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たしろ しげのり

田代重徳

たしろ しげのり

1896(明治29)〜 1970.10.9(昭和45)

大正・昭和期の外交官

埋葬場所: 13区 1種 5側

 東京出身。1920(T9)東京帝国大学法学部卒業。同年高等文官試験に合格し、外務省に入省。牛荘官補に配属された。その後、外務省情報部など様々な要職を経て、1932(S7)外交部総務司長となる。'38外務省情報部長代理第二課長、'39.10.26満州国外交部外務局次長(〜'40.10.2)、'41外務省参事官などを歴任し、'43外務省のなかでインドシナ問題に関心をよせる数少ない人物としてインドシナの大使・在サイゴン日本大使府全権公使として赴任。
 その後、外務省条約局長、中国公使・長春駐在日本領事を務めた。万宝山事件について「鮮農五十余名は歓喜して万歳を連呼し我等は永久にこの地を死守すべしと絶叫するものあり」と報告した。これが満州事変の動機となったのではないかと推察される。
 戦後は公職追放。明治大学体育会柔道部国際部長・全柔連事務局長(講道館の国際部長)となり、パリに赴き日本の国際柔道連盟加盟が正式決定することに尽力した。編著『思ひ出つるまゝ』(1935) 、『最近の世界の動きと日本 』(1937)がある。


*墓石前面「田代家之墓」。右側に墓誌があり、俗名と没年月日、行年が刻む。妻の千鶴子(同墓:1934.10.7歿)の父である横田秀雄は大審院委員長・明治大学総長を務めた人物。長男の田代瑞徳(同墓:1992.7.30歿)は無線装備と自動操縦装置を専門とした航空技師。


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