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やまだ みつなり

山田光成

やまだ みつなり

1907.4.22(明治40)〜 1987.3.24(昭和62)

大正・昭和期の実業家(日本信販)

埋葬場所: 24区 1種 17側

 愛知県名古屋出身。家業は旅館経営で裕福であったが、5歳の時に旅館が火事で全焼し、その後すぐに父親も亡くなる。
 慶応高等部卒業後、父が残した土地を売り「山田モト旅館」を開業し、実家の旅館の経営再建した。1931(S6)幹部候補生として軍隊に入り、マレー半島上陸作戦に参加。'43病気のため除隊となり、実家の旅館経営に戻った。 「給料日の5日前くらいになると、もう財布の中は空っぽで、子供たちにひもじい思いをさせなければならない。どうして、シャケの切り身を行く切れか買い、好きなビールの一本も買い、子供にはチョコレートの数枚も買って、一家団欒の楽しい夕食にすることができないのか。一生懸命働いている人には、信用という無形の財産があるではないか。」と思い、第二次世界大戦後の混乱の中で「信用販売」「月賦販売」という制度を思いつく。
 '48(S23)41歳の時に、資本金40万円で、わが国初の割賦販売会社「日本百貨サービス株式会社(日本信販)」を設立し、社長となる。風雲の草創期を経て、信販制度を定着させた。'51日本百貨サービスを改組し、資本金1000万円で「日本信用販売」を設立。 会長に元商工大臣、社長に元一橋大学長をむかえ、山田自身は取締役企画部長としてスタートした。当初は高島屋・松屋・白木屋などを加盟店とするチケット(日本信販クーポン)による割賦購入斡旋事業を行っていた。 これは一流企業、官庁など職域の消費者を会員としてチケットを配布、会員はそのチケットを使って加盟店で物品を購入し、支払の方は分割で行うという仕組みであった。年末には会員数は2万人を越え一般消費者に歓迎された。
 '51年度の売上1億5000万円が、'53には10億円、'56には25億円を達成する。'61三和銀行と折半出資で「日本クレジットビューロー(JCB)」を設立、名誉会長となった。城山三郎「風雲に乗る」のモデル。享年79歳。

<企業家人物辞典>
<講談社日本人名大辞典など>
<森光俊様より情報提供>


*墓石正面は「山田家」。戒名は大信院殿無隠光成大居士。

*1984創業者の長男の山田洋二が2代目社長就任。洋二は厳しいローンの手続きがもっと手軽になれば、それで商品は売れるのではないかと思い、「35歳の会社員、妻と子供2人は、それだけで十分に信用できる」と、50万円まで無担保無保証人の割賦ローンを展開した。 洋二の読み通り、妻と子供2人の家庭は、殆ど見事に遅滞を出さずローンを完済していき、それが終わるとまたローンを組んで商品を購入していった。これ以降、カードローンは爆発的に普及していく。しかし、バブルが弾け、年功序列賃金昇格制度と終身雇用形態が崩壊した。 これにより洋二が発案した日本独特の雇用形態を基盤としていた従来のローンのあり方は様変わりすることになった。'97(H8)鈴木公久に社長を譲り、山田洋二は会長職となったが、2001経営再建のため洋二が社長に復帰。しかし、2002.11〜2003.2総会屋への長期の利益給与が発覚し、元専務ら8人の幹部社員が商法違反容疑で逮捕。 山田洋二社長が引責辞任し、創業者一族による経営から刷新。これにより、2004.1日本信販はUFJ銀行の連結子会社化。現在は国内最大のクレジットカード会社「三菱UFJニコス」として現在に至る。


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