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たむら とくまつ

田村得松

たむら とくまつ

1886.9.8(明治19)〜 1962.7.6(昭和37)

大正・昭和期の実業家(ラヂオ)

埋葬場所: 9区 1種 20側

 島根県松江出身。田村宗次郎・イシの長男。旧制中学を卒業後、新聞記者として活動をしていたが、米国の高度な科学技術に憧れを抱き、1907(M40)20歳の時に単身渡米し、デトロイトのフォード社にて技術者として働きながら夜学にも通い、機械技術の習得に励んだ。 '22(T11)帰国し、日本では放送実験の段階にあったラヂオに関心を持つ。翌年、機械技師としてラヂオの試験放送に立会い、「これからはラヂオの時代がくる!」と直感。独学でラヂオの研究を始め、二球再生式真空管受信機を作り上げた。
 '24.5.11NHKの放送に先んずること一年、大久保百人町に「田村ラヂオ商会」(タムラヂオストアー)を設立した。 当初は、外国産のオーディオ製品や部品の販売、組み立て修理が中心であったが、やがて外国から取り寄せた資料をもとに、オーディオトランスの開発に着手、部品の自社開発や製作に乗り出した。 「つくり出すすべての製品は、いずれも世界の一流品を目指さなければならない」という信念のもと、'39(S14)(株)タムラ製作所創設し、電子部品メーカーへと進展させた。
 '55国産初のトランジスタラジオが発売されたことを受けて、小型トランスを中心とした民生用部品の大量生産体制の導入に踏み切るなど、高度成長期の恩恵も受ける。 '58化学部門に進出し、タムラ化学研究所(タムラ化研(株))を設立、エレクトロニクスの諸分野へも参入していった。'60社長を退き、後任を田村逸也に引き継ぐ(現社長は田村直樹氏)。 外に「世界一の製品」を提供する一方、社員には「日本一の待遇をもって報いる」ことを経営の理想とし、給料などの面だけではなく、若い社員が夜学で電気工学を学べるよう便宜を図るなど、社員の成長をさまざまな形で支援した。「仕事で自分を創る」という社是はここからきている。享年75歳。

<タムラ製作所 タムラものづくりストーリーなど>


墓所

*墓石は自然石で「無刻」と刻む。標石に「国分寺 田村家墓所」とある。戒名は本照院法達得道日松大居士。得松の妻は若枝。


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