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よしだ ひでお

吉田秀雄

よしだ ひでお

1903.11.9(明治36)〜 1963.1.27(昭和38)

昭和期の実業家(電通)

埋葬場所: 20区 1種 58側

 福岡県小倉出身。旧姓渡辺。渡辺勝五郎・サトの二男として生まれる。9歳の時に父が事故死したため、新聞配達で家計を援助する。 '17(T6)旧制小倉中に入学。同年、横井家の養子となるが、横井家に実子が誕生したため縁組を解消。翌年吉田一次の養子となり、吉田姓となった。
 旧制七高造士館を経て、東京帝国大学経済学部卒業。1928(S3)電通の前身である日本電報通信社に入社。 戦前の電通の規模は小さく、吉田は東大卒の第一号入社であった。営業局地方部内務課に配属され営業活動を行う。 戦時下であっても後輩たちを集めてアメリカやイギリスなどの広告事情の勉強を怠らず勉強会を開く。 このメンバーには後の社長となる日比野恒次や西日本新聞社長となった野口義夫らの俊秀が育った。 論文が好きで「広告は科学である」と口癖のように言っていたという。'42地方局次長のまま常務取締役に推された。 翌年に戦時下の新聞統制令が施行され、一県一紙の時代が来た。欧米の広告システムに詳しい吉田は、新聞広告料を適正にするため、マル公問題に取り組む。 新聞広告の手数料基準を作り上げた。終戦直後、大手新聞社へ乗り込み、15%の手数料を認めさせた。
 '47上田碩三(第三代電通社長)が公職追放となり、後を引き受ける形で43歳の若さで第四代社長に就任した。 戦前の前垂れ広告取りから脱皮し、世界一の水揚げを誇る会社の基礎を築いた。電通の中興の祖ともいう。 「広告の鬼」という異名を持ち、「電通の鬼十則」として知られる哲学を編み出し、広告代理業の発展に尽くした。
 '47日本広告会の結成、'50日本新聞広告業者協会設立し幹事長、'55ICC本部広告委員会委員に就任、'56国際広告協会(IAA)の極東地区副会長、'57全日本新聞社広告会とJIAA(日本国際広告協会)を設立、'58アジア国際広告会議の開催、同年、米国フォーチュン誌が「広告の大鬼」と題して吉田の業績を紹介した。 '59日本放送連合会設立し理事、'62全日本広告協議会が発足し理事など尽力。経団連評議員、日経連常任理事なども兼ねた。 また、日本の民間放送の開始にいち早く取り組み、民放発足後の初期の発展に主導的役割を果たし、'62東芝、電通、民法18社出資のビデオリサーチ(株)を創立し、テレビの視聴率調査装置を完成させた。
 '61国際広告協会(IAA)から吉田がマン・オブ・ザ・イヤーを受賞(アジア初)。享年59歳。歿2日後に従四位勲二等瑞宝章追贈。 没後、'65吉田秀雄記念事業財団が発足。吉田秀雄を取り上げた書物は多く、片柳忠男『吉田秀雄伝−広告の中に生きる男』、『広告の鬼・吉田秀雄』、森崎実『忘れえぬ広告人ー吉田秀雄の足跡−』、永井龍男『この人吉田秀雄』、植田正也『電通「鬼十則」』など。

<コンサイス日本人名事典>
<日本の黒幕200人>
<昭和を拓いた100人など>


墓誌

*墓所前面に吉田家之墓があり、その左側に吉田秀雄の墓誌碑が建つ。法名は静秀院釈賢叡。


【電通の「鬼十則」】
1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきではない。
2. 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは・・・。
6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の暇もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
10.摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

 広告というメディアの「血液」をコントロールする電通の前には、モノをいえる新聞社・テレビ局は皆無だった。 吉田はアメリカの広告術を研究し「影の情報局」「築地CIA」と呼ばれた。 戦後のメディア界を代表する黒幕に正力松太郎をあげる人は多いが、その正力でさえ、吉田の前では色を失ったという。


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