北海道札幌市出身。畜産・酪農家で日本に初めてホルスタイン種の牛を導入した吉田善助の三男。
テンポイントなどを生産した吉田牧場の創業者の吉田権太郎は善哉の大叔父にあたる。
7歳の時に、父が白老町に2000haの土地を購入しサラブレッド生産に着手。幼少の頃から馬と触れ合う。
1940(S15)空知農業学校畜産科(北海道岩見沢農業高等学校)卒業後、社台牧場・千葉富里分場の場長を任された。
戦争のため従業員が減り、自身も結核療養、回復するも二人の兄も病身となったため、分場を一時閉鎖し、白老の本場に戻る。
'45父が没し、本場と分場の両場の管理を担うこととなった。
'55社台牧場千葉富里分場を社台ファームと改め、8頭の繁殖牝馬をもって社台牧場から独立した。
翌年、渡米し、生産・生育法を学び、帰国後、白老を千葉社台牧場社台支場として、富里と白老の二カ所を使った二元育成法を開始した。
'61アイルランドより種牡馬ガーサントを導入。一流の種牡馬といて成長し、'69リーディングサイアーを獲得した。
この頃、日本初の共同馬主クラブ『ターファイトクラブ』を元調教師の佐藤重治と設立し、生産部門を担う。
'71北海道早来に社台ファーム早来(現在のノーザンファーム)を開場。また、'71〜'78長男の照哉を米国ケンタッキー州フォンテンブローファームに据え、アメリカ生産界とのパイプを構築した。
これは世紀の大種牡馬ノーザンダンサーの産駒を手に入れるための使命を担っていたという。
照哉は10万ドル(約3080万円)で小柄な栗毛馬を購入し、ノーザンテーストと名付けられた。
この馬はフランスのG1フォレ賞に勝利するなど活躍し、引退後は'82〜'92までの11年連続で中央競馬のリーディングサイアーとなる種牡馬となる。
主な代表馬にアンバーシャダイやダイナガリバーなどを輩出し、旧来の日本競馬の血統を塗り替えたといわれる。
'78フォンテンブローファームを売却し、千歳に社台ファーム千歳を開く。早来と千歳は生産と育成を担い、白老は生産、千葉は現役馬の休養と調教を行う社台グループを確立した。
千歳では米国で主流の昼夜放牧を取り入れ新たな生産育成法を接客的に導入した。'80ダイナースクラブと提携し、共同馬主クラブ「社台ダイナースサラブレッドクラブ」(社台レースホース)を設立した。
'89(H1)全米年度代表馬のサンデーサイレンスを16億5000万円で種牡馬として日本に導入。
所有者のアーサー・ハンコックがフォンテンブローファームで照哉と親交があった縁といわれる。
サンデーサイレンスは日本競馬史上最高の種牡馬となった。'92宮城県山元町に日本最大の競走馬育成施設、山元トレーニングセンターを開場。
享年72歳。善哉没後は、照哉、勝己、晴哉の三人の息子によって社台グループは再編され、現在に至る。
取り上げられた主な著書として、『繋-社台ファームに生きる人びと』吉川良、『血と知と地 -馬、吉田善哉、社台-』吉川良、『吉田善哉 倖せなる巨人』木村幸治、また宮本輝の小説『優駿』に登場する吉永達也のモデルである。
ノーザンテーストと吉田善哉の像がノーザンホースパーク内に建立されている。