東京出身。本名は威徳(たけのり)。小学校卒業後、慶応義塾普通部に入学。
中学4年の頃「子規俳話」によって俳句に興味をもつようになり、やがて自分でも俳句を作ってみようと思い立つ。
1933(S8)慶応義塾大学経済学部に進学。在学中、「馬酔木」、翌年には「句と評論」に投句、たちまち頭角を現わし同人に推される。
'36大学を卒業し三省堂に入社、西東三鬼らとの交流を深めながら新興俳句の新鋭と注目される。
同人誌「風」を創刊、「京大俳句」に参加、新興俳句総合誌「天香」創刊に参画するなど実作、評論と積極的な活動を展開する。
'40治安維持法違反の嫌疑により検挙、のち起訴猶予となる。以後、執筆禁止を言い渡される。しかし、白泉は作句を続け、変名で「鶴」に投句。また、以前より進めていた古典俳諧研究を続ける。
戦後、岡山県で教職に就き、'51からは静岡県で教員生活を送る。翌年から沼津市立沼津高等学校で教鞭をとる。
就任と共に、社会科研究部の開設を呼びかけたり、また影絵芝居を「四郎九郎座」という名で公演する。教育者の傍らで俳句活動も行う。
'69白泉は在職中に「渡邊白泉自筆句集稿本」を執筆し、書きおえた2週間後に急逝する。季語無し・超季語・口語調で、奥に風刺がこもった新興俳句の主流となる。
【昭和俳句弾圧事件(新興俳句弾圧事件)】
1940.2.14(S15)の第1次京大俳句弾圧事件から、'43.12.6蠍座(秋田県)弾圧事件までの、4年間にわたる俳句誌・俳人に対する治安維持法下における思想・言論弾圧事件である。
渡邊白泉は第2次京大俳句弾圧事件('40.5.3)にて、石橋辰之助、和田平四郎(辺水楼)、杉村猛(聖林子)、三谷昭、堀内薫らと逮捕される。本人の意図とは違い、ほとんどが言い掛かりに近い形で、治安維持法違反容疑で検挙された。
一連の弾圧事件で43人の俳人が検挙され、内13人は起訴、懲役2年(執行猶予3〜5年)の刑を受けた。なお、渡邊白泉は起訴猶予(検察官が被疑者を起訴しないで事件を終わらせ、不起訴処分とした)。