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よしだ てつろう

吉田鉄郎

よしだ てつろう

1894.5.18(明治27)〜 1956.9.8(昭和31)

昭和期の建築家

埋葬場所: 4区 1種 16側

 富山県東砺波郡福野町(南砺市)出身。福野郵便局長を務める五島寛平、ゐく(石動郵便局長を務めた小沢宗八の長女)の三男として生まれる。五島家は江戸時代、代々薬種問屋を営んでおり、明治初年まで寺子屋を開いて地元の子どもたちの教育に当たっていたとされる。長兄の五島寛平(幼名は達二)は福野郵便局長を継いでいる。次兄の五島健三は洋画家。
 中学卒業後は美術学校へ進学を志望したが、兄の反対にあい断念。旧制四高を経て、1919(T8)東京帝大工科大学建築学科卒業。この年、吉田芳枝と結婚し,吉田家の養嫡子となった。
 卒業後は逓信省経理局営繕課に入り、'21 臨時電信電話建設局技師をつとめ、'23 逓信省技師。'31 ドイツで学ぶ。逓信建築設計にたずさわり、東京中央郵便局(1931)、大阪中央郵便局(1939)を始めとする数多くの郵便局、電話局など逓信省関係の建築設計を担当した。無駄を排し極限まで洗練された構造体の表現は、日本における近代建築の中で最も優れた建築として大きな足跡を残した。'33 来日したブルーノ・タウトに浜離宮など各地を案内した際に、自身が手掛けた東京中央郵便局に対してタウトはモダニズムの傑作と讃えた。
 逓信省営繕課の同僚の山田守によると吉田は海外の本から日本の古い建築まで全部研究した上で、最後に自分の個性を発揮する創造的作品をつくっていたと言う。この山田とともに逓信省建築の全盛を築き上げ、逓信建築の先駆者のひとりである。
 初期はドイツ表現主義やエストベリなど北欧建築の影響を受け、後にモダニズム建築の傑作を生み出し、生涯に100を超える建物を設計した。また庭園研究家としても知られた。プロポーションを重視し、部分と全体の究極的な調和を目指す設計手法や、隅々まで高い完成度を有した建築をつくる姿勢は、その後、逓信建築、郵政建築の真髄となり、小坂秀雄、薬師寺厚、内田祥哉、高橋●一らの、日本を代表する建築家に継承されていくように、日本近代建築の普及に大きな影響を与えた。
 '41(S16)逓信協会功労賞受賞。'44.3 逓信省を退官し、一旦故郷に戻る。終戦後、'46.5 日本大学教授となり、病に倒れるまで4年近く、後進の教育に情熱を傾けた。この間、'47 宮内省内匠寮の後進である宮内府主殿寮工務課嘱託。大宮御所御座所を設計担当。また、堪能な語学力を活かしてドイツ語で日本建築を海外に紹介した『日本の建築』『日本の住宅』『日本の庭園』の独文三部作を出版し、日本建築や日本文化を広く海外に紹介した。
 '49 脳腫瘍を患いすべての職を辞任。寝たきり状態の中、『Der japanische Garten』『スウェーデンの建築家』などを口述で著した。'53 著書『日本の建築(Japanische Architectur)』で日本建築学会賞(昭和27年度)受賞。機能主義的立場から日本建築の近代化に対して大きな貢献をした。なお極度の潔癖症でドアノブにも触れることができず、常に消毒液を持ち歩いていたそうだ。東京荻窪の自宅で逝去。享年62歳。

<講談社日本人名大辞典>
<小学館日本大百科全書>
<建材試験情報 vol52 2016 年9月号>
<森光俊様・橋本様より情報提供>


*墓石は石柱に「吉田」。両側に墓誌が建つ。墓所の設計者は、吉田と同じく逓信省で活動し、郵政省大臣官房建築部長、丸ノ内建築事務所初代所長などを務めた建築家の小坂秀雄(1912〜2000)がデザインしたものである。

*墓所左側の寝墓誌は吉田鉄郎から刻みが始まり、戒名は「釋達明」、没年が63才と刻む。妻は吉田芳枝(1973.4.28・75才)で戒名は白道院釋芳信。長男の吉田純(1960.1.8・41才)。純は旧制東京商科大学を卒業したが、落馬による怪我が原因で体調を崩し早世している。右側の墓誌は吉田尚之(H19.1.17・83才)、尚之の妻の登美子(H28.3.16・89才)。

*●は「青光」の一文字。


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