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やまだ くしちろう

山田九七郎

やまだ くしちろう

1916(大正5)〜 1945.8.24(昭和20)

昭和期の海軍軍人(少佐)、エースパイロット、
厚木航空隊反乱事件

埋葬場所: 3区 1種 1側

 東京出身。山田源三、鋼子(共に同墓)の4男。長兄は山田正世(同墓)。
 開成中学校を経て、1937.3.23(S12)海軍兵学校卒業(64期)して、少尉候補生となる。'38.3.10 少尉に任官。船ではなく飛行機を選び、第31飛行学生。'39.6.1 中尉に進み、'40.10.10 能登呂乗員となる。'41.5.15 大尉に進級し、第5航空隊飛行分隊長に着任。
 '42.7.5 水上機母艦千代田によりキスカの鳴神島基地に進出。指揮する水戦6機が東港空に編入され、防空任務を担当。占領したアッツ、キスカには飛行場がないため、航空機による防空任務は、水戦隊が主兵力であった。同.7.18 山田以下6機による3回の空戦のうち、B-24を3機に対する攻撃で1機を撃墜。同.8.5 定数12機の水戦隊として第5航空隊が編成された。山田以下の水戦隊は東港空より編入される。同.8.8 水偵2機と空戦して2機を撃墜。同.9.14 低空で来襲したアメリカ空軍と交戦し被害を与えた。同.9.26 キスカ攻撃に来襲したアメリカ空軍を迎撃、1機撃墜した。'43.1.1 哨戒中の水戦5機はアメリカ空軍と交戦し1機撃墜した。同.3.17 エースパイロットとして活躍していたが、この頃可能機数の減少と補給の都合から、山田は「有利な時のみ戦闘することを基調とする」と提案した。同日、7機協同でアメリカ空軍と交戦し2機撃墜した。これがキスカにおける最後の空戦となった。
 同.3.27 この日発生したアッツ島沖海戦の影響でアッツ、キスカヘの補給が困難となり、搭乗員は潜水艦で脱出、横須賀で再編成に入った。第302航空隊飛行隊長に就任し、厚木航空隊に配属される。同.10.15 少佐に昇進。
 '45.8.15 玉音放送により日本は降伏し終戦。厚木海軍飛行場で302空指令の小園安名大佐は司令官を解かれ横須賀鎮守府付になることが決定した。しかし、国体不滅を信じていた小園はこのまま降伏すればソ連により皇室は根絶やしにされ、日本は滅亡すると危惧した上、月光の斜銃装備や特攻反対などの提案を却下し、敗北を重ねた末に降伏を決めた海軍上層部への反感を強めていた。そして連合艦隊司令部と全艦隊に「302空は降伏せず、以後指揮下より離脱する」と伝達。部隊に「日本は神国、降伏はない、国体に反するごとき命には絶対服さない」と訓示を行う。302空のナンバー2は副長の菅原英雄中佐で、飛行長の山田九七郎少佐はナンバー3のポジションとして、小園の意志を受け継ぎクーデターの中枢として若手士官を率いた。
 若手士官たちは徹底抗戦を呼びかけるビラ撒きで呼びかけて回ったが、他部隊の飛行長たちから302空の使者は一喝され追い返えされるなど支持を得ることはできなかった。海軍大臣の米内光政大将、第三航空艦隊司令長官の寺岡謹平中将、皇族で海軍大佐の高松宮宣仁王が説得に当たるが小園は納得しなかった。同.8.16 小園は解職させられ、山本栄が302空司令を兼任した。小園は持病のマラリアを悪化させ行動不能に陥り、同.8.21 野比海軍病院へ運ばれ精神病棟で監視下に置かれる。小園が連行された後は鎮圧された。
 この際、若手を中心とした一部抗戦派は狭山飛行場へ向かったが、山本栄司令官によって302空は解散された。これにより、狭山飛行場へ向かった抗戦派は協力を得られずに翌日、厚木へ帰投。児玉飛行場の抗戦派も、同.8.23 厚木から派遣された恭順派によって全機のタイヤをパンクさせられて戦闘不能に陥った。飛行長であった山田九七郎は、部下たちの脱出を止められなかった責任を痛感して、同.8.24 妻のユキ(同墓)と共に官舎にて服毒自決した。
 なお、同.10.16 小園は横須賀で軍法会議にかけられ、「被告人ヲ無期禁錮ニ処ス」という判決を下した。青年将校以下69名も4年から8年以下の禁錮刑に処せられた。小園らは横浜刑務所に収監されたが、'46.11.3 日本国憲法の公布を機会として事件関係者は主犯である小園を除き赦免された。小園は無期禁錮から禁錮20年に減刑され、'50.9.4 特別上申により禁錮10年に減刑、同.12.5 熊本刑務所を仮釈放され、'52.4.28 政令107号の大赦令により赦免された。小園は事件についての手記『最後の対米抵抗者』を残し、'60 死去した。

<日本海軍士官総覧>
<「知られざる『終戦後』の空戦〜8月15日に戦争は終わっていなかった」現代ビジネス>


墓所

*墓所には二基。右に正面「山田源三墓 / 室 鋼子墓」、右面は源三「文久元年十月二十六日生 陸奥国日本松城北條谷 大正十四年三月二十七日歿す 東京郊外池袋自邸 年六十有五」が刻む。左面には何も刻まれていない。左に和型「山田家之墓」、裏面「山田よ江 昭和五年八月二十五日 行年三十七歳 昭和九年三月建之」。山田よ江は山田源三の長男の山田正世の妻。左側に墓誌が建つ。源三の妹の山田みい(S40.3.6没・89才)から刻みが始まる。次に源三四男の山田九七郎、妻のユキ。源三長男の山田正世(S32.11.22没・66才)、妻の よ江。正世の長男の山田正健、妻の たみ。正世の早死した息子の山田稔。正世の次男の山田昴、妻の美穂子が刻む。


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