東京出身。山田三立社(三立社山田商店)創業者の山田壽二、キミ(共に同墓)の三男。長兄の山田恭三は2才(T7.12.19-T10.4.8:同墓)で早死。跡継ぎ候補だった次兄の山田洋三(T9.5.22-S19.8.2:同墓)は22才でテニアン島にて戦死。よって家督を相続。
法政大学経済学部卒業。学徒出陣で陸軍少尉として従軍していたが終戦となり復員。小説家を志していた文学少年であったが、跡継ぎ候補であった次兄の洋三が戦死ししたため、21才にして家業の大洋電機の専務に就任し、漁船用の発電機の製造販売を始めることになった。本社の東京、工場の岐阜を行き来し、全国各地に営業活動をした。宮城県の気仙沼から三陸海岸沿いの電機店を探しながら、御用聞きのように歩いて注文をとり、電動機を社員と担いで届けるなど泥臭い営業も行った。
漁船用の発電機を扱う人は漁師であり、海の男、荒っぽく扱いがちである。電気についても専門家でもない。もしトラブルが起きたら「まず直すことが先、お金は後」という姿勢を大事にした。製品も「丈夫で長持ちをモットー」の伝統を引き継ぎ、「現場第一」「工場大事」の現場力第一主義を掲げた。
'55 大洋電機株式会社代表取締役社長に就任。社長在任の1960年代は、工場の近代化、合理化に踏み切り、売り上げが急上昇(漁船用発電機シェア約80%)。外国との取引も始まり、東南アジアや欧米視察を行う。'56 大洋電機販売株式会社を設立し、漁船市場への販売業務を大洋電機から切り離す。大洋電機は大手造船所ならびに海外輸出等を含む舶用、産業用発電機、電動機、配電盤の製作、販売に特化する。直流発電機の量産体制に入る。
'61 インドネシアから大統領官邸内の迎賓館の自家用発電機の発注があり、大統領官邸の噴水に使用される。'66 東京神田錦町3丁目に地上7階地下1階の本社ビルを完成させる(2016売却:現在は内神田に本社ビルが建つ)。この年に父の壽二が亡くなる。
グローバル化を推し進め、'74 ジャカルタ事務所、'76 ニューヨーク事務所、アブダビ事務所を開設。'80 韓国釜山にKTエレクトリック(KTE社)を設立した。その後も拡大し世界へと飛躍させた。'84 藍綬褒章受章。'96(H8)長男の山田信三が代表取締役社長となり、会長に退く。
父の壽二が関東大震災の震災後の区画整理事業に関わり、地域に貢献したことを機に、地元町内会のお世話役、神田明神の総代、史蹟将門塚保存会会長を長く務めていた。'66 父没後はそれらを引き継いだ。2017.5.1(H29)高齢を理由にそれら世話役の一線から引退。神田明神名誉総代の称号を与えられた。なお以降は長男の山田信三が引き継いでいる。享年94歳。通夜・葬儀は近親者のみで執り行われ、同.11.22 お別れ会がパレスホテル東京で執り行われた。
*墓石は和型「山田家之墓」。右側に墓誌が建つ。墓誌は山田壽二の早死した兄姉の二児が刻む(順子:T6.9.25-T7.7.29、恭三:T7.12.19-T10.4.8)。次に二兄で戦死した山田洋三(T9.5.22-S19.8.2:テニアン島にて戦死・従7位勲6等)。父の山田壽二の戒名は願船院釋壽仙居士。「従七位勲六等」と先に刻み、下に「従五位勲四等」とも刻む。母はキミ(M27.7.14-S41.5.2:德風院釋妙君大姉)。その次は息子で3代目の山田信三の妻の美栄(S24.7.3-H27.8.9:釋尼壽寂:突然の脳腫瘍で急逝)。墓誌最後に澤三が刻む。山田澤三の戒名は法船院釋恩澤。
*山田澤三は岐阜の工場に勤めていた同地区の繭問屋の娘と結婚。長男は山田信三(1949生)。山田信三は、1972(S47)成蹊大学経済学部卒業。卒業後、3年間米国留学。渡米中に大学時代に知り合った寿栄(S24.7.3-H27.8.9・行年67才)と結婚。'75 米国から帰国し、いきなり大洋電機取締役に就任。若くして船舶営業部長となり、韓国、インドネシア、香港などを飛び回った。入社した年に現代造船が立ち上げられたが、1990年代後半に造船では日本が世界1位となる(現在の日本のシェアは20%)。'96(H8)代表取締役社長に就任。近年ではシンガポールの業者と電装設計に乗り出したり、サイリスタ方式の軸発電機の開発、配電盤など陸上で使う製品、米国向けのプレジャーボート用発電セットなど発展をし続ける先導役として活躍している。2011 藍綬褒章受章。2017 日本舶用工業会会長に就任。同年、父の高齢引退により神田明神の総代などを引き継ぐ。2021 旭日中綬章。2023(R5)大洋電機社長は信三の長男の山田沢生(たくお)が就任し、信三は会長に就任。