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たむら としちか

田村利親

たむら としちか

1856(安政3)〜 1934.5.18(昭和9)

明治・大正・昭和期の果樹研究、栽培先覚者

埋葬場所: 13区 1種 28側

 幼年時代に漢学、少年時代は英学を修め、更に高知県陶冶学舎で修行、1878(M11)〜86(M19)にかけて高知県・宮崎県下で教育者として過ごす。 宮崎県属となっていた87在勤中栽培されている「カンキツ」が優秀であることを認め、「日向夏蜜柑」と命名。91頃、郷里の父に穂木、苗木を送り、父親が苗木の増殖、栽培を始めた。 高知県下では単に小夏と呼ばれることが多いが、標準和名は「ヒュウガナツ」。その後、鹿児島県属、拓務省、東京府属、農商務省に勤務する。 鹿児島県時代は南九州、沖縄県のカンキツ・糖業の指導、拓務省時代には台湾への出張、農商務省に勤務してからは果樹調査とカンキツ指導のため全国各地に出張。 1903長岡郡久礼田村(南国市)水谷に高知県農事試験場水谷試験地が開設され、農商務省農事試験場興津園芸地から技師として就任する。08退職。
 自宅で果樹園「南海園」を経営。新品種の導入、試作に努めるとともに、数多くの苗木を育成し販売する。17(T6)、7年と続く大寒波で果樹全滅の被害を受けたため、やむなく東京に移住した。柑橘新種の開発と、海外からの新種導入に寄与した功績は大きい。
 墓前には後年、溝渕増巳高知県知事から贈られた頌徳碑が建立されている。遺稿として「日本支那楊梅録」(S4未完稿)、『世界柑橘叢説』(3巻・S5、第二巻不明)がある。これらの資料は高知県立図書館に保存されている。

<高知県人名事典>
<五輪塔様より情報提供>


墓誌


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