報道特集  03・4.・20

「報道特集」を見て

バカの真骨頂

 

民放テレビの「報道特集」というのを見た。

「今回のイラクの戦争をどう思うか?」という趣旨で、各階の著名人のコメントを放送していたが、どの人も皆、今回のアメリカの行動、行為を非難するのみで、アメリカを擁護する発言は皆無であった。

アメリカはイラクの罪もない人々を殺した。

博物館の略奪を防止できなかった。

テレビでプロパガンダを流した等々、アメリカを非難する声ばかりであった。

この番組のキイー局がどこだか定かには知らないが、こうも一方的な意見ばかりを聞かされると、情報操作がなされているのではないかとさえ思えてくる。

そして、アメリカの行為の結果ばかりを語って、アメリカが何故そういう行為、行動をしなければならなかったのか、という点には一言も触れないのは明らかに意図的としかいいようがない。

大量破壊兵器はなかったではないか、にもかかわらず何故あそこまでしなければならないのか、という論調であるが、これは一体どういうことなのであろう。

イラクでサダム・フセインのしてきたことには一言も触れず、アメリカのみを一方的に糾弾するというのは一体どういうことなのであろう。

日本のテレビ界というのはサダム・フセインの回しものの集団なのだろうか。

日本のマスコミというのは、火中の栗を拾うという勇気を持たず、危険を避けて、身の安全ばかりを図っているとしか思えない。

これは日本のマスコミ業界だけの問題ではなく我々国民全般の問題だと思う。

サダム・フセインがイラク国内でやってきたことは、日本にとっては全く問題となっていないし、問題視しようともしていない。

つまり、はるか遠い国の出来事で、われ関せずと、全く関心を示そうとしなかった。

彼がいくらイラク国民を抑圧しようが、クルド人を殺そうが、独裁体制を強化しようが、テロを輸出しようが、我々にとってははるか遠い国のアラビアン・ナイトの出来事であったわけである。

この最後のテロの輸出ということで言えば、アメリカにとってはサダム・フセインという大統領はテロの送り手であり、アメリカ国民は何時身の危険に晒されるかわからないので、ああいう事態になったわけである。

「確たる証拠がないではないか?」という論議があるが、証拠があろうがなかろうが、アメリカ国民が危害にあう可能性があれば、アメリカ大統領としては、それを事前に防ぐ措置をしなければならないわけで、それが大統領としての勤めでもある。

これを我々に即して考えてみると、我々ならば「証拠もないのに相手を攻撃すれば過剰防衛ではないか、これは憲法違反だからすべきではない。我々はやられてからでなければ反撃してはならない」ということになる。

国民に犠牲が出るのは政府の対応が悪いということになる。

つまり予防措置をしようとすればそれは駄目だといい、犠牲がでれば政府が悪いというわけである。

我が日本国民は、国民の側が自分の国の手足を縛っておいて、犠牲がでるとそれを政府の責任として政府に転嫁するわけである。

アメリカと同盟を結んでいる我々は、「自分たちさえ良ければそれで良し」とするではあまりにも虫が良すぎると思う。

我々は、自分の国さえ自分で守れない国民というよりも、自分で守ろうとしない国民ということがよく判っていないのではないかと思う。

自分の国から、他所の国が人を攫っていっても、それさえ防ごうとしないのが国民自身だということが全くわかっていない。

そういう事態を防ごうという法案を出すと、これが国民の多数意見として通らないわけで、結果として拉致事件の責任は政府だということになってしまう。

こんな馬鹿な話もない。

 

異論の言える有り難さ

 

我々は戦後の民主教育の中で命の大切さということは骨の髄までしみこんでいるが、命の大切さというのは何も我々、日本民族だけの命が特別に大事なわけではないと思う。

この地球上に生きているあらゆる人々にとっても、自分の命はひとつしかないわけで、我々の命だけが特別に大事というわけはない。

我々は先の世界大戦で数限りなく有為な命を失ったことは事実である。

しかし、これは我々だけが無意味な戦争で命を失ったわけではない。

あの戦争では有為な命を失うという大きな犠牲を払った、払はざるを得なかったのは、我々の日本だけではなく、アメリカ人も、イギリス人も、ドイツ人も、旧ソビエットの人々も、中国人も、世界中の人々が戦争という狂気の中で、それぞれに有為な若い命を失ったわけである。

だから「戦争はすべきでない」というのは尤もなことだ。

しかし、戦争というのが政治の延長線上にあるものだとすれば、戦争になるということは、政治の失敗なわけで、それは同時に外交の失敗でもある。

ことが外交交渉で解決できれば戦争には至らないわけで、ここでは戦後の民主的な人々がよく口にする「話し合いで」という表現が整合性を持つ。

ところがである、戦後の民主的な日本の知識人のいう「話し合いで」という文言には、ある種の欺瞞が含まれていて、話し合いの結果として、自分たちに不利な条件のめば、それを政府の責任に転嫁して、「政府は何をしているのだ」という言い草になる。

話し合いの結果として、妥協というかたちで、戦争という選択肢を選ばずに帰ってくると、「政府の努力が足らない」という言い分となる。

拉致問題でも北朝鮮との話し合いは一向に進展していないことは明らかであるが、ならば更に突っ込んでもいいのかといえば、それは政府が解決すべき問題だと逃げるわけである。

政府にしても、北朝鮮と交渉して話し合いを続けたいのは山々であるが、相手がテーブルにもつかない以上、何とも致し方ないのではないか。

それでも「日本政府が悪い」という評価をするわけで、決して「相手が悪いからあきらめよ」ということはマスコミの側、日本の進歩的知識人の側、野党の側からは言わないわけである。

これは一種の欺瞞だと思う。

こういう状況では、戦争でことを決するか、乃至は泣き寝入りで我慢するかしか道はなく、二つに一つの選択しかないと思う。

アメリカという国は、こういう状況に立たされたとき、躊躇することなく戦争という選択肢を選ぶわけである。

こういう状況を正邪、善悪、良いことと悪いこと、という価値判断では説明しきれないと思う。北朝鮮が日本の内地、乃至は外国にいる日本人を拉致して、日本語教育の先生に仕立てる、ということは我々の側からすれば、人権蹂躙という言葉で片付けられるが、北朝鮮からすれば民族存続の手段・手法であったわけで、北朝鮮の人々、つまり朝鮮民主主義人民共和国の政治の一環であったわけである。

我々の側からすれば、そんなバカな話かあるか、それは悪行以外のなにものでもない、基本的人権の侵害以外のなにものでもない、と言ったところで、その言葉は相手には通じないわけで、それがため話し合いでは解決できなかったわけである。

これを解決するには戦争で、相手を実効支配する以外に、こちらの要求を相手に認めさせることは出来ないわけである。

今の日本人にはそこまでの勇気がない。

しかし相手はいくらでも戦争をする気がある、という事を忘れてはならないと思う。

アメリカはこういう状況に陥ったとき、躊躇することなく武力行使に訴えても自分の所信、思ったこと、つまり国益を貫き通す勇敢さをもっているわけである。

それには当然のこと大きな犠牲を伴うことは誰もが認識しており、犠牲なしに国益を貫き通すことはありえない、という常識に則っているわけである。

リスクを犯さずには現状を維持することは難しい、という自然の法則を素直に受け入れているわけである。

我々の側は、リスクとしての犠牲を微塵も受け入れる心のゆとりというものがないわけで、自衛隊の平和維持活動の祭にも、自衛隊は安全な後方支援をして、前線にはNPOの民間人を配置するなどという馬鹿げたことになるわけである。

アメリカは国益追及の過程で犠牲が出ることを承知の上で、あえて名誉と誇りと国益というものを一遍たりとも損なうことなく、維持、確保するという選択肢を取っているわけである。

この地球という主権国家の集合体の中で、何らかのリーダー・シップをとろうとすれば、それに対抗する力、つまり反作用というものは必然的に湧いてくるわけで、それに対しては犠牲という形で、その反作用を吸収する装置が必要なわけである。

アメリカという国が国益のために戦争という選択肢を取ったからといって、アメリカ人が全部好戦的な人々か問えば現実はそうではなく、アメリカ人だとて戦争の嫌いなことは我々となんら変わるものではない。

ブッシュ大統領がイラクと戦争をするといったときでも、それに異を唱える人は当然いたし、実際にそれを行為として実践した人もいた。

自分たちを統治する側に対して、異を唱えることの出来る社会というのは実に素晴らしい体制といわなければいけない。

サダム・フセインのイラクで、こういうことが可能であったろうか。

北朝鮮で、為政者に対して異を唱えることが可能であろうか。

アメリカでも日本でも為政者に対していくらでも異を唱えることが可能である。

私が今ここで問題として提起しようとしていることは、自分たちの為政者に対して異を唱えることの整合性を考えることである。

民主主義の基本とは最大多数の最大幸福ということだと思う。

問題は、その最大多数の最大幸福というものが、全地球というもを尺度としておらず。主権国家の内側という制約があることだと思う。

「戦争はすべきでない」ということは全地球規模で整合性を持ち、誰もこれには異論を差し挟む余地はないと思う。

ところがここに主権国家という枠組みを持ち込むと、嫌でも戦争をしなければならない状況というのがあるわけである。

戦争でなければ事が解決しない、武力行使でなければ自らの国益を敷衍させることが出来ない状況というのが存在するわけである。

それを「話し合いで解決するのが人類の英知ではないか」という反論は当然出てくるし、それが今日の日本の進歩的知識人の普遍的な論理であるが、話し合いでは事が解決しないから戦争という手段に訴えざるをえない現実というのは厳然とあるわけで、それでも尚そういうこと主張するというは、当事者ではない部外者としての無責任な思考だと思う。

拉致問題でも、先方は日本が戦争をしない国という事を知っているから、テーブルにも付こうとしないではないか。

イラクのサダム・フセインに対しても、いくらでも話し合いの機会はあったではないか。

これらの国々には為政者に対して異論を唱える自由があったであろうか。

為政者に対する異論を唱える自由があるかないかは、その国の主権の問題だから他からとやかくいう必要はないが、戦争を回避する術は相手にも同等にあるわけで、それを仕掛けた方だけを悪人に仕立てようとする発想は、いかにも判官びいきだと思う。

我々は、為政者の決定に反論する自由をもっているということは本当に素晴らしいことだと思う。ところが、この為政者に対する反論というのが、度を越す場合がしばしばあるように思えてならない。

 

報道という情報の流れ

 

「報道特集」に見るように、報道というのは報道する側と、それを受ける側では歴然と乖離がある。

報道する側というのは、自分の思ったことを思うとおりに報道する自由意志、作為的な思考をもって報道しえるが、受け手の側は一方的にそれを受け入れるしか道がない。

報道する側というのは、自分が人に知らしめたいという思う内容を自分の意思で選択して、自分の都合に合わせて事柄を取捨選択して送り出すことが可能だが、受ける側は送られてきたその通りに受け入れるほかない。

マスコミ各社がそれぞれに自社の理念をはっきりと露にして、そのモトに情報操作するのならば、送り手の示威的な記事というのも理解できる。

日本共産党の「赤旗」や、公明党の「聖教新聞」のように、自分たちの理念をはっきりと表明しておれば、それはそれなりに理解できる。

新聞は自己の理念をきちんと表すことが出来ているが、放送局となると、そういう理念を表明した局はないわけで、日本の放送局というのはすべからく金太郎飴のように、どこまでも均一の思想体系かと疑いたくなる。

これは日本だけのことではなく、地球規模で見て、報道というものは、情報の貯水池から、低い方に向かって一方的な流れとなっていると思う。

情報の貯水池には、あらゆる情報が集まっていると思うが、その集まってきた情報を新聞の記事として、またはテレビ番組のニュースとして取捨選択するのは、その情報の貯水池を預かっている一部の人間だと思う。

この一部の人々の情報操作で、ブッシュ大統領の評価やら、小泉首相の評価が決定されていると思う。

「世論」という言葉があるが、今時そんなものはこの情報操作の一部の人間がいかようにも操作していると思う。

 

アルバイトと肩書き

 

それと、マスコミに登場する大学の先生というのも大きな問題だと思う。

朝日新聞社の論説委員、解説委員が自社の新聞乃至は番組に出演するのは営業活動の一環として理解できるが、国立大学の教授たちが、その肩書きのままで新聞に寄稿したり、テレビに出演して、もっともらしい論評を呈するのは、少しおかしいのではなかろうか。

私立大学の先生方ならば民間企業という点からも、宣伝という点からも致し方ない面があるが、国立大学の先生方というのは、国から俸給というものを受け取っている以上、新聞や雑誌に寄稿した原稿料、テレビに出演した出演料というものは国家に還元するのが本当ではなかろうか。

その意味では国会議員でも政党人もこの範疇に入るわけで、そういう人がテレビに出演したり、新聞に寄稿した報酬というのは国庫なり政党に還元されてしかるべきではなかろうか。

国立大学の先生方の仕事というのは国家に帰属するものではなかろうか。

アルバイトでテレビに出演したり、新聞の評論記事を書いたりすることは心情的には理解できるが、国立大学の先生方の仕事というのは、総て国家の金で下支えがされているわけで、その結果としての成果を個人の収入にしてしまっていいものだろうか。

新聞に寄稿したり、テレビに出演するとなると、どうしても肩書きが大きくものをいうことになる。

人はその肩書きで、その意見に大きな信頼を置くわけで、無名の人がいくら立派なことを言い、書いたとしても、誰もそれを正当に評価してくれない。

肩書きがあると、「ウンーなるほどそうか!」となるが、無名な人ではいくら良い意見でもなかなかそのままでは受け入れてもらえない。

そういう人の意見を注目させようと思えば、またまた大きな作為でもって、人の注目を集めるような企画を嵩じなければならない。

 

送り手の情報操作

 

その典型的な例が「聞けわだつみの声」という本であった。

この本は戦後、反戦の、そして反体制のバイブル的な存在であった。

この本は戦没学生の嫌戦的な部分のみを抽出して集めてあったが、戦没学生がいかにいやいやながら従軍したかという趣旨で書かれていた。

ところが生原稿ではそうではなくて、嬉々として国家に尽くすことに誇りを感じ、名誉に恥じない行いをしたい、という事が記されていたわけである。

人間たるもの誰しも、戦争などしたくないし、出来うるならば避けたいと思っているが、国家がそういう選択をした以上、それに殉ずるのが国民たるものの勤めだと思っていたわけである。

こういう考え方は特異でもなければ好戦的でもないわけで、主権国家の国民としては極普通の信条である。

それを東京大学でこの「聞けわだつみの声」を編集した人たちは、その人間として極当たり前の信条、思考の部分をカットしてしまって、さも彼らはいやいやながらに戦地に就いたというニュアンスで出版したわけである。極端にいえば捏造である。

作者の本音の半分しか発表しなかったわけである。

自分たちの都合の悪い部分はカットしてしまって、都合のいい部分のみ公表した、というわけである。

こういう発想は案外古い世代の人にも残っている。

先の湾岸戦争のとき、サダム・フセインの国軍が如何に残虐か、というテレビ放送が全くのやらせであったことは、典型的なテレビ用のプロパガンダという情報操作であったことは言うまでもない。

先の大戦を体験した世代は、自分たちは国家に騙されて嫌な戦争に狩り出されたという捉え方をしている。

だから、政府というのは悪者で、善良な国民を騙して、国家意識を押し付ける許しがたい存在だ、という捉え方が蔓延している。

この考え方は共産主義にとっては非常に都合のいい発想なわけで、共産主義というのは、総ての秩序を否定しようとするので、自分の国家に対して否定的な思考とは実に結びつきやすいわけである。

 

東京裁判史観

 

先の戦争を体験した人たちが、俺たちは自分の国家に騙されたのだと考える根拠は、やはり極東国際軍事裁判の所為だと思う。

ここでは、自分たちを,つまり日本国民を、ある時期リードした人々、つまり戦争遂行をした人々を、戦犯、戦争犯罪人、つまり悪い事をした人々と認定してしまったからだと思う。

日本人の国益を推し量ろうとした人々を、対戦国から見れば悪人に見えるのはある程度致し方ない。

今回のイラク戦争でも、アメリカのいう事を聞かず、国連のいうことも素直に聞かないイラクのサダム・フセインは、アメリカから見れば極悪人でしかない。

それと同じ事で、62年前にアメリカに敢然と戦いを挑んだ日本人は、アメリカ側から見れば悪人に他ならない。

アメリカ側から見れば、アメリカの国益の前に立ちはだかる日本の政治家達、つまり時の政府の要人や軍人たちは悪人に他ならないが、それを同胞としての我々日本人まで、アメリカの立場に立って、アメリカの視点に立って、我が同胞を悪人と決め付けなければならないのか思う。

アメリカ人の立場からすれば、真珠湾攻撃をしかけた極悪人であっても致し方ないが、我々の立場かすれば、ABCD包囲網を、つまり経済封鎖を打開しようとした究極の生きるための選択であったわけで、それを戦争犯罪人として認めるわけにはいかない、という議論がどうして同胞の中から出てこないのであろう。

戦争に勝ったアメリカが、旧敵国の我が同胞を戦争犯罪人と決め付けたからといって、負けた我々までがそれを嬉々として受け入れる、ということは一体どういうことなのであろう。

普通の人間が普通の自然のままの感情に支配されているとすれば、自然発生的にナショナリズムが沸き起こってくると思うが、我々は戦争に負けたことで、この自然発生的なナショナリズム、つまり自然のままの感情さえも喪失してしまったのであろうか。

人間が普通の自然のままの感情をもっているとすれば、戦争に負けたとしても、魂までは敵に売り渡すことはないと思う。

敵が相手国の戦争指導者を犯罪者と決め付けても、負けたほうはそうそう安易に敵の価値観に帰依することはなく、表向きは従順にいう事を聞いたとしても、心のうちそこでは相手の価値観を否定するのが普通の人間の自然の感情ではなかろうか。

それがレジスタンスであり、ある意味でナショナリズムではないかと思う。

今生きている先の戦争を体験した古い日本人は、この勝者の価値観を嬉々として受け入れて、同胞をこき下ろしているからこそ、「騙された」という言葉が出るものと思う。

世の中が自分の思うとおりにならないと、「騙された」という文言で、自分を正当化しようという行為は、無責任な子供の駄々っ子的な発想だと思う。

世の中が自分を中心にしてまわってくれないので、「騙された」という発想になると思うが、これは精神的に非常に未熟な精神過程だと思う。

だからこそ、勝った側の価値観に嬉々として順応して、同胞の行為を糾弾して良心に恥じないわけである。

こういう人たちというのは、自分が勝った側の価値観に洗脳されている、ということに気がつかないわけで、アメリカの価値観にどっぷりと浸たりながら、今日その勝ったアメリカの基地が日本にあることを憂い、それを今の日本政府の責任として糾弾しているわけである。

先の大戦を経験して今もなお生き残っている古い日本人が、「我々は騙されて戦場に行った」とか、「日本国憲法は戦争放棄しているから反戦、非戦でなければならない」とか、「アメリカ軍の基地はすぐに撤廃しなければならない」という発言は、すべからく戦後民主主義の無責任体制の露骨な部分が露呈しているわけで、いわば普通の人間としてのナチュナルな精神構造から大きく歪曲した典型的な思考である。

 

相手を「なじる」だけの愚

 

先の大戦を経験して今もなお生き残っている古い日本人、今存命していれば70歳以上の日本人は、勝ったアメリカの押し付けた価値観に嬉々として殉じていてはいけないと思う。

右翼的な国粋主義の戻れ、というわけではないが、我々が戦争という選択肢をとらねばならなかった状況というものを、もう少し真摯に考える必要があると思う。

我々は好き好んで戦争という道を選んだわけではないと思う。

戦争というのは、やはり政治の延長であるということはまぎれもない真理で、われわれはあの時期、国内政治、国政的な外交交渉に失敗して、戦争という選択肢を選んでしまったとみなければならないと思う。

もう一歩踏み込んで考えれば、日米戦争に関して言えば、我々はアメリカの罠に填められたわけで、その罠に填めたアメリカの価値観を後生大事に抱えている陳腐さに、もうそろそろ気がつくときではなかろうか。

政治に失敗したという意味では「騙された」という表現もあたらないではないが、これも歴史的視野で見れば、歴史などというものは、つまるところ失敗の連続ではなかろうか。

主権国家が、常に右肩上がりの成長を遂げる、などということは理論的にもありえないのではないかと思う。

小泉首相が構造改革をぶち上げて就任しても、それが一向に目に見える形で現れていないので、政治の失敗という言い方は成り立つし、それは同時に「騙された」という言い方も成り立つが、ならば国民の側から政治の失敗をなくし、騙されない政治というものを築くことが可能であろうか。

何時、誰が、どのような政治を施行したところで、それを国民の側から見れば、常に政治の失敗であり、国民は「騙された」ということに成ってしまう。

国民の側から見て、成功した政治などというものは、今までもこれからもまずありえないのではないかと思う。

このことは国民の側で、自分の思いとおりの行政サービスが受けられず、負担ばかり多くなって獲るものが少ないときに、それを「政治の失敗」といい、「国民は政府に騙されている」という言い方で相手をなじっている図ではなかろうか。

こういう図式はなにも日本だけのことではなく、全地球規模で、あらゆる主権国家で、統治するものとされるものという構図がある限り付いてまわることである。

ところが20世紀という時代、21世紀という近い将来では、マスコミの発達で、自分の思うとおりの施策がなされていないので、相手をつまり自分の政府をなじるという風潮が普遍的になって来た。

「なじる」ということは、広辞苑によると「相手の過失や不満な点などを問いつめる。問いつめて責める。詰問する」となっている。

マスコミ各社がいくら自分の国の政府をなじったところで、なじるだけでは世の中は良くならない。

相手をなじるだけならば誰でも出来る。

それは犬の遠吠えと同じなわけである。

なじるだけでは世の中は決してよくならない。

そこに前向きな建設的な意見がないことには、人々の意識が覚醒されないわけで、62年前日本が戦争に足を踏み込んだときには、日本のマスコミ、その時代はおもに新聞・雑誌という媒体が、この人々の意識の覚醒ということをした事実を我々は忘れてならない。

 

傍観者としてのマスコミ

 

先の戦争を経験して今尚生き残っている古い世代の日本人は、そのことをよく思い出していただきたいものだ。

それがあったればこそ、時の日本の指導者というのは、結果的に政治を誤り、戦争という選択をしてしまったわけである。

それは同時に、アメリカにおいてもルーズベルト大統領は、ラジオによって人々の意識を覚醒しようとし、対日戦のアメリカ側の整合性をアメリカ国民に説得し、それは戦争に勝ったことで、彼の政治は成功であったと評価されているわけである。

マスコミ関係者、マスコミ各社というのは、政治に対してあくまでも傍観者の立場である。

共産党の「赤旗」や、公明党の「聖教新聞」というのは、党の主張をはっきりと表明しているので、これは傍観者ではなく当事者の一員に加えてもいいが、公正中立の名のもとに、不偏不党を建前にしているマスコミ各社は、基本的には政治に対して傍観者のはずである。

それが政府をなじるだけでは能がないというわけで、前向きで、建設的なと思われる意見を述べると、これがある時は国威掲揚になり、ある時は反戦平和になるということは、一体どういうことなのであろう。

同じ新聞社が、62年前は国威掲揚の先頭に立ち、日本が戦争に負けると、反戦平和の旗手になるということは一体どういうことなのであろう。

そして、あの戦争を体験した世代が、そのことに対して何の疑問も呈していないのは一体どういうことなのであろう。

あの時代に新聞の読める人ならば、当然、その矛盾に気がついてしかるべきだと思う。

同じ新聞社が、ある時は「鬼畜米英、撃ちてし止まん」と、好戦的な記事を満載し、日本が戦争に負けると、手の裏を返したように同胞の政府をなじる一方で、旧ソビエット連邦や、中華人民共和国の国益を代表するような記事を掲載して、日本の知識階級を自負している姿に、戦争を体験した世代は何も違和感を感じていないのだろうか。

我々の同胞の中には、付和雷同的に旗振り役に便乗する人も大勢いるわけで、戦後の民主的で、進歩的な知識人の反戦平和の運動も、そういう人々の売名的な行為がかなり大きなインパクトとして残っているように思えてならない。

そのことは同時に戦前のマスコミのあり方にも言えているわけで、付和雷同的に戦意高揚の記事があふれ、反戦などと一言でも言おうものならば、売国奴とののしり、非国民といってののしり、村八分という制裁をしたのは一体どこの国の人々であったのかと問いたい。

同じ日本人、同じ日本民族でありながら、終戦という日を境に、価値観が全く逆転してしまうということは一体どういうことなのであろう。

62年前、同胞のために精一杯努力をし、艱難辛苦を乗り越え、国家に尽くし、その挙句に命を落とした先輩諸氏、同胞のために奉仕した我々の父や兄、おじいさんを、戦争に勝ったアメリカが戦争犯罪人と言ったからといって、我々までそれに追従し、勝者の尻馬に乗って、そう言う必要がどこにあるのだろうか。

確かに日本のために戦った人たちは、アメリカ側からすれば紛れもない敵であり、彼らを殺した犯罪人かもしれないが、そこには立場の違いというものが存在するわけで、これは国際的にも普遍的なことして認められている。

日本のために戦った同胞を、同胞の中から戦争犯罪人というのは、神をも冒涜する行為ではなかろうか。

それでも我々は「中国で無意味な殺傷をしたではないか」と言う反論が聞こえてきそうであるが、これだとて、あの時代の混乱の中で、相手を殺さなければ自分が殺されるわけで、平穏無事な全くの平和な環境のなかで、日本人だけが意味もなく罪もない人々を殺したわけではない。

あの時代に、中国の状況というのは、蒋介石の国民党政府軍と、毛沢東率いる共産ゲリラと、張作霖に代表される軍閥と、もろもろの山賊、夜盗、馬賊が混沌として混在していたわけで,治安の行き届いた平和な状況にあったわけではない。

それを今の価値観からみて、日本が悪事をしたという認識は、ものを知らないと言うことを暴露するに等しい。

問題は、日本のマスコミというものが、日本の国益を踏まえてものを見ることをせず、外国の利益のために、日本をこき下ろすところが問題なわけである。

外国の利益を擁護するためには、必然的に日本政府をこき下ろさねばならないわけで、そのことは同時に、日本の国益を損なうということになるはずである。

政府としては国益を損なうことの無いように動こうとするが、マスコミというのが、国益とは関係のない立場にいるものだから、傍観者として、祖国の同胞の足を引っ張って恥じないわけである。

 

下賎な風見鶏

 

時流に乗るという言い方がされているが、学問のある人間ほど、この時流を見定めるのに長けているわけで、時流という波のりに長けているが故に、風見鳥のように風向きに敏感なわけである。

主権国家という枠組みの中で生きる人間が、統治する側とされる側という分類の仕方をされた場合、学問のある人ほど統治する側の言う事、行う事総てに異論を呈したくなるのは無理もない話だろうと思う。

頭がよくて立派な大学を出たような人ならば、きっと他人がすることには不安でならず、危なっかしくて見ておれないという心境になるのも理解できる。

ところが統治者に対していくら異論をぶつけてみたところで、彼らは現実の政治に対してなんら責任を負うことはないわけで、言うだけ言って、その結果は与り知らぬで済んでしまうわけである。

それに反し、政治家のほうは結果がものを言うわけで、先の戦争でも日本が負けたから、日本人の同胞の中らでさえも戦争犯罪人という烙印を押されてしまうわけである。

その時代のマスコミを担った人々は、政治の当局者ではないので、時の時流に便乗して、あるときは戦意高揚を高々と謳いあげ、時代が変われば、反戦平和の旗を先頭に立って振るのである。これは政治に関して傍観者という気楽な立場、無責任な立場におれたからこそ、こういう変節を恥とも思わず、戦後の民主的な知識人として厚顔にもマスコミという業界を泳げたわけである。屋根の上の風見鳥のように、時流という風を巧みに察知しながら、その目に見えない流れを巧みに察知して、風の向く方向に抵抗なく我が身をすり寄せることができたわけである。

風の流れのままに、あっちを向いたりこっちを向いたりしているものだから、信頼性は全くないわけで、ただただインテリ・ヤクザとして売文業として少々もてはやされても、風が変われば忘れ去られてしまうに違いない。

マスコミ業界というのは所詮は虚業の最たるもので、人間の生業としては一番価値のない業界だと思う。

昔の言葉で士農工商の範疇にも入らない下賎な職業である。

米一粒作るではないし、釘一本作るではないものが、なぜ日本の環境を心配する必要があるのかと問いたい。

米一粒作るにも厳密に言えば環境に影響を与えているし、釘一本作るにも厳密に言えば自然破壊をしているわけで、人間がただ単に命を永らえるというだけでも、それは環境にも悪いし、自然にも影響をあたえているわけである。

「農業は自然にとっていいことだ」などと思っているのは、ものを知らない人の言うことで、人間はただ生きているだけでも、自然を壊し、環境を破壊しているのである。

「私はマスコミ業界に身を置く者だから、自然破壊や環境汚染に無関係だ」と思っているマスコミ関係者がいるとしたら、それは無知もいいところである。

自分は虚業に身を置いて、額に汗して働くこともせず、人の悪口を言い、人がしようとすることにはけちをつけ、人に悪事の方法を教え、外国の利益を代弁し、人の情報を盗み出しては、それが知る権利だとか、情報公開などと奇麗事で言い包めて恥じない人間が、人から尊敬されるわけがない。

心ある人は誰でも、マスコミ関係者というものに対しては構えて掛かるではないか。

その人の職業を知らない時はフランクに話せても、マスコミ関係者だとわかった瞬間に警戒するではないか。

人から警戒されるような職業は下賎極まりない。

これを別の言葉で表現すれば、安心して心を明かしてはならないと思っているわけである。

ところが世の中には頭のいい人間もいるもので、逆にマスコミを利用しようとする頭の切れる人間が時々現れて、自分の持っている情報を故意にリークして、自分の立場を有利にする輩がいる。

これには脱帽である。