あとがき

 

 

平成3年2月26日現在でアメリカを中心とする多国籍軍はクエ−トに向けて進攻している。

この討論は平成2年の秋の時点でしたので、イラクがクエ−トに進攻はしていたものの、アメリカはまだ開戦にはいたっていなかった。

しかし、イラクの行為そのものは世界中の非難を浴びていた。

イラクのサダム・フセインというのは我々の常識の枠をはるかに越えた考え方をする。

第二次世界大戦中のドイツのヒットラ−とも共通する側面を持っている。

21世紀に後10年という段階になっても、この地球上にこのような独裁者というものが存在しうるということは、我々が平和な日本でいくら将来を語っても、人類への貢献とはなり得ない。

このような対話を世界の指導者、世界各国の首脳を集めた場で行なわないことには、地球上の人類の貢献にはつながらない。

地球上のある一部でいくら立派なことをいっていても、その同じ地球の裏側で侵略、資源の浪費、環境破壊を故意に行なうような主権国家が存在するようでは、人類の将来をいくら語り合ってもナンセンスのような気もする。

しかし、我々は常に前に進まなければならないし、一歩でも理想に近付く努力を怠ってはならない。

名古屋という一地方であっても、このような理想の声を大きくして、全地球に向けて発し続ける努力というのは今後も必要であろう。

水面に落ちた小石の波紋が池全体に広がるように、私は何かを、誰かが、どこかでやらなければならない。

ただ何もせずに傍観しているだけではいけない。

この討論のなかでも宗教の話が出てきたが、人間にとって宗教というのは、まことに厄介な存在である。

イラクのフセインも、この宗教を巧みに利用して、敬虔な信仰者のようなポ−ズを取っているが、宗教の名のもとにイラクの国民を戦争に駆り立てている。

イラクのみならず中東においてはこの宗教がネックになっている。

イスラエルの存在も宗教を抜きにしては語れない。

この宗教があるためにイラク以外の中東の国々も我々と同じような視点に立ってみているわけではない。

宗教を軸にしてイラクに同情的なム−ドの、中東諸国もある。

この討論の中でも21世紀の宗教の存在について語られている部分があるが、有史以来人類は宗教の名において戦争を繰り返してきたことを我々はもっと謙虚に認めなければならない。

中東においては現在の地球上の重要な宗教の全ての発祥地になっている。

イスラム教、キリスト教、ユダヤ教と、この三大宗教が、一つの地点から全世界に広がっている。

この普遍的な事実を見ると、この中東から宗教の影響を消し去ることは21世紀に入っても不可能かもしれない。

人間は精神的に弱いが故に、宗教に頼るとしたら、宗教家はもっと人間の理想を人々に説くべきだ、しかし、現実には個々の宗教家はそれを実施していることと思う。

となると、何が問題だろうか。

サダム・フセインは世界の全イスラム教徒に向って、アメリカに対してテロを実施せよと言っている。

クエ−トの進攻を聖戦と呼びかえている。

宗教の名において、どうしてこのような発想が出てくるのであろうか?

この討論においてもそこへの言及はなかった。

未来が過去の延長線上に有るとすると、我々はもっと宗教というものを冷静に考えなければならないと思う。

宗教の名において戦争が行なわれるということは、逆に宗教の使い方によっては人類の貢献に宗教を利用することも可能かもしれない。

個々の宗教は基本的に、本質的に人類に貢献するために存在しているはずである。

それがアベコベに作用している。

その点テクノロジ−は安心して眺めていられる。

テクノロジ−に関しては常に前に進みつづけ、人類に貢献していると思われるが、近代のテクノロジ−はその弊害を伴うものであったが、21世紀のテクノロジ−はその弊害も克服することを同時にすすめながら、前に進むものと思う。

21世紀をバラ色に輝くものにしようとしたら、バラ色の夢を持たなければならない。

我々個人は20世紀だろうと、21世紀だろうと、夢を持って前に進む、楽しく、陽気に夢を追い掛けるべきである。

どうせ短い人生なんだから、自分で納得できるようにデザインした方が勝ちであると思う。自分で納得できれば20世紀だろうと21世紀だろうとたいした問題ではないと思う。

 

 

                                  以上

 

 

                              平成3年2月26日

 

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