メイン » » » 矢嶋俯仰
やじま ふぎょう

矢嶋俯仰

やじま ふぎょう

1898(明治31)〜 1970(昭和45)

大正・昭和期の宮司、墓相家

埋葬場所: 8区 2種 24側

 東京麻布出身。当時麻布十番にあった末広稲荷神社に生まれる。本名は武二。1898(M31)幼少期に代々木八幡宮へ養子に入った。
 麻布中学を経て、1921(T10)國學院大學卒業。考古学者の樋口清之を師事。卒業後は千駄ヶ谷の鳩森八幡神社で宮司職に就いた。この頃から自己流で鎮魂帰神法による託宣(たくせん:お告げを言うこと)や易(えき:占い)を始めた。当初は神職が神社境内で託宣や易を行ったりする行動は良く思われていなかったという。
 '25 応神天皇陵への参拝をきっかけに古墳と神社の関係という問題に関心を抱くようになる。昭和初期に実の娘を亡くしたことで、墓はどのように建てるべきかとの問いが生じ、墓相の研究を開始するに至る。
 '30(S5)墓相書『墓相と運命』(本名の矢島武二 名義)を刊行。同書には「墓相鑑定料金十円以上」との記載をし、この頃より建墓事業を行う団体「鳩巣房」(きゅうすぼう)を創立した。設計・工事担当、文書担当(墓内部に納める写経制作)、絵画担当(墓内部に納める絵画制作)、美術金属担当(写経と絵画を入れる経筒製作)の5名で墓相の事業化を果たした。また墓相だけでなく、託宣や祈祷、易も行った。
 矢嶋俯仰の墓相の考え方は、単なる統計論的な墓相ではなく、宗教理法と民俗学・考古学等の学術面の考察を踏まえ、伝統宗教と信仰に根ざした墓相を研鑽することとし、「たましいの祀り」としての墓のあり方を説き、最善吉相の墓の設計と彫刻施工などの指導に務めた。
 '31 墓相家としての活動を行うにあたり、矢嶋俯仰と名乗り『主婦之友』誌に「家運の繁栄する墓と衰微する墓−−墓を重んぜよ!! 家運の繁栄は祖先の墓より生る!!」「家運の栄える墓と家運の衰へる墓−−凶い墓相はどうすれば吉い墓相に改めることができるか?」と2号にわたり寄稿。この記事は矢嶋俯仰の名を大いに広めることとなった。勢いに乗り、'33 『墓相より観た 墓の建て方』、『家運の繁栄する墓と衰微する墓』を刊行。'35 『歴史公論』誌に「墓の建方」「墓と性」「災禍凶殃の墓相」を立て続けに寄稿した。更に新聞広告も活用して集客しながら、講演や鑑定、建墓指導のため全国を飛び回った。'37 旭川新聞社社長に招聘され、北海道内各所で墓相学の講演も行った。
 戦後は個人的な事情により京都に移住。'48 山田桃花と名乗って上賀茂神社の代宮司を務めていたが、諸問題で神社界と縁が切れて、'55 再び上京した。上京後は、親族が東京国分寺で開教した新宗教「神光教」と関わりつつ、易や祈祷、墓相家として復帰し生計を立てた。
 昭和30年代に「昭和の両墓制」を提唱し墓相書を刊行。両墓制とは遺体の埋葬地と墓参のための地を分ける日本の墓制習俗の一つであり民俗学から由来する考え方。高度経済成長期の日本は地方出身者が多く上京していたが、郷里への墓参りの困難者が多く出たことで時代にマッチし注目された。この流れから、'66 西武グループが経営する鎌倉霊園との提携を成立させた。テレビにも出演するなど知名度も高めた。
 同じ頃、有名作家の妻が矢嶋の熱心な信者となり、その知人関係を中心とする小さな宗教集団が結成された。'67 神道大教の紹介を得て、鎌倉に教場「神道大教 参霊会」を開設、教会長として教会活動を開始した。享年72歳。長男の守雄が2代目矢島俯仰を名乗り、父の後を継ぎ墓相家、宗教法人神道大教参霊会代表役員などを務めている。

<『昭和初期・東京における墓相の展開 :
「正しい墓」のプロモーション』問芝志保 など>


やじま ふぎょう やじま ふぎょう

*墓所入口に「矢嶋家奥津城」の石柱が建つ。墓石は社殿風。裏に石柱が建ち、「昭和九年春三月 矢島俯仰」と刻む。横面には「遠祖 光照院蘭譽自勝大禪尼 俗性 矢嶋局之墓・・・」や「墓相学創始」などの刻みが見れることから、江戸幕府4代将軍の徳川家綱の乳母であった矢嶋局(やじまのつぼね)が先祖であることや、墓相学を行ったことがわかる。墓誌などはない。

*矢島俯仰と多くの文献などは「矢島」と表記されていることが多いが、墓所は「矢嶋」であるため、ここでは「矢嶋」で統一する。


【墓相ブーム】
 墓相ブームは昭和初期と昭和三十年代頃の戦前戦後を挟み東京中心で二度起こっている。地方から東京に移住する人が増え、前者は軍人として戦死をした一家、後者は集団就職をした地方出身者や仕事の兼ね合いで東京在住が長くなった一家が東京に墓を求めたことが所以である。大正時代に開園した多磨霊園はまさにそのような地方出身者が求めた墓所地でもあった。
 矢嶋俯仰は著書の中で下記のように綴っている。『いつも不可思議なのは「常識」を頑冥に固持して、ロジツクを尊重してゐる人間が、何故に「墓と葬」の問題に対しては、何等の疑怪なしに終始傍観してゐるのであらうか? どうしてもつと猪突的に、その奥底を掴うとしないのか? …惟ふに、その原因の一つは建墓に対する一定の基準が無いからである。故に斯に私の所論の帰趨を明確にして、以て「昭和の墓制」を確立し制定せんとする大旗を翻して、本書の出版を敢てしたのである。』ここで動機として語られているのは、「建墓に対する一定の基準が無い」ことへの問題意識である。
 墓相学は矢嶋俯仰だけではなく、多くの鑑定士が誕生し世間から注目された。そのほとんどは、自家にとって不幸を招く墓とはどのようなもので、それによりもたらされる災禍とは何か、逆に「正しい墓」すなわち家を繁栄させる「吉相墓」とは何かという内容が中心となっている。


2代目 矢嶋俯仰
1944(昭和19)〜 ご健在
墓相家
 東京都出身。本名は守雄。父は初代 矢島俯仰。
 中央大学卒業後、國學院大学神道学専攻科に進み、神道を学び明階を授与される。父から墳墓研究を学び、自らの宗教経験を踏まえて、諸国を歩き典籍をあさり、墳墓に関する宗教学・考古学・歴史学・民俗学などの資料を集めて研究した。
 父先代矢島俯仰の後を継ぎ、2代目を名乗り、単なる統計的な墓相にとどまらず、宗教の理法と民俗学、考古学など学術面の考察を踏まえ、伝統宗教と信仰に根ざした「たましいの祀り」としての墓のあり方を説いている。また、最善吉相の墓の設計と彫刻施行などの指導につとめている。
 宗教法人神道大教参霊会代表役員。主な著書に『墓相と供養』『墓相大鑑』『運勢大辞典』『故人がよろこぶ墓と供養』『墓相 よい墓のたて方・まつり方』などがある。

<著者略歴>


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・や | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。