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つかもと きんすけ

塚本金助

つかもと きんすけ

1919(大正8)〜 1981.8.21(昭和56)

昭和期の精神科医(吉祥寺病院長)

埋葬場所: 2区 1種 1側

 九州医学専門学校(久留米大学)に学び外科医となる。太平洋戦争中は中国やウェーク島に従軍した。
 戦後は外科医院を開業すべく、同じく医療の道に進んでいた兄や母、妹、弟と共に上京。上京後、恩師の王丸勇と再会し転機が訪れる。王丸は日本精神神経学会や日本精神分析学会の会長を務めた人物。王丸との出会いで、外科医は技能職だから年を取ると手先が衰えダメになるからと精神科への転科を勧められ、戦後の混乱期に人心の疲弊を危惧していた王丸が、精神科の充実が急務と考え説得。塚本はこれに応じ、大学病院の精神科医局に入り精神疾患について学んだ。
 1954.9.1(S29)76床で精神科専門の病院である吉祥寺病院を開院。'55.11.1 東京都指定病院となる。吉祥寺病院は東京調布市の最北端、三鷹市に境を接する深大寺北町に建てた。吉祥寺駅から南西に3.5kmと離れており、当時は辺りは造園業者の土地と麦畑が広がっていて交通の便も吉祥寺駅発着のバスしかなかった。そのため患者がわかりやすいように、バスが出る吉祥寺駅の名を病院名にしたという。
 精神科が扱う病気は現代でこそ、うつ病や神経症など精神疾患が主で多様になり理解もされるようになってきたが、当時は精神分裂病(今でいう統合失調症)がメインであった。このような患者は社会生活に支障をきたす場合が多いため入院が長くなりがちで、復帰に時間を要することが普通であったが、医院長となった塚本は「早期の退院と社会復帰促進」を方針とした。当時の統合失調症は「隔離・収容」が主流であった時代において、画期的な取り組みであった。
 '60.3.1 医療法人社団欣助会設立し理事長に就任。「精神科病院の役割は、障害を持ちながら暮らす患者さんを支え助けることだ」とし、'64 精神科作業療法をいち早く取り入れた。また1室に何床も入れるのが普通であった時代にあって、病床構成も1室最大4床とした(A病棟完成し許可病床数241床)。
 '65 世話だけでも大変なうえに世間から冷たい視線を浴びる患者の家族の心労を支えるために「患者家族会」を発足。この家族会は「やすらぎ会」と呼ばれ、月1回例会を開いて病院スタッフによる講義やディスカッションを行っている。加えて「家族教室」も開き、薬や社会資源の活用について講義。さらに家族の心をケアする「ファミリーサポートセミナー」も実施している。心の病気に関するレクチャーやグループの話し合い、病気への理解や患者との接し方などを、患者の家族を巻き込んだ取り組みは現在も引き継がれている。
 '81.8.21(S56)62歳で急逝。同.9.7 急きょ理事長に妻の塚本百合子が就任。院長に原藤卓郎が就任。その後、'91(H3)外来通院者を対象にデイケア・ナイトケアを導入。患者たちが月1回話し合い、どんなプログラムに取り組むかを自分たちで決める「実行委員会方式」をとる。
 1999.4.1 長男の塚本一が院長に就任し、2005.4.1理事長にも就任。「統合失調症に日本一強い病院」との目標を掲げ吉祥寺病院院長を引き継いでいる。

<日本の元気な病院&クリニック No17>
<吉祥寺病院沿革>


*墓石は洋型「塚本家」。墓誌が建ち戒名は勵誠院釋金浄居士。


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