富山県出身。父は大蔵省専売局長を務めた山下博敏・満喜子(共に同墓)の次男。兄は日本銀行を経て福岡銀行頭取・会長・名誉顧問を務めた銀行家の山下敏明。弟に通産省官僚で三井物産副会長を務めた山下英明がいる。
1940(S15)東京帝国大学法学部卒業。翌年、外務省に入省。戦後も外務省の要職に就き、欧亜局第3課長、在ヒューストン領事を経て、'61在マラヤ連邦大使館参事官、'64移往局外務参事官、'65中南米移住局外務参事官、'67官房審議官、'68領事移住部長を歴任した。
'69(S44)よりブルガリア人民共和国駐在特命全権大使となり、'70.2.28ソフィアにてブルガリア国と通商航海条約の署名を取り交わす。
'73駐アイルランド大使。'75駐チリ大使となり、'78.7.28サンティアゴにてチリ共和国政府との間で技術協力の署名を取り交わした。'79退官。享年74歳。
*墓所は洋型「山下家之墓」。裏面が墓誌となっており、父と母、山下重明の戒名、俗名、没年月日、享年が刻む。戒名は徳宝院釋明證。墓石の右斜め後ろに黒御影石の墓誌も建ち、こちらは、山下博敏の三男で重明の弟の山下英明と純子の次男である山下文(1959.1.9-2005.4.17)が刻む。
*マラヤ連邦は、1948年1月31日にイギリスの保護のもとに、マレー半島9州とベナン、マラッカを合わせた11州によってマレー半島南部に設立された連邦国家であり、'57独立、'63マレーシア連邦結成に際し、その中心となった。
*山下博敏の長男で重明の兄である山下敏明は、東京帝国大学卒業後、1940.5.20(S15)海軍経理学校に入校し、同.9.9卒業(海軍主計科短期現役第4期)。戦後は日本銀行に入行し、後に福岡銀行に転じ、頭取、会長、名誉顧問を務めた。九州電力会長の安川第五郎の娘と結婚。
山下英明 やました えいめい
1923.2.23〜存命
昭和・平成期の通商産業省官僚・実業家(三井物産)
東京広尾出身。大蔵省専売局長を務めた山下博敏・満喜子の三男。兄に福岡銀行頭取などを務めた山下敏明、外務官僚の山下重明がいる。
1943(S18)東京帝国大学法学部卒業(戦争による短縮にて)。徴兵検査で第二乙であり学戸動員されず、商工省に入省し、総務局に配属。
入省して二か月後に軍需省に名称が変わり、総動員局生産拡大課に移る。'44.2赤紙召集されるも、一週間も経たずに除隊となる。軍需省に戻り、関東軍需管理部で働き、終戦を迎える。
戦後は復活した商工省の総務局に配属。'46特許標準局。'48石炭庁監理局炭政課、名称を変えた資源庁石炭管理局、'50通商産業省通商局、外務省経済局第三課へ出向、通産省近代経済学研修所設立に参加、'55繊維局繊政課を歴任。
'56カナダ大使館に派遣され、'60帰国後、大臣官房審議官、'61佐藤栄作通産大臣秘書官を務め、重工業局重工業品輸出課長、通用局輸出振興部輸出振興課長、通商局通商政策課長を経て、'66大臣官房審議官としてケネディ・ラウンドの取りまとめをする。
貿易振興局経済協力部長に就任。'68重工業局次長、'69化学工業局長、'71通商局長となった。日米繊維交渉の実務担当として交渉にあたった。企業局長を経て、'73事務次官に就任した時に、第一次石油ショックが起こり対応に奔走した。
'74通産省退官。'77三井物産常務取締役、イラン石油化学社長を務める。イラン革命に直面したイラン・ジャパン石油化学事業の撤退を直接指揮した。
'80三井物産副社長兼社長。イラン・イラク戦争により、イラン・ジャパン石油化学事業の中断・撤退を余儀なくされた。'88〜'93(S63〜H5)三井物産副会長。'97世界秩序研究会顧問。
<日本近現代人物履歴事典> <「山下英明氏」(『産業政策史回想録』)>
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