戦前、東京日本橋でクリームなどの化粧品製造・販売を手掛けていた。戦後、焼野原で懸命に生きるもんぺ姿の女性たちを見て、「この女性たちが少しでも美しくなったとき、日本は必ず立ち直る」と考え、当時、毛髪関連の市場で専門メーカーがなかったことから、1946.3.27(S21)アリミノ美容科学研究所創立。電髪パーマ用剤である日本初「粉末ソリューション」発売するなど毛髪に重点を置き、ヘア化粧品の製造を始めた。
'50アリミノ科学株式会社に社名を変更し法人化('76株式会社アリミノ)し、社長に就任。当時の社員数は12名。日本で初めてのコールドウェーブローション「アリミノ・コールドウェーブ乳剤」発売。
現在のパーマの原型をつくる。'52日本初エアゾール式ヘアスプレー「スプレーネット」発売。全て美容室向けの専用品として製造しており、『日本人生まれ』ということにこだわりを持ち、日本人の資質や感性を発揮した製品づくりを心掛けた。
'53日本コールドウェーブ液協同組合が発足し初代理事長に就任。同年、世界の美容業界視察のために単身渡米した。「髪には国籍がある」。ヘア美容界は一般的に海外志向であったが、アリミノは日本そのものに目を向け、自らをアイデンティティとした。
'54米国ヘレンカーチス社と技術提携契約を結び、'55日本ヘレンカーチス社を設立して社長に就任。この年、米国セールスアフリエイツ社のコールドウェーブ液特許侵害訴訟で、製品販売の停止処分を受けるが、アリミノ製品の独自特許が認められ勝訴。このとき外貨の不当な流出を未然に防いだ功績により、日本学士会から表彰された。
'56ヘアカラー第1号「トルートン」を日本で初めて発売。これはサロンの新しい営業種目を作り出したことで大きく評価されている。'59紺綬褒賞受賞。'60日本ヘアダイ工業会が設立され初代理事長に就任。
'62日本学士会の名誉会員に推挙され、アカデミア賞受賞。'65第1回アリミノ全国ヘアスタイルコンテストを開催。同年ヘレンカーチス社との技術提携契約を解除している。'67全美商連より長尾賞受賞。
翌年、急逝。享年60歳。勲5等追叙勲。以降、アリミノは2代目社長は田尾有一(2013.3.5没)が引き継いだ。2013(H25)3代目の田尾大介氏が代表取締役社長である。
【私の人生論】
「高野山大僧正の叔父に教えられて」田尾有海(アリミノ化学KK社長)
ぼくの人生の場合、第二次大戦によって大きく線が引かれ、経営者としては大きく2つの人生を歩いてきたわけであるが、ぼくが常に心がけて来たことは坊主の叔父に常にいわれていた、
“まず相手を傷つけたりめいわくをかけないことを第一番に考えよ。人を助けるということは次のことである”ということである。
そしてぼくの生き方は、“約束”は契約書より守るということである。それほど義理人情というものは大切にしているが、しかし、商売の場合一歩も引かないファイトは持っている。
よく社員には、土俵に上がったら48手はどれを使ってもいい。しかし、それ以外の手でうまいことをいったり、ごまかしたりしてまで勝とうと思うな。
そういう生き方、仕事っぷりをしてくれ、といっている。(中略)だからぼくの人生の格言としては、簡単なことかも知れないが、“愛情・誠実・努力”の3つを常に胸にきざんでいる。
従業員には愛情を、お得意には誠実を、経営者としての自分は努力を、ということを常に忘れずに今まで生きて来たつもりであるし、今後もそうありたいと思っている。