愛知県出身。東京帝国大学卒業。1920(T9)東京市の結核療養所(国立療養所中野病院)初代所長となり、結核の予防と治療につとめた。'28(S3)第6代 日本結核病学会会長。'32著書『サナトリウム』を刊行。
戦後、'47当時猛威を振るった結核に対して、人々への平和と愛と健康を願って財団法人平和協会を設立。'49財団法人平和協会駒沢病院を開設し院長に就任。
また、息子3人を太平洋戦争で失ったこともあり、田澤の発願で、世界平和の理念を子供たちの心に固く刻むことを目的に、7年間かけて、全国の児童生徒が古新聞等の廃品回収、こづかい銭を集めて、'54芝公園に「こども平和塔」を建設。毎年8月15日に「こども平和祭り」を開催している。
健康調査と疾病予防の大切さを訴え、家庭医の役割の重要性、児童・青少年の悪癖矯正に実地予防医学の必要性を予見し、医師の公共奉仕的態度の大切さを説いた“仁道奉公”を医の基本とした。享年85歳。
*墓所は広大で正面に三基和型墓石が建つ。左の「田澤家之墓」は大正13年7月に田澤秋作が建之した墓石。
真ん中の墓石は、大正3年に没した田澤米作と、昭和60年に没した田澤止郎の二人の戒名が連名で刻む墓石。
右の「田澤家之墓」は昭和10年3月に田澤鐐二が建之した墓石である。右手側にある墓誌は田澤鐐二の一族の名が刻む。また墓所入口には田澤鐐二の三人の息子の死を悼む碑石が建つ。
*田澤家代々は三河国加茂郡足助村(愛知県豊田市足助町)が本籍であり、田澤家累代の墓も同地にある。
同地には田澤鐐二の祖母の田澤志津の碑や、父の田澤多賀吉の碑もある。後に分骨合葬された旨のことが、墓誌に刻む。
墓誌は多賀吉の妻で鐐二の母である田澤せき から始まる。鐐二の妻は淑子。曹洞宗であるが戒名は刻まれていない。
*墓所入口にある田澤鐐二の三人の息子の死を悼む碑石の撰文は「田澤兄弟三君思出の記刊行會」とある。渾亳は曹洞宗管長の高階瓏仙 禅師であり、昭和三十一年八月十三日に財団法人平和協會建之した。
碑文を簡単にまとめると、田澤多賀也(鐐二の二男。S19.7.18 32才で戦死。陸軍軍医大尉)、田澤博隆(鐐二の三男。S20.1.12 29才で戦死。海軍軍医少佐)は二人とも東京帝国大学を卒業し、同大学で医学研究中に太平洋戦争に遭う。
多賀也はマリアナ島方面、博隆は軍艦香推軍医長としてマライ方面にて戦死。終戦の時になり二人の戦死の公報が相次ぐ。そんな時に、病中の長男である田澤佐も病没(S20.9.10 35才歿。箱根仙石原村 長安寺に埋葬)。男子兄弟が皆逝ってしまった。十年が経ち、平和塔建設の縁起を語り、故人を追憶する。
*同墓に眠る田澤止郎(1985.10.16 82才歿)は、1931「医科器械学雑誌」に村尾圭介とともに「人工気胸器」の医療器具や問診をまとめ紹介している。医師であることがわかっているが詳細はわからず。
*足助村に現存している真弓山城墟碑(足助公古墟碑)は、1899(M33)建碑された。建碑に尽力した64名のメンバーの一員として碑石に田澤多賀吉の名が刻まれている。