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やつしろ とよお

八代豊雄

やつしろ とよお

1879.9.9(明治12)〜 1943.7.31(昭和18)

明治・大正・昭和期の宮内省侍医、外科医師

埋葬場所: 7区 1種 15側

 山梨県北巨摩郡穴山村(韮崎市穴山町)出身。代々医者の家系で8代目の八代駒雄(1840-1897:号は桃屋)の3男として生まれる。
 父の八代駒雄は医者(和方医)・国学者であったが、明治時代に入ると甲斐浅間神社宮司になり、山梨県各地の郡長を務めていた。殖産興業、特に甲斐絹の織法の改良につとめるなど郡民のために活躍していた。しかし、1897.11.27(M30)深夜、遺書をのこして桂川に投身自殺をした。遺書には郡長の身であるにも関わらず、神経を痛め、兵事の際にうまくできず、裁判事件の処置も誤り本職を汚してしまった。生涯の失策、死をもって郡民に謝罪するという主旨が書かれていた。甲府市の長禅寺に「従六位 八代駒雄 君之碑」が建つ。父の急死により、まだ学生であった豊雄は、長兄の八代秀雄(同墓)の準養子となった。
 一高を経て、1904(M37)東京帝国大学医科大学卒業。'05.1.25 福岡医科大学(福岡大学医学部)の大学院入学の許可を得る。これは福岡医科大学の大学院入学者の始とされている。同大学院では大森治豊教授につき外科を専攻した。'07順天堂外科医員となる。'11ドイツに留学、ボン大学で病理学を、ハイデルベルヒ大学ではエルムス博士につき外科学を専攻した。'13.10(T2)帰朝して順天堂に復職。
 '18.3 外科を以て侍医となる。豊雄が侍医の中で唯一の外科担当となる。宮内省侍医寮、大正天皇の侍医団の一人。'36.2.26(S11)二・二六事件の時に鈴木貫太郎が凶弾に倒れた際、応急処置をした。その手際さもあり、鈴木貫太郎は一命を取り留め、後に太平洋戦争の終戦処理内閣の首相となる。'40(S15)御用掛となり、'42.12被免となった。侍医二等三級、従5位、勲6等。享年63歳。

<東都掃苔記(日本医事新報)など>


墓所

*墓石正面「八代家之墓」。裏面「昭和七年五月建之 矢代豊雄」。墓石左右に墓誌が建つ。八代豊雄は左側の墓誌に刻む。準養父となった長兄の八代秀雄(S9.2.25歿:享年70才)の一家も眠る。右側の墓誌は、豊雄の長男の「八代正雄 翁命(H17.2.25:享年94才)」が刻む。八代正雄も医者となり、千駄ヶ谷四丁目に「千駄ヶ谷病院」を開業した。

*昭和初期に恋愛スキャンダルでマスコミも賑わしていた女流作家の山田順子(やまだ ゆきこ:1901-1961)の痔の手術をした医師として、またそれをきっかけに浮き名を流す山田順子の相手の一人として名も残してしまっている。山田順子は秋田出身。借金まみれの夫と子供と離別し、文学を志して上京。その美貌と才女を武器に、様々な人物と隠すことなく恋愛遍歴を重ねた。有名どころは、徳田秋声、竹久夢二、勝本清一郎らの愛人として知られる。'35 徳田秋声『仮装人物』は山田順子をモデルとして描いた代表作となる小説であるが、そこに「K博士」として登場しているのが八代豊雄である。


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