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やまの ちえこ

山野千枝子

やまの ちえこ

1895.3.11(明治28)〜 1970.2.11(昭和45)

大正・昭和期のファッションモデルの先駆者、美容師

埋葬場所: 13区 1種 19側

 神奈川県横浜市戸部出身。1913.3(T2)神戸高等家政女学院卒業。同.8 山野末松と結婚。旧姓は三沢。
 '18(T7) 米国ニューヨークのワナメーカー・ビューティースクールで美容技師を修得し、美容全般について実地研修を行い、'22 帰国。'23 東京駅前に建ったばかりの丸ノ内ビルの4階に「丸ノ内美容院」を開業。近代美容を紹介し、寝ながら洗髪できるシャンプートレイの採用など、アメリカ式を取り入れた。和装が主の時代において注目度は高く、連日新聞で報道され話題となる。料金は高額であったが、女優や上流階級の客が列をなし、見物客も押し寄せた。
 '29(S4) 日本マネキンクラブを設立、ファッションモデルの先駆者となる。またファッションショーによって洋装を広めた。同年 大日本美容協会を創設している。
 '32 初めてパーマネントの実演を公開、同年渋谷に山野千枝子美容研究所を創立。コールドパーマの技術も普及させた。美容器具の国産化に努め、薬用化粧科の製造販売・赤外線美顔術・脱毛法・美容体操・美容整体術などを発表。また各地に美容院を開いていった。洋髪が珍しい時代、「美容院」「美容師」という言葉を日本で始めて使用し普及させた。
 戦後、'46 全日本美容連盟を結成、東京都美容師組合連合会、'54 東京美容国民健康保険組合をつくり理事長に就任。'50 学校法人東京高等美容学院長に就任し、後進の育成につとめた。
 戦前戦後を通じ商工省、厚生省の嘱託として海外に派遣され、国際親善に努め、国際人としても活躍。著書に『女性美の創造』、『光を求めてー私の美容三十五年史』がある。
 '60.10 厚生大臣功労賞、同.11 藍綬褒賞、'62 勲1等グランドダーメエバンデイブリユーセレステ、'66 ケネディ平和賞、'67 勲5等宝冠章を受章。その後は一切の公職を辞退し、戦没者慰霊等の奉仕活動に専念しつつ、後進の相談役として見守っていたが、心筋梗塞により急逝。享年76歳。正6位追贈。'97 上半期のNHK連続テレビ小説『あぐり』でもお馴染みの美容家の吉行あぐりは、山野千枝子の弟子である。

<日本女性人名辞典>


墓所

*墓石は和型「山野家之墓」、裏面「昭和授与年九月 山野末松 建之」。右に墓誌が建ち、戒名は千壽院殿妙容日馨清大姉。夫の山野末松(S44.3.19没・行年86)の戒名は圓徳院殿松壽日覺大居士。左側に山野千枝子の略歴が刻む顕彰碑が建ち、最後に「昭和四七年二月十一日三周忌 山野千枝子先生門下生一同」と刻む。

*16歳で向島に美容室を出し、6人の子を育てながら「山野美容学院」を興し、遂には短大まで設立した山野愛子(1909-1995)とは、苗字が同じであるが血縁関係ではない。山野愛子の自叙伝に山野千枝子のことに触れているので紹介する。美容師になった愛子は、信用を得るために年齢を10歳も上と偽り、米国帰りの山野千枝子を目標に修業に励む。『山野千枝子先生は飛ぶ鳥を落す勢いでしてね。新聞には出るし、丸ビルで美容室を開いているという有名人。がぜん闘志が湧いてきたんです。で、評判の丸ビルの店というのを見に行くことにしました。東京駅で降りて、「丸ビルってどこですか」って聞いたら、「ここですよ」って。私、あの大きなビルを見上げて、ほんとにびっくりしちゃいました。こんなすごい美容院やってらっしゃるのかって。丸ビル全部がそうだと思っちゃったんですよ。そうして、「よーし、私もこれぐらいの学校を作らなきゃ。なに、負けるものか!」ってね。それが十九歳の時でした』。なお、山野愛子の墓は東京都中野区の高徳寺。



第247回 日本に美容を普及 美容師 美容院 ファッションモデル 先駆者
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