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やまがた ようすけ

山形要助

やまがた ようすけ

1873.2.9(明治6)〜 1934.12.13(昭和9)

明治・大正・昭和期の土木工学者

埋葬場所: 6区 1種 13側

 栃木県出身。1898(M31)東京帝国大学工科大学土木工学科卒。 台湾総督府土木局土木課長兼同局基隆出張所長、同土木局長等を歴任し、1919(T8)工学博士。 退官後実業界に入り、天竜川電力会社常務取締役、大同電力会社顧問、矢作水電常務などを務めた。

<昭和物故人名録>
<人事興信録>
<MATHU様より情報提供>


*墓石は和型「山形家之墓」。左面に「正四位勲三等工学博士 山形要助君小傳」とあり、以下のことが刻まれている。読みやすく編集し、わかりやすくカッコで補足を入れています。

「君明治六年二月九日 栃木県上都賀郡南押原村の山形助左衛門の次男に生まれ、別に一家を創立す(独立した)。 三十一年東京帝国大学を卒し、大正八年に港湾に関する論文を提出して学位を得る。台湾総督府に技師として二十年、累進して土木局長となる。 この間、属外国港湾工事を視察する。君が最も心血を注ぎたる工事は、高雄築港にして嘉南大しゅう(土+川)日月潭(大湖日月潭)水力工事等。また君の計画に成る共に不朽の大事業あり。
(山形の発案で台湾全土の水力発電の適地調査の過程で日月潭の水力発電と嘉南大しゅうの計画が始まり、この二つの湖と濁幹線により水量が安定し、洪水にも渇水にも強い大灌漑設備となった。指揮をとったのは八田與一、予算を工面したのは明石元二郎台湾総督) 退官後、電気事業並びに、港湾工事に参画し土木業界に貢献すること極めて大なり。昭和十九年十二月十三日卒去す。君は資性 剛毅 敦厚 然諾を重んじ至誠一貫世の師表なり。 同期生誌」


*墓所内には墓誌が3つある。山形要助の長男の鋭一郎、次男の正二郎、三男の冨三郎で各々の墓誌を建てている。なお、長男の山形鋭一郎(1911-1977.4.29)は慈恵医大に学び、戦後は民主的医療機関等で医師となった。


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