<生月町と鯨の歴史>
生月島捕鯨概史
平戸島周辺の捕鯨業は、寛永元年(1624)紀州藤代の藤松半右衛門が10艘の鯨船で、生月島の隣の多久(度)島を拠点に突取捕鯨を行ったのが始まりとされる。
生月島では17世紀には、平戸など他の地域の突組が、時折入漁しているが、生月島民による継続的な捕鯨業が始まったのは、享保10年(1725)に舘浦宮の下を拠点にした、畳屋(のちの益冨)又左衛門正勝と田中長太夫の共同経営による突組の操業が始まりとされる。この突組は、翌年より畳屋家の単独経営となるが、享保14年(1729)根拠地を島の北部の御崎浦に移し、さらに享保18年(1733)網掛突取捕鯨法を行う網組の編成に移行することで経営を安定させ、その功で平戸藩主から益冨の名を贈られる。その後、益冨組は、元文4年(1739)には当時日本一の漁場である壱岐の二大漁場(前目、勝本)を、土肥組とともに永続的に使用できるようになり、経営を安定させる。さらに19世紀に入ると、壱岐の漁場を全て手中に収め、網組5つを経営する、日本一の鯨組に発展する。しかし幕末に入ると、日本近海に進出してきた欧米捕鯨船の活動で、背美鯨をはじめとする鯨の回遊数が激減したため、明治7年(1874)には益冨組も捕鯨からの撤退を余儀なくされる。
生月島では、その後明治30年代まで、他所の会社経営による網組の操業が続いているが、その後、生月島の水産業の主軸は鰯巾着網へと移っていっている。
一方、明治15年(1882)から、平戸瀬戸などでアメリカから導入された捕鯨銃を用いた銃殺捕鯨が開始されるが、それに生月島からも多くの捕鯨経験者が参加している。平戸瀬戸の銃殺捕鯨は、昭和22年(1947)頃まで断続的に続けられている。
生月の鯨料理
江戸時代中期から昭和22年頃まで島民の捕鯨との関わりがある生月では、伝統的に様々な鯨料理が食べられてきた。近年、商業捕鯨の禁止の影響で、鯨肉の価格が高騰し、入手が難しくなっているが、それでも正月やおくんち、様々な祝いの席には鯨料理は欠かせないものとして登場する。
鯨肉の入手
昭和二十年代頃、島内に鯨を売る店が何軒かあり、冷凍鯨や塩鯨を売っていた。またその店の奥さんは、テボに鯨肉を入れて天秤棒でかついで田舎を回り、得意さんの家を売って回った。顔なじみの家だと留守の場合も勝手口から入って、鯨肉を置いていくことがあって「今日はいらないのに」と思いながら買ったりしていた。今は鯨を売る店はなくなったが、屋号のように「鯨屋」と呼んでいる。また、昔は桶に皮身鯨を塩漬けにして保存し、必要な時に切って使っていたという。また皮身鯨をいためて、出てきた油分をラードにして保存し、いためものなどの料理に使っていたそうだ。
行事と鯨料理史
かくれキリシタンの一般的な行事では、オラショを唱えた後に酒肴をいただくが、その時の肴(セシ)に、今はユガキモン(湯がき皮鯨)や冷凍の赤身鯨が多かった。また酒肴に続いて御飯と汁が出る場合は、小皿に鯨の入った膾を持って据え、届けという祈りを唱えていた。その他の祭事にも、幸いが大きくなるようにという縁起担ぎとして、鯨の煎焼やカマクラなどの鯨料理がだされていた。
平戸捕鯨年表
〔初期捕鯨時代〕
| 縄文時代(約6千年前) | 平戸瀬戸で石銛を用いた突き捕り捕鯨が行われた | 狩や漁が行われていた。磨製石器、骨角器の使用。 |
〔古式捕鯨業時代〕
| 元亀年間(1570〜73) | 尾州(愛知県)師崎で突取捕鯨業が始まる。 | 〔室町時代〕 |
| 寛永元年(1624) | 紀州(和歌山県)藤白の藤松半右衛門組が度島に出漁。 | 〔江戸時代〕 1609年 オランダ商館を平戸に置く。オランダと貿易開始。 1616年 ヨーロッパ船の来航を平戸と長崎に制限。 1637年 島原の乱。 1639年 ポルトガル船の来航を禁止し鎖国を完成。 1687年 生類憐れみの令が出される。 1774年 杉田玄白、前野良沢らが解体新書を著す。 1823年 シーボルトが鳴滝塾を開く。 1837年 大塩平八郎の乱。 1841年 天保の改革。 1853年 アメリカのペリーが来航し、浦賀で開国を要求。 1854年 ペリーが再び来航し、日米和親条約を結ぶ。 1863年 薩英戦争。 1867年 大政奉還。 1868年 江戸城開城。 |
| 寛永3年(1626) | 平戸の平野屋作兵衛が度島で突組を操業。 | |
| 寛文元年(1661) | 的山大島で井元弥七左衛門が突組の操業を開始。 | |
| 延宝5年(1677) | 紀州太地で太地角右衛門頼治が網掛突取捕鯨を開始。 | |
| 延宝6年(1678) | 深澤儀太夫勝幸が五島有川湾で網掛突取捕鯨を開始。 | |
| 正徳年間(1711〜16) | 呼子(唐津市)の中尾甚六が突組を興す。 | |
| 享保10年(1725) | 生月島で畳屋(益冨)田中共同突組が操業開始。 | |
| 元文4年(1739) | 益冨組と土肥組が前目・勝本漁場の交代使用を協定。 | |
| 文政3年(1820) | この頃より益冨組、壱岐の前目・勝本両漁場で操業。 | |
| 天保3年(1832) | 益冨組が図説『勇魚取絵詞』料理書『鯨肉調味方』製作。 | |
| 弘化3年(1846) | 壱岐で翌春迄の漁期の漁獲が半減。以降も減少。 | |
| 明治7年(1874) | 生月島の益冨組、捕鯨業から撤退。 | 〔明治時代〕 1871年 廃藩置県。 1889年 大日本帝国憲法が公布。 |
| 明治15年(1882) | 平戸瀬戸で銃殺捕鯨が始まる。(昭和22年頃まで) |
〔近代捕鯨業時代〕
| 明治32年(1899) | 遠洋捕鯨株式会社の砲殺捕鯨船・烽火丸の実験操業開始。 | 1897年 八幡製鉄所ができる。(1901年から作業開始) 1902年 日英同盟。 1904年 日露戦争が始まる。 1905年 ポーツマス条約。 |
| 仙崎(山口県)で岡十郎らが日本遠洋漁業株式会社設立。 | ||
| 明治39年(1906) | 東洋漁業所属の砲殺捕鯨船が国内で操業開始。 | |
| 昭和9年(1934) | 日本水産が捕鯨船団を南氷洋に派遣。 | 1929年 アメリカの不景気が世界に広がる。 1939年 第2次世界大戦が始まる。 1946年 日本国憲法が公布。 1964年 東京オリンピックが開催。 |
| 昭和30年(1955) | 五島福江島で大型近海捕鯨開始(昭和48年まで) | |
| 昭和63年(1988) | 日本、南氷洋などの商業捕鯨から撤退(一部鯨種除き) |
| 青字 西海捕鯨に専ら関係がある事項 | ||
| 赤字 平戸市周辺に関係がある事項 | ||
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