京城出身。本籍は愛知県。父は特許局官吏の塚本信治・節(共に同墓)の長男。姉は陸軍中将の藤村謙に嫁す。
麻布中学、東幼、陸士予科を経て、1931(S6)陸軍士官学校卒業(43期)。同年、陸軍砲兵少尉に任官し、野砲兵第20聯隊附となる。
'34中尉、'37大尉、'39陸軍大学卒業(52期)し、第110師団参謀となった。'41.3.1陸軍省整備局課員(戦備課)となり、同.8.1少佐に累進。
東條英機付の当直仕官も兼ねた。東條かつ子夫人が東條家の私用で車を要求した際に公用車を私用では使用させられないと、きっぱり断った厳格な性格でもある。
'44.6.14当時陸軍大臣と参謀総長を兼任していた東條首相に対して、戦争の戦局の将来と日本の前途を憂い、自らの職責上の資料を基として戦争経済の見通しを述べ、「首相を辞めて軍事に専任すべきである」と諌言した。
この行為が東條首相の逆鱗に触れ、即日、中央から放逐されサイパン戦線に送り出された。妻に「俺は遠島流刑に処せられて、サイパンに行く」とその無念の胸中を吐露している。
マニラ経由でグアム島に赴任し第31軍守備参謀となる。着任一か月後、グアム島で玉砕、戦死。享年33歳。没後一階級特進し陸軍中佐となった。
第43師団参謀の平櫛中佐の手記によれば、「そもそも当時戦場に赴くことは帝国軍人の最大の名誉として、上は軍司令官から、下は一兵卒まで出征した。
だが、戦場に送ることを懲罰の具とし、戦場を左遷の地としてとらえていた、大本営の指導者は最大の汚点である」とある。このように、東條の意に反する者を戦場に左遷させる行為は他にも多数ある。
*墓石は蔵型で「塚本家奥都城」と刻み、左側に墓誌がある。グァムにて戦死と刻む。
*グアム島の北部、ジーゴには南太平洋戦没者慰霊公苑があり、多くの慰霊碑が建つが、その中のひとつ松前重義が建立した碑は塚本清彦をたたえて建てられたものである。
碑石には「陸軍省軍務局戦備課塚本清彦中佐は太平洋戦争たけなわの時戦局の将来と日本の前途を憂い、時の首相に対して戦争の終結と首相の退陣を要求した。
そして、即日戦禍のグアム島に転属せしめられ戦禍の露と消えた。数日の後、同志であった私も二等兵として比島に送られた。それは昭和十九年のことであった。
生き残りの私は塚本清彦君の武人として愛国者として勇者としての生涯をたたえてここに南海の華と散った多くの戦友を偲びつつこの碑を建立する。昭和五十三年十月 松前重義」と刻む。