとっても、我々はこれを電子計算機と訳してしまったので日本語として非常に使いにくい言葉となってしまい、勢い「コンピューター」という英語の単語のまま使わざるを得ない。

ところがこれを中国では「電脳」と訳したので、これならばその実態を余すところなく表しているわけで、中国語として定着しやすいと思う。

確かに我々の場合、コンピューターというのはその当初、計算機としての機能のみがもてはやされ、計算する機械という概念が出来上がってしまった。

ところがコンピューターの機能というのは、ただ計算するだけではなく、まさしく人間の頭脳に匹敵する機能があるわけで、その意味で「電脳」という言葉の方がより現実に近いと思う。

こういう現状を踏まえ、我々は「コンピューター」を言い表すのに、わざわざ「電子計算機」という言葉よりも、そのまま「コンピューター」という言葉のままで言い表しているわけである。

すると英語をカタカナ表記しているだけで日本をとして似つかわしくない、つまりこれは「言葉の乱れ」ということになってしまうわけである。

全地球規模の視点から見て、我々日本民族というのは、四周を海で囲まれた絶海の孤島に住む民族である限り、文化というのは移入によるものを全否定することはありえない。

その上、文化というのは常に進化し続けるわけで、50年も経てば時代遅れになることは避けようがない。

問題は、その時代遅れの文言を研究して、それで生業が立つという現実を考えなければなければならないと思う。

中学生が何ゆえに何百年も前の文言を勉強しなければならないのか、という古典を現実の若者に教えることの意義を考察する必要があると思う。

徳川美術館に行くと源氏物語の原点らしきものが展示してあるが、それを見ても我々には内容を読みきれるものではない。

こういうものを研究することの必要性は素直に認める。

それを研究し、研究したことを発表することは意義あることだとは思うが、それを学問として学術的な功績という価値判断には承服できないものを感じる。

古典の研究などいう事は、個人の趣味の段階ではないかと思う。

趣味として研究を掘り下げ、その成果を競い合うことは人間の喜びに貢献するものだと思うが、それを学問とすることにはいささかの違和感を感じる。

学問というものが知識自慢に終わってしまってはならないと思う。

何百年も前の人間が、ああでもないこうでもない、誰と誰が関係して誰それが出来た、などという事はいくら解明しても学問とは言い切れないと思う。

21世紀に当てはめで言えば、芸能人のスキャンダル探しのようなことではないか。

古典の研究、古文書の研究などというものは学問としての領域ではなく、趣味の領域だと思う。

中学生の私が無理やり古文を勉強させられたとき、つくづくそう思ったもので、その怨念は今でも生きている。

源氏物語を今の言葉に翻訳して、趣味としてそれを読んだ人は、大いに納得するであろうが、それを教科書として青少年に押し付けて、それから何を会得させようというのであろう。

人間が宇宙を往復する時代に、500年も600年も昔の言葉を青少年に教え込んだとしても何の意味もないではないか。

それを研究するのは結構なことではあるが、それはあくまでも個人の趣味を超えてはならないと思う。

同胞の同胞による同胞の古文の研究は今まで述べたように何の意味もないと思うが、異文化の研究というのは非常に興味あるものだと思う。

あの日米戦争の中で、アメリカ人の民俗学者でルース・ベネジェクト女史の著作として有名な「菊と刀」という本は、まさに面白い書物だと思う。

彼女は日本に一度も来ることなく、日本人捕虜を観察することで、日本民族の潜在意識の奥の奥まで見透かしてしまったわけで、われわれ内輪のものでは思いつかないような観察がなされている。

この本は要するにアメリカの国策に則って、アメリカの国益に沿う形で書かれているが、学問というのはこうあるべきだと思う。

「学問が国営に沿う形で」などというと、国粋主義とか右翼だと決め付けられそうであるが、そもそもそういう発想そのものが唯我独尊的な思い上がりなわけで、学問たるものは何らかの形でその国民に貢献するものでなければならないと思う。

その意味からしても、古典を研究するということは労力の浪費と、時間の浪費以外のなにものでもない。

ただただ知識自慢の材料に過ぎないわけで、知らない人間のコンプレックスを植え付ける以外のなにものでもない。

知的マスタベーション以外のなにものでもない。

 

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