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とはら くみこ

登原久美子

とはら くみこ

1895(明治28)〜 1984.3.22(昭和59)

昭和期の女黒幕、サロン経営者

埋葬場所: 24区 1種 10側

 東京出身。墨田区向島蓮華寺の住職の娘。1916(T5)三菱重工業重役を務めた登原剛蔵と結婚。夫は長崎の原爆で被爆し死別。
 戦後、一人になって東京永田町の自宅に住む。広大な邸宅であったので、自邸の一部を外務省に貸し、「終戦連絡事務局分室」(のちの千代田クラブ)の看板を掲げ、著名な官政界人に憩いの場(サロン)を提供、大物政治家らとの親交を深めた。 のち汚職事件に巻き込まれて邸宅を手放す。享年89歳。戦後政界の「女黒幕」と異名をとった。

<女性人名事典>
<森光俊様より情報提供>


前面、側面 墓所

*墓所の入口左手に「登原家」と刻む石塔がある。和型墓石に正面は夫と連名の戒名が刻む。 左側が登原久美子の戒名で「昭心院久誉妙操剛美大姉」と刻み、右側は夫の登原剛蔵の戒名で「興昭院念誉至誠剛心居士」と刻む。 墓石の右面は登原久美子の名と没年月日と行年、左面は夫の登原剛蔵であり、昭和廿年八月十四日戦死 昭和四十三年十月二十一日 勲四等旭日小綬章を授与さると刻む。

*人名事典には登原剛三と書かれているものがあるが、墓石より登原剛蔵が正しい。 登原剛蔵は、1945(S20)春に三菱重工業の本店の艦船部長を経て、長崎兵器製作所工場所長として赴任、その地の長崎にて原爆で被爆死している。 被爆死であれば八月九日が没月日であるのだが、墓石には八月十四日戦死と刻む。剛蔵の遺骨は、三菱重工業秘書課長の安田政勝によって終戦直後に夫人の手元に還える。


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