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とく ぎじん

徳 義仁

とく ぎじん

1924.5.10(大正13)〜 1945.8.7(昭和20)

昭和期の陸軍軍人(軍曹)・「平和祈念碑」

埋葬場所: 18区 1種 55側

 東京出身。鹿児島士族の徳義忠とオナイ(共に同墓)の長男として生まれる。陸軍に入り、飛行第65戦隊に所属し、鹿児島の知覧基地や佐賀の目達原基地に着任。
 1945.8.7(S20)夕刻、隼に搭乗し、他の僚機とともに夜間航法訓練のため、目達原基地から長崎県壱岐へ向けて、5分間隔で飛び立った。飛行時間は約1時間の距離。敵の攻撃もなく、穏やかな月夜の晩であった。僚機が次々と基地に到着する中で、徳義仁が搭乗した隼機が未帰還であり消息を絶った。戦局も終盤であり戦闘機の故障も多かったため十分な捜索も行われないまま、対馬海峡で事故・殉職(朝鮮海峡で戦死)と処理された。享年21歳。この一週間後に玉音放送とともに日本は終戦を迎える。
 終戦後、'45.12宮崎県田原村小河内で墜落機と遺体が発見される(北に飛び立った機体が南方のこの地に墜落したかは不明)。終戦による混乱期であったため、徳義仁の情報は戦死公報のみで遺族の連絡先もわからず、'46.5 村の人たちは田原村の軍人墓地に「昭和20年7月27日 小河内山中ニテ航空機事故ニヨリ殉職 陸軍軍曹 徳義仁 ノ墓」と刻む墓碑を建立。以来、毎年の春と秋の合同慰霊祭を開き供養した。
 戦後すぐに遺族には「朝鮮海峡で戦死」と書かれた戦死公報とともに、1尺四方の白布に包まれた木箱に納められた遺骨が届いた。これに伴い、多磨霊園に「徳家之墓」を建立。墓誌には戒名は報國院忠山義仁居士。勲七等青色桐葉章を刻む。昭和二十年七月二十七日戦死、享年二十二才と刻む。※両墓とも戦死公報の没年月日で刻む。
 数年後、父の義忠の親友が田原村役場を訪れ、東京の遺族に事故を伝える連絡と遺品を預かり届けられた。これにより父は他人様の遺骨に手を合わせていた事実を知ることとなる。しかし、父の義忠は'68(S43)に亡くなり、遺族が墓参に訪れることが一度も叶わずにいた。
 連絡が取れない状況で年月が過ぎる中、地元出身の有志らが遺族探しに奔走。1992(H4)元旦、ついに母と娘の所在を確認、連絡を取り合うことができた。同.3.26徳家の遺族を代表し姉妹が田原村の軍人墓地 及び事故現場を訪れ参拝が行わた。母は高齢と体調不良で参拝が叶わず、同.6.27 92歳で亡くなったが、生前の間に全てが解決された。
 日本軍戦闘機隼の操縦士徳義仁軍曹の慰霊と、同じ時期の終戦直後に福岡県鞍手郡宮田町(宮若市)の貝島大之浦炭鉱の捕虜収容所に救援物資を空輸中、山腹に衝突し米軍搭乗員12名が殉職した方々を祀るため、平和祈念碑建設実行委員会が立ち上がった。1995.8.26地元の人々の尽力により、宮崎県西臼杵郡高千穂町五カ所高原の三秀台に「平和祈念碑」が設立され除幕式が開かれた。以後、毎年、この碑の前で地元の方々が、民族・宗教・国籍を超えて両国の遺族を招き慰霊祭を続けている。

<工藤寛『山懐に抱かれて』県北の自然を語る会会誌
「ツチビノキ第3号」高千穂町教育委員会>
<航空歴史館いしぶみ 米空軍B-29墜落の地 平和記念碑>
<夕刊デイリー 1995年(平成7年) 8月26日号 など>>


【平和祈念碑 碑文】B29及び日本陸軍一式戦闘機墜落事故慰霊碑
 戦後50年目の1995年8月、日米の遺族を招き平和祈念碑が建立。宮崎県西臼杵郡高千穂町五カ所三秀台「平和祈念碑」。
 昭和20年(1945)8月30日夜半、一機のB-29が、テニアン基地を飛び立った。折からの濃霧と雨の中を豊後水道から祖母連山を超えようとしていた超・空の要塞は、不幸にも12名の搭乗員を乗せたまま障子岳に接触し、親父山近くに墜落炎上、全員が死亡した。福岡県にある連合国軍捕虜収容所へ救援物資を投下する最後の任務途中での事故であった。また、同じ月7日夕刻、飛行第65戦隊所属の徳 義仁 軍曹は夜間航法訓練のため隼機に搭乗して佐賀県目達原基地を飛び立ったまま消息を絶ち、終戦に至った。その年の暮れに同機は、この丘に近い河内の山中で発見された。戦後50年が過ぎた今日、この平和を享受する私たちは、かつて日米両国の若者の尊い命が、この地で失われたことを改めて思い、恒久の平和と両国の友好を願い、この碑を建立する。
 平成7年(1995)8月26日 平和祈念碑建設実行委員会

 裏面には殉職者名が刻み、米空軍第20航空軍第40爆撃航空群第45爆撃飛行隊所属の12名の米軍人名(下記)と、飛行第65戦隊第3中隊所属の徳義仁軍曹と刻む。また「デザイン 県立高千穂高校美術教諭 藤本恵三、石工事美術彫刻 (株)ながさき墓石店、興梠光雪、基礎工事 武田計助」と刻む。

BAKER. Henry B. 大尉 航法士(NAV)
EIKEN. Alfred F.中尉 爆撃手(BOMB)
RIGGS. Jack L.中尉 操縦士(CAPT)
WILLIAMSON. George H.中尉 機関士(FE)
CORNWELL. John G.少尉 副操縦士(CPLT)
FREES. Henry N.二等軍曹 通信士(RDO)
GRONER. Solomon H.二等軍曹 右銃手(R.GUN)
GUSTAVESON. Walter R.二等軍曹 中央火器管制(CFC)
HENNINGER. Norman E.軍曹 同乗員(PAS)
HODGES. John W. 軍曹 レーダー(RDR)
DANGERFIELD. John D.伍長 左銃手(L.GUN)
MILLER. Bob L.伍長 尾部銃手(T.GUN)


 宮崎県 西臼杵郡高千穂町五カ所 親父山(1644m)北西斜面に「米空軍B-29墜落の地」という慰霊看板が掲げられている。看板には下記が書かれている。
 1945年8月30日朝、同日夜半にテニアン基地を飛び立ったB-29が濃霧と雨により障子岳の尾根に接触し、この北西方向200m地点に墜落炎上した。福岡県内の炭鉱にあった連合国軍捕虜収容所へ救援物資を投下する任務により飛行中で12名の搭乗員が全員殉職した。また、同じ8月7日に、この山系で当時の飛行85戦隊所属の隼も墜落し1名の搭乗員が殉職した。これらのことを後世に伝え世界平和を願うため五ヶ所高原三秀台に戦後50年目の1995年8月、日米の遺族を招き平和祈念碑を建立した。今回、戦後60年目にあたり墜落現場に説明板を設置したものである。
 12名の米国殉職者名(上記と同じ)  平成17年11月3日 平和祈念碑事賛会


墓所

*墓石は五輪塔に「徳家之墓」。左側に墓誌があり、戒名は報國院忠山義仁居士。勲七等青色桐葉章も刻む。没年月日は戦死公報で発表された「昭和二十年七月二十七日戦死、享年二十二才」と刻む。正しくは「昭和二十年八月七日事故死」。父の義忠は勲六等瑞宝章と刻む。


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