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よねざと ひろし

米里 恕

よねざと ひろし

1928.5.10(昭和3)〜 2018.8.25(平成30)

昭和期の大蔵官僚

埋葬場所: 12区 1種 2側

 中国上海出身。父の米里紋吉が日清汽船重役で、長らく中国上海にて上海日本商工会議所会頭などを務めていた時に生まれる。母はハナ(共に同墓)。兄に日本郵船の重役を務めた海運業者の米里正明(同墓)。1936(S11)父の死で一家は日本に戻る。
 旧制都立高等学校を経て、東京大学に入り、国家公務員試験行政職・法律職合格。1951(S26)東京大学法学部政治学科卒業し大蔵省入省。大蔵事務官・大蔵官房秘書課に配属。'53.8 品川税務所得税課、'54.7 東京国税局調査査察部調査第4課、'55.2 国税調査官、同.9 国税庁長官官房人事課を経て、'56.11 富士官税務署長に就任。'57.11 理財局総務課課長補佐心得となる。'58.12 辞職し、'59.1 日本貿易振興会主事補・調査部調査課に属する形で、米国ニューオーリンズ駐在となる。'62.7 辞職して、大蔵事務官・理財局経済課課長補佐で復職。
 '64.6 証券局企業財務課課長補佐、同.11 内閣官房長官秘書官事務取扱、'65.7 銀行局銀行課課長補佐、'67.6 銀行局総務課課長補佐を兼務、'68.6 東海財務局理財部長、'69.5 同局総務部長、'70.7 銀行局金融制度調査官、'72.7 証券局資本市場課長を歴任し、その後、大臣官房調査企画課長、名古屋国税局長、大臣官房審議官を経て、'79.4.19 銀行局長に就任した。
 銀行局長時代には、土田正顕、坂本導聡、鏡味徳房、吉田正輝らと、約50年ぶりに新銀行法改正を成立させ、当時の大蔵主導の金融効率化行政の下、自由競争導入を一歩推し進めた。しかし、新銀行法制定作業を巡り銀行界(全銀協)と対立。銀行界が造反し、渡辺美智雄大蔵大臣に直訴したトラブルで、'81夏に更迭された形で退官させられた。
 退官後、'84 商工中金副理事長、'87 日本証券投資顧問業協会会長を務めた。享年90歳。

<大蔵省人名録など>


墓所

*墓石正面は「米里紋吉一族之墓」、裏面「昭和十一年七月建之」、右面「王一亭 書」と刻む。右側に墓誌があり、29歳(T10歿)で亡くなった米里藤枝、11歳(T15歿)で亡くなった美枝子から始まり、米里紋吉(S11.4.19歿・行年54才)の戒名は善徳院釋智瞭居士。紋吉の妻はハナ(S48.9.12歿・十字架が刻む)。紋吉とハナの長男の米里正明(H12.10.6没・87才)、正明の妻の幸子(H26.8.30歿・93才)。米里恕は俗名と没年月日、享年のみが刻む。妻は安子(H15.3.13歿・76才)。

*米里紋吉(よねざと もんきち)は日清汽船専務取締役などを務めた実業家。中国上海に長く移住し、上海日本商工会議所会頭を務めた。中国の経済事情や抗日運動・日貨排斥運動などに関わり詳しく、その講述などが遺る。また著書『長江航運史』 (1927)、『重慶航路視察報告書』(1934)などがある。1936.4.19(S11)54歳の若さで没す。墓石建之が同年7月であるため、亡くなってすぐに一家は帰国したことがわかる。'38米里紋吉没・3回忌に、妻の米里ハナ(著者名は米里はな)が『米里紋吉記念集』を発刊している。長男で海運業者となった米里正明は父の思い出を綴っているが、米里恕は幼かったため執筆していない。

*米里正明(よねさと まさあき:1913-2000.10.6 同墓)は、日本郵船株式会社調査部調査室長、監査役を務めた海運業者であり、『国際的地位よりみたわが海運』『船主経済と船員費』などを著している。

*墓石の書をした王一亭(おう いってい)は、清末民初に活躍した実業家・書画家・銀行家・政治家である。上海を中心に活動した実業家・銀行家として著名である一方、中国同盟会にも参加した革命派の人物である。


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