長野県東筑摩郡塩尻町(塩尻市)出身。貧農の二男として生まれる。
若くして両親が亡くなり、町医者に住み込み、学資を捻出、苦学して東京高等商船学校(東京海洋大学)卒業。
在学中に訓練航海で世界一周をした際に綴った『大成丸世界周遊記』が朝日新聞に連載され、夏目漱石の激賞を受けて、タイトルを『海のロマンス』に改題し単行本化しベストセラーとなった。
日本郵船に入社し、下積みを経て船長となる。海員の待遇の悲惨さの改善を要求するために、米窪太刀雄(たちお)の筆名で雑誌「海の人」に『マドロスの悲哀』を発表し、海上労働者の待遇改善要求の運動をおこす。
更に『海のロマンス』『南氷洋を征く』など、日本郵船の内幕を小説化にして発表。この内部告発により日本郵船を追われた。
大手海運業の会社からも敬遠されることとなり、小さな船会社の松昌洋行の船長となる。
1914(T3)第一世界大戦による海運景気で互光商会に引き抜かれ、シンガポール支店長に抜擢されるも、大戦後の不景気となるや会社が倒産。失業後は、再び海上労働者の待遇改善要求の運動に身を投じた。
'19ILO(国際労働機関)日本代表として鈴木文治らとともに国際会議に出席。'21日本海員組合に入り、総同盟の中心となって活躍。
組合機関誌「海員」の編集部長としても活動。庶務部長、国際部長、副組合長を歴任し、対外的交渉を一手に引き受けるなど、楢崎猪太郎組合長を補佐した。
この間、'28(S3)第11回国際労働会議日本代表として出席。同年、日本最初の普通選挙の第16回衆議院議員総選挙に社会民衆党から旧兵庫2区から立候補するも落選。次いで、'30第17回衆議院議員総選挙にも立候補したが落選した。
'32(S7)松岡駒吉らと労働組合運動の一本化を提唱し、右派連合をめざす日本労働倶楽部の大同団結を実現させ、書記長に選出される。
後に日本労働組合会議と名称を変更し、'40解散命令まで書記長として中心的役割を担った。
同年、第18回衆議院議員総選挙に社会民衆党と労農大衆党が合同した社会大衆党より立候補して初当選。
以後、当選4回。'40斎藤隆夫が衆議院での反軍演説での除名を契機に、米窪、安部磯雄、片山哲、西尾末広らは、勤労国民党を結成したが、内務省から結社禁止処分を受け、'42第21回衆議院議員総選挙で非推薦のまま立候補し落選を余儀なくされた。
敗戦後、海員組合の再建に着手し、全日本海員組合を結成。日本社会党に参加。
当時の社会党は右派と左派の対立が激しかったが、米窪は中間派に位置し調停役に徹した。
'47第23回衆議院議員総選挙で社会党が第一党となり、社会党・民主党・国民協同党の三党連立による片山哲内閣が発足し、国務大臣として入閣。
更に同年新設された労働省の初代労働大臣に就任し、産別会議を中心とする労働攻勢に対処した。
社会党の左右両派の対立の調停に努めるも、社会党は左右両派が分裂し、失意のうちに逝去。享年62歳。