ヒーローから生き方を学ぶ道徳授業
「本田宗一郎‐モノづくりにかけた日本人の気概」吉田高志氏の実践追試
本田宗一郎氏の写真を見せる
発問:今日の主役です。誰でしょう。 |
テレビなどに頻繁に出る方でないので、なかなか出ません。しかし、昨年、
ホンダ自動車工場に出かけて見学しているので、そこからきりこみました。
ヒント「去年、社会科で勉強しました。」自動車?
「実際にその場所にも行きました。」豊田?ホンダ?
「18歳になると取れます」免許だ。やっぱり車だ。
ここまでで、分かった子は5,6人。「ホンダ」とノートに書いていた子は2人
いました。
説明:正解は、ホンダ(本田技研工業)の社長だった人です。本田宗一郎さんと言います。 |
説明:本田技研工業は今までで三回、世界をあっと言わせています。 |
発問:宗一郎は、仕事に大変厳しい人だったといわれています。彼が工 場にやってくると、行員たちはあわててスパナやヤスリを片付け たといいます。なぜでしょうか。 |
・
きれいずきだったから・道具を大事にしないとおこられたから
・
失敗した自動車を工場で作り直そうとしていたから
・ 失敗作を見つからないようにした。
・ きたなくしているのを嫌がったから。
説明:宗一郎が怒り出すと、スパナやヤスリを投げたり、時にはそれでたたいたりしました。当時の行員たちも、「どなられることはしょっちゅうで、殴られることもたびたびあった」と話しています。それでも仕事に全力投球する宗一郎の姿にひかれ、工員たちは宗一郎を助けて懸命に働いたそうです。 そんな宗一郎の仕事ぶりについて、こんな話が残っています。昭和9年。宗一郎はピストンリングの製作に取り組みます。ピストンリングとは、自動車のエンジンに使われる重要な部品の一つです。彼は苦心して作り上げたピストンリングをトヨタ自動車に納めようとしましたが、1000個のうち、3つしか使えないとつき返されます。自信をこなごなに打ち砕かれた宗一郎は、ひどい神経痛に見舞われるようになり、2ヶ月間も療養生活を送らなければならなくなりました。 |
発問:病気から復帰した宗一郎は、再び、ピストンリングの研究を続けたと思いますか。 |
続けたと思う−・負けず嫌いだから ・すごいものを作ろうと思った
・続けなければえらくなっていない・やりたかった仕事だから・根性があったから
続けなかったと思う−・自信を打ち砕かれたので、別のものを研究して、作ろうと
した。
説明:病気から復帰すると、今度は「ピストンリング研究所」という看板を作り、再びピストンリングの製作に没頭します。ところが、看板は上げたものの失敗の連続でした。とうとう、従業員にまではらう給料もなくなりかけました。苦しみぬいた宗一郎は、工業高校の聴講生になることを考えます。一から勉強し直そうと考えたのです。このとき、30歳でした。一から勉強し直した宗一郎は、その後見事にピストンリングを完成させ、ピストンリング関係だけで、30件近い特許をとりました。 宗一郎の左手の人差し指と親指は右手に比べて1センチ以上も短くなっています。50年を越える仕事で指先が削り取られてしまったからです。天才技術者と呼ばれるには、影に絶え間ない努力があったからです。 |
発問:こうして世界のホンダを作りだした宗一郎は、1973年に社長を退任します。そして、あることをすると言い出して、周りをあっとおどろかせました。そのあることはなんでしょう。 |
・環境に優しい車をつくる ・もっとすごいレースに出る。
なかなかぴんとこないようです。
ヒント:日本全国です。時間がかかります。今までの宗一郎の性格や人柄に
関係があります。
ぽつりと一言「工場?」といった子が。
説明:そうです。工場に関係があります。本田技研のすべてのサービス向上や販売点を回って従業員にお礼を言うと言い出したのです。全国に数千はある工場や販売店をすべて回るというのです。一年半にも及ぶこのたびはたいへんハードなものでした。一日に400キロも車で走ることもありました。それでも宗一郎は元気で従業員が2,3名しかいない小さな販売店にもまわりました。 ある販売店の工場の従業員と握手していたときのことです。ある若者が宗一郎に握手してもらおうと手を差し出しました。ところが、その手をあわててひっこめてしまいました。自分の手が油まみれになっていることに気がついたのです。この若者は自動車の整備をしていたのですが、宗一郎を見て感激し、自分の手が油で汚れていることに気づかなかったのです。 |
発問:油まみれ手を差し出された宗一郎は、どうしたのでしょうか。 |
これはすぐにわかったようで、「そのまま握手した」という答えがすぐに返って
きました。
説明 宗一郎は、「いやいいんだよ。その油まみれの手がいいんだ。 俺は油のにおいが大好きなんだ」といって、しっかりとその手を握り、 自分の手につた油のにおいをくんくんかぎました。宗一郎のこうした行動は従業員たちに深い感動を与えました。
宗一郎は社長を退任したあとも、「ミスターホンダ」として大活躍しました。そして1991年。静かに息を引き取りました。車作りに一生をささげた天才技術者85年の人生でした。 |
最後に、日本人はモノ作りが得意で大仏や鉄砲など、外国の製品を真似し、
改良して、世界に輸出 できるすぐれた工業製品を作ってきたことを話しました。
発問:この話を聞いてどう思いましたか。感想をノートに書きなさい。 |
多い子は、作文用紙一枚にわたって感想を書き、自由学習でもその人のいき
ざまについて触れていました。自分の行動に照らし合わせられる「日本人の気概」
の授業は大切である。
感想―
★病気のあとにまただめだと言われ物を毎日作ったと聞いて、びっくりした。な
ぐったのはひどいと思ったけどそのあとに握手をしたと聞いて、優しいと思った。
★あきらめないで努力すると実現したりするから、努力という字は改めてすごい言
葉だと思った。口だけとは違うと思います。
★何かをやりとげることはとても大変だと思った。本田さんは若い時からがんばっ
て、とても大きい会社を作ってすごいです。
★努力したりして大変だったけど、日本が一番すごい技術を持っているのは、この
人たちのおかげだと思います。
★何度失敗しても、あきらめず何度も挑戦して、できなかったら努力したりと何回
もの失敗と努力を積み重ねてやっと成功したことは努力のたまものだと思いまし
た。失敗してそこであきらめていたら、ホンダはなかったと思う。
★人生のほとんどを車にかけて、しかも指がけずれるほど仕事をしたのはすごいと
思った。
★本田さんは技術もすごいし、なによりその心意気がすごいと思いました。それに
指の骨が削れるほど努力する人なので、本田さんについていったと思います。
★何年もすれば人も変わるということを始めて知った気がします。優勝するのはと
てもすごいことだと思いました。最後までがんばるのは大切だと思いました。
★本田さんの手が一センチ以上長さがちがったり、仕事をがんばったり、何回も
失敗してもあきらめなかったり、手がよごれていても握手したので、こわくて
も優しい人だと思いました。
★怒るときは厳しく、がんばっている人を見たら、遠いところからわざわざみん
なにお礼に来るような人なので優しい人だと思いました。こんな人だからこそ
社長になれたんだと思います
★人の気持ちがわかひとじゃなければ、大きい会社にならなかっただろう。負け
ず嫌いで得する事もあるんだな。
★本田さんは何でそんなに努力家なのか、ぼくには努力なんてできないと思う。
ちょっと怒りっぽいけど、汚れた手であく手して、優しい言葉をかけたりして
本当にすごいと思った。
★70年間くらい車に人生をかけて、社長にもなって、社員にも信用されていた人
がいただけでもすごい人だと思う。こんなに努力をいっぱいできる人もすごい
と思う。
★16才から85才まで車に囲まれながら生きてきたから、なみ大抵の神経ではない
し、3つのタイトルを取ることも大変だと思う。
★本田さんは夜もねないで一生懸命作ったのにみとめてもらえないで、戻されたら
すぐにあきらめる気がするけど、高校まで行って頑張ったので、こんな風になっ
て、努力は大切だとわかりました。
★本田さんはとても優しい人だと思いました。ふつうの人の優しさより越えている
から、いくらなぐったとしてもこの人にみんながついていくんだなと思いました。
油のにおいが好きというくらいだから、働いている人も、車もとても好きなんだ
なと伝わってきました。