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大運河

映画「大運河」 2003・5・23

映画「大運河」は以前よりその題名とMJQのジャズとの関わりはよく知っていた。
それで今回、論評を書くに当たりインターネットで検索してみても、私の予備知識以上のものは見当たらなかった。
このことを言い換えれば、この映画の音楽、MJQのジャズを語ったものは数々あれど、その映画の内容に関するものは皆無に近い状況であった,ということである。
それほどこの映画は映画そのものよりも音楽の方が世に宣伝されていたわけだ。
しかし、映画のほうも決して見劣りするものではなく、人を引き込む魅力に富んだ立派な作品である。
ところがこの映画、イタリア映画で、イタリア映画となると日本でのフアンは限定されたものではないかと思う。
日本でイタリア映画のフアンとくれば、これはもう文句なく文化人の範疇に入ってしまう。巷のミーチャン・ハーチャンとは一線を画した、「映画通」として認められた存在だと思う。
本人も周囲もそう認定するに違いない。
という私は、そういう認識の元、イタリア映画にもの申すには構えて掛からねばならない。この映画1957年の作となっている。
1957年といえば日本の年号では昭和32年で、私はまだ生意気盛りの青二才の頃であった。それで、当時はまだこの映画の真価というものは知らなかった。
それを知ったのはいうまでもなくNHK BSで放映され、それビデオで撮って、ゆっくり鑑賞したときである。
この映画は音楽の評価以上に内容的にも優れた映画である。
最初、冒頭のところで劇場内で上映されているアニメーションの場面から始まるが、この場面は少々冗長ではないかと思ったが、このアニメーションはその後日本でテレビ・ブームに沸き立ったとき、「壽屋」、今のサントリーのコマーシャル・アニメでアンクル・トリス、トリス叔父さんというのがあったが、あれに全くよく似ている。
まさに日本の模倣文化そのものではないかと思った。
そのアニメを上映している劇場から若い女が席を立つところから物語が始まるわけであるが、その物語の合間合間にMJQの音楽が流れ、ミルト・ジャクソンのビブラホンの音色が耳を刺激する。
それでいて結構スリルとサスペンスに富んだ物語の展開となる。
そしてその物語の展開にも結構手が混んでいて見るものを飽きさせない。
ストーリーを要約すれば、まずベルゲンという男爵が第2次世界大戦中にイギリスの紙幣を偽造するドイツ側の原版を隠匿して、それで偽札で財を築き、ベネチュアで隠遁生活を送っているたが、この男爵が奇麗な娘を見初めて自分の養女にして育て上げた。
この養女がソフィーといい、冒頭の映画館でフランスから来たカメラマン、ミッシェルと出会い、そのまま恋いに落ちてしまうわけである。
それで、このソフィーはこのミッシェルと共に男爵の家を出るという話になると、意外とあっさりと男爵はそれを認めたわけである。
ところが、その娘がいなくなるとどうにもさびしく感じ、用心棒兼ソフィーの情夫であるスフォルジにソフィーを取り戻してくれと依頼する。,br> このスフォルジはもうソフィーに未練がないのだが、男爵はソフィーを取り戻してもらうために、彼女の名義で莫大な金をスイスの銀行に入れている、ということをスフォルジに言ってしまったので、このスフォルジは金目当てに急にソフィーとよりを戻そうと画策するというわけである。
男爵としては、身持ちの悪いスフォルジよりも、ソフイーの新しい恋人のミッシェルの方に好感を持ち、信頼し、彼に金の引き出しを依頼しようとするのだが、それをスフォルジに見られてしまい、そこでこの男爵は彼に殺されてしまうわけである。
その殺された後の現場にミッシェルが居合わせてしまったが、ここでミッシェルが機転を利かせて、スフォルジからその委任状を取り戻して、ベネチュアのビルの屋上の追跡劇となり、最後はスフォルジェが運河に落ちて大団円となるという仕儀である。
ストリーの展開としては非常に面白く目が離せないが、冒頭の劇場内のアニメーションにはいささか辟易して、これから何が始まるのか不安さえ覚えた。
これがロシェ・バダムという当時31歳の監督の作品というのだから驚く。
しかし、これはフランスとイタリアの合作というもので、イタリアのベネチアにフランス人の写真家が出張で行くという設定なので、我が単細胞の頭脳ではいつもと違う思考回路を働かせねばならなかった。
映画にモダン・ジャズを取り入れたのはフランス映画が最初だと思うが、この時代、映画界というのは非常な躍進を遂げ、活躍をしていると思う。
「死刑台のエレベーター」も「殺られる」も、「危険な関係」も、実に上手い具合にジャズが使われている。
まさしくあの時代、フランス映画界は新しい波、ヌーベル・バーグそのものであった。
この「大運河」も、そういう作品群の中のひとつであるが、これと同じものは日本ではありえないと思う。
やはり感性の問題ではないかと思う。
我々、日本人の感性というのはモダン・ジャズには合わないと思う。
しかし、我々には我々に合う音楽というものはあるわけで、石原裕次郎の映画にはそれなりに、加山雄三の映画にはそれなりに、ふうてんの寅さんにもそれなりに合う音楽というものはあるわけである。

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