第三  セッション 

 

 

堀内

対談 21世紀。 21世紀地球文明の創造。日本に志はあるか?

こういう大きなテ−マのもとに展開いたします。それでは簡単に第一セッション、第二セッションの討論の経過を紹介させて戴きます。

第一セッションにおいてはまず人間の問題を経済、政治、貧困、文化、その他テクノロジ−の問題まで含めて全部検討いたしました。でた結果、20世紀の後半には、私達は今大変な問題に直面していることになりました。解決策を求めるのに私達は地球外へ飛び出し、さらに地球の進化の中で生命が誕生し、人間がどのように生まれてきたか、大きな枠組みで見たわけです。そして今第三セッションに入りまして、21世紀にイニシチャブ、ここで日本の位置というのがテ−マになってきました。日本に位置というところでくくるわけです。前半は基調対談、後半は全員の討論という形で進みたいと思います。

それではパネリストの皆さんを紹介させて戴きます。

 

 

 

                   省 略

 

 

 

基調対談はベルさんと堤さんの対談で始まるわけであります。さあ皆さんご存じのように堤さんはセゾングル−プの代表でいらっしゃるとともに、辻井 孝という名前の詩人でもいらっしゃいます。それからベルさんはなんと30年前に始めて日本にこられてから、日本贔屓になられまして、日本文化を理解するためというわけで源氏物語を愛読され、谷崎潤一郎の作品を愛読されているという方であります。このお二人が21世紀、地球文明の創造というところに新しい問題を投げ掛けられました。さあそれは何であるかと言うと、文化における品格の問題であります。

この問題は一番先直接ポンという形でベルさんが堤さんにお出しになります。次に今度は堤さんの考えでポンとベルさんに質問なさいます。こういう風にしてお二人でありながら何役もなされるという大変面白いところでございます。楽しみにご覧戴きたいと思います。

 

梅原 猛

第三セッションの座長を務めさせて戴きます。まず最初にベル先生と堤 清二さんの対談をして戴きまして、始めたいと思います。対談と言うよりベル先生の日本の経済の現状について色々注文が有ると思います。それを出して戴いて、そこでまあ堤さんと例によってチョウチョウハッシの戦いがあれば大変面白いという風に思います。ではどうぞ。

それではベル先生、堤さんに質問を出して戴きたいと思います。

 

ベル

私は堤さん、そして辻井さんにも、お話をさせて戴きたいと思います。二重人格というわけではなくて、二人分の活躍をされているという主旨で御座います。堤さんは非常にユニ−クなことに日本人の二つの側面を備えておられると思います。幾つかの質問があるのですが、私が最初に日本に来ましたのは1957年、随分昔のことで、以来何回も日本にきております。当時非常に引き付けられましたのは、日本文化というのは世界の中でも偉大な物の一つであり、絵画にしても、小説にしても、本当に素晴らしいものがあるということです。どの文明でも力を付けますと長い時間を掛けまして素晴らしい芸術を生みます。例えばロ−マの時代、そしてルネッサンス時代にしてもそうでした。単に好奇心から伺うわけですが、経済的に力強くなった日本は文化的にはそれほど豊かではなくなってしまったような気がします。私が今まで読んだ谷崎潤一郎、川端康成のような小説家が出てきませんし、映画にしても昔ほど素晴らしい作品がありません。あの豊かな日本文化はどうなてしまったのですか。ですから堤さんビジネスマンとして、或いは小説家として私のこの戸惑いに答えて戴けますか?

 

堤 清二

もっとも聞かれたくない、いやな質問が真っ先に出てまいりました。第二次世界大戦後日本はどうしても豊かな国にならなければいけない、ということを考えて、その必要性にも迫られて一生懸命に、経済的な活動に努力してまいりました。その結果今ベルさんがお話になったような豊かな経済国家になったのです。そのモデルはアメリカで御座いました。ここらでそろそろ反撃をするわけですが、私はその間決して日本人の心が貧しくなったとは思っておりません、少しその間、すぐれた日本文化の伝統は背景に押しやられておりまして、出番を待っているような状態であると思います。その証拠には、ここの所にきて日本の若い人達は伝統に根ざした新しい現代的な芸術を、或いは現代的な文化を作らなければならないと云って一生懸命に動きだしております。今日こういう会にこれだけ大勢の人が、しかも若い人がかなり集まっているのを見ても、その徴候は明らかであると思います。ですから是非もっと将来も日本にきて戴いただければ、1957年ご覧なった日本よりも、さらに素晴らしい現代化された日本の美しさをお目に掛けることが出来るのではないかと思っております。

 

ベル

では違う角度から日本について考えてみましょう。誤解されては困るのですが、私は日本を責めるつもりは毛頭ないのです。私は日本が極めて近代的なアプロ−チをしてきたと思います。さっきの話とは違った意味で近代的という言葉を使っていますが、アメリカを見ても、又一般的に西洋を見てもそうなんですが、昔ほど高い文化と低い文化の区別がなくなってきたと思います。昔日本ははっきりと分けられていましたねえ、高い文化、低い文化が、例えば高い文化として墨絵とか、屏風とか、或いは能というものがありました。ところが西洋と同じように高い文化と低い文化の区別がだんだん失われて来ました。これはテレビのせいかも知れません。このことはすべて近代的文化について云えることでしょう。そしてこのような状態の中で伝統的な要素を残していくことは大変難しくなっているわけです。日本はこうした問題について敏感になっていると思います。その問題に対して日本はこれからどのように取り組んでいくつもりでしょうか?

 

堤 清二

非常に文化の発達の生態的な観察という意味では鋭い質問だと思います。それで高い文化と低い文化とおっしゃいましたけれども、これは恐らくマスカルチャ−、或いはサブカルチャ−、或いはカウンタ−・カルチャ−というア−トという風な分類に言い換えてもいいのではないかと思います。これには二つの考え方が御座いまして、マスカルチャ−は俗悪なものだ、テレビは段々国民を低いレベルへ引っ張っていくという考え方が確かに御座います。私はこれは中京テレビの番組だから云うのでは有りませんが、その、それは見る方にも責任が御座いまして、テレビは文化について、或いはア−トについて好奇心を刺激する重大な切っ掛けを与える事も又可能なんであります。メデイアとしてどう使われるかが問題だと思います。そして今日のような番組は知的好奇心を刺激する最もすぐれた番組ではないかと。ですから、もう一つの見方としては、やはり大衆の間に広がっている文化の中から、クリエイテイブな文化が出てくるのでありまして、大衆と隔絶したところでは決して優れた文化は生まれない。中世、或いは近代市民社会以前の場合は王様、或いは領主様が保護する形で芸術は生まれましたけれども、近代市民社会になった場合には大衆的な文化の中から優れたア−トが出てくる、そういう風に文化の社会内存在としての在り方は変わってきているという風に私は思っております。従って、そういう点からすれば非常にテレビが普及して、まあその中には確かにあまりレベルの高いと思われない番組も御座いますけれども、テレビが普及して正しく、知的、好奇心、或いは感受性を刺激されるならば、これからの日本にも再び伝統を振り返りつつ新しい文化が生まれてくると思います。

ベル

個人的な質問を一つ。あなたは小説をお書きになるときに、どういうモデルを使って、又どう云う物に知的刺激を受けて本をお書きになるのですか? 

 

堤 清二

率直にお答えしますと、やはり産業社会の矛盾にぶつかったとき、私はビジネスマンでありますから、産業社会に昼間は生きております。そこでしばしば人間として矛盾に遭遇いたします。その時にやはりこれはなんらかの形で作品として書き表わすことで自分自身にもその矛盾を解明していきたいと、作業として作品を書きだすことが多いのです。

 

ベル

でもこういう矛盾というのは、西側の社会でも有るということですねえ、日本だけでないと思います。近代的な文化の中で矛盾を持ちながらも互いに重なりあって世界全体に広がっている現象だと思うんですが、例えば西洋文明の中ではプロテスタントの考え方、原理に基づいて禁欲し、勤勉に働き、貯蓄をしなさいという倫理があったわけです。ところが、大衆文化が発達してきて、昔のプロテスタントの倫理というものが、矛盾を呈してきているわけですが、日本も同じ問題を抱えているのではないでしょうか?日本は勤勉という倫理があるわけですが、最近はそれに対して快楽を第一に考える快楽主義というものがでてきているようですねえ、この様に矛盾した生活というものは日本だけに限らず世界中に広がっております。しかし日本は自分が思っている以上に、その方では新しいグロ−バルな文化の中に飲み込まれつつあるのではないでしょうか?日本はこの21世紀に向かって伝統文化と近代文化がお互いに重なり合い、かつ大衆文化が進む中で多くの矛盾を感じているのではないでしょうか?その中で日本の特殊性というのはどう生かされていくのでしょうか?

 

堤 清二

先程、問題になっていた欲望の自己規制は果たしてどのくらい可能かというモダニテイ−の問題と深い関わりを持っていると思います。かってはわが国には儒教的な倫理が有りました。明治以降の経済の発展を考えます場合、儒教的なモラルが日本の経済を推進する力になっている。その点ではマックス・ウエ−バ−がプロテスタンテイズムの倫理を進取の精神で云ったプロテスタンテイズムに相当する役割を果たしたと思います。ここまで日本の経済が発展してきて私達は、日本人はビジネスマンといえども新しいモラル、古い儒教ではなしに、世界に通用するモラルを新しく持ち直さなければいけないという必要を感じております。必要を感じてそれを発見することに成功するかどうかはまだわかりません。何故わからないかといいますと、実は今までは分からなくなった場合には、欧米のヨ−ロッパやアメリカのモデルを参考にすれば、ヒントが与えられました。しかし、私はこれは後のまとめのところで皆の先生にお願いしたいと思っておりますが、私は今日になってやはり近代西欧の知の体系についても厳密な再検討が必要な時期にきているのではないかと、従って、我々はそういう意味では西洋のモデル、近代社会のモデルをそのまま借りてくるわけにはいかない。私達は日本的な伝統に根ざした、しかし世界に通用する新しいモデルを見付けなければ、或いは作り出さなければならないと、で、この努力は芸術文化における努力とベクトルを同じにしております。その点で私は逆にベルさんに伺いたいのは、近代西洋の知の体系についてベルさんがどういう風に考えているのか、実は今日お目にかかれるのであなたがお書きになった「ザ・ウインデイング・パッセイジ」日本語では

「20世紀文化の散歩道」という言葉で訳されておりますが、読んでまいりました。

それによりますとベルさんはやはり宗教の問題、或いは知識人の問題等について非常に広範な立場から今後の有るべき知の体系に非常に関心を持っておられるように思われます。その点についてちょっとお聞かせ戴ければ今後の討論に非常に参考になると思います。

 

ベル

有難う御座います。私があの時書きました本の中では、西洋思想の行き詰まり、或いは変化の兆しというようなものを取り上げてみたのですが、その大前提としてボルテ−ルの

1750年から、マルクスの1850年までの哲学を考えてみますと、宗教は科学的思考が高まるにつれて、消えていくもので、迷信的な物であるというわけです。宗教というのは人間の頭の中では子供時代にあたはまるという考え方が有るわけです。従って、それに変わるものも考えようと、そういう昔の宗教体系に変わる信念の体系というものを考えようとしたわけです。その最も強い形がマルクス主義となったわけです。非常にメシヤ的な観点でまとめられ、世俗的な宗教のような形になったわけです。もう一つ、国家主義というようなものがあります。それも同じ物でありまして、日本でも非常に強い国家主義というものが、大正末期から現われて、東条英機の出て来る昭和時代まであったわけです。

で、マルクス主義的な感覚といたしまして、例えばアンドレ−・マルロ−などは芸術を宗教と同じようにみなし、執着したわけです。私はあの本で語ったことは深いル−ツを持つ国家主義は別として、全てのこうした信仰が崩れてきて、そこへ新しいものを皆が模索するようになってきたということです。その一つが原理主義に見られるようなモダニテイ−に対する反乱です。先程もモダニテイ−の話が出てきましたが、モダニテイ−への不満が出てきたわけです。誰もがそういう新しい分野を模索しているのではないでしょうか。

そして、あの本の序文に書いておいたことは、これから宗教が新たな力を持ってくる国があるとすれば、それは束縛から開放されたソビエットだということです。

最近のソビエットの詩人の作品を見ると解りますが、宗教的感情から新しい信念を模索しようとしているのが解ります。それをニュ−・エイジと呼ぶ人もいます。現代は新しい時代に向かって、新しい道、それも一本の道ではなくて複数の道を皆が模索している時代なのではないでしょうか?となりますと、では日本の道は何かということを逆にお聞きしたいと思います。

 

堤 清二

今のに続いてもう一つ伺いたい。といいますのは、これは日本の道にもつながりますので伺いたい。そのベルさんの前の著作からも感じたことですが、マルクスの非常に膨大な著作のなかで、あなたは比較的初期の物、例えばドイツ・イデオロギ−とか経済学批判序説とか、初期の仕事には好奇心を働かせていらっしゃる、それは私にも非常によく解る、さらにマルクスの思想にオリジナリテイ−が有るとすれば、その政治的なものではなしに、そういう初期の物によく含まれているように私も思いますので、大変同感ですが、そういうことを前提にしてこっちの質問は歴史の見方、これはよく著作を読んで解らなかったので質問するんです。が例えば中世を暗黒の時代とご覧になるのか、中世には中世の合理主義があって、これはある程度近代合理主義とは違うけれど、クリチャニテイ−という風な価値感に基づく合理主義が、それは暗い時代という風に云うのは誤りだという歴史観、或いはやはりあれはその啓蒙される以前の暗い時代だったのか、とそういう風に思われるのか、そこのところを伺いたいわけです。と申しますのは、我が国にもやはり近代化が唯一の価値観だという考え方がつい最近まで御座いました。明治以前は封建的で、人権も確立していない封建的で、とても恥ずかしい時代であった。そういう進歩史観、或いは歴史的な発展段階論というのが強い影響力を持っておりました。しかし、私達が日本人がこれから世界的に評価される新しい文化を作っていこうとしますと、明治以降よりもむしろ明治以前の、日本の文化の伝統の中に今日に通じる、明治以降よりもはるかに現代的な要素を発見することが出来るからです。恐らく日本の文化は明治以前の平安、室町、鎌倉、それから徳川時代、そういった時代の中から、ある時は文学を、ある時は演劇の、オリジナルなものを見付けだして、それを現代によみがえらせるだろうと、でそれに成功したときに日本の文化は他の国に無い独自性を持って、その事によって世界の文化に貢献することが出来るのではないかと私は思っております。

 

ベル

今おっしゃった通りだと思います。そして強調したいのは、私達の物の考え方はヘ−ゲルから始まって、マルクスまでの考え方の犠牲になってきたと思います。要するに一枚のラベルを貼って、これは封建時代だとか、暗黒の時代だとか云うように単純な見方をしてしまったのです。文化発生時代、経済などはさまざまな異なった原理で動いているわけです。決して一つの原理で動いているわけではありません。皆さんジエントルマンでいらっしゃるのでよくお分りだと思いますが、まず経済について説明しますと、安いもの、良いもの。そして効率の良いものというようにして直線的に延びていくわけですね、そして次々と新しいものに変わっていくのです。しかし、文化には代わりというものはないのです。例えば源氏物語は今でも読まれています。孔子の考え方もしかり、現代の考え方では偉大で、歴史的な宗教が残っていることは説明できません。仏教にしてもそうです。倫理や宗教としての孔子の考え方、ユダヤ教、キリスト教だってそうです。例え政治体制や帝国が崩壊しても、文化は残るわけです。社会的に見てもそうですが、文化は常にオ−プンです。人間に対してオ−プンです。経済にとって決められているものではないのです。又、経済によって固定されるものでもありません。時代で変わるものではないのです。だからこそ新しい文化を受け入れる可能性を秘めていると思います。世界は昔を振り返りつつ文化を受け入れること事が出来ると思うのです。

 

梅原 猛

どうも有難う御座いました。ガルブレイス先生や私に対しては大変論争的になるベル先生が堤さんの前では大変やさしくなりまして、これはお金のせいなのか、或いは詩人のせいなのか、よく解りませんが、又堤さんが大変良い質問をして戴きまして、ベル先生の一番いいところが今の発言に出ているという風に私は思います。それからもう一つベル先生の質問に対して答えをしておきますと、日本の右に出る文化が通俗化したのではないかということでありましたが、日本の文化というのはもともと大衆的なものなんです。例えて云うと芭蕉の俳句というものは素晴らしいものでありますが、俳句というのは日本の民衆が皆している。非常に私はその意味において、日本は民衆文化の質の高い文化を生み出したと、云う風に私は考えております。ただ能にいたしましても、私は田舎で育ちましたけれど、私の父なんかは謡をやっていたんです。だから私はその民衆化したことによって文化が下がたということは思いません。ただ一つベル先生の質問で大変私は重要なのはこれだけの経済力になって、これだけの文化人を生まないんではないかと、これは大変厳しい、私は指摘でありまして、私も全く同感です。まあ利根川先生のノ−ベル賞を取られましたけれど、これだけ知的水準が高いにもかかわらずノ−ベル賞受賞者が少ない。それは創造的な科学者が欠けている、それはやはり日本の体制が問題なのです。日本の学会が

「和を以て尊となす」としますから、それは私は創造的な学問は出来ません。それから、日本の芸術ですが、これも「和を以て尊となす」というような空気がありまして、本当に芸術は生まれていないという風に思います。しかしですねえ、必ずしも徳川から下がったとは云いませんので、私は敢えて自己主張をしますが、私の山田武雄が南北やモクアミより低いということは絶対にないと、私の方がはるかに高いと思います。私はこれから哲部を作りますが、それはハイデッガ−に負けないものになると、云う風に思っております、だからもう少しベル先生長生きをして戴いて、そして日本の文化の素晴らしいのが出て来るのを待って戴きたいという風に思います。

 

堀内

基調対談いかがでした。お二人の表情を私は拝見しておりまして、お二人とも丁寧に相手の言葉を聞き取ろうという風な、そういう姿勢でお聞きになっていたのに感動いたしました。会場で私達もこの辺にまいりますと先生方の発言を聞き漏らすまいと、そして身を乗り出しておりました。さあ二人のお話、簡単にまとめるとどういうことになるでしょうか?日本とヨ−ロッパとか、いうような話も出てきました、しかし、中心に有りましたのは人間の品位を高めていくためにどうしたらいいのだろうかと問題提起であったように思います。 そこでこの問題を引き続いて次の後半部分の討論に移るわけですが、一つ期待されるのは、今まで出た問題の総ざらえしながら、多様な意見を賑やかに、展開されて、ぐ−と盛りあがっっていって楽しくなったところで、人間に一つの可能性を見たというのが、皆さんの気持ちの中にジワット沸いてくるような討論になるかと思います。それではガルブレイスさんの発言からお聞きください。

 

ガルブレイス

日本の果たすべき役割というのは、本来アメリカ人である私がお答えするものではないかも知れませんが、むしろ日本の先生方にお答え戴くべきことかも知れません。しかし、ここで一つ提案をさせてください。つまり、将来に向けてのこういった会議ではやはり責任というものを問わなければいけないと思うのです。今日大変素晴らしいデイスカッションが有りました。とりわけ挑戦ついて、又近代社会が直面している様々な問題について、討議が行なわれました。その点で一つ率直に批判させて戴きたいと思います。つまり困難な問題に対する責任回避というのが全ての国に、そして全ての個人に有るのではないかということです。21世紀の問題についてかなり一般的な形で、そして知的な形で今日は語り合うことが出来ました。又私は同僚のベルさんの発言についてですが、あまり解決という点では時間を割いていなかったようです。例えば、オゾン層の破壊について問題提起はされましたが、具体的に例えば政府と個人がこの問題についてどのような対処をすべきについてはあまり出ていません。又人口の爆発についても話が出ました。そして将来の人口の過剰という問題については、私達の間ではかなり幅の広い認識の一致があるわけです。

しかし、人口をどのようにしていくべきなのか、例えば、避妊の方法や、又社会的なパタ−ンをどのような方法に変えていけば、人口を制限できるのかについては殆ど発言がなされておりません。さらに民族間の対立、宗教の対立については、その原因が話し合われました。しかしどうも私達は基本的なことを、例えば宗教の動乱に割かなかったような気がします。宗教の対立というのは先進国においてではなく、特に貧しい人々の間で大きな問題になっています。そしてこれら貧しい国の人々に取りましてもやはり次の世代、時代というものが今より良い時代として21世紀が現われなければいけないわけでして、神の名において、国家の名において、貧しい人々が自らの命を簡単に閉じてしまう、しかし、宗教における有害な役割についてはあまり話し合われなかったような気がします。

又本当にわずかしか中東の問題には触れておりません。そして現在見られるような中東の状態に関する問題はあまり触れていなかったと思います。具体的な形でフセイン大統領の名前を出すことは皆さん避けたいと思ったのかも知れません。又大きな国が小さな国を征服した場合、どうなっていくのか、又何をなすべきなのか、そういった問題は総じて皆さんあまり出したくなかったのでしょう。そういう意味で是非お願いしたいことは、次回のシンポジュウムの場ではもう一度こういった問題を取り上げてほしいと思うのです。

特にこのような知的グル−プの人間の属するものの責任、そして国としての責任ということに関して、問題の提起のために多くの言葉を割くのではなく、もっと多くの発言をその具体的な解決策、救済策に向けて戴きたいと思うのです。それは私の同僚を批判するという意味で言っているのではありません。私としましても解決策を考えるよりもむしろ提起した方がやりやすいわけです。しかし、特に科学者の皆さんにお願いしたいことは、哲学的な知識を深めることよりも世界が望んでいる具体的な解決策を示して戴きたいということです。

 

梅原 猛

大変やはり現実問題に関心を持つ経済学者らしく、具体的な提案が有りました。日本のことというよりはやはり人類共通の問題について、一つ実際的な問題が有るのではないかと、一つは科学、科学者がこの日本の現状をどう考えて、どう具体的な対策を取るのか、もう一つは中東の問題をどう見るのかという問題です。第一の問題の方がやさしいので、中東の問題についてちょっとベル先生一言、中東の問題どう見るかということについて3分でお話できませんか。

 

ベル

3分もいらないと思います。一言で申し上げられると思います。恐ろしいことだと。と申しますのは、先程も申し上げたつもりのですが、千載我々は罰せられもせず、そして抑制をきかせる侵略の可能性も見てきているわけです。よく似た状況が過去にもあったでは有りませんか。ですから中東での行動が経済的なものだと決め付けるのは過ちです。間違っています。経済的な影響は出てくるでしょう。7割の石油を中東から輸入している日本も困ると思います。他の国ではないかも知れませんが、しかし、それは二次的な影響でありまして、そして本当の問題というのは残虐な独裁者の行為です。彼は過去の化学兵器を使って何百人という人を殺しました。イラン人とクルド族を殺戮してきた人を止めないと、まだ終わったと思った侵略を行なうかも知れません。楽観的に冷戦とともに終わったと思われていたことが再び始まってしまったわけです。

 

梅原 猛

どうも有難う御座いました。

 

ガルブレイス

どうでしょうか?私が今のお話を伺いまして、大きな国が小さな国を征服するという、非常に残虐な侵略は全く正当化される根拠がないというわけですね。ということは今のご意見ですと、こういった行動を見るにあたって、やはり根底には石油が絡んでいるとお考えですか?          

 

ベル

いいえ、石油というのは何年も前に適切な段階を経ていれば乗り越えられたと思います。

ガルブレイス

ベルさんの話は私はよく解りますが、ここで聞いているのはその反応についてなんです。

ベル

既に反応したと思うんですが、ただそれはインフレの恐れ、コストが高くなるという恐れで、反応したにすぎません。アメリカ政府も倫理的、政治的な側面から動いたわけではありません

 

梅原 猛

堤先生、一つその問題について一言、一分で言ってください。中東の問題です。

 

堤 清二

中東の問題は非常に変わった問題で、何故変わったかと申しますと、二つの理由があります。一つは今お二人が話していたような問題、もう一つは45年間続いた世界の構造が変わる時期になっておりますので、従って米ソのリ−ダ−シップがお互いの領域で弱くなりましたから、局地的な紛争は起こりやすい状態になった。それだけにその局地的な紛争は起こりやすい、従って起こった場合にどういうアクションを取るかについては、これは世界的な規模で真剣に考えなければならないと思う。

 

利根川 進

今、ベルさんとガルブレイスさんの話をきいて、非常に疑問に思うことがある。こういうことを云うのは非常に危険なんですが、

 

ガルブレイス

科学者からは質問よりも答えを出してほしい。

 

利根川 進

今、デクテイタ−が、非常にブル−タルなデクテイタ−がいて、大きな国が小さな国を攻めてこういう問題が起きているという風に、そういう通念ですけれども、私は午前中話があった南北問題と、この問題は全く無関係な問題ではないと、僕は取りたい。つまり、まあ正直に、本当に言ってしまえば、日本を含めて西欧先進国、日本を含めてですよ、インダストリアル・ネイションが結局オイルというものを、中東のオイルというものをマネ−ジしていたいと、ある程度コントロ−ルしていたいと、そういう先進国にとっては重要な要請、それが結局無関係であるというふうには、私には思えない。即ち、仮にアメリカにしかオイルが出ないと、たまたま中東にオイルがあるわけですけれども、アメリカのは勿論オイルありますが、中東のオイルの産出量の状態がアメリカにあったとして、中東の国、他の国がそのオイルを自分たちの活動のために、ある程度コントロ−ルしたいという欲求を持ったときに今と丁度レシプロカルな現象が、例えばアメリカが正当化するかどうか私は当然しないと思います。従って、南北の問題、それからクエ−トの、私は、そのフセインのデフイズをしようとしているわけではありませんが、あまりにもある意味で一方的なビュ−に対して疑問を呈したいのです。クエ−トの国というものが成立された、作られた過程なども考慮に入れて、フセインがデクテイタ−であることは疑問はないと思いますが、もっと午前中問題になっていた南北の問題、中東一般の貧困、それから風土の違いというものを含めて、この問題を議論しないと、非常に一方的ではないかと思います。

 

梅原 猛

中沢先生・・・・

 

ベル

多少誤解があるかも知れません。これは決して南北問題ではありません。南北問題というのは貧しい国との関係でありまして、イラクは富める国です。しかし、石油資源があるため余剰金を戦争に使っているのです。つまり貧しくないのに戦争してしまったのです。

第二にアメリカは最大の石油産油国なのです。長年最大の石油産油国だったのです。アラスカだけでなくテキサスもありますから、そして合理的で安い石油を生産してきました。だからこそ石油を十分に供給してきたのです。又日本を含めましてどこにでも新しい技術がエネルギ−の集約や省エネというものを高めています。ですから今言われたことはあまり関係ないのですが、ここで問題になっているのは一人の人間です。イラクという国を広くしたいと思っている人間です。イラクそのものは自然に出来た国ではなくて、イラクとクエ−トはもともと一つのトルコ帝国だったのです。長い歴史があるのです。しかし、イラクの国境というのはクエ−トの国境と同様に人為的なものです。イラクの最も豊かな地域はもともとクルド族のもので。フセイン大統領はそこの石油を手に入れるため大勢のクルド族を殺しているのです。イラクのバスラやバクダットというのは何も石油の中心ではなくてクルド族がもともと住んでいた地域です。そのことは今や政治的な事実となっています。このような時事問題で終始しますと段々テ−マが埋もれてしまいますから、ガルブレイスさん、一応ここで最初の課題に戻っては如何でしょうか?あなたが言われた挑戦ということにお答えできると思いますので。

 

ガルブレイス

いや、逆ですね。時事問題を回避してはいけないと思います。特に科学者は現実をよく見てください。科学者に対する挑戦というようなことは解りますが、ただ、申し上げたいのは先程の二つ目の問題についてです。閉鎖的なシステムの中で資源がどんどん少なくなっていくのは、避けて通れない事態ではないかと思います。それはゼロサム・ゲ−ムの世界だからです。ですから、前のセッションでも、申し上げたことなんですが、資源戦争の可能性があるということが一つのマイナス要素として働いているのです。さてご指摘のように科学者が解決策を示していないことについて、、一番最初のセッションでご自身で非常に賢明に指摘されたように、現在起こっている問題の解決法は既に解っているのです。

例えば、環境問題や人口の問題なども、どうしていくべきか解っていると思うのです、ですから、ここでの課題は新たに道具を見付けだすというようなことではないはずです。きっとそういった役に立つ道具は心配しなくても出てくるでしょう。だから問題は道具を探すのではなく、どうやってその道具を使うべきかという方法だと思うのです。その場合最も重要なことはベルさんと堤さんの議論の中で最後に出てきた事だと思います。即ち、私達の行動のもととなる価値観、又は今後も21世紀を形作るであろう価値観の問題です。そしてその道具には光と影の両方の部分があることでしょう。そしてここでの問題はいわゆる西側の指針としての反共産主義が無くなってしまった後の、代わりに何が現われてくるかです。又日本でも西欧でも台頭しつつある物質主義と倫理感の喪失にどうやって対応するかです。これはまさに今日のシンポジュウムのタイトルを見れば解ることと思うのですが、つまりグロ−バルな文明、地球文明というタイトルが示すとおり、今まで以上に地球という視点で物事を見るようになってきていると思うのです。人類は20年前、地球の写真を宇宙から持って帰りました。それが初めてでしたが、今ではどの雑誌を開いても、又どんなものを見ても地球全体の写真が載っていないものはありません。どんなものにも地球全体の写真が載っています。ですから、今日現われてきた考えは、皆一つの小さな惑星に住んでいるというというものです。そして、コミュニケ−ション、通信の速さ、コスト削減を考えますと国家としても、個人としても、より世界中の人々が均一になり、近い存在になってきていると思うのです。そんな中で私達にとっての一つの課題は形がどうあれ人類は一体の物であるという認識を持つことであり、これが南北問題という課題への答ともなるでしょう。又資源の配分、資源の保有といった様々な課題への答えが出て来るのではないでしょうか?しかし、それを倫理的な視点にどうやって変えていくのか、これは単に科学者だけの問題ではないと思います。

 

梅原 猛

中東問題につきましては、やはり現実的な問題を論じた方がいいと、論じない方がいいというような意見が出ましたけれど、後6分現実的な問題を論じまして、別の問題に移って行きたいと思います。最初利根川先生とガルブレイス先生から出ましたけれど、利根川先生どうぞ。

 

利根川 進

この中東の問題、今、出たので議論に参加したのですが、ベル先生ですねえ、例によって非常に今朝から議論を聞いていてベル先生が自分の意見を変えられたことは一つもないので、議論して意見を変えさせようとは思いませんが、私の言ったことについて、そのいくつかの点がミス・コンセプションだと言ってました。で私はそうは思っていないということをもう一度申し上げたいと思います。これはジャッジメントの問題で、イラクがプア−かどうか、明らかにアメリカよりもプア−であることは間違いない。日本よりもプア−であることは間違いない。オイルがアメリカが一番沢山生産された、沢山あるといわれましたが、そんなことは私は解っております。しかし、中東という先進国の一部でない国にたまたまオイルの生産が非常に、埋蔵量が非常に高くて、それを歴史的に先進国がコントロ−ルしようとしてきたことについては間違いない歴史的な事実である。そういうことを申し上げたいと思います。

 

ベル

やはり二つ誤った考え方があなたの中にあると思います。その一つは、イラクが貧しい理由なんですが、それは戦争をしたからです。10年間もイランと戦争したからです。百万人のイラン人を殺し、そして50万人のイラク人が死んだ。だから貧しいわけで、それは西洋のせいではありません。イラクはイランと10年も戦争する必要は全くなかったのです。二つ目は先進国がコントロ−ルしようとしたのではなくOPECがコントロ−ルしようとした点です。年間14億ドルを10年間各国から稼いだのがOPEC、日本は税金をOPECに支払っているようなものです。つまりOPECは中東の政府に牛耳られているわけで、この点を理解せずに、そして我々が中東からの依存から抜け切らないかぎり、問題を見誤ってしまうでしょう。後1分下さい、これは非常に大切なことです、シュワイカ−トさんは中東紛争は次ぎなる時代の最初の資源戦争だと言われましたが、私は逆に最後の資源戦争だと思うのです。何故なら時代が経つにつれて開発のための天然資源への依存度は低くなってきているからです。技術は発達させることによって天然資源を代替させることが出来たわけで、例えば100ポンドの光ファイバ−があれば、1トンの銅を代替させることが出来、エネルギ−を減らすことが出来るのです。又電波領域を広げることによって、通信のスピ−ドもはるかに速くなるわけです。このような代替が進むことによってザイ−ル、パナマ等の国々が資源というものの位置付けが変わってきたわけです。故に天然資源に頼ってきたから貧しかったといえるのだと思えるのです。天然資源には色々なものがあり、石油はその一つにすぎません、我々が今以上に太陽エネルギ−に依存し、又超伝導を有効に活用できるようになればエネルギ−効率も上がり資源戦争の可能性は低くなってくるに違いありません。

 

梅原 猛

ベル先生が意見を変えられないのはよく解るのでありまして、これからガルブレイス、ベル、利根川の論争がありましたら相当長くなることは間違いないので、ベル先生1分、利根川先生1分だけでこの話は終わりにしたいと思います。  

 

ガルブレイス

1分も必要ありません。私は今本当にここにおられる同僚に敬意を表さねばならないと思います。何故なら総合的な共同体としての意識が彼のお陰で今出来たと思うからです。それに共通の見方の必要性というものが認識できたと思うのです。けれども私が提起した問題、人口問題、地球の温暖化の問題、オゾン層の破壊の問題については全く具体的な解決策は示されなかったと思うのです。私はうまく切り抜けられてしまったような気がします。この点に対する答えをもっと欲しかったと思います。

 

堤 清二

この問題につきましては私は西洋社会に非常に根強いオリエンタリズムの問題とイラン、イラク、クエ−トの戦争の現実的な問題を分けて議論しないと、こんがらかるばかりで、オリエンタリズムについてならば又別の機会にベルさんともガルブレイスさんとも相当突っ込んだ議論をしたいと思いますが、是非議論を分けることを議長にお薦めしたい。

 

梅原 猛

いろんな意見が出されましたけれど、議論は尽きないので、人の信念というのは容易に変えられないので、これ以上議論を続けても同じ事だという風に思います。私の意見を申しますならば、私はアメリカに非常に友情を持っておりますけれど、この戦争が又ベトナム戦争の、戦争、平和といっていましても戦争がいつ起こるか分からない、そういう状況におきまして、ベトナム戦争のような戦争が起こって、そしてそれがアメリカの衰亡を招くのではないかと、私はアメリカが衰亡してもらいたくないので、アメリカが衰亡すれば日本の経済の打撃も相当なもので、世界が混沌の時代になっていくのは間違いない。私は非常に恐れを感ずるわけでございます。それからもう一つガルブレイス先生の先程の提案でございますが、こういう中東紛争が起きることによって人類がまだやらなくちゃならない、宇宙的な問題はネグレクトされるということを私は心配するのであります。

それではつぎの問題に移りまして、先程から色々科学者は地球の将来を予測するけれども、それに対してどういう対策を取るのか、それがあまり議論されないではないということが、ガルブレイス先生から指摘されましたけれど、その点について松井先生、松井先生司会をして戴いてしゃべれなかったと、充分にしゃべる時間が無かったと、先程大変嘆いておられましたから今度は7分差し上げますので、どうぞ7分で先程のガルブレイス先生の質問に答えてください。

 

松井 孝典

答えを先に言いますと、それは僕は科学の問題ではないと思います。というのは科学は知るという、科学は技術までも含めても恐らく答えはないと思います。というのは人間は豊かになろうとするためにはいろんな物質を作り出すわけですね、その物質が、その地球という環境の中でいろんな物質循環の中に入ったときに、それは地球がそれ以前に持っていたそういう環境とは違ったものが出来る、それを如何に人類が将来の科学技術で以て手を尽くそうとも人間が関与しているという意味では自然界の物質とは違うわけですから、本質的な答えは出てこない。答えを見いだそうとしてもそれは究極的な答えではないだろうと、恐らくその答えは先程の第二セッションでも出ましたけれども、人間というのはどういう存在なのかということにかかってくるのではないかと、例えば先程の中東問題でも色々議論は出ましたけれども、結局この地球上ですね、国境で区切られている、国境で区切られていてその国の範囲の中にある少なくとも大地に属するところはその国の物になっていると、でところが流れるもの、固定されていないものに関しては国境の所有、国境で区切られた国の所有物ではないわけですね、空気とか水とか言うものはそういう意味では所有物にならないわけです、ですから空気と水はただではないんですけれど当然、経済的な価値というものは付与されていると思うんですけれども、そういう意味では今までの資源とは違うんですけれど、違った意味がある。何が問題かというと人類が地球文明というものをもし将来創造することが出来るとしたら、国境で区切るということの意味を問い直さなければいけない。そういう問題だと思います。例えば動かないものも含めて人類共通の財産だと思うとか、空気と水というのは動くものですからその国の所有物ではない、人類は生きていくうえでは必ず必要なものなんですね、でそういう動くものに関する物と、動かないものを分けるということはある意味で、人類が生きていくという意味ではおかしい事であるから、国境の問題みたいなものから、国境とは何ぞやということから考えていかなければいけない。それは中東問題でも先程から出ている議論に根底ではかかわっていると思います。でそういう意味では地球文明と、日本との関わりでいきますと、これから日本は何をなすべきかという時に、何故日本が何をなすべきかと問われるかといえば、日本が豊かになったからですね、日本がもし貧しければそんなことは問われないわけです。

でこれまで豊かになった国、大国というのはその理由は色々あると思うんですけれども、人類史的な課題に貢献しているわけですね、結果として、例えばシュワイカ−トさんいらっしゃいますけれども1969年にアポロで人類がお月さんにいったという事は、その後の科学の発展にはすごく寄与しているわけで、これはまあ因果関係的な意味でいけば純粋な科学的な目的でアメリカがその時のGNPの5%を費やして10年人を送ろうという決断をしたわけではないですけれど、結果としてはその当時、アメリカが豊かであった。

まだ豊かな名残があったために人類史的な貢献をしたと。結果として貢献したということで。

今の日本の状況を考えると、私は恐らく今日本に求められているのはそういった意味での非常なロング・レンジの人類史的な課題への貢献することが結果として、地球文明にかかわってくることではないかと思うんです。その答えは先程ガルブレイス先生が科学者はもうちょっと答えの有るようなことを、答えなければならないと言ったけれども、これは又人間とは何ぞやということになりまして、この地球上にいるから人間なのかどうかという問題が絡んできます。例えば例として宇宙に先程利根川先生の話にも出てきましたが、宇宙は人口問題に対応して未来のニュ−・フロンテイアになりうるかと、真の問われた意味は違ったようですが、人類が例えば火星にいく事を考えてみますと、火星にいった人類というのは、そこでもし世代交代が進めば我々とは違った形態を持った生物になっているわけです。人類というのはそういうものを含めて将来の人類の生き方として許すのかどうかと、いった問題も問わないとですね、21世紀というのは語れないのです。ですから単に科学技術的な意味で答えを見いだしていくことが、21世紀、いろんな問題に対して出来るわけではなくて、一番根本的なところでもう一回問い、人類というものを問い直さないといけないだろうと私は思います。その意味ではもし利根川先生が言っているようなことで大脳皮質の仕組みを、脳の精神の部分をもし機械、今までの自然科学と同じように機械的な自然感的にその分析が出来れば、それは非常に未来にとっては明るいことになるかもしれないと思っている。

 

梅原 猛

先生、私、これ読ませて戴いて、レポ−ト、大変衝撃を受けたんですよ。けれど地球人類が住めるのは短くて後100年、長くて1000年、100年といったらまだ孫が生きている時代ですし、1000年といっても平安時代でございますから、これはえらい事だという印象受けたんです。これはどういう風に考えたらいいんですか?ちょっとショッキングな発言の・・・・

 

松井 孝典

100年というオ−ダ−はですね、これは僕が言っているわけではなくて、ロ−マ・クラブの予測でも150年というような値が出ているわけですね。人間が生きていくうえで、例えば資源とか、エネルギ−とかを利用したら、この地球上に住める人口というのは上限があるわけですね。それはどういう形で上限をエステイメイトしても必ず上限があることには変わりはないわけですから、今のままで、このままいったら、それは150年か

200年かも知れませんが、そのくらいで人口がかなりの地球の乗員としては上限に近ずくだろうと。で例えばそれをもし何らかの形でクリヤ−しても、人間の存在、人類というのは地球を利用することで繁栄をしてきたと、それが文明というものだとしたら、地球を利用する事だって、地球が有限である以上上限があるわけですから、無限ではないと、でいろんな、先程から梅原先生、1万年前からという話をされましたが、僕も全く同じで、400万年前に人類が生まれて、その殆どは生態系の中に組み込まれて生きてきたわけですね、それは全く普通の生物と変わらない存在だったわけですね、ところが1万年前に人類は選択をして地球を利用することで繁栄を始めたと、その今、第一の選択の結果が現在の地球環境の問題を生み出したわけですね、そうだとしたら、そこのところからいろんな問題を考えていかなければいけないだろうと思います。1万年前からいろんな意味の進化、進化の後をたどってみるとリニヤにきているわけではないですね、直線的にきているわけではない。皆加速度的になっている。これを今から1万年前から加速度的にきて、これから先1万年続くとは、誰がどう考えても結論は無いわけでして、まあ1/100とか、長めでも1/10ぐらいというのが多くの科学者が考えることだろうと思う。

 

梅原 猛

大変、科学者の予測は悲観的でして、利根川さんと話していたら、人間の脳の構造が、自己中心的に出来ているから、近く滅びるよりしょうがないというような話をしていたのですが、利根川さん一つお願いします。どういう風にしたらいいのか。

 

利根川 進

私はこういうところに出てきて、どういう風にしたらいいのか解らないというと、これはもう困るのですけれど、人口の問題というのはさっきもちょっと言いましたように、私は一番身近に感じるのですよ、それについてさっき言いましたように具体的な解答というのは、私には今のところ無いのです。それから今梅原さんがおっしゃった、人間の生物的な、人間の脳の枠組というのが有るに違いない。それがある意味で利己的な面を持っているということはさっき言いましたけれども、科学的に証明されたことではなくて、そうであろうと思うんです。従いまして、先程梅原先生がおっしゃったこの、例えば、物質に対する人間の欲望を規制していくことが必要だ、という風におっしゃった。私はもっと深く考えれば意見は変わるかも知れませんが、そう言われますと私がレスポンスはですね、これは非常に難しい、即ち、一旦物質的な欲望が満たされるという状態に、そういう文化的な進化というものが、この人間の脳というものに起こったときに、それを戻すのは殆ど不可能ではないかと、そういう風に悲観的に考えております。

 

梅原 猛

二人の科学者は悲観論で、まあ私も世界の豊かさに対して悲観論ですが、しかし人間の務めというものは、人類が1000年しか生きられないのならば、1万年生きる道を考える、100年しか生きられないなら1000年生きる道を考える、私はそのことを哲学者も科学者も、政治家も考える、実業家もみなが一緒になって考えなければいけないと思います。その意味で先程のシュワイカ−トさんの言われた、地球は一つという言葉は実際の実体験から生まれた言葉だと思います。その点から一つシュワイカ−トさんどうぞ。

 

シュワイカ−ト

さっきは有難う御座いました。では先程の質問について少し詳しくお話をすると同時に、もっと直接的な形で、私を含む科学者一般に投げ掛けられた質問に答えさして戴きたいと思います。今の質問の90%は挑発的に、そして残りの10%は本当にそう信じておしゃったと思いますが、確かに重要な質問だと思います。特に経済大国になった日本にとって非常に大切な質問だと思います。何故なら、21世紀に私達人類が直面する地球的規模への対応は結局その大部分が経済的な意志決定をするだけで可能となると思うからです。

例えば、地球の温暖化という問題に対し、どう対応すべきか、これは明らかなことです。まず温室効果ガスの排出をやめるか、制限するか、或いは二酸化炭素やメタン、フロンガスの使用を減らしていけばよいのです。ここで試練になることは二酸化炭素の使用を削減するためには、その生産量を減らすためには、経済の理論に反する行動を取らなければならないのです。つまり、二酸化炭素を使うような技術よりももっとコストがかかるような技術を使わなければならなくなるのです。 現在、この世界には経済的な価値観に基づく意志決定を乗り越える価値観がありません。つまり、将来の世代のことを考慮し、そして環境についても配慮したうえで、経済的な競争をしていこうという価値観はないのです。これは世界にとって、特に日本にとって、基本的な試練となるでしょう。日本は大変豊かになり、ある意味ではそのために他の国々に比べ経済の論理が優先してしまっているかも知れません。以前はそうではなかったかも知れませんが、少なくとも現在はそうなっているでしょう。この試練は単純な経済の論理をどうやって乗り越えていったらいいのかという試練なのです。ベルさんが第一セッションでおっしゃった、経済の方程式に将来の世代について考える価値観、つまり今まで正当に評価されていない水やきれいな空気の価値をどう組み込んでいったらよいのでしょうか? この点について経済学者の方お答え戴ければと思うのですが?

                                 

堀内

やあなかなか盛り上がっておりまして、こんなところで私が出てくるのはもったいないような気がするんですけれど、申し上げます。一見自然科学系のほうが冷静で悲観論で、人文社会系の方が楽観論で、そして又両方がお互いに違いを競っているように見えますが、でももう一回比べてみますとどうなるか、自然科学系の方がおっしゃっているのは、いい加減な楽観論持つなと、ちゃんと調べた上で物を言おうではないかと、こういうことで提言です。人文社会系の方は新しく問題を切り開いていくためには私達の価値観、これを作りださなければいけない、人類の新しい創造の段階に今きているんだ、そうすると両論あいまって進んできた対立している意見がここで勢いよく次の段階へ、噴出しようとすれば、産みの苦しみを、或いは生きの楽しみの段階と言ってもいいと思います。ではその次の段階、どういう風な討論がなされるのか楽しみでございます。

 

梅原 猛

環境問題についてはヨ−ロッパの方が非常に真剣だと、ヨ−ロッパで「森の死滅」というのが、実は起こっているのです。それを見ますとどうしても環境の問題に一生懸命ならないとどうにもならない、やがて人類の滅亡も確実であるという意識が強いのです。それに比べてアメリカや日本は少し鈍感であるという風に私は思うのです。日本の公害規制は大変よくやっていると思いますが、いろんな新しい問題について対処するのが大変遅いんです。それは環境庁と通産省の力の関係でして、大体環境問題は環境庁だと、環境庁という役所は弱いんです。環境庁長官というのは大臣の中では非常に力が弱いんで、力の弱い大臣がなりまして、通産省の大臣は非常に力の強い、どうしても通産省から問題でして、そういう問題の規制を厳しくすると日本産業にかかわってくるということで、いろいろ公害問題について先進国になれないという弱みがあるという風に思います。そこでシュワイカ−トさんの提案、大変重要だと思いますけれど、堤さんちょっとお答えください。

 

堤 清二

アダム・スミスだったと思いますが、「諸国民の富」という本の中で、市場における自由競争が経済の発展にとって好ましい効果を上げるためにはいくつかの前提条件があるということを指摘しておりますが、その内の一つは競争しているお互い同志が、互いに相手の立場を慮る姿勢を持っている。もう一つは、例えば営利を追求する組織では充分に果たすことの出来ない役割を公共企業体や国家が果たすことである。まあ治安とか交通企業体が入るだろうと思いますが、今も地球の問題というのは市場で競争しているお互い同志が、相手の立場を慮る、相手の立場というところが地球全体のことを慮るということになるのはないかと、そしてそれをするためにはやはり企業をコントロ−ルするシステムがグロ−バルな規模で作られなければならない、ということが一つ有ると思います。これについてはもっと専門家の両側のお二人に伺いたいと思いますが、それからもう一つ、先程利根川先生が悲観的なご意見がございましてけれど、私は利根川さんの話を伺いながら、ギリシャの叙事詩のホメイロスの中のオデッセイの話を、オデッセイの霊楽園の歌声を聴くと船乗りは皆近くへいこうと思って、誘惑に乗って身を滅ぼす。それでオデッセイはどうしたかというと自分の体を帆柱に縛り付けて、かつ耳の中にロウを入れて霊楽園の歌声が聞こえないようにして、だから欲望はなかなか止められないと思います。説得力のある話でしたがやはり人間は自分の耳の中にロウを垂らして、その誘惑を乗り越えようという知恵も又働かすことが出来るのだと、是非そういう風にしたい。

 

梅原 猛

又、異論が有るかと思いますが、次のテ−マに移りまして、先程、価値観のシュワイカ−トさんから、価値観の変革の話がありました。それは宗教の問題ともつながってくることでありまして、先程から手癖ねひねって待っている、この前は司会をして充分しゃべれなかったという中沢さんに、今度は大いにしゃべってもらいたいと思います。

 

中沢 新一

第一部で司会をやって人の話を快く聴くのに慣れてしまったものですから、ここに座って、先程から人の話ばかり聴いて、その通りだとか、これは面白いとか、何言ってるんだとか、そういうことばかりでした、シュワイカ−トさん先程の話を聴いて、とても面白かったと思います。けれどそこで問題になってくる人類のユニテイ−、一体性、新しい、来るベき一体性という問題が常に出てきていると思います。人間はサテライトの目から地球上を撮影した場面をテレビで見るようになりました。日常、お茶の間でも、自分達があの宇宙空間に浮かぶ目をテレビを通じて持つようになりました。それを通して日本人であり、何人であるという民族的個別性を持っていながら、同時に外から見る、宇宙空間の外から見る、宇宙空間というか、重力圏の周りから見る、第三の目を事実的に獲得する時、今、人類的な新しいユニテイ−というものが、意識が浮かび上がってきたんだと思います。しかし、ここで問題になるのは、今ぼく達はすぐに人類のユニテイ−ということを問題にしますが、しかし、今、本当に問題になっているのは人類というものが一体どういうものになりつつあるのか、そしてそれは今まであった人類そのものなのか、これから人類というのは変化を遂げていくものなのか、という問題が同時に進行しているように思えます。先程から出ているイラクの問題も、多分にこのことに関わりがあるような気がします。

日本のマスコミなど見てみますと、押しの強いベルさんのような論調が紙面を覆い尽くしております。しかし、日本人の多くはそれに疑問を持っております。何故かといいますと、私達日本人の文化的な創造力の問題にも関わっておりますけれども、日本人が何かということも、この10数年、数年かも知れませんが、日本人の意識の中で大きな変化が現われ始めていることにつながりがあると思います。これは先程、堤さんが、日本人が伝統に根ざした新しい文化創造を意識するようになったことにも関わっていますけれど、私達は長いこと伝統や、変化の連続性というものから断ち切られてきたことを、非常に苦しいと思ってきました。自分達が切断されていることを苦しく思っていました。今、80年代の後半にかかってきまして、もう一度伝統との連続性や、自分の民族的なアイデンテイテイというものを考え直そうとしています。そうしたときぼく達は多くの分野で日本の伝統というものを意識するようになると同時に、アジア文化というのを意識するようになってくる。そのアジアの文化というものの隣に、隣接したアラブ文化というものを、次第に身近に意識せざるをえなくなってきます。今回のイラクのような問題で、日本人はこれはあまり報道されていない事実ですけれども、イラクで一番人気のある人気歌手というと北島三郎なんですね、それはイラクの民謡と全く同じメロデイ−、日本人が体内に持っているメロデイ−と同じメロデイ−であるということを、彼らは直感しています。ですから、音楽的なユニテイ−というものは、ここで一つの実現を見ております。つまり、人類が一つになるということを、あたかも当たり前の事のようにしゃべっていますが、この一体、一つになっていく人類というのはどのレベルを取っていっているのか、つまり、アラブ人と日本人が音楽の感性の共通線を持って、自分達はアラブとアジアの連続性の中に生きているという意識が一つのユニテイ−だと思います。それと人類という、これは抽象的な概念、一方では抽象的な概念であります。と同時にそれはサテライトから送られてくる映像として私達、日本人もアラブ人も皆が共通にこの地球惑星に生きる生物だ、という認識を持ち始めている。これは私達が人間同志のつながり、或いはということを考える時、普遍的な人類というものをもとにして、その地球上の人類のユニテイ−を考えるのか、しかし、この普遍的なユニテイ−というのは日本人の目から見ますとやはり長いこと近代の中で文化的なヘゲモニ−を握っていたヨ−ロッパの中心的な概念、或いはキリスト教に起源したような概念が中心的な力を持っている、人類という概念自体が決して自明な物ではないのではないかというところへ、一方では来るのだと思います。つまり、人類は非常な一体感を施行する、経済的にも意識的にも、意識というのはこれは技術も入ります、一つのユニテイ−を獲得すると同時に、その裏にある普遍と言うものは一体何であるかのかということをもう一つの疑問として抱き始めている思います。そして、人間が今、現実に体験しつつある空間、これは過去長いこと、人類が体験してきた空間とは違うものも体験するようになっています。先程のシュワイカ−トさんの話に出てきた、潜在的リアリテイ−といわれているテクノロジ−が作り出した、新しい環境の中にも、人間は自分の心血を接続するようになっております。テクノロジ−との新しい接続を実現した人間の、この生態が果たして今まで言われていた人類と全く同一の物なのか、何なのか、この問題は宗教の問題と深く関わっております。つまり、一神教というものが人類の普遍、普遍的な人類という概念を最初に見事に摘出、提出いたしました。しかし、その一神教の中から出てきた普遍的な人類というものだけで、果たしてこれからさき、この地球上に生存する生きものが自分のアイデンテイテイを表現していくことが出来るかどうか、全く人類はその概念が捉えていたものとは違ったものに向かって脱皮しつつあるのか、変化しつつあるのか、それを今迄通りの人類という概念で捉えていいのか、とすると違う思考性はあるのかどうか?そういう事を同時にこの20世紀の終わりに一気に噴きだしてくる問題だと思います。

 

梅原 猛

大変重要な宗教という問題を出されたんですが、ベル先生、新しい宗教の在り方ということ存じていられるので、是非話を伺わせて戴きたいのですが。

ベル先生に二つのベル先生がいまして、一つは論争家として大変軽率に人の話を誤解するベル先生と、もう一つは人類の重要な問題について深く思索して、そして新しい試行錯誤の仮説を出そうとする二人のベル先生があると思うんですが、なるべく後者のベル先生に話して戴きたい、こういう風に思います。

 

ベル

いいえ、私の中には一体感がありますよ。何故なら私は事実に基づいて発言しているからです。他の皆さんが言っていることを誤解しているとは思いません。私は事実に基づいた、ポイントを整理しながら物を申し上げようとしていたわけです。私は中沢さんのコメントに少し戸惑っています。けれども論争すべき点ははっきりしたと思っています。

日本とイラクには一体感、演歌を通じての一体感というのがあるわけですね、しかし、これらの演歌は決して投獄されて、拷問にかけられた声を消すものではないのです。

私は拷問といいました、それはもし私達が何かを成し遂げたことがあるとしても、それらは19世紀の生の神聖さから来ると考えているからです。生の神聖さには過去に色々な要素や、多くの伝統がありました、我々は今日始めて生の神聖さとは各自の意識のために非常に大切なのだと気が付いたのです。だからこそ宗教というものは非常に大切だと思うのです。宗教こそが知識の一つであり、いくつかの実存的な状況に対して答えを与えるものです。全ての人類、文化、文明は最後は実在的な状況になるのですが最終的な問題というのは死です。動物とは違い人間は最後には死があることを知っています。人間は悲劇というものを理解する動物です、悲劇とは可能性が達成されないという事実です。それは全てにとって共通なのですが、それに対する対応の仕方が人によって違うわけです。何故ならば各自の経験に基づいて対応するからです。例えば、海の近くに住んでいる人と山に住んでいる人では経験が違うわけです。長年の間に環境が変わってきますと経験も違ってきます。しかし、答えが違うとしてもそれが人間の歴史です。人間の文明史なのです。

文明史というのは共通でありまして、それには全ての人類が直面しなければならない実在的な問題があるのです。そして、究極的にはもっとも根本的な要素の一つが人間の命の神聖さです。ユダヤ人にとっての信念は命を救うことは世界を救うことに等しいということです。ですから、一神教があっても多神教であっても全ての人間の文化は基本的なものなんです。共通のこと、異なっていることなど、色々あっても、それぞれの対応を尊重するかぎり矛盾は無いわけです。原理主義の宗教上の問題点ですが、多くの点においてサダムというのはもともと反宗教家であったわけです。彼は社会主義者でした、マルクス主義者であった。そして今は政治的理由で聖なる戦いを説いているのです。これらの人々はその意味では全て人間に共通するもの、命の神聖を侵す人々なのです。

 

梅原 猛

中沢さん、一言今の話に関して・・・・

 

中沢 新一

今の話に関しては、概ねベルさんと一致します。しかし、問題はアラブというものを僕達がどう理解しているかということ、立場において先程も少しオリエンタリズムの問題が出ましたが、これは21世紀の人類にとって非常に大きな問題になってくると思います。人類学者のデビ−・ストロ−ブが昔いましたが、仏教文化圏とキリスト教文化圏の間でかって対話の実現がされる、あった可能性を、はばまれた点は、それはそこの仏教文化圏とキリスト教文化圏の間にイスラムという大きな楔がすきこまれたと云う風に語ったことがありました。これは別にアラブ文化圏のことを非難しているわけでも何でもありせん、それはヨ−ロッパ文明にとってもアラブ文明というのが異質の物であったし、そして東洋の仏教という言葉で代表いたしましたが、その東洋の文化にとってもアラブ文化というのは異質の物であって、それが二つの文化の間の実りある対話を阻んできた一つの条件であった。ということを認めなければならないということです。で日本人は今日、最早このような分断された状況で文化的な対話を行なっているわけではありません。ベルリンの壁の崩壊以後人間の文化、文明というものがあるユニテイ−の方向に向かって突き進みつつあることは確かであろうと思います。しかし、そこで共通の会話というものに対して相変わらず、ノ−という可能性を持ち続けている人がいるということ、これは僕達にとって決して無視してはならないことだと思います。あたかも何か同じ対話の様式で、この地球上に生きている生物がすべて、対話が実現されるというようなオプチズムを持つことは出来ないのではないか、この点は見逃してはいけないと思います。

 

梅原 猛

有難う御座いました。時間が迫ってまいりまして、多少、私、先程の堤さんの出しました、日本の文化の伝統に基づいて普遍的な原理を出さなくちゃならないんじゃないかと、云う風に堤先生から話がありました、けれど私がずっと前から申し上げていることは其の事なんです。日本には森の文化の伝統がある。この森の文化というものは人類の狩猟時代にあまねく普遍的文化であったと、ところが日本は農業の渡来が遅れたため、まだ森の文化が沢山残っていると、その森において一度人類は返らないと、森の文化に返らないと、人類の未来は両科学者がおっしゃったように、もう100年だと、もう1000年とか、そういう短いもんじゃないかと、もう一回本気になって森の文化の伝統に帰る。それを私は日本の文化の伝統は、幸いそういう緑の文明だと、芭蕉の「月日は 百代の科学にして

行き交う とせも 又旅人なり」というのは宇宙は全部流転して、そして全部循環をすると、いうような立場でございます。俳句もそうだし、源氏物語もそうだし、能もそうなんです。その伝統を生かしてそして新しい文化を作っていく、それは私は日本人の課題だと思う。これが出来なかったら日本人は意味がない、この繁栄は意味が無いものになると思う。そういう事を私は言いたかったのです。最後にですね、今、ガルブレイス先生から手があがっていますので、ガルブレイス先生にしゃべって戴いて、後は1分で一言ずつ皆さんに、日本についての注文を伺いたいと思います。ガルブレイス先生どうぞ。  

 

ガルブレイス

私の方から又提案があります。すでに新しい文化は出来ていると思うのです。そしてそれは普遍的なものだと思います。即ち、富める国の文化です。西洋、アメリカ、日本、これらの国々で形成されています。しかし、この文化は比較した場合に、他よりも豊かだというだけです。勿論、アメリカの大都市にも貧しい人はいるのですが、全般的に申しまして満足する文化というものはあるわけです。充足されているものがあるのです。そしてこの中で支配的な力は先程も出ましたように、まさに環境にも影響を与えますし、又、環境の問題への対応においてもその力を発揮いたします。この充足された文化というものは自己満足という部分も含まれておりますし、又、自己承認というのでしょうか、自分を肯定する面も大いに有ることは分かっているのです、けれども我々はそれを恥だとは思っていません。完成された中に誇りを持つという側面もあるのです。そして、ある意味ではこれは正常なことであると考えるわけです。つまりその価値観を私達は短期的には受け入れているわけですが、長期的に見た場合、国家の介入は避けられないことですし、コスト、つまり税金の問題が生じてくるのです。これは私にとって極めて重要な問題であります。

長期的なスタンスで地球が直面している問題を考える場合、例えば、大気汚染、オゾン層の破壊、又は地球の温暖化、森林の伐採、といった問題が目前に迫っているわけです。

経済的な打撃というよりも、文化の面において大きな影響があるわけです。又、その経済的な打撃が突然起こったので、政治的に素早く反応できなくなってしまっているのです。そして観念的な思想や、これまでの古い経済の考え方を振り廻して、短期的な経済の安定や、満足といったものだけをもたらしてしまっているわけです。これはスミス、レカ−ド、ミルなどの前世紀の経済学者達を間違って利用していることの現れです。つまり古典的な自由放任主義を広く解釈しすぎているのです。物事というのはその時代の文化を満足させるためにあるといった安心すべき信念があるのです。こうした考えは特にこの10年ぐらいの間にアメリカにおいて見られると思います。以前から目立つことではあったのですが、アダム・スミスを読んだことの無いような若者が、アダム・スミスの顔のついたネクタイをしてホワイトハウスにいるのです、もし彼らがアダム・スミスを読んだのであれば彼らを預言者として受け入れることに少しは躊躇を感じたと思うのです。そこでこのデイスカッションの 最後にあたり私は若干悲観的にならざれるを得ないのです。ここですぐに受け入れられる点はないと思います。アクセス出来ないようなものばかりだと思います。つまり、政治的な変化や英知というものに結びつくものがどうもないような気がしてならないのです。私からみますとこれは、反民主主義的な批判の中に治まっているような気がしてならないのです。アメリカも日本も、そして多くの国々でも民主主義というものを採用すれば自然に正しい方向に向かうものであるという神秘的な思い込みがあります。

民主主義というのは大半の人間が満足するように、まさしく過半数という方法を取るのでありますが、そういった世界になりますと状況から目を反らそうとしてしまうことになりがちです。特に子々孫々に対して、又は地球に対しても重要な問題から目を離してしまいがちなのです。というのも悲観的になってしまうとなかなか良い知恵が生まれないと信じているからです。最後に少し軽い話に結びつけてこの話を終えたいと思います。

私は環境問題について最も早い時期に本を書いた人間だと自負を持っています、それを私は2〜30年もその問題に取り組んでいます。しかし残念ながら悲観的なト−ンにならざるをえないと思います。

 

梅原 猛

有難う御座いました。それでは時間がまいりましたので日本についてお話を戴くはずだったんですけれど、やはり問題の世界的な問題になりました。ということは世界の問題を離れて日本の問題はないということでありますけれど、最後に一言、現代の日本に対する皆さんのご意見をお聞かせ戴きたいと思います。まず外国の方からお願いいたします。

シュワイカ−トさんお願いいたします。

 

シュワイカ−ト

座長、有難う御座います。今のご質問ですが、日本は今日のシンポジュ−ムのテ−マになっている21世紀文明において、必ず大きな役割を果たすことになると思います。

その理由の一つは、日本の経済力にあると思います。もう一つ重要な理由があるのです。日本が現在のように世界の中で大きな力、影響力を持つようになったのは、天然資源が豊富にあったからではなく、人材が豊富にあったからです。すなわち、教育と知性、それに力を合わせて一つの共通の目標に向かって働くことの出来る人が大勢いたのです。さてこういった日本の特性が21世紀の世界において日本を非常に強い立場に置くのではないかと思うのです。そして何を基準にして、資源と人材を活用し、次ぎなる世紀に影響を及ぼしていくかどうかが大きな課題だと思うのです。これに関連して先程の梅原先生のテ−マに戻りたいのですが、どのようにしたら経済的な繁栄というものを超えていけるか、日本は明らかに経済面ではすでに成功しています。にもかかわらず今だに復興や回復に駆り立てられているように感じられるのです。ですから問題なのは今迄復興に向けられていたエネルギ−を今後どこに向けていったらよいのかということなのです。そして日本文化の伝統的で真摯黙考的な面のバランスを取り直し、21世紀の課題を経済的な視点からではなく、そういった視点からも捉えて、今後の日本や、その若い世代のエネルギ−をその方向に向けることが出来るならば、私はガルブレイスさんとは逆に楽観的な立場に立ちたいと思うのです。

 

梅原 猛

それでは次ぎにベル先生、ベル先生は谷崎や何か、源氏物語や何かの愛好者という風に私は受けとめますが、そういう日本について非常にアンビバレントな気持ちを持っているんではないかと思いますが、率直に意見をおっしゃって戴きたいと思います。

 

ベル

私はいつも率直に申し上げておりますし、そうすることが日本の友情の証だと思ったいます。明らかに今日の日本はその拠り所を定義し直そうと考えている。そしてここへ来て今迄のモデルを否定し始めているのです。例えば、ドイツのモデル、第二次世界大戦の前のモデル、そして戦後のアメリカモデルを否定していこうとしておられるます。私は梅原さんや、堤さん、中沢さんも言われましたように、日本は今こそ拠り所となるベきものを緊急に構築しなければならないと思うのです。勿論これらのテ−マのいくつかは連続性の問題にまで遡るでしょう。芭蕉や平安時代の話にも言及有りましたが、これこそまさに情熱的ですらある追求なのです。私はこのデイスカッションを通して感じたんですが、普遍的なものとある特定の歴史文化とを比較して語ることは間違っていると思うのです。古くからの英知ですが、私達は生物学的には他人とある意味では同じであるといい、文化的にも同じであるといえる場合もあります。しかし個人としては誰も同じではないというこの異なったレベルがあると思うのです。だからこそ私は普遍的なテ−マと歴史的なテ−マを比較して考えようというのは間違っていると思うのです。例えば、全ての人類文明が現在実在主義的な苦難に直面しようとしていることを私は指摘したかったのです。その答えは様々でしょう、又、様々であることが大切なのです。何故ならばそれはそれぞれの人々の歴史的な経験によって違ってくるからです。しかし、全ての人間が、又ある特定のグル−プの人間が共通に持ち続けるものもあるのです。ここ2〜30年の出来事を振り返ってみると一つの事が達成されております。 それは人権です。実に驚くべきことなのですが、国際法の歴史、或いは宗教の歴史を振り返ってみますと、人権が共通に認識されたのはごく最近なのです。そしてこの人権こそがこの問題の根底にあることを理解することは大変重要です。拷問されない権利、意見を自由に言える権利、今人権侵害の度合いを国連で作ろうとしているのです。ここで大切なのは文化という抽象的な方法で国々を評価するのではなく、人権侵害の度合いの基準を通してその国を評価するということです。そして人権を侵害するということが何であるかということを理解していかなければ今後の文明はないと思う。

 

梅原 猛

有難う御座いました。ガルブレイス先生、先程言われましたので今度は30秒でお願いいたします。

 

ガルブレイス

私はすでに充分発言させて戴いたと思います。けれども、ベルさんのおっしゃったことに対して一つだけ付け加えさせてください。私も意見を同じくするものなのです。ベルさんは人権の問題を非常に雄弁さで強調されたということに敬意を表します。特に私達がここ2〜30年をかけて共通に人権を尊重するようになったことを認識し、強調されたことは大変素晴らしかったと思います。けれども、先程の話にもう一度戻りますが、人権問題は今や、政府に対する説得力を持つようにすらなっています。国によっては意図的に又充分な適性が無いために、人権を充分に、その立法や、保障の面で追求できない、又はしない国があるのも事実です。そこで冷戦が終焉を向かえたいま、国連が再び強くなることを期待します。国連というのは人権を侵害している国家の主権の中にもっと深く入り込んで、以前よりも積極的にその主権を制限すべきなのです。ただし、主権というものは市民の権利を踏み躙るようなことも出来るのである、といった懸念を持っておかなければなりません。そして国際機関が場合によっては市民の権利を、又人権を守るために、その主権を強制的に一時停止させることすら出来るということを考えねばなりません。

 

梅原 猛

利根川さん、アメリカにおられて、日本をみて。色々まあ心配なこともあり、これから日本がどうすべきかということを色々考えていると思いますが、利根川さんからお話を戴きたいと思いますが。

 

利根川 進

私は、アメリカにいますとアメリカを批判しまして、日本に帰りますと日本の批判をしているわけですが、どうしてもそういうメンタリテイ−になります。今日1分しか時間有りませんので、端的に申しますと、日本の風土、文化に密接に関係する、先程梅原さんがおっしゃられたように、和の精神ということが、自我を抑えてテイ−ムの一員としてやっていくという気運が非常に強いですね、それで私のようにサイエンスをやっていますと、これが非常に歯痒いファクタ−になるわけです。即ち、クリエイテイブなサイエンスをやるためには違った考えを待った人と、自分より違った人、或いは、大半の人よりどっか違った人を受け入れていかないとクリエイテイブな事は出来ないわけです。これは学問に限らず芸術においても同じ事であります。従って、現代日本が経済状態が今のように良くなって、これからの知的な、人類の知的なものを、人類全般に役に立つものをとして、やはり僕は基礎的な、クリエイテイブな科学というものをプロモ−トしていく必要があると、そのためには皆さんがそういうことの必要性というものを感じて戴かないと政策として反映しないと思います。それだけです。

 

梅原 猛

それでは、堤さん最後に・・・

 

堤 清二

日本は皆さんおっしゃったようにいい国になりうると思います。それにはしかし、我々が人類の、そして地球の一員として義務を果たす覚悟が必要であると。ことに経営者がその義務を果たす覚悟を持つ必要があると、皆さんの話を伺っていて思いました。思ったことをお伝えしておきたい。

 

梅原 猛

最後に、21世紀まで、21世紀の中ばまで生きられるのはここにいる松井さんと中沢さん、二人ではないかと思いますが。21世紀の中ばまで生きられる可能性を持った松井さんと中沢さん、最後に一言ずつお願いいたします。

 

松井 孝典

10年20年長生きしてもどうということはないと思いますが、私もやはり先程利根川先生がおっしゃったことを基本的には感じております。ただ、日本が豊かになったから、こういうことが言えるわけでして、豊かさを持続しなければいけないんで、日本はこれから二つの矛盾することをやっていかなければいけないと思う。「和を以て尊しとなす」ということもやっていかなきゃならないし、もう一方で、創造性というものに価値を見いだしていかなければいけないと、だから、結局はバランスの問題でして、今迄の豊かさというものをこれから持続しないと、日本は地球文明に貢献できないわけですから、それはそれで持続して戴いて、なおかつ豊かになった分である程度は創造的な部分に投資をするというか、貢献すると、特に環境問題とか、宇宙との関わりとか、そういったものにもう少し具体的な貢献をしていくことがこれから必要ではないかと思う。

 

梅原 猛

中沢さん・・・・

 

中沢 新一

これから21世紀に対する最大なものは何かというと、やはりテクノロジ−であると思います。このテクノロジ−というのは単にウオ−クマンを作ったり、車を走らせたりする技術ではなくてもっと広い意味で自然との関わり、人間が自然をどうコントロ−ルするかというやり方にかかってくると、例えば、欲望というのがあります。これは人間的な自然といってもいいでしょう。これをどうコントロ−ルしていくのか、どのようにデザインしていくのか、そのテクノロジ−というものに関して、日本人は特殊なものを発達させてきました。例えば、江戸時代の末頃にヨ−ロッパ人が沢山やってきましたが、日本人はとても性的に放埒でヘドニズムに近い人だと驚いています。それは日本人はとても性的な、ヨ−ロッパ人のスタンダ−ドからすると開放された、ほとんど自堕落に等しいような性生活を送っているように見えたわけですが、ところが日本人には日本人のテクノロジ−がありました。それは自分の性的な欲望ですが、これはヘドニズムに陥るのではなくて、それを美的に消化するやり方というのを発明しました。イキとかヤボという生き方がありますが、これは人間の、自分の内部に抱えた自然をどのようにデザインしていくかというテクノロジ−にかかわっています。ムシュル・ホ−コ−という人が、この性、人間の性の問題に関して、言葉とモラリテイ−というものが性の領域を抑圧してきたということを強調していましたが、このような性の歴史は日本人には存在しませんでした。つまり、自然、人間が中心に眠っている自然に対して日本人は別個のテクノロジ−を発達せせてきたわけです。これはたった一つの例ですが、日本人が自然概念に関して特異なものを持っていることは事実だと思います。これはぼく達が意識して取出し、そしてそれを新しい人類的な文化、という物の中に統合していく意志を持たざるを、持って発展させていくものだろうと思います。日本人がテクノロジ−の民族であるということには深い意味があると思います。これは21世紀に向けられた日本人の大きな可能性の一つだろうと僕は思います。

 

梅原 猛

有難う御座いました。今日は朝から大変活発な議論が出まして、外国の方々は皆さんご覧になったように大変率直な意見を述べられますが、日本人はとかく率直な意見が少ないんです、だけどここにいる日本人は一般の日本人と違った日本人で、非常に率直な人間でございます。それで大変盛り上がった、ボクシングに例えれば大変面白いボクシングになったんではないかという風に思います。この意見は色々違うんです、例えて言うと科学者から大変悲観論が出され、経済学者か楽観主義の必要を説かれる、そういう悲観論、楽観論で多少違う、又近代の見方についても違うのでございまして、近代秩序がだいたいそのまま通用すると、多少の変更でよろしいという方もいるし、そして近代秩序は基本的に組み替えないと駄目だと、新しい世界秩序がいるんだというような方もいるわけであります。そういう風に意見は違いますけれど、根本的に世界は新しいものを求めている。地球は一つで、世界は新しい何かを求めていると、その試行錯誤の、議論を作る試行錯誤の努力をしていかなくてはならないと。いうことは共通の認識のように思われました。

それでは最後に日本文化について外国の方からも、日本の方からもいろんな意見を戴きまして、やはり日本は経済大国だけではいけないと、やはり文化を生み出さないといけないと、それは利根川さんの言われたように、日本の社会の在り方まで問題であると、「和を以って尊しとなす」だけでは駄目なんです。和の社会は確かに必要ですけれど、やはりもっと創造的な、個性を発揮できる場の社会にならなくてはいけないという風に思います。それが西洋並みの本当の意味の文化国家、本当の意味のデモクラシ−国家になれる道だと思うんです。まだ私は本当の意味の自由主義国家になっていないというのが率直な印象です。今日は朝から先生方、本当にいい話をして戴きまして有難う御座いました。画期的な、自画自賛でありますが、画期的なシンポジュウムが出来たことを喜んでいます。

どうも有難う御座いました。

 

堀内

第三セッションが終わりました。私もまだ感動が残っております。この第三セッションで全てのテ−マが終わるわけですが、21世紀、地球文明の創造という、大きなテ−マのもとで始まりました、このシンポジュムいろんな段階を経てここまでまいりました。第三セッションが一番最後のところで登壇された方々が、それぞれおっしゃった言葉は、表現は違っております。しかしその言葉を翻訳し直しますと、皆でもっともっと考えようではないかという訴えが一つ有ります。その訴えを共にやっていけば楽しくなるよという行動への呼び掛けがあります。そして私達はこの8人の討論の経過を自分の胸に秘めつつ、暖めていきますと、何ですか自分の前がぱっと広がってきて、身も心も軽くなるような気がします。そもそもシンポジュムというのはこういうものでございます。パットしたはっきりした結論がでるわけではないのですけれど、語っていく、、そこに共に参加していく中で私達の未来が切り開かれてくる。そういうのがシンポジュムでございます。そうしますと私達の目の前にある困難な問題もこうやって呼び掛け合うことによって、私達の目の前がパット広がってくるのではないでしょうか。共にお考えくださった皆さん、これでおしまいになさらずに、21世紀の展望をご自分の意見として作り出してみよう、こういうつもりでにぎやかに討論を続けて戴きたいと思います。

登壇してくださった8人の方々に感謝しながら、私達も共に喜びを分かち合っていきたいと思います。

 

                               以上

 

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