新潟県長岡市の出身。鶴巻石松の長男。1910(M43)家督を相続する。
上京して上野に、1916(T5)時計卸売りの株式会社鶴巻時計店を創業。'19 懐中時計等のケースの製造を開始。'24.4 東京府北豊島郡滝野川町(東京都北区滝野川)に株式会社鶴巻時計店英工舎を設立。T・S・U 印の掛時計の製造を開始した。鶴巻時計店の時計製造部門が「英工舎」である。
'27(S2) 置時計や目覚まし時計の製造を開始。'35 「センター」「ニューエイコー」というブランド名の腕時計の製造を開始し、'38.9 市場進出。この時期の日本の腕時計メーカーは、セイコー、シチズン、村松時計製作所、東洋時計が腕時計製造をしていた。
戦時中は、他の時計メーカーと同様に軍需精密機械の製造が中心となり、滝野川の工場は北区赤羽、桐生(群馬県山田郡桐生村)、秩父(秩父郡高篠村山田地区)、取手に分散疎開した。
戦後は疎開工場(鴻巣工場:目覚、置時計、北本宿:休止、秩父:腕時計、桐生:掛時計、朝霞:伸銅鋳物、赤羽:自動秤、滝野川本社:置時計ケース伸銅)で持っていた機械を利用して「プリマ系」の腕時計を完成させ早々と腕時計生産を軌道に乗せた。しかし、その勢いもすぐにかげりがみえ、'49 英工舎保険組合が解散。またこの時期、セイコー、シチズンなどの大手競合メーカーとの競争激化に敗れ、販売部門を担っていた英工商事の売上が悪化し、品質低下も加わって、経営危機となる。
'49 自動車用メーターをほぼ独占製造していた東洋時計がストライキで操業停止に陥っている状況を機に日産からの依頼もあり、時計製造からシフトする形で、'51 日産自動車のニッサン380型用メーター、ダットサンコンビネーションゲージの製造に着手し、自動車用計器製造を開始して経営再建に乗り出した。
その後は、朝鮮戦争の特需景気後に経営が落ち込み、日産自動車の傘下となる。日産自動車は全額出資した関東精器(カルソニックカンセイの前身)を設立し、英工舎の自動車用計器・時計製造事業を吸収分割承継された。