父親が記録した娘のこと、毎日記録に残そうとしたが、
1999年から(発病1998年)

8 4

 子供がまた病院に入院、再発だと言う。一番心配した状態になった、

肺、背中が痛いという、父にはどうしようもない。ただ悪化しないことを

願うだけ。

8 5

 心配で仕事に身が入らない。

8 6

 休み インタネットで資料を収集最悪だ 40パーセントか

8 7日 関東に居る友人から9時ころ夜電話があり。娘のことは

 良くないと言うほかない、 9月こちらにくる、合えるか

 子のぐあいが良ければいいが。

 

8月11日

 夜に電話。お父さんハンバーガー食べたい。モスがいいと元気の無い声、あす会社が休

13日はお盆だから自宅静養を許可してもらえ。自分で看護婦さんに聞いてみたらと教えた

8月12日

3時過ぎに、息子とモスバーガーを買い病院に向かう、おばサンばかりの病室にいた

 飲み物とお金をやる、明日帰るからもって行った食べ物はいらないと言い言われた

インターネットで調べたこと病気のことをプリントしたものを見て欲しかった

これからの自分が多少わかるのではないか、時間がないから

8月13日

 

仕事しながら子供のことを考える。今日きたら由記子の好きな食べ物は何か

肉、果物、ケーキ、鮨昨日行ったスーパーに行き買おう

仕事を終えて帰宅したらまだ帰ってない。電話がありエルバートで食べ放題

の夕食したい。早速電話したら 5時から予約が入り混雑するらしい、それで

連絡する、

冷蔵庫には,昨夜姉が持ってきた夕張メロンが冷えている、労金で金下ろしたあと

市場で買ったスイカも冷えている

 夕方、母親の方のばあさんから電話が有り隣家に行く、果たして孫の病気をどこまで

分かっているのか、苛立ちが募る。

本荘市の叔父サンの初棚は行かないで子供そばに居ることにした。

8 14

 

8 15

 早く風呂に入らせ。夕食 ビールで乾杯、飲ませはしない。

また来た時好きな食べ物を準備してやるぞ。

何でも先生に聞いて。我慢しないこと、何かあれば父が駆けつけるからと

病院に送り出した。母の車で向かう

9月3日

 早々 会社を退社、家に着たらまだ着ていない。

 夕食前にスーパーに行きあの子の好きな物を買う。

 ジュース、きのこ類、肉、チーズ、甘いお菓子は

腫瘍の餌になってはたまらない。前のオペに好きな物を食べさせたのは

腫瘍が大きくなるために食べたようなもの。病院に約束の5時まで行くと返事、最後は痛くない、大丈夫としか言えない。

今度は別の食品を(腫瘍に効きそうな食品)

しかし2日目にばれた(医者でもないに余計なことをする)

夕食時、弟に癌保険を掛けろという。

普通の保険は掛けている。私の母は胃がんで死亡したと言うと、

遺伝だと言う、そうならお前の従兄弟も関係が有るのだ、と

その後は察すが言えなかった。(原因が誰か)

 

9月4日

 3人でフアミレスに行く。

食べ放題だがなんか落ちつかないたくさんない。

もしかすると4人で

食事するのは数えるほどしかないかも、

家にきて

こんどはおれが留守番

 

9月 5

 ペンキを塗る。  息子が屋根に上がり手伝う

子にもチョトやらせる

3時は風呂にはいるようにした、

姉がきた従姉妹と

4時ごろ帽子がほしいと出かける

そのあとばあさんがきた心配してきたのだ。

どちらか早く他界するか分からない

6時過ぎ病院に向かう。

まだまだ長い入院生活が続くのか。

手術が無ければと祈るばかり。

9月14日

 病院から電話が有り15日から19日まで自宅静養できると連絡が有る。

 治療のけじめついたか、叉にぎやかな家庭に戻るか

9月 15

 母が勤めの帰りに迎えに行くから遅くなるが5時にきたがもう

帰宅していた、夜に妻俺が口喧嘩したあいだ玄関を出で行く音がするどこに行くのか

何と、医者に自転車に乗ってもいいと言われたと楽しそうでに言う。

娘が自転車に乗らなくなって一年になるか、痛い足を引きずりながら歩いた昨年

 早くいけば大事にならず済んだのに、

9月16日

 楽しそうに 自転車でサティーまで行ったようだ。

高校生で有るから補導されないように注意する。

 

9月17日

 バーベキューの道具を買いに行く、スミを使うのは時間が掛かるから小さいので我慢しる

 夜 お好みや焼きも焼く

日中に作ったやつだ俺が材料を買いに行く。

この事がまだつづくのか、長いこと無いのか

9月18日

夕食ごラーメンを残した、どうして食べないんと聞いたら

長いことないから今のうち食べるるんだというのだ。

成るほど、いやそうまでして食い意地を張る必要は無いと思う。

あすを約束されない人間ではないから。

  

2000

1 27

年も明けた、このまま大丈夫かと思い油断した。

1 週間の予定で入院中、たいしたことがなければいいが、

出向者の送別会、記念品代込みで 7000円高い。

子供に食べたい物を買いたい。  できることなら欠席したい。

ましてや幹事の一人、嫌な役が回ってくる。

娘を心配しつつ 12時が廻っていた。

家に電話を掛けない時に限って良くない話しがある。

1 28

金曜日 先生が話しが有るから 1030分まで病院にくるように妻に話したそうだ。

悪い話でないか、寝不足気味のからだを起こし病院に 2人向かう。

先生の話しは後 23ヶ月の余命あまり、肺の機能は健康の人と比較半分、病気も左右の肺に進んでいる。

モルヒネを健康の人が使えない量まで増やした、から家に少しでも置いたほうが言い、

何か有れば先生3人居るから何時でも来てもいい、と言われた。ショックよりも

来たものがきたか、

子は先生どんな話をしたか母に聞いていたが、答え様がない。

私は窓越しに雪が降り続く病棟と烏の飛行を見守るばかり。

12時の病院の昼を食べてと娘が言う、その気にならない。

点滴が終え無いと食べることが出来ない子供の前で。

29日退院する

大型店により3時ころ家に帰る

日中居そうな兄弟に電話をする、一番の姉は脳障害で通院中である。

夜まで 5人兄弟に連絡する、実家の兄貴に電話したら、お前の気持ちがわかると

言われたとき、悲しみが込み上げてきた。

金の準備をする、近くの量販店に行きテレビ、ビデオ、加湿器、炊飯器、保温が効かなくなった炊飯器も新しくした。

古いテレビとビデオでは映りが良くないからせめても好い色で見せたい、時間が無いから、

ばあさんの家で事情を説明する。

そしたらテレビを新しくすると、言ったら反対された。後が無いのだ、いったい何を考えているのだ、そんな母から愚妻が育つのか、

これは父としてやれることの つとめだ 
いや、やらなければならないことだ。

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 仕事が手につかない、涙が落ちそうだ。

 夜配達されたテレビ、ビデオのセットする。

 いつもの退院、祝いの料理が少ないと言う、ピザ宅配を頼む、

娘よ、好きな物を食わせるぞ、

横になっているせいか、吐く、叉食べて吐く、ゆっくり食べろとしか、言えない父だ。

これ以上悪くならない事を祈るだけ、

1 30

会社を休む

特に俺がやる事も無い。昼頃おばあさんがくる。

心配して、由記子なんとしている、と言いきたが、

電話が鳴ったら、2階の娘、ポカリスットを (PHS)

買って来て暮れと息を切らしながら頼んできた。

慌て近く商店に掛けこむ、

ぐわいが良くないのか、体温計を取れと言うのだ。

体温が上昇したのか、

だから会社を休んで良かった。

夕方にPHSを買いにゆく、

通帳の印鑑が無ければだと言われもう1回雪道を歩く

カードで言いとパンフレットには有るが、

明日でないと出来なと電話があった。

あいかわず吐く、病院に行けばいいか、家に帰ることがないかもいれない。

気が早く、写真が有るか。互助会はいるか、まだその段階ではない。親族で

1月31日

遅番、妻を休ませる、

昼に近くラーメン店の出前3人分頼む、本人は殆ど食べない。

息子の分は麺とスープを別にする

この前までは喜んで食べたのに、きゅに疲れた食欲がない。

PHSがやっと手に入る。母とこれで遊べるとお茶を濁す

緊急連絡用に前から計画して置いた。

マイカーの移動中連絡が取れる。

俺も持ちたいが、

 

2月1日

病院に診察予定、午後から、

母は午前中パートの出る、外に出ず家の中を清掃する。

まさかの場合ではないが、家の中を綺麗にし、多少でも肺を楽にしてあげたい。

2階のカーテン、レースの洗濯する。

昼に婆さんが来てカルピスを持ってきた。

2時からだからその前にファミレスにより食べていくと早々出て行く。

5時ごろ電話があり、MIRに入ったと、無駄だはないか、いや、進行がとまれば

奇跡を祈るだけだ。

息子が鮨いたいというから帰り買ってこい、母に答える。半分も食べられるか。

風呂の水を取りかえる。

家に帰ってきて階段の上がり降りでハハ言う、疲れるからお母さん風呂に入る準備して

くれと訴えるがハハは鈍感だ。

明日学校に行くと言い出した。この前みたいにタクシーでくることになるだろう。

今日こ俺が休みだかいいが、誰か必ず家に居なければ緊急時に対応できない。

昼、夜散歩すると、娘の小さい時を思い出して涙がとまらない。

 花見の時だった。近くの川で綿あめを初めて持たせたら、食い物だと思わなかったのか捨てた。幼児期のおもいでだ。

私の給料だげだったので外に連れていく時が無かった。

幼稚園の時、授業参観に行き、教室から外の景色を眺めて自分の幼児期を思い出していたのだ。家に帰ってきたら、お父さん私を見ないで外ばかり見ていたと言われ、娘に済まないことをしたと反省させられた。

送り届けた幼稚園は現在、廃園に成り、寂しくたたずんでいる。散歩途中に通かすると

あの子が走り寄ってきそうでつらい、

園祭に行き娘の工作した粘度細工に使われている色の多さに驚いた。こんな才能があるのか、新しい発見である。

近くに小学校がある、運動会、写真を撮りに行ったのは昨日ようだ。

2月12日

母親が会社休み、

昨日から個室に移動、相部屋のおばサンがウルサク眠れない。

今日雛人形を飾ればいいが、やっていない。

7日から入院しているが、叉退院できるか分からない。

昨日、家の中を整理する。

もしものことを考えて。

会社の仲間との温泉旅行は中止だ、いくどころの話しではない。

 

 

 

 高校生に入学してから買った自転車、1年生でわずかに使用した。
 新車と同じようだ、今は小屋に主を亡くしたまま埃を被っている。
 
亡くなる前年の秋に担当医の許可をもらい、家の周りを乗っただけである。
  楽しそうに乗った娘の事がまぶたに浮かぶ。

 

足を悪くしてから履いた靴、右が潰されている。まだ玄関に置いたままで主を黙ってまっている。

 玄関に飾ってある絵、杉山 作である。
結婚るとき気に入った絵を会社の同僚から記念品として貰った物である。
パンジーの廻りを蝶が一匹飛翔する絵である。


下のは担当医が病状を家族に説明した時、書いてくれた物である。12月の夕方であった。