ナレ−ション

 

20世紀に生きる私達は、人類史上かってない重大な転換点に立っております。

18世紀の産業革命以来の科学技術の進歩と、それにともなう経済の発展により、これまでにない光の時代を迎えました。

しかし、その繁栄の一方で地球環境の破壊、核戦争の危機、南北問題、民族紛争、人間性の喪失など、影の部分も出てきました。

これら20世紀の光と影を、21世紀を迎えるためには新しい価値観に基ずく文明、すなわち地球全体の未来と、個人の幸福を同時に満たす、地球文明というものが必要になってきました。その地球文明を巡って話し合うのは世界を代表するこの8人のオピニオンリ−ダ−です。

 

             社会学者   ダニエル・ベル

 

          経済学者   ション・K・ガルブレイス

 

             比較惑星学者   松井 孝典

 

      アポロ9号宇宙飛行士   ラッセル・L・シュワイカ−ト

 

         ノ−ベル賞受賞医学生理学者   利根川 進

 

            セゾングル−プ代表   堤 清二

 

               哲学者   梅原 猛

 

シンポジュウムが始まります。

 

 

             第一セッション

 

堀内

番組の案内役を努めせて戴きます(名古屋大学教授)堀内 守 でございます。

このシンポジュウムは大変大きなテ−マのもとに、またすぐれた方々のご参加のもとで行なわれました。

私は始めから終わりまで、ずっと会場におりましてパネリストの皆さんの提言に感動し、また会場の皆さんの反応を確かめながら、そこに参加しておりました。

このシンポジュウムは三つのセッションからなるわけですが、第一セッションのテ−マは21世紀は今日よりも幸せになれるか?というテ−マでございます。 

第一セッションがまた二つにわかれまして、最初の部分は基調対談となっております。

そしてその後4人の方の登壇となりまして、討論が行なわれる形になります。

それでは4人の方を紹介させて戴きます。

 

1 ハ−バ−ト大学名誉教授   ダニエル・ベル

「イデオロギ−の終焉」「脱工業化社会の到来」などの著作はアメリカのみならず、世界中に影響を与えました。

18世紀のアダム・スミス、19世紀のマルクス、と並び称される20世紀の知的巨人といわれております。

 

2 ハ−バ−ト大学名誉教授   ジョン・K・ガルブレイス    

歴代の民主党政権に深く関わり、ケネデイ−政権下ではインド大使も勤めた行動派の経済学者。

世界的なベストセラ−となった「新しい産業国家」「不確実性の時代」など、著作を通じて時代、時代のキイ−ワ−ドを生み出してきました。

 

3 国際日本文化研究センタ−所長   梅原 猛

宗教などの論客としても知られていますが、名著「隠された十字か」では、日本史上の定説を破る大胆な仮説を提起し、独創的な梅原古代学を確立しました。

第三セッションでは座長を務めます。

 

4 東京外国語大学アジア・アフリカ研究所助手   中沢 新一

フランスの現代思想と1978年以来、チベットで続けている蜜教の修行体験を融合させた独自の思想家。

その思想は宗教学の枠を越え、芸術、フアッション、科学など幅広い分野に対しても影響を及ぼしています。

第一セッションの座長です。

 

堀内

基調対談のテ−マは21世紀の光と影を予見する。というテ−マでございます。

題からして一つの例えになっているのがお解り戴けると思いますが、対談される二人はベルさんとガルブレイスさんです。

お話を聞いていましたらお二人ともお住まいになっているのがすぐ近所だそうです。

日常的にも対談なさっているそうですが、今日登壇されたときの討論の中身というものは、どうしてどうしてなかなか二人とも真剣に討論なさっています。

その主な流れというのは、一体この地球の科学技術の行方はどうなるのだろうということとか、地球環境はどうなるのだろうとか、南北問題で貧富の問題はどうなるんだろうという、大きな問題ばかりであります。

しかし、お二人の討論のやり方を拝見しておりますと、なかなかユ−モアもありまして、私達へのサ−ビスも怠りないという形になっております。

楽しみにご覧戴きます。それではどうぞ。

 

ダニエル・ベル

先に向かって21世紀を展望いたしますと、もちろん光と影があるわけです。

従って今、現在何処にいて、どちらに向かっているかということを正確につかむことは難しいと思います。

そこで少し、昔に戻って、一つ二つ大きな変化として人類の文明史の中で起きた変化を見てみるのがいいかと思います。

ある人の話から始めましょう。ヨ−ロッパで程有名でないも知れませんが、教育を受けた人ならば誰でも知っているであろう名前を一つあげましょう。その人の名は、レオナルド・ダビンチです。イタリヤ ルネッサンスの人物です。レオナルド・ダビンチは画家として知られています、偉大なる画家、人類文明の画家、「モナリザ」や「最後の晩餐」の画家として知られています。しかしルネッサンス時代の代表的な例といたしまして、この人は医師でもあり、発明家でもあったのです。例えば今でもフイエレンツへ水を運んでいるポ−トバレ−の上水道を作りました。ずっと後で発見されたノ−トなどを見ますと、飛行機や、潜水艦も考えていました。それから冷凍設備も発明し、その外にも小麦を刈り取る機械だとか、色々の物を想像していたわけです。ただ一つ基本的なことが考えていなかったのです。それは機械を常に動かしておける再生可能なエネルギ−についてです。風力とか動物に引っ張らせるとか、あるいは人間の力で引っ張るということは考えていたわけですが、無論それだけでは十分ではなかったわけです。そして200年ほど前、ジェ−ムス・ワットというイギリス人が容器に水蒸気を閉じこめることによって機械を動かすということを考えたわけです。これが産業革命の始まりとなりました。その発明がイギリス人以外の国に伝わり、世界中の人々の生活を変えてしまったのです。現在までそれは続いております。この中で重要なことは二つ、一つはまずスピ−ドというものの本質を理解したことです。蒸汽船をやめて鉄道を走らせることによって、どんな動物よりもはるかに早く動けるようになったわけです。また高さの感覚も変わってきました。気球など地上高く上がることが出来るようになって、時間と空間の考え方が変わってきたのです。しかしもう一つ重要なことがあります。人間の努力を少なくしてより多くの物を生産するという生産性のことです。生産性という考え方が西側及び日本の経済成功の原動力になりました。それによって我々の生活水準がよくなってきたわけです。従って技術を考えるときに、それが20世紀と21世紀の基本的な特色であるということを考えておかなければなりません。さて、現在産業革命に似た様な第二の変化が起きております。この変化はいわゆる脱工業化社会の中で出てきている変化です。すなわち情報化社会というのがそれで、基本的に機械的技術から知的技術への変化なんです。バイオテクノロジ−によって疾病が治療されるようになり、食料の生産も増えます。そして又宇宙へと延びていくようになってきております。ただここでこういった変化の重要な点は何かというと、理論的な知識を如何に体系化していくかということです。進歩はそういう理論的な知識というものをつなげる事によって行なわれます。例えば、固体物理学が進歩してコンピュ−タ−が出来る、あるいは生物学の二重螺旋構造が分子生物学へとつながりどんどん進歩しているのです。勿論副作用や間接的な影響もあります。しかし、それは経済的メカニズムが、その技術がどういう結果をもたらすか、ということを充分に見抜けなかったときに起きる技術の乱用の結果です。今や技術を過小評価することさえ有りますが、それは間違っていると思います。なぜなら、それは光と影の部分を曖昧にしてしまい、基本的に技術の乱用の理解にはつながらないと思うからです。今後を展望するときにこのように光とする可能性も有るわけです。又非常に頭を悩ます影もあります。その影というのは私に言わせれば、社会的な組織が旨くいかなくなり、政治的な情熱に対する歯止めが旨く効かなくなったときに影がでてくるでしょう。

五つの問題が21世紀には出て来るのではないでしょうか?現在経済的な統合が進んでいますが、政治的にはむしろ分裂してきております、世界を見てみますと、ケベック州、あるいはベルギ−での状況などのように、言葉によるものもあり、場所によっては民族によるもの、部族によるものの分裂が見られます。この様に政治的な分裂や分割が見られる場合、その根底には共通の別れ道があると信じられるようであります。これが第二の点につながるわけですが、国家というものは自然発生的に出来てきた生きものではなくて、人間が人為的に作ったものです。しかし、国家というものは人生の大きな問題にとってはあまりにも単位が小さすぎるわけです。そして、毎日の小さな問題にとっては逆に大きすぎるのです。人生の大きな問題にとって小さすぎるという理由は、経済社会の規模を管理する調整というものが無いからです。又生活にとってはあまりにも単位が大きすぎるという理由は、行政の集中化や様々な多様性に富んだ需要に応えられない意志決定機関になっているからです。従って政治的な分裂、あるいは政治機構の失敗が進みますと、恐るべきこととして民族的な対立や、社会やグル−プ間の対立も激しくなるでしょう。世界のほとんどの国は多くの少数民族が混在する、民族国家です。例外は日本だけかも知れません、そして政治的体制の面で、自国の効果的な制御が出来なくなってきています。その結果、民族的な対立、あるいは、民族的なライバル意識というものに火が付いて、残念ながら燃え上がる危険性がおおいにあります。そして最後に私がざっと並べました、今何処にいて、これから何処に進んでいくのかということについて、貧富の差、富める国と貧しい国の格差というのが広がっていくのではないでしょうか?アフリカやラテン・アメリカ諸国の中には先進工業国の仲間入りが中々出来ない国が出てくるでしょう!これを光と影としてまとめますと、技術の素晴らしい可能性、情報、知識、バイオテクノロジ−、宇宙における偉大な進歩といった、素晴らしい光と、逆に社会的な組織の崩壊、特に経済的な統合と政治的な分裂、緊張関係というのが影であるということになります。

 

ガルブレイス

只今、ダニエル・ベルさんから21世紀の光と影についての素晴らしい話を拝聴いたしました。私もその大半には同意するものであります。ベルさんに異をとなえるというのではなく、むしろ少しいくつかの点について具体的に掘り下げて見たいと思います。

具体的な問題、具体的な見通しについてこれからの数十年、そして来世紀に視点を向けてみたいと思います。まず出発点となりますのが、ソビエットと東欧に起こった、ここ1年間の大きな変化です。国家は国家、そして資本主義国家対共産主義国家の間にある緊張の原因、対立の大きな原因というものが驚くべきことに本当に突然終わってしまったんです。少なくとも今までの規律というものを崩壊させ、東欧諸国の離脱とともにソビエット自身が45年間かけて作り上げてきた制度の成功というものを放棄し始めたわけです。

ここで共通項は冷戦構造の終焉と言えるでしょう。これは勿論明らかな事といたしまして、ここ数か月の明るい点の一つとしてなるでありましょう。又この明るい光はこれからも輝き続けるでありましょう。つまり一つの可能性として常に存在していた世界の大きな経済体制、すなわち資本主義国と社会主義国が核兵器のことで対立をし、大量殺戮の危機というものがあったわけです。しかし、ここ1年間で変わったわけであります。当然日本においてもこういうことを強調して申し上げるのは申し訳なく思います。と申しますのも日本はすでに核兵器を体験されておられる世界でも唯一の国です。これは類の無いことと思います。

特に将来を見通した場合、一つの光、最大の明るい光といえると考えます。勿論暗い点というのも当然御座います。このような影の部分は段々明らかになり、悲しくもこの影はこれから将来に向けてもっと大きくなっていくでありましょう。今世紀の終わり、そして来世紀に向けて、もっと大きく影というものが出てくるでしょう。

つまり、移行期の性格というものがありまして、東欧諸国、中央ヨ−ロッパ地域と、ソビエットではある一つの経済体制から別の物へと転換しようとしております。社会主義の計画経済から市場経済へと戻ろうとしているときです。このことについてアメリカでも偽の議論が沢山行なわれています。どうも資本主義というのは魔法の様なものであってその光さえ放てば、社会主義というものは崩壊し、そして近代的な形態の資本主義になって全員が幸福になれるというようなことです。

結局これは間違っております。しかも、それは経済体制というものを既に持っていたわけでありまして、日本や西側諸国で多かれ少なかれ有していた慈悲に満ちた寛大な経済体制に戻るということは、まだ足を踏みいれた事の無い道であります。ですから私達が今まで想像していた以上にこれらの国々はこれからの移行は難しいでしょう。新しく制度の体制を作り直さなければならないという、しかもそれは今は存在しないものをゼロから作り直さなければならないわけです。規律も必要でしょう、労働の面での規律の達成、これは社会主義の年月のもとで失われたものであります。そして沢山の問題が大きく出て来るでありましょう。私達はこれらの国々を今後悩ませる問題が他にも沢山出て来るでしょう。まとめて申し上げますと前にも言ったことですがこれらの国々は、これまで旨くいかなかった経済体制から経済制度のまったくない状況に耐えようとしているようなものです。

 

ベル

教授、ちょっとここで言いたいことがあるのですが!別の問題なんですが、私の方から二つだけ・・・・・

 

ガルブレイス

いいでしょう。しかしまだ私の持ち時間ですのでもう少し、

一つはこのような状況は沢山の民族的な対立を表面にだすということです。今までは弾丸でこれが隠されていたのです、二番目にベルさんが強調された点ですが、今我々が見ていることがよりはっきりと見えてくるということです。世界はどのように分かれてくるか、これは社会主義対資本主義ではなく、富める国対貧しい国という構造になってくるでしょう、ある意味では貧しい国がもっともっと貧しくなってきております。場合によってはこれまで以上に貧しくなっていくでしょう。さて私は大変寛大な気持ちになったという証拠にベルさんに一言許してあげましょう、ただあなたのおっしゃろうとしたことについて、私の方でこれで述べたことになったのではないかと思います。

 

ベル

私の同僚の寛大さにいつも感謝しておりますが、せっかくチャンスを戴きましたので申し上げますと、問題は二つにお分かれております。私達はいつも意見が一致しないことが多いんですが、ニュアンスの違いなんですね、ですがニュアンスこそが、これかあれかという二者択一よりも大切ではないかと思っております。もし、二者択一でしたらどんどん先に進めるでしょう、

まず最初の問題ですが、共産主義に失敗についてここでは二つ強調させてください。

一つは長年にわたってソビエットという国が第三世界の開発のモデルであったわけです。非常に硬直的な中央計画経済を実行しようとしたために、国によっては非常に貧しくなってしまったのです。それは旧体制では隠されていましたが、ソ連でも旨く出来なかったのです。ですから重要な教訓は、ソビエットモデルそれ自体がもはやモデルになりえない時代になってきたということです。ならばソビエットに変わるモデルは何かといわれますと、それに対する明快な答えが出来る人はいません。しかしながら少なくとも東欧における多くの国々が気が付いていることは、戻ることの出来ない道を歩むべきでないということです。ソビエットモデルの問題は戻ることの出来ない方向にどんどん進んでいってしまったということです、例えば、集団農場についてもそうです、革命のときレ−ニンは土地を欲しい農家には土地を与えると約束していたわけですけれども、実際は取り上げられてしまい、結局集団農場は旨くいかなかったわけです。東欧においても又ソビエットにおいても硬直したシステムを作らずにいろいろやってみることの必要性が理解され始めております。ソビエットの中では特に経済学者達は市場経済にについて色々議論しているようですが、私はこのことをそんなに心配していません。なぜなら、彼らは学ぼうという気持ちを持っているからです。ですから、私はこの点についてはガルブレイス君と同じ意見ではありません。しかしながら、本当の問題、つまり、貧富の格差が有るという点については同じ意見です。これが21世紀の要の問題となるでしょう。そして、ここでの大変難しい問題はその原因の一つとして植民地として長く搾取されていたことがあるでしょう。

しかし、ラテン・アメリカ諸国についてはそういうことはあまり言えません。

つまり、150年ぐらい植民地でなかったにもかかわらず貧しい国であるからです。ラテン・アメリカ諸国が世界経済の中に入ってきたのは、日本と同じ時期、明治時代です。日本の方は和洋折衷の経済でどんどん進みましたが、ラテン・アメリカは失敗しました。何故かといえば、ラテン・アメリカ諸国は資本の使い方が解らなかったからです。援助という話があります、ある実験を提案しましょう。世界で西洋以外の12ヵ国を無作為に採るとします。これらの国に10年間にわたって毎年14億ドルづつあげたとしたらどうなるでしょうか?皆それは素晴らしい話だということになるでしょう。それをまさにやったのがOPECです。OPECの国々には10年間にわたって毎年14億ドルづつはいてきたわけです。ところがこれが旨くいかなかった。ですから、あの国々はまだ貧しいのかという問題は本当に難しいのです。中東は封建主義体制で欲張ってしまい、経済開発に資本を生かすことが出来なかった。アフリカ諸国はそういう資本で運用する教育を受けた人が少ないので、その結果ますます問題が増えたのです。何故こんなことになったのかはっきりさせるべきです。単に西洋の国々が常に搾取してきたと、西洋が悪いということではない、のではないでしょうか?

 

ガルブレイス

今の点はほとんど私もベルさんと同じ意見なんです。ただし、一、二点申し上げたいことがあります。ベルさん、まず第一点といたしましては、ソビエットの経済体制はもう今や第三世界のモデルではないという点ですが、これこそ輝かしい点の一つだと思うんです。これでわが国アメリカが極めて弾圧色の強い悪業高き政権を、反共主義という方針をとっているということだけで支持するのは止めることになるでしょう。こういう動きというのは明らかに将来に向けての光の部分になっていくと思うんです。もう一つは貧しい国々の経済支援ということです。私達西側諸国であるヨ−ロッパ、アメリカ、日本は引き続きそこに重点を置くべきであると思います。既に近ごろはかなり寛大な支援をしておられますが、設備や機械などの製造に関する設置物以上の援助をこれからは考えていかなければならないと思います。エジソンが言われましたように管理が非常にまずかったというのは非常に鋭い指摘だったと思います。このような観点から物的資源というものが人類の向上のためには不可欠な物だということになります。つまり、人材の育成の必要性です。簡単に言えば教育ということになるでしょう。例えば、貧しい国の人々が文字を読み書き出来るようになるための教育に対してお金や人材を供出するといったことは如何でしょうか?

そこで是非考えて戴きたい事が一つだけ有ります。今日の他のことは全て忘れてもこのことだけは憶えておいてください。世界の国をみても読み書きが出来ない国で富める社会はないという事です。100年前のアメリカ、100年前の日本で、経済発達の基礎は何かといった場合やはり人類の発展ということから、教育という答えが返ってきたでしょう。勿論、経済発展という言葉はその当時はなかったと思いますが、そういう意味で公的な援助資金が旨く利用されなかったという原因はベルさんが言われましたように、人材を向上させていくところに力が入れられなかったからだと思うんです。私達はむしろ表面上だけの近代化をめざして機械だけを貧しい国に提供してきたのです。そうではありませんか?ベルさん!

 

ベル

賛成してくれといわれたら、一つの条件付で賛成します。

 

ガルブレイス

私の隣にいるベルさんが一度でもいいから100%同意してくださることがあればと願っているのですが、とてもそれは無理のようですね。

 

ベル

完全にあなたが正しいときには条件を付けないで同意することは有りますよ。ただ読み書きの問題ですが、これも又違った見方があります。ラテン・アメリカの場合、例えばアルゼンチンは戦前カナダよりもずっと生活水準が高かったのです。アメリカ・インデアンはいなくてヨ−ロッパ系だけで非常に読み書きの水準は高かったのです。ところがアルゼンチンは対応が遅れた。一方ブラジルの場合は一部は進んだけれども、一方国全体としては遅れたわけです。だから読み書きの問題ではありません。ここで重要な問題として出てくるのはアルゼンチンの場合政治が麻痺していたわけです。いわゆる少数独裁政治の特権階級が政権を握って、民衆を扇動し、中産階級が一緒になってますます物事を難しくしたわけです。ですから読み書きの問題以外にも要因があるのです。先程言ったようにラテン・アメリカと日本を比較しますと、世界経済に同じ時にデビュ−しながら、これだけ違ってきたのです。ガルブレイスさんが言われたことに対してもう一つ申し上げたいと思います。これは重要で差し迫った問題です。二人とも感じている事です。それはこれから10年、20年、30年後に人口の動態学的な圧力が掛かってくるということです。世界の国々で様々な不均衡が見られます。日本、アメリカ、西ヨ−ロッパなどは人口の高齢化の問題があります。若い人口の割合を見るための平均年令は25才から30才です、なおアフリカ、ラテン・アメリカ、そして日本を除くアジアでは人口の40%から50%以下が17才以下です。北アフリカ、アルジェリヤ、メキシコなどでも人口増加率はそれくらいです。つまり今後10年から20年の間に労働力に入ってくる人数が、そういった国では2倍になるのです。ここで我々は何が出来るかという答は三つ有ります。

1 こういう人達を受け入れるか。

2 そこから財を買うか。

3 あるいはお金を上げるか。

この三つです。まず、そういう人達を受け入れることは民族の問題があって、非常に難しいでしょう。日本は外国人労働者や移民を受け入れることに二の足を踏んでいますが、将来大きな政策上の問題となるでしょう。

又物を買うということは自国民の失業につながることです。資金援助しても借金に苦しむこれらの国はお金を使う能力という問題が発生します。ガルブレイスさんと私が言う差し迫った問題です。

 

中沢 新一

二人の対談というのは何時までも続きそうで面白い、日本人の場合は、対談というのはお隣同志でこういう意見の戦わせ方というのはしないのですが、流石、二人の意見の戦わせ方というのは見事なもんだと思います。これから後又お二人の意見を聞いていこうと思いますけれども、今のベルさんとガルブレイスさんの話で大事なことは幾つか提起されているように思います。ことに昨年から今年にかけて起こったソビエットと東欧の政治変革の意味というものをどのように理解していくかということです。

私達は日本人というのは同じアジア人の同胞がソビエット型のモデルを採用して今だに様々な問題を抱えている、極身近に問題を抱えているということがある。この20世紀の終わりの10年に起こった変化というものは日本人にとっては、ベルさんやガルブレイスさんが考えているものとは少し違うニュアンスを持った意味を持っているかと思います。そういうことを含めてこれからのこの討論で話し合っていきたいと思いますが、まず全体の討論を始める前に、梅原先生お二人の話を伺ってどんな感想をお持ちでしょうか?

 

梅原 猛

今ですね、世界を代表する社会学者と経済学者の意見を聞きまして大変感動しております。流石に世界を代表する社会学者並びに経済学者だけあって、非常に見識が広く、私の賛成する点も多いのでございます。

 

堀内

大変白熱する対話でした。すっかり引き込まれてしまいました。お二人の話がぐっと広がったり、又焦点が絞られてくるのを見ていますと、何か大きなドラマを見ているような感じでございまし。さてこの二人の話題がいつも焦点を向けているのが現在の地球の上にすでに21世紀が顔を出しているのではないかと、今から何をすべきかということだろうと思います。この二人の対談を壇の上でお聞きになっていたのが梅原さんと中沢さんです。中沢さんはこの後司会の立場にお立ちになりますけれども、梅原さんの表情をじっと伺っていましたら、梅原さんは時には頷かれたり、時には首を横に振られたりしながらちゃんと反応しておられた。さて後半の討論のテ−マというのは21世紀に私達は果たして幸せになれるだろうかというテ−マをめぐってでありますので、恐らく思うに梅原さんは人間と自然との関わりをそもそも根本的にどうとらえるかというところから切り込まれていくと思います。一つ楽しみにお聞きください。

 

梅原 猛

で今のお話で私は賛成する点も沢山有るんです。ベル先生の経済的統一は達したけれど、政治的分裂がますます進んでいる、そして、南北の対立は今後人類の非常に大きな闇の部分になるのではないかという意見にも賛成ですし、ガルブレイス先生の、昨年東ドイツ、今ロシヤに起こっているような大変革というものは、むしろ予想出来たし、それは世界の新しい光になるであろうという意見にも賛成でございます。で私はお二人のように、哲学者でございますから、お二人のように具体的な問題に入れないかも知れませんが、哲学者は哲学者で予言できる、未来を予言できる点もあると思います。でといいますのは、今ベルさんが第三世界がソ連型のモデルをとったんではないかというようなお話でございましたけれど、日本も、日本のインテリも大変多くの人がソ連型のモデルの社会主義社会を良いと考えたわけでございます。それに対しまして私はソ連型のモデルは間違っていると、マルクスは基本的に間違っていて、やがて社会主義社会は崩壊するだろうということを書いたのでございます。それを書いたために私はそういう進歩的な学者からうんと罵倒を受けた。だけど今は私の予言が正しかったという風に思っているわけです。それでありますからその未来に対する予言も哲学者、あるいは社会学者や、経済学者よりもっと鋭い予言が出来るかも知れないという風に思いまして、あえてお二人の述べなかった点を述べたいと思います。私は光と影という問題が基本的には近代文明そのものが含んでいる光と影だと思います。今ベルさんはダビンチのお話をいたしましたけれど、私はやはり近代文明の原理を提供しました、デカルトやベ−コンの原因を問題にしたいと思います。それは自然を客観的に認識すると、それは自然科学であります。そのことによりまして人間の自然支配を強める、まさに近代の科学技術はそうでありまして、自然を客観的に認識することによって、自然を征服していく、そして自然は今や我々によって恐るべき敵ではなくて、我々に非常に役立つ召使になってしまった、というのが私は近代の運命だと思いますが、そういうのは片一方では光であり、それは我々の生活を豊かにしてくれた素晴らしい光であると。しかし片一方において、自然を破壊してしまった、それは大きな闇であると、いう風に私は思うのです。そしてこの近代文明の発展によりまして闇の部分が光りの部分より多くなってくると、これはこのまま放っておいたら段々闇が多くなって光が少なくなってくるという風に私は考えているのでございます。そうでありますからこれは二人と一致するかも知れませんが文明の転換点が訪れた、ということはどういうことかというと、人類文明1万年にわたる人類文明を反省すべき時が来たという風に思っております。1万年にわたる人類文明は何かというと、農業牧畜を始めたのが1万年前です、そこから人類文明は起こったわけですけれど、その文明は必ず緑を食いつぶしていったと、そしてそれから今や限界まで達した時代という風に私は考えるのであります。それでありますから私は文明を変えないかぎり闇はますます深くなっていくと考えます。ベルさんやガルブレイスさんはむしろこの文明発展すると、そういう先進国と開発途上国と大きな格差が生じ、開発途上国が集まって闇が来ると、それもあります、それも私は肯定いたしますけれど、同時に先進国にも闇が来ると、それは皆さん今出ている酸性雨だとか、オゾン層の破壊だとか、そういう先進層に恐るべき闇が来る。その闇を私は根本的に変えないかぎり人類文明に光はないという風に考えているのであります。大変私の哲学者の議論の方が非常にある意味でいうと現実的で御座いますから、非常に求心的に見えますが、私は20世紀を、マルクス主義は何かこう現代を救けるように思いましたけれど、マルクス主義の考え方は基本的に人間と自然との関係がない。人間が自然を征服するという思想の上に立っている、それではいかん、もう一度人間は自然のなかの一員として、自覚して自然のリサイクル運動にしたがって、人間をリサイクルする。そういう思想を確立しなければいけないと思っているわけです。二人の感想と私の光と影、人類の文明の光と影に対する考え方を申し上げました。

 

中沢 新一

どうも梅原さん有難う御座いました。僕は何時もシンポジュウムですと、パネラ−の席に座って、シンポジュウムを掻回すようなことばかりして楽しんでおりますが、今日は何故か座長というようなものを引き受けてしまって、本当に失敗したと思っておりますが、これだけ個性が強いパ−スペクテイブの広がりを、どこを焦点にしてみているのか、お互いにこういう大きい違いのようなものをはっきり持っているかた達を、どういう風にやって、これから戦わせていこうかと、ちょっと悩んでおりますけれども、ベルさんの話でも、ガルブレイスさんの話でも、梅原さんの話でも、一つの問題として出てきているのは、何か現代において、世界を見る物差し、ゲ−ジの尺度が少し変化を、根本的な変化かも知れません。が起こり始めていることは共通の認識のような気がします。例えば、ベルさんは経済的インテグレ−ションが進むことによって、これまでの国民国家という単位は、この国民国家という単位をもとにして今までの政治的なシステムが作られておりまして、この単位が現在進行している物差しの変化、ゲ−ジの変化にとっては何か中途半端なものになりつつある。そのために政治的、経済的に、地球上の統合が進むのと同時に政治的な分裂がそれと並行に起こる、で私達人類は新しい単位、新しい政治的な単位を持った国家に代わるものを創出していかなければならないのではないかという、予測を感じておりました。梅原先生の場合は、この物差しの変化というのは、ゲ−ジの変化というのは、実はこの産業革命以来、百数十年起こった変化の尺度ではなくて、2万年ぐらい、1万年以前に起こったこの人類上に起こった変化をもとにした、地球と自然と宇宙のとらえ方全体の尺度が大きく、ここで変わらなければならない、そういう時代にさしかかったという、指摘をなさいました。で皆さん共通していらっしゃる点というのは、ぼく達が1990年という時代にたまたま生きて、生まれ合わせて、何か大きな変化を共通に体験したことだろうと思う。一つは政治的な変化というものがありますが、この変化の本質に対してこれは百数十年続いたモダニズム、モダニテイ−というものが、何か根本的な変化を体験しつつあるのではないかということは、いろんな所から云われております。このモダニテイ−の変化というものについて、もう一度ガルブレイスさんとベルさんにお考えを伺いたいと思います、ガルブレイスさんどうぞ。

 

ガルブレイス

話し合いを通して二つの点があったと思うんですが、そして又二つ訂正しなければならない点があります。特にベルさんと私の話に関しまして一つの問いという形で申し上げたいわけです。

疑いもなくこの産業世界、アメリカ、日本、西ドイツ、西ヨ−ロッパでは、常にさらなる商品を生産し、消費するということが欲求であった。人間が消費したくなるものを生産し、消費し、そして際限無く追求してきたわけであります。つまりもっと消費をすれば、もっと欲するということで、これは終わりのない競争という感じになってきます。中沢さんがおっしゃられたように、また梅原さんが云われたように、環境にも悪影響が出て来ることは明らかですし、これは長期的な地球の将来にもかかわってくるわけです。そこで私の一つの希望は、来る21世紀にはこの悪循環が終わればいいと思います。そして物を持ちたいという所有欲がなくなり、物を沢山持つということが特別でも、功績の象徴でもないという世界を私は望みます。   

もう一つ私が強く期待したいのは新たな視点を持つということです。これはベルさんも又座長もおっしゃったことです。即ち国という単位を再考するということです。一つの例を上げてみましょう、ここ数週間でアフリカにあるリベリアという国では何千人、何万人という人々が殺害されたり、怪我をしたりしています。これはこの不幸な国の政権を懸命に倒そうとしているからです。しかし第一次世界大戦後は国際連盟が、そして第二次世界大戦後は国際連合が国際的な責任として、これらに対処しようとする動きが出てきました。冷戦が終焉した今、こういう問題も又問われなければならないかと思います。すなわち国連が何らかの段階を経て、その国家主権というものを乱用する国を管理するというのは如何でしょうか。例えば人間の苦痛、苦しみ、殺戮といったリベリアのような状況は、この地球が管理できるようなものではないのです。そこで主権に制限を加えるということを検討してはどうでしょう。国家が自らの国民を殺戮し、又傷つけてはならないということをするのです。様々な意見が今私の非常に尊敬している同僚から出たわけですけれど、是非ともやはり具体的な形で実現したいんです。私の良き隣人のベルさんは多分私の意見には同意されないでしょう、ですからそろそろベルさんの反対意見の時間といたしましょう。

 

ベル

それではびっくりさせて上げましょうか。私はあなたより梅原さんの方にもっと異義を唱えることとします。基本的な命題としては意見が一致しております。つまり定義として不適切である。政治的、経済的な単位は何か?どういう問題に対して、どういう単位を使うというのかが世界における現在の問題だと思う。ということです。国民国家というのは適応する単位として百数十年にわたって使われてきましたけれども、もうこれは適切ではありません。すなわち、何を大きなコミニュテイ−として、中央集中化するか、そして、何を小さなコミニュテイ−にして、多様性に富んだ、発展に合った形のものにするのかという命題があるのです。これについては基本的に違った意見は持っておりません。私はやはりこれも又ニュアンスの問題だと思います。我々は根本的な問題についてはそんなに違う考えは持っておりません。ただ梅原先生のおっしゃったことについてはニュアンスの問題で違いがあると思っています。自然というものに対する考え方についてです、自然というものが、必ずしも善だとは考えておりません。ただしそれは台風や、嵐など非常に破壊的な物を有しているからなどという単純なものではありません。もっと大切なこととして私が投げ掛けたいのは、昔から西洋の哲学的な命題である自由というものは自然から独立することである、ということです。ギリシャの詩人ヘシオドスが言ったことは世界中の生物が生きていくことで、必要なものを用意してくれるものは何かということです。それはプロメチウスとメガチウスの話に出てくるのですが、世界に現われた人類というのは靴もなく、衣服もなく、そして身を保護するものは何もなかったのです。他の動物は身を守るものを持って世の中に現われるわけですけれども、ですからもともとは世界に適応して生まれてきたわけではないのです。以上がヘシオドスの詩ですが、世の中に現われて適応できるようになったのは、人間が火を使ったからです。火を使えば色々なものを作れるわけです。そしてそこで自然から独立するために必要な物を作れるようになったのです。人間は火を使って自然を文化に変えていくことが出来ます。自然は善にも悪にもなりうるのです。ですから実も与えてくれるし、破壊されることもある。つまり自然ではなく、どういう文化を作っていくかが問題なのです。たしかにガルブレイスさんが云われたように文化は欲深かったり、所有欲につながったりしうるものです。ですから世界を如何に管理運営していくかの問題でしょう。やはり哲学が物語っていることに共鳴するだけではなく、そこで考えだしたことをどう具体的にしていくかということを考えなければいけません。

一つの例が環境です。環境破壊に対して非常に敏感になっています。しかし、環境は何故壊れたかというと、気儘に自然環境を使ってきたからにほかなりません。奇妙な言い方ですが、経済学を適応してこなかった、つまり水はただのものであると思ってきたわけです。ガルブレイスさんも私もよく分かっていることなんですが、昔の教科書には空気と水はただであると書かれているのですが、実際は違うんです。これにはコストが掛かっているんです。そしてコストを計算せずに無駄に使ってしまったのです。ですからコストを評価して、それに必要な費用を課してこそ、効果を喚起出来るのです。話を元に戻しますが、文化という枠組みの中で社会の組織を考えたいと思います。中沢座長は非常に深刻で、かつ異なった問題を提起されました、モダニテイ−の問題がそれです。これはまさに文化の問題で、自然の問題ではありません。自然はモダニテイ−を知りません。人間がモダニテイ−を知っているのです。座長が提起された問題は近代文化の特徴であるモダニテイ−が我々を悪い方向に導いているのかどうかということです。私はそこにヒントがあるのではないかと思います。悪い方向に導かれていると決め付けられるのであれば、私はその意見に同意できません。何故ならば私は思うにモダニテイ−というのは世界に対して開かれているということだから、その中で色々試みることが出来るんです。例えば日本は明治時代まで閉鎖社会でした。徳川家はそれで得をしたわけです。しかし、そうでない人々は閉鎖社会は大変な事だったんです。モダニテイ−というのは開かれることです、確かに開かれるということは無防備な面もありますが、それでも閉ざされることよりはずっと良いと思います。開かれていることの反対語は何でしょう!封建主義あるいは国粋主義です。過去において日本は強いナショナリズムで一致団結しておりました。しかし、それは昔のことです、モダニテイ−はファシズムに挑戦するものです。モダニテイ−は多様性と複数主義を認めるのでそれだけいろんなことを取り込んでいけます。人と違うということを奨励するのです。そしてこのことこそが文化の発展にはプラスになるのです。

 

中沢 新一

梅原先生、僕は先生の著作を沢山読んでいるので、ベルさんが梅原先生の意見を批判されたことの幾つかあまりがあたっていないような気がする、それは先程の梅原先生の発言時間が非常に短かったということもあると思うのですが、梅原先生自身がその人間の技術、文化を否定しているのではなくて、それを自然と調和させるシステムを、の問題を追求されて来た方だということを僕は知っていますから、そこをもう少し詳しく話してください。

 

梅原 猛

はっきり説明しますけれど、人類1万年のことですからそれを5分や10分でしゃべるのは大変難しいので、さっきポスト・モダンの話が出ました。私はポスト・モダンというのが一つの構造主義の間からも出ている、あるいはそのニュ−・サイエンスの人からも出ている、その中のポスト・モダンということを考えると、やはり、今西洋で、私の知っている多くの知識人が、やはり近代という時代が何かおかしいんだと、今までは近代万歳であったのが、私は近代というのはおかしいんだという根本的に近代世界を考え直さなくちゃならないと、云う風になってきたと云う風に理解しております。その、これはベルさんのおっしゃる様な必ずしもニ−チェ主義ではなくて、私は基本的に近代の反省が起こっているのが現代だと思う。だから私はモダンの立場でなくて、ポスト・モダンの立場にたつことを限定してお話しておきます。ポスト・モダンに立つときに私は人間と自然との関係が非常に問題になってくる。それはモダンは、現代というものはやはり人間の自然支配を是認した考え方である、これはベルさんおっしゃったようにギリシャ神話の中に勿論人間と自然の関係御座いますが、特に近代ヨ−ロッパ哲学は大体この人間の自然支配というものを善と考える。そこから私は始まっているという風に思います。それがまあ非常に露骨に現われえているのは、例えて云うとプログマチズムの様な形で出ているわけです。私は人間の自然支配を今や問うべき時だと、これ以上人間が自然支配を続けていたら、いろいろ経済的な用途有りますが、基本的にその原理を取るべきだと私は思います。人類が生きていく環境を喪失してしまうという風に思います。ところが自然支配という人間の動きというのは、ある意味で云うと人間の本質にかなっているのでございまして、人間が農耕牧畜を始めたときから、人類の自然支配、自然破壊が起こっていると、それは今日4大文明が栄えたチグリス・ユ−フラテス文明、エジプト文明、インドの文明、中国の文明、そういう文明が栄えた所が今日は殆ど砂漠、あるいは砂漠に近い状態になっている、ということでよく解ると思います。かってギリシャは青青とした森だったんです、それを食いつぶして今は殆ど森のない世界になった。私は人間の深い業のような自然破壊の、この衝動、そして自然を介して、そして自分の欲望を満たしていく、そういう衝動を本質的に私は反省しないと、本当に本質的に反省しないとダメだと、それで私はポスト・モダンだという風に考えるのです。ガルブレイスさんがさっき自然を食いつぶす生き方を変えなきゃならないと、その変えなきゃならんということがポスト・モダンだと云う風に思います。日本を代表する自然科学者である福井健一教授が大変いいことを言っているのです。今まで自然科学は、自然科学技術は、人間が自然を支配するためであった。しかし、今や自然科学の性格が変わって人間と自然が共存し、自然を尊敬する科学でなくちゃならんという風に言っているのです。私はやはりここえ来なくてはダメだと、そのためには私は文明の大変革が必要だと云う風に考えているんです。この点今一つだけ一致する点があるのです。反対の方へ強調したほうが西洋的かも知れませんけれど、私は日本的ですのでベル先生と共通の意味で云いますと、そういう自然、そういう文明の変化に対立する、文明の変化に対応するためにそれが国家という機構が大変まずいんです、大変マイナスの作用をするという風に私は考えている。私は20世紀の後半は人類が全体的に協力して、この環境破壊の問題に対処しなくちゃならないということで、特に最後の10年間がその運命を決めるという風に考えていたんです。ところが最近中東紛争が起きまして、そしてどうもそんな問題がどっかに飛んでしまった。これは私は長い歴史の上で見ますと本当に環境破壊の問題に人類が一致してやるべき大切な10年間をロゴしたことになるのではないかと、そこに人類の問題よりもむしろ国家の問題が優先してくる、それが私はどっか大変悪いことが起きるような予感がするんです。私の考えはいささか悪だという風に思えるかも知れませんが、私はこの環境破壊の問題さえ解決したら、私は人類の応用は、個々の小さな問題は沢山有りますが、これを解決しなかったならば、人類の未来は全く闇だという風に考えております。以上です。

 

中沢 新一

ベル先生、ベル先生のお書きになったものとか、先程の発言のなかにもモダニテイ−とかモダンというものを一つは産業革命の話から始まりましたけれど、その時スピ−ドや、高さ、時空の構造が変化する、そういう人間が生きている生活空間全体の変化としてとらえ様としていましたが、梅原先生のお話の中では近代、近代という言葉を使いますが、多分この近代というのはベルさんがモダニテイ−と言っている近代とは多少意味が違う様な気がします。一つは梅原さん自身の考えのなかでは、その産業革命を準備した物があるのではないか、その産業革命を準備したものとして、中世の発達があるのではなかろうか?

そして東西世界が分裂するという事件が起こり、そして西側の世界が自律的な発展を始めるという事態もあったではないか、でもそこにおけるロ−マの世界の合理主義というものを準備したものは何んだろうか?という風に次第次第にさかのぼっていって近代という言葉を非常に大きなパ−シチィブとしてとらえようとしている、これは少しトインビ−と近代という言葉に似ているかも知れませんが、ベルさんのモダニテイ−という言葉はもっと限定して使われているようですけれども、この梅原さんの今の発言にベルさんもう一度お考えをお聞かせて戴きたいと思います。

 

ベル

そうですねえ、最初に私の使い方が限られているというのではなくて、より正確だという風におっしゃって戴きたいと思います。しかし、私は戸惑いますのは、自然という言葉の使い方です。自然そのものは大変素晴らしい物であるかのように使われています。私は

33年前から日本にきていますが、日本で大変素晴らしい、美しいと思うのは庭園を見るときです。例えば竜安寺とか苔寺です、ですがあれは自然が作ったものではありません。人間が作ったものです。宗教的な考えを持っている人間が石を配置し、苔をはやして庭園を作り替えたのです。カルチャベイションという言葉はカルチャ−からきたわけですねえ、人間は物をカルチャベイト、つまり栽培するのです。問題なのは自然を抽象的にとらえるということではなくて、このカルチャベイションをどう考えるかという、趣味や、生活スタイルを洗練させるかということです。あるいはガルブレイスさんが云われた所有欲を如何に抑えるかということです。そういったことが私にとって自然の対局として文化をあげる理由です。自然そのものでは何もしない、人間が自然を使ってこそ美しい型が出来て来るのです。それが日本の庭園ではないでしょうか?放っておくと例えば熱帯雨林の伐採、そして砂漠化という破壊が起きてしまうのですから。

 

中沢 新一

梅原先生、どうぞ

 

梅原 猛

日本の庭園の話が有りましたが、庭園については私が知っているほうがはるかに知っているに決まっているから、ちょっと抗議をしたいんですが、庭園は、先生はあまり庭園を見ていないと思いますけれど、本質的に先生の直感は正しいんです。日本の庭園は決して自然というものの抽象的な表現だから、日本の庭園の中には海があり、山があり、生があり、死があると、そういう自然世界の本質というようなものを非常に人工的に、極めて人工的に再現したものであります。これは私はヨ−ロッパのルネッサンスの人間が自然を支配したシンボルである、ああいった左右対称的な庭園と全く違うものとして作られた。とそこに先生が感動されるのですから、やはり私と本質的に同じではないかという風に思うのです。それと感心させられたことは、私は自然に帰れと言っているいるのではないのです。新しい自然とのかかわり方の法則と秩序というものをこれから人類は見いださなければならないと、一方的な自然支配は終わって、自然とのかかわり方、言ってみれば自然と共生する科学、自然と共生する技術にならなくてはならないということを私は言っているのであって、決してそういう風に先生が誤解されるのは故意の誤解の様な気がしてならない。大変そのところは、私は、勿論技術というものは認めて、そしてそういう原理そのものの変更ということを考えているのです。

 

中沢 新一

日本の庭園のことが話題になってきましたが、日本の場合は庭園を造ると言わないし、設計するとも言わないで、庭を立てると人は言っていましたね、立てるというのはその中に人間が庭園という人工自然を作るんじゃなく、これは設計するんじゃなくて、その中に石を立てるという表現をしました。つまり庭園のなかに自然が立って来るという風に表現たわけです。これを設計した人たちはカルテイベイタ−した人たちとちょっと違った人々が日本の場合、庭園を設計しておりましたけれども、ここでも自然から何かが立ち上がるということを表現しようとしております。これが多分自然の象徴という言葉で梅原さんが今おっしゃろうとしたことにつながると思いますけれど、ヨ−ロッパの哲学の中で、これに似た考え方を見いだそうとすると、例えばハイデッガ−という哲学者がいて技術の問題について書いている有名な論文がありますが、けれどもその中でハイデッガ−という人は技術という言葉の元になっているギリシャ語のテクネ−というのはもともと隠れているものを立たせるという意味があるのであって、これは哲学が芸術とも非常に深い関わりを持った言葉であった。つまり自然、ネイチャ−からフィシシスという抽象的なものを立たせるんだ、立ち上がらせるということはテクネ−という言葉のもともとの意味なんだけれども、それが近代の中に、テクノロジ−の中で変質してしまったといわれています。ここでも自然というものをどういう風に理解していくのか、そういうことについて古代ギリシャの考え方とそれから日本人が例えば庭園といったときに考えた自然概念の大きな違いというようなものが現われていると同時にそれは技術の本質、自然との関わりにも大きなつながりがあるように思います。

 

堀内

いろんな切り込み口が全部出揃った感じでございまして、軟らかく切り込むか、鋭く切り込むかそれとも二人の意見を組み合わせるかという、火花を散らしてるところです。

さあそこでこう考えてください、自然と人間との関わりという場合に、大きく分けて二つあります。一つは自然と人間をともに生きている共生しているということですね、もう一つは人間と自然が対立して、人間が自然の方を征服するという、そういう立場でございます。この二つどれが一体現在の文明に近いのか、そして今後我々はどういう風にこの自然との関わりを持っていくべきか。ここでいろんな討論がなされるということが出来るというわけです。そして中沢さんがモダニテイ−という言葉を使われたこと、これは効率だとか、能率だとか、スピ−ドとか、こういったものの価値がすべての価値を押し退けて一番高い位置にあがってしまった結果、私達の社会がずいぶん無理をしたのではないか、こういう批判的な文脈で使われたわけで御座います。さあそこで次に出てくるのは一体どういうことかと、そこまでは解ったと、基本的なことは解った、じゃあ今何をしたらいいのか、ガルブレイスさんが今何をなすべきかという形で切り替えられたところです。続きを聞きましょう

 

中沢 新一

これについてガルブレイスさん、どう思っていられますか?二人の話を聞いて。

 

ガルブレイス

そうですね、此処に座っておりましてお話を伺いながら、私はこの話がどういう方向に進んでいくのかよく解らなくなっているんです。どうも想像の域に入っている部分が多いと思います。まあ楽しいんですけれども、それを現実的な型で表現するというのはちょっと難しいのではないでしょうか?私は所詮経済学者で実用主義者ですから、やはり現実の世界に引き戻すことが私の使命と思うんですが、ここで私は警鐘を鳴らしたいことは、表現するだけに終わってはいけないということです。特にまだ発見されていないようなものについてです。例えば自然との対応について、又は関係についてです。今まで多くの発言があった点なのですが、私が感じるところではすでに我々は充分にその関わり方については理解していると思うんです。ですから、行動したいという意識があったならば、つまり必要とされていることを本当にしたいと思ったら、具体的に国家権力なり、政府の力なりを使おうと思うのであれば、今以上に人間と自然との間の良い関係が生まれてくると思うのです。そこで一つ私にとって印象深かった具体的な例を出してみましょう。私が初めて名古屋にまいりましたのは45年前だったんですが、その時代は今よりもっと不幸な時代であったんですね、名古屋から東京まで列車で行ったんですが本当に世界でも屈指の美しい景観があったわけです。水田があったり、左右対照的な小さな村村があったりしたわけです、しかし、その景観というのは今ではそれ程美しいものではありません。私が見るかぎりにおいては少なくとも名古屋までは東京が延長してきたというように見えます。仮に

45年前の様な田園があったとしても三ヶ所か四ヶ所ぐらいで殆ど見つからない。しかしトンネルの上に有るのかも知れませんね、ところがスイスのような国では、政府や国家が土地の区割りや管理を民間に任せないで行なってきたので今でも殆ど景観は壊されておりません。そうなりますと人間と自然の関係も必然的に違ってくると思います。よくオゾン層と環境破壊が話題になります。これも又国家権力の範囲で対応できるわけです。ある程度技術を使って何らかの規制が出来ると思うのです。同様にもっと一般的な型で汚染問題もそうなんですね、つまり人間と自然の対立を示している他の多くの公害に対して、同じ事が言えると思います。人間と自然との対立とは先程も言いましたように物を消費する、この飽くことのない消費への意欲、そしてその消費によって我々の立場や、秩序が世界の中でどこにあるのかを認識しようということを意味しています。私のお願いなんですが、未知の部分に足を踏みいれないように、また曖昧な領域に入り込まないようにしましょう。私達が既に知っていることは、私達がそれをしなくてはならないということですし、実際出来るのです。又非常に現実的な問題に目を向けてください、そして色々な形での人間対自然の対立、女性も含めてですが、既にこれらは知っていることばかりです、後は行動有るのみです。

 

中沢 新一

人間が物質的な追求だけを続けている社会から、方向を変えなければいけないと、ガルブレイスさんはおっしゃいましたが、そこでの現実行動は一番難しいということをだれしも気が付いているのではないかと思います。ガルブレイスさんが物質的な追求を止めろといったり、アメリカ政府がそういったからといって、動いている地球文明全体はそちらの方向から方向をずらそうとしないのではないのでしょうか?その実際行動がどのようなものになるのか、何かプランをおもちでしょうか?

 

ガルブレイス

行動ですか?土地の利用をある程度コントロ−ルするためには何をなすべきなのか、そして産業廃棄物を抑えるために何をなすべきなのか?あるいはオゾン層を守るためには何をなすべきなのか解っています。中には何が一番良い方法なのかまだ解らないこともありますが、問題は非常に居心地の良い社会、日本もそうかも知れませんが、アメリカもそうなんですが、一つの傾向として問題は後回しし、次の世代に回せばいい、我々が生きている間は大丈夫だというように考えてしまうことです。長期的な行動は避けたい、何故なら、長期的な措置を取ろうとすると必ず国家が介入してくるため、躊躇してしまうからです。非常に説得力のある哲学的な視点といたしまして、例えば、神がいたといたしましょう。仮説としてです。そしてそこにはアダム・スミスが控えていると、そして放任主義というものを神の隣で唱えており、最後には放任主義が答えを出してくれるでしょうと言っているわけです。そしてついにはアダム・スミスの放任主義というものが一つの哲学的な方程式にまでになって、長期的な見地を持った行動を起こさせないようになってしまうわけです。

 

ベル

私はいつもそうなんですが、ガルブレイスさんのおっしゃったことには一つの条件を加えれば大賛成なのです。又条件を出してしまいましたが、この条件をもう少し幅広い文脈の中で考えたいのです。中沢さんと梅原さんが提起されました問題に関連させて、と申しますのは、現実的な手段ははっきりしたものでなくてはならないのですが、それは一定の人間の姿勢、つまり文化的なものに根ざしていると思うからです。やはりお二人にあるアンチモダンな傾向に少し引っ掛かるわけです。と申しますのはそれが邪魔になるので、ガルブレイスさんも私もそういうものをなくしたいと思っているわけです。どうも私達は物質主義者とみなされているでしょう。ですが抽象的な意味で自然と一体になれば物事が良い方向に進とは限りません。

社会学的には人間が社会的な制度を作ったから私達は行動できるのです。抽象的な概念だけではなくて、少し驚かされるのは、今、ハイデッガ−を引用なさったことです。

日本の知識人の中では流行っているようですが、ハイデッガ−はアンチモダンでありまして、いわゆる民族のル−ツに戻りたがっており、それだけでナチズムに協力することになるのです。ナチズムに関する責任についてはここではうんぬんしませんが、その中で非常に重要な要素があります。特に非合理の方が、合理よりも優れているとする部分です。

ニ−チェも言ったように非合理、あるいは陶酔状態の方が単に意識があるだけの状態よりましだというわけです。しかし、私はやはり無意識より意識を信じます。意識を持っているからこそガルブレイスさんの言われる合理的な計画に賛成できるのです。ですから合理的な計画という概念が無くなってしまったとすると、私達は社会の制度を計画できなくなってしまうはずです。ここで、私はガルブレイスさんと討論するのではなくて、一つ注意を促したいことがあります。国家という言葉の使い方です、確かに人間の市場は人々が欲するものを提供する場ですから、リスクを伴っております、見えざる手とは名ばかりで、打つべき手がないということになってしまうかも知れませ。しかし、国家とはその実国民のことであって、時には官僚機構にもつながります。官僚による計画と支配が有るわけです。このことが東欧では厳しい結果を生み出しているわけです。ですから、どこかでバランスを取らなければならない。いわゆる合理的な努力、目標というもの、モダンという枠組み中でどうバランスを取っていくのか、すなわち、人々の協調的な努力を中央集権的な官僚性のもとでどうバランスを取っていくのか。少なくとも西側諸国においては21世紀、これが大きな命題となるでしょう。

 

ガルブレイス

私はここでベルさんと同じくらい寛大な気持ちを表して、その指摘に賛成支持すると言わなければならないのかも知れません。しかし、一つだけ条件を付けておきます。私達この世の中にある人間といたしましてはやはり官僚機構の終わりをも認めなければならないと思います。

私達は偉大なる組織、機構の時代に実際は住んでいるわけです。モダンな社会における目標の達成は、偉大なる連携プレイによってしか可能となりません。例えば大きな集団と集団の間では実現されるようなものです。そこで私といたしましてはベルさんに一つの条件を出しますが、ベルさんも同じ考えだと思います。

その条件というは、この大きな組織への動きというのは、何も国家だけに限られたものではないのではないかと申し上げたいのです。これは個人と個人の生活にも重要なことなんです。個人の経済生活にも重要です。事実近代経済の多くの問題はまさしくこの問題なのです。アメリカの経済社会というのは、日本よりも古いので官僚主義的な色彩がより強く現われ、硬直した部分も沢山有るわけです。まあこれは年令の故といえるでしょう。

日本の官僚は例えば韓国やタイのような若い国と競っていかなければならないのですが、アメリカと同じ問題に直面すると、私は考えていますが、私が言いたいのは官僚機構を批判するさい、それを政府の悪としてのみ考えてはならないということです。認識しなくてはならないのは大きな組織には、それなりの当然の帰趨といいますか、避けられない結末というものがあるわけです。そうはいいつつもそれが硬化症を起こさないように、又自己保存、無能化に向かわないように気をつけていかなければならないと思います。

 

ベル

私は一つ希望の光を投げ掛けて、中沢さんにも満足して戴きたいと思うのですが、まず光の話から、私は光は技術だと申し上げました。しかし、技術というのは物ではなくて物の考え方です。より大切なのは脱工業化社会における新しい類の技術というものは、知的技術だということです。そして生産の分野における新しい技術というのは、物のサイズをどんどん小さくしようとしていることです。例えば、デトロイトの巨大なリバ−ル−、あるいは大きな製鉄工場というものはサイズがどんどん小さくなってきて、いわゆるダウンサイズが行なわれています。フレキシブル・プロダクション、すなわち昔家内工業だった様な規模に戻りつつ、一方で非常に複雑な、高度な技術を持つという道を辿っています。詳しくは説明いたしませんが、例えば北イタリヤでは急激な成長が見られまして、実際北イタリヤの成長率は日本よりもいいんです。その北イタリヤの成長というのはいづれも小さなスケ−ルの生産からきているわけです。 例えばベネトンのようなテキスタイル、プラスチックスとか、あるいカブなどの小さな企業が揃っているわけです。ですから新しい技術を採用しようとする能力と意識さえあればガルブレイスさんが言われたような問題は避けられるのではないでしょうか?すなわち官僚主義の問題や、大きすぎる故に無能化の問題です。

さてここで光と影の問題に戻しますが、このようにに世界のごく一部にとってではありますが、新しい技術の可能性、物の生産における新しい技術の可能性があると思います。

 

中沢 新一

折しも、今ベルさんがおっしゃった事と殆ど同じ事を考えています。その新しいニュ−テクノロジ−というものがどういう形になるのかということの原理について、今までのすれ違いもあったと思います。梅原さんの発言数が少ないので、どっとやっていいですよ!

 

梅原 猛

やはり日本人はどうしても謙虚でありまして、発言が少なくなるのですけれど、まああの幾つか大変、私は意見の一致するところもあるのです。

ガルブレイスさんのお話にように、つまりマルクス主義が、によって指導された社会主義社会が崩壊して、そして自由主義社会が又やはり唯一の人類の、幸福に生きられる社会であるということが解ってきたと、だから今おっしゃったようにアダム・スミスのような自由放任という思想でいいのではないかということになっているんですけれど、私はそこに新しい倫理的な制限が必要ではないかと、やはりそこはそういう、その自由主義、資本主義が人間の物質的欲望を否定するモラルにかけていると、マルクスの資本主義社会は欲望の社会であるという批判は、マルクスの処方箋は間違っていたけれど、その批判は正しいのではないかという風に私は思うんです。だから私は今後の一つの自由主義社会の方向として、人間の物質的欲望を制限する何らかの機構をこしらえることが出来るのかどうかということが、私は重要な問題であると思うんです。それが今のベルさんの話の中のハイテクの話し、これは中沢さんが出した説をベルさんが受けて批判されたのでございますが、私も夢中になってハイデッガ−を読み、譚読した青春時代を持っておりますが、ハイデッガ−の哲学の長所と限界が私には見えているのです。その長所というのは、やはり誰もが近代の誰もが指摘しなかった、やはり近代西洋文明の合理主義、文明の限界というものをですねえはっきり認められたものであり、これは私はどうしても強調しておかなければならない点です。

特に、ハイデッガ−にニ−チェという本が有りますが、そこでニ−チェを引用して近代を批判、近代について論じておりますが、そういう合理主義を批判することにおいて大変彼は卓越しているけれど、その処方箋は出ていないと、それはベルさんおっしゃるとおりで、処方箋出ていないとややもすれば非合理主義に見える。そういう点が確かにある。

そして、闇の有るところ光もあるという非常に予言者的な言葉で彼の哲学が終わっているのです。私はハイデッガ−に影響されましたけれども、もうちよっと合理的な言葉に置き換えてみたいと、そしてハイデッガ−のいう存在の生きている社会、そういう社会というのは私はやはり、むしろ原始社会に置きたいのです、つまり狩猟社会、狩猟社会の哲学というものは大変これは神話的で非合理なものが多いんです。にもかかわらず人間生きとしあらゆる動物、植物との共存の命と考えているのです。人間を完全に自然のなかに取り入れられたものとして人間を考えている、そして人間のリサイクルの、リサイクルと自然とおなじような、リサイクルしていると、そういうような哲学だと思うんです。私はこういう哲学が人類の発展させなかったかもしれない、しかし、滅ぼさなかった。滅ぼさなかったと云うことは私は大変重要だと思う。そういう哲学がだんだん滅びていくんです。どういう風に滅びていくかというと、人間を世界の中心に置いてくる。そして人間の傲慢を説いてくる。そして人間の自然への支配を許す。人間の、動物や植物は物だと、生きているものではなく物だと、いう哲学が支配しているわけです。私はですね、そういう哲学をやはり改めなければ、ある意味で云うと旧石器時代に戻れと、しかし、旧石器時代に戻ってはならないとこがあるんです。それは技術で、近代科学技術であるんです。だからそういう基本的な旧石器時代の世界観の方が正しいんです。正しい世界観とどうして技術というものを結びつけるか、これは大変大きな問題でございますが、私はその点でハイデッガ−のような資本主義者ではありません。それから、もう一つだけ言わせて戴くと、その心と物の関係でございます。そして日本人はですね、非常に欲望に、物に耽って、欲望に耽っているのは拙いという考え方があるんです。そしてもうこういうような生産は止めてしまわないとダメだという云うような考え方が一方にあるが、私は日本が、日本人が、作っている製品ですね、あれは長い間、丁寧に、丁寧に、田畑を非常に芸術的に、あるいは花を芸術的に作った、そういうような心をこめて、自動車を作り、テレビを作っているのだと、こういう心がやはり日本の製品の中に生きているんだと、これが生きている限り私は非常に大事なことだと、日本の繁栄はこれからも続くだろうという風に考えております。ただそういう心をこめて物を作るということを越えて、もっと欲望が肥大していると、この肥大した欲望を私はやはり何らかの倫理的規制を用いて私はそれを抑制することが大きなこれからの課題になると、ガルブレイスさんは具体的なことをやれとおっしゃったですけれど、そういう倫理こそやはり具体的な何らかの倫理が、そこに法則がいる様な気がいたします。以上です。

 

中沢 新一

このセッションの残り時間も殆ど無くなってしまいましたが、ガルブレイスさんとベルさんに1分ずつ差し上げます、まだ後半も残っていますが、ここで言い残したことをどうぞ!,まずガルブレイスさん。

 

ガルブレイス

それは1分で言えると思います。つまりベル先生にも同意して戴けると思うので、やはり大きな官僚主義的な企業はこれからも私達の経済生活というものを支配していくのは間違いないであろうということを理解して戴きたいのです。特にベルさんが触れられた北イタリヤではそうなることは確かです。ところでもっと重要な指摘をしておきたいと思います。すなわち、ベルさんに是非とも技術という観点を越えて考えて戴きたいと思うのです。ベルさんはどうも技術という辺りに重きを置いておられるようですが、芸術の役割についても考えて戴きたいのです。物事がうまくいくようになれば、外観をもっと良くしようと追求するのが人間の本性ではないでしょうか?芸術的な伝統というのは偉大なる技術の伝統を越えるものであり、その延長上にあるわけです。ですから具体的な形で申し上げると、北イタリヤ全土でもそうですが、特に戦後イタリヤがあれ程までに輝いてきているのは、その技術的な成果が大きいというよりはむしろ、驚くほど高い芸術性、そして質の高いデザインによって物を作っているからなんです。これは極めて単純な例ですが、日本でもアメリカでも自動車には野暮ったい名前はつけないわけですね、少しでもデザインの良さを名前から感じてもらおうと、何となくイタリヤ的な名前しか付けないわけです。あまり平凡な名前だとダメというわけで、例えばアメリカでノ−ス・ダコタと言うような名前はないんですね、しかし、トリ−ノという美しいイタリヤの都市の名前は良いわけです。

ベルさんが言われましたような、イタリヤの小さな企業というのは技術が卓越しているというよりも卓越したデザインがそこにあるのです。

 

中沢 新一

ベルさん、本当に時間が無くなってすみません、どうぞ!

 

ベル

私は大変感心しております。ガルブレイスさんの話しにはまだ余韻が残っているようでして、私の申し上げました、より世俗的な事柄についてのお答えは大変素晴らしいものでした。私は今日、冒頭でレオナルド・ダビンチの話をしました。ダビンチは芸術である絵画に、数学的な遠近法という技術を持ち込んだ人です。したがって、私は反対しません、驚かれるでしょうが、反対いたしません。それが又このセッションにおける皮肉でもあります。1分戴きましたので私自身の声で申し上げたいことがあります。そして皆様も注意して聞いて戴きたいと思います。皆さんは少しもも重要だとは思っておられませんが、物事の奥にある本質的なものを指摘したいのです、梅原さんと中沢さんは私のモダニテイ−に対してアンチモダンなことを言われました。世界には非合理性と合理性のまったくない無合理性と、合理性の三つがあります。私はその中で合理性の考え方を支持するものです。無論、合理主義に限界があることは、学校に通っている生徒でも知っていることですし、大袈裟にハイデッガ−を持ち出さなくても誰でも知っていることです。例えば、理解しにくい中東の最近の行動、今イスラエルが破壊されようとしていますが、既に中東には様々なスキルや能力があり、大規模な開発も出来るのに、レバノンは何故リベリヤのようになっているのですか?それどころかなぜレバノンはツキデイデイスのいうポネス戦争を引き起こそうとしているのでしょう。ツキデイデイスの云うところのゴリントス革命が現代まさにレバノンに起きているのです。中東の問題は非合理的、かつ無合理的な行動が何故起こるかということなのです。21世紀に私が恐れていますのは、民族戦争です。過激な復古主義や非合理主義かつ又無合理主義に基づいた戦争が再び起こるかも知れません。何故ならば前の戦争はまさにそれが原因だったわけです。 

 

中沢 新一

残念ながら、又、本当に少しですよ!

 

梅原 猛

私は著書を読んで、ベル先生の方がガルブレイス先生よりも私に近いと思いましたら、印象は反対でして、ガルブレイス先生の方が大変私に近いと、ベル先生の方が遠いということを発見しました。私は今のベル先生の非合理の問題でも私達は中沢くん含めて非合理の味方ではないんです。そういう単純な合理と非合理の問題ではとても今は解決できない問題が増えてきたと、やはり私は何か技術盲信がベル先生の背後にあるような気がしてならないのです。最後に両先生、まあ意見も一致しませんでしたけれど意見の一致しないところを徹底的に討論し合うと、この精神が私は日本人には欠けていると思うんです。そして意見が違っても、意見の違ったもの同志、友情が持てる、これがやはり私はヨ−ロッパに学ぶべき精神だと思うんです。今日二人の激しいやりとり、私とのやりとりを私は拝見しまして大変感動しております。以上です。

 

中沢 新一

はじめはどうなるかと思いましたけれど、唯一の共通点というのは新しい合理性というものが必要になってきているという点では、何かこの4人は一致しているような気がします。ただ合理性をどうやって追求するか。その新しいというのがどういう意味を持っているのかということについて、まだまだ沢山議論を重ねていかなければならないと思います。又後半同じ、追加で出てきて討論します。この問題が多分、今の問題と絡めて大きくテ−マになると思います。第一部のセッション有難う御座いました。

 

堀内

第一セッションが終わりました。最初の基調対談と今の討論、両方お聞きしておりますと、いろんな声を私達、じっと耳を傾けていると聞こえてくる様な気がします。一体、人間というのはこの20世紀の後半の時点で非常に傲慢になっている面があります。それを謙虚な形で反省した場合に、一体次にどういうような人間像を作っていったらいいのか、という価値観を私達は作り出すべきか、物を作ることから新しい価値観を作るべきなのか、こういうのが第一の声であります。地球という私達の住んでいる惑星でございますが、これは実は天体という、単に物質的な物ではなくて様々な生命体が共存して生きている、これを謙虚に、暖かい目で見ていくことを地球を離れて人間というのはありえないのではないかとすれば、この第一セッションで私達が幸福とか、幸せというものを考えたわけですが、まず以て冷静に考えつつなお暖かい目で地球を見、自分の心をもう少し変わった、違った面から汲み上げて、組直していくべきである。これが皆さんの共通した結論だろうと、私は伺っておりました。その地球を一体科学者はどう考えるのか、これが第二セッションのテ−マになるわけです。楽しみでございます期待することにいたしましょう。

 

表紙の目次に戻る