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よしまつ にへい

吉松仁平

よしまつ にへい

1890.10.25(明治23)〜 1966.4.19(昭和41)

明治・大正・昭和期の実業家(製薬業)

埋葬場所: 16区 1種 1側

 愛媛県今治市本町出身。代々薬舗大津屋(甘谷堂)を営む五世 吉松仁平、カネ(共に同墓)の長男として生まれる。幼名は正房。1910.12(M43)家督を継ぎ、六世 仁平を襲名。1921(10)頃、姓名学を研究した結果、後年は啓陽を雅号とした。
 9歳の時に父の五世 吉松仁平が急逝。祖父に育てられる。漢学塾に通い、また英語も身に着ける。今治中学から大阪薬学校に転校するも、病のため退学。1910.12(M43)家督を継ぎ、6世 仁平を襲名。家業を継ぐ。
 小児解毒散の販売を志し、'19.2(T8)上京。「吉松仁平商店」という家庭薬販売の製薬業を始める。信条を「薬は病む人の苦しさ、弱さを思いやりつつ、また医師にかかれない人のため親身になって作るものである」とした。薬の道、薬を作る道を唱え実践した。
 昭和に入り、婦人科新坐薬「エス球」(女性の生理痛を和らげるための膣坐薬)を開発販売。同時に婦人病や女性ホルモンなど一般大衆が理解を深めやすい解説をまとめた小冊子「新女性読本」を刊行し無料配布(販促広告)し注目を集めた。
 墓相学や印相学を学び、さらに心霊学も極め、数々の神秘現象を現し、さらには姓名学も研究した結果、後年は吉松啓陽を雅号とした。'46.6 細山山荘に居を移す。享年75歳。

<「啓陽・吉松仁平」玉置 石松子(かていやく第24号)>
<墓石より>


墓所 墓所

*墓所入口に「吉松家墓所」の石柱が建つ。神道明道会に入ったことより、正面墓はコンクリート造りの土饅型に神殿が乗る墓が中央に建つ。その右に五輪塔「吉松家先祖代々菩提」、右面「昭和十四年七月吉祥日建之 功徳主六世仁平吉松啓陽」と刻む。左は父で五世 吉松仁平夫妻の墓で和型「故 吉松仁平 / 室 カネ 霊主」、裏面「昭和十四年七月十五日 六世仁平 吉松啓陽 建之」と刻む。右面「愛媛県今治市本町 四世仁平正宜次男 幼名春太郎 明治三十二年二月九日皈幽齢四十四歳」。左面「愛媛県周桑郡三芳村 六世立野信次敬明次女 昭和二年五月二十二日皈幽齢六十四歳」と刻む。

*墓所右側に和型墓石が4基建つ。左から「吉松仁平 / 室 トヨ 之墓」、右面に六世 吉松仁平(啓陽)の略歴、左面に妻のトヨの略歴が刻む。裏面「昭和四十一年十一月十九日 吉松功雄 吉松信二 吉松泰三 建之」。左から二番目の墓石「故 吉松經雄 霊主」、左面「昭和十四年七月十五日 父 吉松啓陽 建之」、右面「昭和十一年九月三十日皈幽 六世仁平啓陽四男昌三 齢四歳」。左から三番目の墓石「故 吉松達子 霊主」、左面「昭和十四年七月十五日 父 吉松啓陽 建之」、右面「大正十三年八月十八日皈幽 六世仁平啓陽長女 齢三歳」。左から四番目の墓石「故 吉松サカエ 霊主」、左面「昭和十四年七月十五日 六世仁平 吉松啓陽 建之」、右面「明治三十二年十二月丗一皈幽 五世仁平五女 齢四歳」。1939.7.15(S14)多磨霊園に代々の墓所を定めた際に、菩提墓と先に亡くなった遺族の墓を建之されたことがわかる。

*六世 吉松仁平(啓陽)の妻のトヨは、明治丗三年一月十四日 川崎市細山 白井森蔵の長女として生まれる。大正十年三月吉松家に嫁ぐ。後年 孝子を選名す。昭和六十一年十一月七日歿 享年八十七才」と墓石に刻む。


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