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てらだ しゃくるい

寺田錫類

てらだ しゃくるい

1853(嘉永6)〜 1905.6.2(明治38)

明治期の陸軍軍人(大佐)、日露戦争の偉勲者

埋葬場所: 13区 1種 5側

 石川県金沢市彦三七番町出身。金澤藩士の寺田正明・五百子の3男として生まれる。幼名は順之助。
 1870(M3)大坂兵学寮に入り、1872陸軍省が正式に発足した年に少尉心得、1874少尉に任じ大坂鎮台歩兵第8連隊附に補せらる。叙正八位。長州藩の前原一誠らが起こした萩の乱に政府軍として従軍し、1877中尉に進み、西郷隆盛らが起こした西南戦争にも出征した。1879勲6等、1880従7位に叙される。1882歩兵第7連隊第2大隊小隊長、1885大尉に進み、叙正7位。1886勲5等。
 1888歩兵第18連隊第2大隊中隊長に補し、日清戦争では佐藤正の率いる元山支隊に属し転戦した。平壌攻撃前、佐藤より順安の兵站守備の任を与えられ一個中隊を率いてこれにあたり、平壌の敗兵が2000余りを以て順安に押し寄せた際には、わずか一個中隊で奮戦し自らも太刀を奮い撃退した。戦功により功5級。1897.10少佐に進級し、勲3等。1903.6従5位。
 '04日露戦争に従軍。最初は南山攻撃に参加し、頭部を負傷するが頭に包帯を巻いたままその後も陣頭で指揮を続けた。その後、水師営、干大山を戦う。中佐に進み、歩兵第1連隊長に任ぜられ旅順攻囲軍に加わる。攻囲戦では海鼠山、174高地の占領に貢献。特に日露戦争での旅順攻囲戦 海鼠山奪取の偉勲者として讃えられている。しかし、203高地の戦いで胸部に二個の銃創を受け内地に送還。自宅療養をしていたが逝去。享年53歳。没後1階級特進し大佐となり、正5位 功4級に叙し旭日中綬章を賜う。

<明治過去長 物故人名辞典>
<征露戦報など>


*墓石は和型「陸軍歩兵大佐 正五位 勲三等 功四級 寺田錫類 墓」。右面に「墓銘は第三軍司令官 乃木希典大将閣下之書」と刻み、墓誌となっている。左面は「故 寺田錫類 室 みの子之墓 明治四十五年五月十一日歿」と刻む。裏面は「明治三十七年十一月二十八日爾霊山高地攻撃之際負傷 同三十八年六月二日卒去」と刻む。同墓には長男で騎兵将校となった寺田正男、陸軍伍長の山中類二も眠る。


※寺田錫類夫妻が亡くなった時、墓銘を書した乃木希典が亡くなった時にはまだ多磨霊園は誕生していないため、どこかの地にて建之され、後に多磨霊園に改葬されたと推測するが、前墓地は不明。


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