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たむら こうさく

田村幸策

たむら こうさく

1887.3.5(明治20)〜 1985.2.21(昭和60)

大正・昭和期の外交官、
国際法学者、外交史学者

埋葬場所: 14区 1種 21側

 山口県大島郡出身。1909(M42)山口高商卒業後に上京、翌年文官高等試験、'14(T3)外交官領事官試験に合格。同年外務省に入省。安東、奉天、ロンドンに在勤。 安東領事館勤務時に後の総理大臣の吉田茂と知り合い、永い付き合いが始まる。'21チェコスロバキアに代理公使として赴任し、公使館開設に尽力。'25広東総領事を最後に退官した。
 退官後は一時、民間会社に居たが、その後、日本外交協会幹事、東亜振興会幹事を務め、'41(S16)「支那外債史論」により東京帝国大学より法学博士号を授与された。 また、当時は「外交時報」などを中心に外交評論を執筆した。終戦直後の東京裁判に証人として出廷、真珠湾攻撃は殺人行為ではなく交戦権の行使だったと主張した。
 戦後、'49(S24)中央大学教授、'63国士舘大学教授。国際法学者、外交史学者として教育・研究に従事。安保改定では、国会の公聴会で「小国は大国に守ってもらわなくてはならない」と安保改定賛成論を述べた。 主な著書に『最近支那外交史(上中)』、『国際法(上中下)』、『世界外交史(上中下)』、『ソヴィエト外交史研究』、『太平洋戦争外交史』、『国際政治の指導理念』、『田村幸策論文集』などがある。吉田茂総理との関係が詳しく著されたものとして猪木正道『評伝吉田茂』が詳しい。享年97歳。

<「故田村幸策先生のこと」追悼文・瀬川善信 など>
<森光俊様より情報提供>


*墓石は洋型「田村家」。墓誌があり戒名は顕学院釈幸徳居士。法学博士とも刻む。妻は巳代子。子の田村幸久も外交官。

*墓誌には「父母祖先の墓域は郷里山口県大島郡東和町小積に残し、ここは幸策、巳代子とその子孫永眠の地とす。」と刻む。


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