鳥取県豊栄村出身。田邊武平・ミチヨ(共に同墓)の長男。実弟の伊藤義孝は銀座「伊東屋」(老舗 文房具店)会長を務めた。
広島県の高等小学校卒業後、郵便局に勤め、1908(M41)呉市の職員となり、この間、独学で文官普通試験に合格し、地方公務員として呉市吏員を勤める。
'12東京市職員に採用され上京。経理課主事・課長代理まで出世したが、市の幹部が定義に学歴がないことを知り、委託学生として京都帝国大学へ派遣した。
東京市長に後藤新平が就任をし、財団法人東京市政調査会設立にあたり、急きょ、定義は京都から呼び戻され参事として事務や会計規程を作成する担当となった。また、ニューヨーク市政調査会のチャールズ・A・ビーアド博士とともに大東京の調査研究に参画した。
京都帝大への復学を希望した矢先、関東大震災が発生。救護部を設け、被災者救済にリーダーとして奔走した。
以降、復興総合協議会立ち上げに参加し、復興計画案を調査研究、都市計画区域・区画整理調査研究を行う。
機関誌「都市問題」や東京朝日新聞に区画整理反対運動を防止する論評を書いた。震災復興事業のメドがついた頃、仕事を辞して、再び京都帝大へ復学し、37歳で卒業した。
京都府の各種委員会を嘱託、文官高等試験に合格、京都を軸に活動を行っていたが、東京市政調査会の参事への復帰依頼が副会長の岡実より直々にある。
回答を躊躇していたところ、会長であった後藤新平から有無を言わせない参事を命じる辞令が届いていたというエピソードがある。
当時は疑獄事件が多く東京市政は混乱をしていた。定義は市政浄化に関心をもつ人々に呼びかけ、市政問題対策協議会を結成し、啓蒙運動やパンフレット配布、各種協議会をつくる推進役の中心的存在として尽力した。
'40.5(S15)東京市政調査会を突然退職し、日中戦争で占領した地域の経済発展を促進するための国策会社である北支那開発株式会社の東京支局長となる。
戦後、経営陣が離散のまま混乱の状況にあった東京市政調査会に三度目の出戻り。'46.1常務理事に就任、内部的には会長職も兼務。終戦直後の疾弊した状況下での再建の功績は現在でも高く評価されている。'78顧問を退く。
その後は、選挙の公明化を目的とする公明選挙連盟理事、明るい選挙推進協会と改称後は顧問として、99歳までその仕事に携わった。
1999.4.29(H11)より没するまでの期間、日本人男性の最高齢者(男性長寿日本一)となる。111歳と90日で逝去。
没後、甥にあたる佐藤澄夫が定義の手帳などに書き残された自分史や雑誌への投稿記事、手紙などをまとめた『評伝 田邊定義』(2005)を非売品として作成している。