《詳しい略歴は調査中。ご存知の方は一報ください。》
神奈川県片瀬村(藤沢市片瀬)出身。霊名はマ・メール。父は片瀬村(藤沢市)の収入役、郵便局長などを務め、片瀬地区の宅地造成や江ノ島電鉄の敷設に貢献した山本百太郎、長女として生まれる。後に叔父(父の弟)の海軍少将の山本信次郎(1877.12.22-1942.2.28)の養女となる。
1878(M11)フランスから北海道の函館へ渡来した シャルトル聖パウロ修道女会の3人のスールが修道院を創設した。3人のスールとは、スール・マリ・オグスト(?-1904)、スール・マリ・オネジム(1845-1938)、スール・カロリヌ(1851-1945)で、函館を拠点として福祉活動を行い、後に教育活動と共に全国に広がり、現在の白百合学園への発展へと繋がる。白百合学園は現在、姉妹校が7校、大学2校と幼稚園および乳児院と二つの養護施設がある(R5現在)。いずれの学校や施設は「シャルトル聖パウロ修道女会」が設立母体である。
この学園の中で最も若い姉妹校である函嶺白百合学園の創始者、校長を務めたのが山本ムメである。「函嶺」(かんれい)とはかつての「箱根」の別名であり、神奈川県足柄下郡箱根町強羅にある学校法人。姉妹法人である学校法人白百合学園と同じく、カトリックのミッションスクール(女子校)で、いずれも箱根町強羅の同じ敷地内に所在する。
太平洋戦争末期、財団法人白百合学園(学校法人白百合学園)の東京九段の学校(白百合高等女学校および附属初等科)は、戦禍を避けるために神奈川県足柄下郡箱根町強羅に戦時疎開学園を設けて教育活動を続けていたが、戦後、1949 私立学校法が制定され学校法人制度ができたのを受けて、1951 山本ムメが創始者となり学校法人函嶺白百合学園を設立し、初代校長となった。
ムメは「一流の国際人におなりなさい」「国や人種を超えて互いの違いを認め合い、愛し合うことのできる人になりなさい」という多様性(Diversity)を尊重した「一流の国際人=人類社会に貢献できる女性」を掲げ育成した。
ムメの清家の山本家は江戸時代から相模国鎌倉郡川口村(片瀬村:神奈川県藤沢市片瀬)の名主を務める旧家。祖父の山本庄太郎は鎌倉郡長や県会議員を務めた人物であり、常立寺の周辺から片瀬海岸一帯にかけての大地主。この付近一帯の開発者でもあり、その一環で庄太郎は持ち家をマリア会の別荘として貸していた。その関係から息子の信次郎をマリア会の暁星中学校で学ばせている。暁星中学校は禁教令廃止後に開設されたカトリック教会系の学校であるが、当時はキリスト教に対する敵視が根強い時代であった。信次郎はマリア会の修道士と過ごしているうちにキリスト教を理解するようになる。しかし庄太郎は寺の檀家総代も務めており、クリスチャンではなく、洗礼を受けることに当初は反対していた。ねばり強い説得で信次郎は16才の時に受洗。ヘンリック神父から軍人を志すように薦められ軍人になり、1903 日露戦争出征するにあたり兄の百太郎から信次郎は分家した。
叔父(百太郎と信次郎の弟)で庄太郎の三男の山本三郎は結核を罹患し療養をしていた。このこともあり、明治大正期の片瀬地域の海岸地帯の多くは結核患者が多く集う療養の場として使用されていた。その後、三郎が亡くなったこともあり、百太郎は片瀬地域を死の病の療養地から、健康な都市生活者の別荘地に変えるため宅地開発の必要性を訴え、江ノ電の敷設、山本橋を架橋、砂丘上の防砂林の植樹や別荘開発のインフラ整備をした。また信次郎の斡旋と後援により日本管区長のメール・アンジュ・マリア(シャルトル聖パウロ修道女会)が湘南片瀬に土地を購入し、片瀬乃木幼稚園(1936)、片瀬乃木小学校(1937)、乃木高等女学校(1938)を創立(戦後 湘南白百合学園)。加えて信次郎は弟の三郎が結核療養で使用していた建物を改築して「カトリック片瀬教会」へと献堂した(1939)。
養父の山本信次郎は海軍軍人でありながらカトリック信者であり、外交官も務めた国際派であったことから、ムメはとても影響を受けたと思われる。