岡山県出身。佐藤信夫・尚(共に25-2-1)の二男として生まれる。旧姓は佐藤。兄の佐藤筌太郎(25-2-1)は王子製紙を経て商工省に入り太平洋戦争時の商工省機械局長を務めた人物。母の尚の兄で富士製紙や東海パルプなどの重役を務めた山中範太郎(同墓)の養子となる。
1912.7.20 海軍機関学校卒業(21期)。海軍機関少尉候補生として津軽乗組。'13.3.10(T2)敷島乗組、同.12.1 機関少尉に任官し須磨乗組。'15.12.13 中尉となり長月乗組、'16.12.1 機関校普通科学生、'17.6.1 肥前乗組、'18.5.13 海風乗組を経て、'18.12.1 大尉に進み、吾妻分隊長となり、'19.8.18 金剛分隊長、'20.1.30 見島分隊長、同.6.3 長門分隊長・艤装員、'22.5.25 名取艤装員、同.9.15 名取分隊長、'22.12.1 機関校教官・監事を歴任した。
'24.12.1 少佐に昇進し、'26.1.15 練習艦隊参謀、'27.2.1(S2) 横須賀鎮守府付、同.4.10 佐世保鎮守府参謀を務め、'29.5.25 川内機関長に就任した。'30.11.1 呉鎮守府付、同.12.1 中佐となり、呉人事部部員。'33.5.20 羽黒機関長、同.11.15 扶桑機関長、'34.11.15 横須賀海兵団機関長及び教官となる。'35.11.15 大佐に累進し、第11戦隊機関長に就く。'36.12.1 大湊要港部機関長兼工作部長、'37.12.1 機関学校教頭兼監事長、'39.11.15 佐世保鎮守府機関長、'41.10.15 少将に進級して機関学校教頭 兼 監事長となり太平洋戦争が勃発。
'42.10.5 第103工作部長 兼 艦政本部造船造兵監督官に就任。'43.9.25 軍令部出仕。同.10.10 艦政本部造船造兵監督官 兼 富山監理長 兼 監査長を務め、'44.2.20 兼務し海軍省出仕。同.2.25 新潟軍需監理部富山出張所長に補された。同.12.10 横須賀鎮守府出仕、'45.3.1 大楠機関校長に着任して、同.5.1 中将に累進し、終戦を迎える。同.8.25 第20連合航空隊司令官として終戦処理にあたり、同.9.15 予備役となった。正4位 勲2等。
戦後はモンテッソーリ教育法を取り入れた経堂子供の家幼稚園の園長となる。妻のキク(喜久)も教諭として支えた。'77『見守る教育 : 幼児教育三十年の想い』、『幼稚園教育六領域我観』を刊行。また、'78 米寿を記念して『恩寵の回顧』を発刊。'79『ある機関参謀の遠航私記』などもある。享年96歳。
【モンテッソーリ教育法】
20世紀初頭にイタリア人精神科医のマリア・モンテッソーリによって考案された教育法。感覚教育法を施し知的水準を上げるという効果を見せ、知的・発達障害の治療教育、貧困家庭の子どもたちへの教育として発展した。
1907ローマにて貧困層の健常児を対象とした保育施設「子どもの家」を設立。以後、欧米を中心に世界各国にその教育法プログラムが広がり、戦後日本でも注目されたが、潜在能力を引き出し知的能力をあげる効果のみが独り歩きをして、小学校のお受験対策といった英才教育や早期教育としての幼児教育と誤解され認知された。
モンテッソーリ教育法では、子どもたちは生まれながらにして知ることを強く求めているもので、思慮深く用意された支援的な学習環境の中で、自発的に学び始める力を持っていると捉えた。身体面、社会面、情緒面、認知面で発達させることを目指し、「人間の傾向」が発達のあらゆる段階で子どもたちの振る舞いの原動力になっていると考える。そして教育とはその振る舞いに応ずるべきものであり、その振る舞いのために相応しい道具を提供すべきであると考えた。そこで、モンテッソーリ教育は「準備された環境」(基本的な人間の特性、各年齢別特性、個々の性格に合う教育的環境)の中で自由活動で自主性を発達させ援助することである。よって、モンテッソーリ学校の4つの中核的側面は、実生活、五感、数的能力、言語能力である。史上最年少プロ棋士の藤井聡太が幼児期にモンテッソーリ教育法を受けていたことで再注目された。