「吉川線について」
自分で首を吊った自殺体か、殺人による絞殺体かを見極めるのは、難しいが、実は多くの場合、重要な手掛かりがある。
首に生じるいく筋かの引っ掻き傷の有無だ。
仮に、あなたが誰かに首をいきなり絞められたとしよう。抵抗が可能な状態に置かれていれば、息苦しくなるのに、
黙ってされるがままになっているはずがない。自殺志願者でもない限り、必ず絞められた手なり、ヒモなりを振りほどいたり、
もぎ取ったりしようとするものだ。
その際に、自分の首の皮膚にまで爪を立ててしまうことが多いのである。首に傷を付ける痛みなど、首を絞められ、
息ができなくなる苦しみに比べれば、比較にはならない。だから他人に首を絞められた場合、
つまり絞殺ややく殺(ヒモ類は使わず、手や腕で首を絞めて殺害すること)の場合は、被害者の首筋に引っ掻き傷が、
できることが多いのだ。
法医学や鑑識の世界では、この傷のことを「吉川線(よしかわせん)」と呼ぶ。
大正時代末期に警視庁で鑑識課長を務めた吉川澄一が、殺人事件の被害者の首に走る傷の存在に初めて注目、
殺人事件の特徴の一つとして、学会で発表したことから、命名されたからだ。
この吉川線は、他殺だからといって必ず、あるとは限らない。しかし、自殺の場合は、傷ができることはない。
首を吊って体重がヒモ類を通じて首に掛かった瞬間、多くの自殺者は失神してしまい、首をかきむしる余裕など、ないからだ。
吉川線については、被害者の爪の間に、首をかきむしった皮膚や、血液などが付着していることも確認しなければならない。
吉川線が残されている以上は、当然、その痕跡は手指に残る。その際、被害者とは違う血液型の血痕でも見付かれば、
それは犯人のものである可能性が高い。
人は自由を奪われていない限り、黙って殺されはしない。必ず、何らかの抵抗を試みるのが、一般的だからだ。
吉川線の傷を付けながら、手やヒモを退けようとすると同時に、力を振り絞って犯人を殴ったり、引っ掻いたりするものだ。
吉川線は、刃傷(にんじょう)事件の際に、被害者の手や腕などにできる「防御創(ぼうぎょそう)」と、相通じるところがある。
刃物で切り付けられた場合、人は刃物をもぎ取ろうとしたり、刺されまいと手で防いだりする。
そうした際にできる傷が防御創だ。吉川線は刺殺体に残された防御創と同様に、虚しい抵抗の跡。
被害者の無念さの現れともいえよう。