佐賀県出身。義陳・みすの長男として生まれる。1909(M42)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。高等文官試験に合格し内務省に入省。
翌年、25歳の若さで静岡県安倍郡の郡長に任命された。当時は日露戦争で疲弊しており、地方農村の経済・人的基盤の建て直しが急務であったため、勤労青年に対しての教育・自己修練等の活動を展開、青年団運動にとりくんだ。
'15(T4)明治神宮の創建が決まり、内務省明治神宮造営局総務課長へ異動。この際、全国の青年団による勤労奉仕での明治神宮造営を実行した。
神社局を経て、'20(T9)協調会常務理事。'21日本青年会理事、国際労働会議労働代表等をつとめ、'24新政社を創立し、政治教育運動を開始。
静岡県安倍郡の青年団の誘いで、静岡三区より衆議院選挙に無所属にて立候補するも、惜しくも小差で次点落選。東京市助役となる。
'25後藤文夫・丸山鶴吉らとともに新日本同盟に参加。'26大日本連合青年団常任理事。'27(S2)選挙粛正運動を展開。
'29「地域の魂・社会の良心」をモットーとした協同組織「壮年団」を結成、壮年団期生同盟会を創立。
'33勅撰貴族院議員となり、'34〜'36大日本連合青年団理事長、'35選挙粛正中央連盟常任理事に就任。
既成政党に強い不満をもち「政界革新」を掲げて、選挙粛正・青年団運動・壮年団運動を展開したが、大政翼賛会には批判的立場をとった。
'36広田弘毅内閣発足時に、内務大臣として入閣を求められるも、政治信念とは相容れぬ内閣のために固辞した。
'44四国の善通寺での講演中に壇上で意識不明となり倒れる。同地で療養するも、回復せず没した。享年59歳。
著書に『田澤義鋪選集』全1巻(1967)がある。下村湖人著「『この人を見よ』−田澤義鋪の生涯−」がある。
田澤は青年教育と政治教育そして選挙粛正に一生を捧げた。とりわけ青年団運動に尽力した活動で知られており「青年団の父」と称されている。
没後'52財団法人田澤義鋪記念会が設立され、優れた活動を行った地域青年団を「田澤義鋪賞」として顕彰している。'84佐賀県鹿島市の生家跡地には、田澤義鋪記念館が開館した。